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第73話 〜出立〜

 十二月中旬の、火曜日の夜。


 タワーマンションのリビングで、懐中時計を、握っていた。


 昼間は、冷たかった。

 でも、夜になって、ふいに、温かくなった。


 *(また、これだ)*


 最近、こういう日が、増えていた。

 朝は冷たくて、夜に温かくなる。あるいは、その逆。

 温度が、一日の中で、行ったり来たりする。


 *(時計が、迷ってるみたいだ)*


 二年半、毎朝、握ってきた。

 温かいか、冷たいか。鮮明か、ぼやけているか。

 それだけのことが、最近、よくわからなくなってきた。


 ノートを開いて、ここ二週間の記録を、見返した。


 温かい日が、減っている。

 鮮明な日は、もっと減っている。

 冷たい日と、ぼやける日が、増えている。


 *(そろそろ、だな)*


 不思議と、焦りは、なかった。

 ただ、はっきりと、思った。


 *(こいつは、もうすぐ、終わる)*


 *(だったら──最後に、一回だけ、使い切ってやるか)*


---


 翌朝、恵比寿のオフィスで、山下さんに、話した。


「海外に、行こうと思います。年内に」


「カジノ、でございますか」


「はい。マカオ、シンガポール、ラスベガス。一気に、回ります」


 山下さんは、いつも通り、表情を、変えなかった。

 でも、少しだけ、間を、置いた。


「時計の、調子と、関係が」


「あります」


 山下さんには、能力のことを、全部、話してある。

 この会社で、それを知っているのは、山下さんだけだ。


「最近、温度が、安定しません。来る日と、来ない日の、差が、激しい」


「左様でございますか」


「たぶん、長くは、もたない。だから、まだ動くうちに、まとめて、稼いでおきたい」


 言いながら、自分でも、半分は、嘘だな、と思った。


 *(稼ぐため、っていうのは、半分だ)*


 *(もう半分は──ただ、最後に、派手に、やりたいだけだ)*


 *(手元から消える前に、思いっきり、握っておきたい。負け続けた八年を、全部、ひっくり返した、この感触を)*


 依存症の人間が、最後の一回に、しがみつくのと、同じだ。

 わかっている。わかった上で、行く。


「税務の、組み立ては」


「雑所得として、きちんと、処理してください。海外の勝ち金も、全部、申告します。一円も、隠しません」


「承知しました」


 山下さんが、手帳に、何か、書いた。


「勝った分の、使い道は、もう、お決まりで」


「半分は、税金で、消えます。残りは──いくつか、考えてます」


「左様でございますか」


 山下さんは、それ以上、聞かなかった。

 ただ、ペンを置いて、一言。


「お気をつけて、行ってらしてください。私は、こちらで、数字を、守っております」


「ありがとうございます。山下さんが、いてくれるから、安心して、行けます」


 山下さんの口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。

 年に、一度か二度の、あれだった。


---


 西村に、話したら、案の定、騒いだ。


「は?! 会長、ずるいって! 俺も行く! 絶対行く!」


「来てくれると、助かる。場の空気、作るの、お前のほうが、上手いし」


「やった! マカオもベガスも、最高じゃん!」


 西村が、子どもみたいに、両手を、上げた。


「で、会長。どうせ行くなら、さ」


「ん」


「夜のほうも、ちゃんと、楽しもうぜ。男三人で、行くんだから」


 *(こいつ、そっちが、本命だな)*


「小林さんも、連れていこう。あいつ、ずっとパソコンばっかで、絶対、海外なんか行ってないって」


「FORECASTの、サーバー、大丈夫なのか」


「宮本さんが、いるから、平気だって」


 結局、桐島、西村、小林の、三人で、行くことになった。

 山下さんは、ラスベガスの、最終日だけ、合流する。

 現地で、会わせたい人間が、いるらしい。


---


 出発の、二日前。


 西村が、俺を、変なクリニックに、連れていった。


「会長、ここ」


「……どこですか、ここ」


 ビルの、五階。

 看板に、「メンズ・ヘルスケアクリニック」と、書いてある。


「精力、つけとこうぜ。せっかくの、遠征なんだから」


「いや、俺は、別に」


「まあまあ。男なら、仕上げていくもんだって」


 待合室は、妙に、静かだった。

 革張りのソファ。観葉植物。

 他にも、数人、座っている。

 全員、雑誌に、顔を、埋めて、目を、合わせない。


 *(なんで俺は、出張前に、こんなところに、いるんだ)*


 *(元無職の二十八歳が、勝率百パーセントになって、ペットフード事業やって、子ども食堂支援して──その流れで、なぜか、精力クリニックの待合室)*


 *(人生、わからん)*


 問診票を、渡された。

 ペンを持ったまま、しばらく、固まった。


