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第72話 〜秋風〜

 十二月の第三週、土曜日の夕方。


 タクシーで、練馬へ、向かった。

 ふくろう。

 桑原さんと、約束していた。


 車内で、窓の外を、見ていた。

 十二月の東京の夕方。

 街路樹の葉が、ほとんど、落ちていた。

 歩道に、赤や、茶色の葉が、たまっていた。

 歩く人は、みんな、コートを、着ていた。


 *(桑原さんに、会う前に、何を、話そうか、まだ、決めていない)*


 *(先週、橘の対面復帰が、あった)*


 *(来週から、橘の在宅勤務が、本格化する)*


 *(時計の温度が、不安定になっている)*


 *(話したいことが、いくつか、ある)*


---


 ふくろうの扉を、開けた。


 夕方の七時前。

 まだ、客は、少ない。

 福田さんが、カウンターの中で、グラスを、磨いていた。


「あら、遊馬くん。今日も、桑原さん?」


 和代さんが、奥から、声を、かけた。


「はい」


「最近、よく、来てくれるね、桑原さん」


「フランスに行く前に、と」


「そっか」


「いつから、行くの?」


「三月末です」


「あと、三ヶ月半か」


「ええ」


 俺は、いつもの席に、座った。

 奥のカウンターの一番端。

 福田さんが、ハイボールを、置いてくれた。


「桑原さん、もう、準備、終わってんの?」


 福田さんが、グラスを、拭きながら、聞いた。


「ほとんど、終わっているらしいです。あとは、年明けに、最終の段取りで」


「半年、向こうにいる、んだろ?」


「ええ」


「お前、ちゃんと、会いに、行くんだろうな」


「行きます」


「春先か」


「四月の中旬を、予定しています」


「ロンドンと、ベルリンと、フランス、回るんだろ」


「西村から、聞きましたか」


「先週、ここ、来た」


 *(西村が、福田さんに、報告している)*


 *(俺の動きが、福田さんにも、共有されている)*


「桐島さん、頑張ってこいよ。海外、長丁場、大変だけど」


「はい」


---


 七時を、少し、過ぎて、扉が、開いた。

 桑原さんが、入ってきた。


 今日は、黒いタートルネックに、紺のスカート。

 冬らしい、暖かそうな服装。

 いつもより、髪を、ふんわりと、おろしていた。


「桐島さん、お待たせしました」


「お待たせしてないです」


 桑原さんが、隣の席に、座った。

 和代さんが、白ワインを、出してくれた。


「乾杯、しましょうか」


「何に」


「特に、何もないですけど」


「乾杯」


 グラスが、軽く、合わさった。

 硬い音。

 いつもの、ふくろうの音。


---


 桑原さんが、ワインを、一口、飲んだ。


「桐島さん、最近、お元気そうですね」


「橘の復帰、桑原さんに、お話しできてないですね」


「いえ、西村さんから、聞きました」


「西村のやつ、桑原さんにも、伝えてるんですね」


「西村さんは、いつも、気を、回してくれます」


「ええ」


 桑原さんが、笑った。


「橘さんの対面復帰、よかったですね」


「ありがたい話です」


「桐島さんが、半年前に、橘さんを、ちゃんと、受け止めたから、今、戻ってきている」


「あれは、橘自身が、自分を、立て直したからです」


「桐島さんが、入口を、開けておいたから、戻ってこられた」


「……ありがとうございます」


 俺は、ハイボールを、飲んだ。


「桑原さん、最近、お忙しそうですね」


「ええ。フランス行きの準備と、翻訳の納期が、重なって」


「身体、大丈夫ですか」


「大丈夫です。年末年始は、少し、休めそうです」


「いいですね」


「桐島さんは、年末年始、何か、ご予定は」


「特に、ありません」


「ご家族には、お会いに、なりますか」


 俺は、しばらく、考えた。


「いえ、たぶん」


「お父さま」


「父とは、もう、何年も、会っていません。母も、同じ」


「桐島さんは、ご実家は、東京なんでしたっけ」


「埼玉です。母が、まだ、向こうに、住んでいるはず」


「『はず』、というのは」


「四年、連絡を、していないので」


「四年……。何か、あったんですか」


「ええ。昔、いろいろ、迷惑を、かけたので」


 桑原さんが、しばらく、ワインを、傾けていた。


「桐島さん」


「はい」


「家族に、ご連絡したらいかがでしょうか」


「うん」


「桐島さんが、変わったこと、家族にも、知ってほしい」


「ええ」


「ご自分のためだけじゃなく」


「桑原さん、急に、家族の話ですね」


「私が、フランスに行くからかもしれません。離れる前に、桐島さんに、伝えておきたい」


「伝えたい、というのは」


「桐島さん、家族と、繋がっていてください。会いに、行ってください」


「年明けに、考えます」


「いえ、年末に」


「ええ?」


「年末に、お母さまに、お電話されたほうがいいです」


 桑原さんの目が、まっすぐ、こちらを、見ていた。


 *(桑原さんが、こうやって、踏み込んでくる)*