 *(「お悩みの症状」……書くことが、ない)*


 *(強いて言えば、悩みは、勝ちすぎてることと、女性関係が、もつれてることだけど。それは、ここで、相談する、ことじゃ、ない)*


 隣の西村は、慣れた手つきで、すらすら、書いている。


 *(お前、常連かよ)*


 名前を、呼ばれて、診察室に、入った。

 白衣の、医者が、淡々と、いくつか、質問をした。

 俺は、当たり障りのない、答えを、返した。


 *(元無職が、勝率百パーセントになって、ここに、座ってる。人生で、一番、想定してなかった、診察室だ)*


 帰り際、ビタミン剤みたいなものと、よくわからない処方を、渡された。

 会計が、思ったより、高かった。

 几帳面に、領収書を、財布に、しまった。


 *(これ、経費じゃ、ないよな。完全に、個人だな)*


 その夜、山下さんに、遠征の、最終確認の、連絡を、した。

 ついでに、と思って、聞いた。


「山下さん。出張前の、その……健康管理の費用って、経費に、なりますか」


 少しの、間。


「内容に、よります」


「……まあ、内容は、その、聞かないでください」


「承知しました。個人費用として、処理いたします」


「はい。そうしてください」


「会長」


「はい」


「健康管理も、経営者の、務めでございます。お気になさらず」


 *(山下さん、絶対、わかってて、言ってる)*


 電話の向こうの、山下さんの、声は、いつも通り、完全に、無表情だった。

 それが、逆に、効いた。


---


 十二月十六日。

 羽田から、マカオへ。


 ファーストクラスの、シートに、沈んだ。

 西村は、離陸前から、シャンパンを、頼んでいる。

 小林さんは、窓際で、ノートパソコンを、開いて、何かの、コードを、書いていた。


「小林さん。海外、来てまで、仕事ですか」


「これは、趣味です」


 *(こいつも、こいつで、どうかしてる)*


 ポケットの中の、時計に、触れた。

 温かい。


 *(よし。まだ、来てる)*


 マカオの、夜。

 二年半前、初めて、海外で、時計を、試した、あのカジノ。


 バカラのテーブルに、着いた。

 ミニマムベットの、高い、VIPルーム。

 空気が、張り詰めている。

 葉巻の、匂い。

 チップを、置く、乾いた音だけが、響く。


 ディーラーが、カードを、配る。

 香港や、本土から来た、富裕層が、テーブルを、囲んでいる。

 みんな、配られたカードを、指の先で、ゆっくり、ひねるように、めくる。

 絞り、というやつだ。

 数字を、少しずつ、確かめる、儀式。


 俺は、絞らない。

 絞る必要が、ない。


 配られる前に、映像が、来る。

 プレイヤー。バンカー。次は、どっちが、勝つか。

 ロード表の、罫線が、これから、どう伸びるかまで、見えている。


 淡々と、張った。

 淡々と、当たった。


 バンカーに、張る。勝つ。

 配当から、五パーセントの、コミッションが、引かれる。

 それでも、卓上の、チップは、確実に、増えていく。


 時々、わざと、プレイヤーにも、混ぜる。

 全部バンカーで当て続けると、さすがに、目立つからだ。


 二時間。

 目の前の、チップが、塔のように、積み上がった。


 三時間で、約三千万。


 西村が、隣で、絶叫している。

 小林さんは、後ろで、腕を組んで、静かに、見ていた。


「会長。これ、見てると、確率論が、崩壊しますね」


「崩壊、しますね」


 *(崩壊させてるの、俺だけどな)*


 *(でも、確率を、ねじ曲げてるんじゃない。答えを、先に、見てるだけだ。ズルなのは、間違いないけど)*


 ホテルの、スイートに、戻った。

 窓の外、マカオの、ネオン。


 時計を、テーブルに、置いた。

 まだ、温かい。


 *(あと、何日、もつかな)*


 *(もってくれよ。あと、少しだけ)*


 明日は、バンコク。

 西村が、朝から、そわそわしている理由は、だいたい、想像が、ついた。


---


**── 遠征収支メモ(速報・第73話/十二月十六日)──**


*海外遠征の勝ち金は、帰国後にまとめて雑所得として申告・納税予定。下記は税引前の速報値。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 出発時 個人資金 | 約27,622万円 |

| マカオ・バカラ収支(税引前) | +約3,000万円 |

| 渡航・滞在費(マカオ分) | ▲約400万円 |

| (※メンズクリニック・個人費用) | ▲約8万円 |

| **遠征速報・累計勝ち金(税引前)** | **+約3,000万円** |


*時計、日内変動が激しいが、夜は温かい状態を維持。次はバンコク(打ち上げ)、シンガポール、ラスベガスへ。山下はラスベガス最終日に合流予定。*


---


*【第74話へ続く】*


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