 *(俺の家族の話まで)*


「桑原さん、なぜ、そこまで」


「私の母は、もう、亡くなっています」


「えっ」


「五年前です」


「初めて、聞きました」


「言わなかっただけです」


「お父さまは」


「父も、母が亡くなって、半年で、亡くなりました」


「……」


「私の両親は、もう、いません。だから、桐島さんに、伝えたい」


「桑原さん、すみません」


「いえ。謝らないでください。ただ、両親が、いるうちに、繋がっておくのは、いいことです」


 俺は、ハイボールを、置いた。

 桑原さんの言葉が、頭の中で、ゆっくりと、降りていた。


「桑原さん」


「はい」


「年末、母に、電話します」


「ありがとうございます」


「会いに、行くかは、まだ、決められません」


「電話だけでも、いいです」


「はい」


 桑原さんが、頷いた。


---


 しばらく、二人とも、無言で、グラスを、傾けていた。


 福田さんが、煮物の小鉢を、出してくれた。

 冬の野菜。

 大根と、里芋と、人参。

 あったかい。


「冬ですね」


 桑原さんが、煮物を、一口、食べて、言った。


「ええ」


「ふくろうの煮物は、季節で、変わりますね」


「夏の時とは、全然、違う」


「冬の煮物の、温かさが、好きです」


「俺もです」


 二人で、煮物を、食べた。

 お互いに、無言。

 でも、それが、心地よかった。


---


 桑原さんが、ふと、バッグから、ノートを、出した。


「桐島さん、お見せしたいものが、あります」


「何ですか」


「私が、書いている小説です」


「小説」


「ええ。フランスで、本格的に、書こうと、思っています」


 俺は、ノートを、受け取った。

 黒い、表紙のノート。

 開くと、手書きの文字が、ぎっしりと、書かれていた。


「タイトル、決まっているんですか」


「『銀色の鳥』」


「銀色の鳥」


「ええ」


 ページを、めくった。

 冒頭が、見えた。


 *「都市の夜は、街灯の数だけ、孤独がある」*


 *「彼は、それを、知らないまま、生きてきた」*


「桑原さん、これ、いいですね」


「内容は、まだ、決まっていません」


「主人公が、男性?」


「ええ」


「ねえ、まさか、俺じゃ、ないですよね」


 桑原さんが、笑った。


「桐島さん、主人公じゃないです」


「ホッとした」


「ただ、影として、登場します」


「えっ、影」


「主人公の、人生の節目に、何度か、現れる男性として」


「俺、ですか」


「桐島さんを、参考にしています」


「……」


「ご迷惑ですか」


「いえ。むしろ、嬉しいです」


「ありがとうございます」


 桑原さんが、ノートを、こちらに、向けた。


「読みますか」


「いえ。フランスで、完成してから、読みたいです」


「では、半年後」


「半年後」


 ノートを、桑原さんに、返した。


「桑原さんが、フランスで、書く小説。完成が、楽しみです」


「私も、楽しみです」


「半年後、ふくろうで、最初の読者に、ならせてください」


「もちろん」


 桑原さんが、ノートを、バッグに、しまった。


---


「桑原さん、フランスでの、生活、楽しみですか」


「楽しみです。でも、寂しいでしょうね、最初は」


「ええ」


「東京の、いつもの場所が、なくなる。ふくろうにも、来られなくなる」


「半年だけです」


「ええ、半年だけ」


 桑原さんが、ワインを、もう一口、飲んだ。


「桐島さん、私が、いない間、ふくろうに、来てくださいね」


「もちろん」


「福田さんと、和代さんを、寂しくさせないで」


「了解です」


「あと、桐島さんも、寂しくならないでください」


「俺は、大丈夫です」


「桑原さんが、フランスから、戻ってきた時、変わらず、ここにいてください」


「変わらず、いますよ」


「変わらず、というのは、難しいですけどね。桐島さん、いつも、何かを、始めている人なので」


 桑原さんが、笑った。


 俺も、笑った。


---


 九時。

 桑原さんが、立ち上がった。


「私、帰ります。明日も、仕事です」


「お送りしましょうか」


「いえ、結構です」


 外まで、見送りに、出た。

 十二月の夜風が、冷たかった。


「桑原さん」


「はい」


「来年、また、ここで」


「ええ」


「フランス、楽しんできてください」


「ありがとうございます」


 桑原さんが、軽く、手を、振った。

 駅の方へ、歩いていった。


 彼女の後ろ姿が、街灯の下で、しばらく、見えた。


 *(桑原さんが、行く)*


 *(半年。会えない時間が、来る)*


 *(でも、必ず、戻ってくる)*


 *(俺も、会いに、行く)*


---


 ふくろうに、戻った。

 カウンターに、座り直した。


 福田さんが、何も言わずに、ハイボールを、もう一杯、置いてくれた。


「遊馬くん、お母さんに、電話しろ」


 福田さんが、ぽつりと、言った。


「えっ、聞いていたんですか」


「聞こえてた」


「……」


「桑原さんの言う通り、だ」


「はい」


「年末、電話、しろ」


「電話します」


「会いに、行けるなら、行け」


「考えます」


 福田さんが、グラスを、磨きながら、頷いた。


「お前、家族の話、今まで、あまり、しなかったな」


「ええ」


「四年、連絡してない、と言ってたな」


「はい」


「四年は、長い」


「……」


「お前が、変わったこと、ちゃんと、お母さんに、見せろ」


「はい」


 俺は、ハイボールを、もう一口、飲んだ。


---


 帰りのタクシーの中。

 窓の外、夜の練馬の街。


 桑原さんとの会話を、思い出していた。


 *(桑原さんは、両親を、五年前に、亡くしている)*


 *(俺は、それを、知らなかった)*


 *(桑原さんは、それを、言わなかった)*


 *(でも、今日、フランスに行く前に、伝えてくれた)*


 *(桑原さんの優しさは、いつも、こうやって、踏み込んでくる)*


 ジャケットの内ポケットに、手を、入れた。

 懐中時計の、感触。


 ほんの少しだけ、温かかった。


 *(時計が、温かい)*


 *(桑原さんに、会った後だから、温かいのか)*


 *(それとも、別の理由か)*


 わからない。

 でも、温かいことが、ありがたかった。


---


 タワーマンションに、戻った。

 リビングに、入った。


 窓の外、東京の夜景。

 十二月の夜。

 冷たい。


 懐中時計を、テーブルに、置いた。

 握ってみた。

 温かい。


 *(夜になって、温かさが、強くなっている)*


 *(不思議な現象)*


 スマートフォンを、開いた。


 *(母の連絡先、まだ、登録してある)*


 *(四年、押していない番号)*


 *(年末まで、あと、二週間)*


 *(年末に、電話するか)*


 決めきれないまま、スマートフォンを、置いた。


 ソファに、座って、コーヒーを、淹れた。


 *(家族に、会うのは、怖い)*


 *(でも、桑原さんが、言ってくれた)*


 *(福田さんも、言ってくれた)*


 *(二人が、同じことを、言うのは、たぶん、本当のことだ)*


 *(年末、電話、しよう)*


 ベッドに、入った。

 目を、閉じた。


 外で、十二月の夜風が、ビルの間を、抜けていった。


---


**── 残高メモ ──**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 12月第2週後半〜第3週 ギャンブル収益 | +約80万円 |

| 個人費用(ふくろう・タクシー等) | ▲約3万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約27,545万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約27,622万円** |


*時計の温度が、夜になって強くなる現象が継続。日内変動が顕著に。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(法人、12月分計上済み) | 約19,309万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約19,309万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(KY Live) | 約15万円 |

| **KY Live 法人口座** | **約15万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約5,162万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,162万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,755万円 |

| **田島フーズ 口座残高** | **約1,755万円** |


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約27,622万円 |

| KY Holdings(法人) | 約19,309万円 |

| KY Live | 約15万円 |

| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |

| 田島フーズ | 約1,755万円 |

| **総資産(融資別)** | **約53,863万円** |


*融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。桑原彩花、3月末よりフランス・アヴィニョン半年滞在、最終確認済。桐島は4月中旬にヨーロッパ訪問予定。桑原が執筆中の小説『銀色の鳥』、フランスで完成予定。桐島は、桑原と福田の助言を受け、年末に母親に電話することを決意。*


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