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第71話 〜橘の選択〜

 十二月の第二週、火曜日の朝。


 目が覚めて、枕元の懐中時計を、握った。

 温かい。


 ぼやけていた。

 でも、温かい。


 *(朝、温かいのが、嬉しい)*


 最近、こういう、ぼやけた朝が、増えている。

 冷たい日と、ぼやけた温かい日が、半々程度。

 完全に鮮明な日は、月に、数回しか、なくなっていた。


 でも、温かいだけでも、ありがたい、と感じるようになっていた。


 ノートに、記録を、つけた。

 「十二月九日 温/ぼやけ/川崎競輪映像なし/対面の日」


 窓のカーテンを、開けた。

 十二月の朝。

 寒さが、本格的になっていた。


---


 九時。

 吉野さんが、迎えに来た。


「会長、おはようございます」


「おはようございます。今日は、事務所まで」


「承知いたしました」


 車内で、ジャケットの内ポケットに、手を、入れた。

 小さな紙袋が、入っていた。

 昨日、買っておいた、橘への、ささやかな品物。


 茶葉だった。

 京都の、老舗の、玉露。


 西村が、「俺、何か買っていく」と、ずっと、言っていた。

 でも、結局、西村は、お土産を、選びきれなかった。

 悩みすぎて、両親に相談して、「親父が、頭悩ませた挙句、決めかねた」と、笑いながら、報告してきた。


 俺が、代わりに、選んだ。

 茶葉なら、橘の在宅勤務でも、邪魔にならない。

 香りで、楽しめる。

 依存性の少ない、適度な嗜好品。


---


 オフィスに、着いた。


 会議室を、押さえてあった。

 橘との、対面の初回。

 午前十時、開始。


 西村が、すでに、来ていた。

 いつもより、少しだけ、緊張した顔。


「会長、おはよう」


「おはよう」


「橘、もうすぐ、来るかな」


「あと、二十分くらいだろう」


 西村が、椅子に、深く、座った。


「俺、ちゃんと、向き合えるかな」


「向き合うって、何を」


「俺、橘の横領が、わかった時、ショックで、しばらく、あいつを、避けてた。後ろめたかった」


「西村、お前のせい、じゃない」


「わかってる。でも、感情として」


「今日、ちゃんと、迎えればいい。それで、十分」


 西村が、頷いた。


「うん」


 山下が、会議室に、入ってきた。

 いつものスーツ姿。

 ファイルを、持っていた。


「会長、おはようございます。橘さん、もうすぐ、到着の予定です」


「了解」


「雇用契約書、最終版、お持ちしました。本日、ご署名いただく予定です」


「了解」


 ソファに、座って、コーヒーを、待った。

 壁の時計が、九時五十分を、指していた。


---


 九時五十五分。

 会議室の扉が、ノックされた。


「失礼します」


 橘の声。

 半年ぶり、対面で、聞く声。


 扉が、開いた。

 橘が、入ってきた。


 半年前と、見た目が、違っていた。

 少し、痩せていた。

 でも、目つきが、しっかりしていた。

 長めだった髪を、短く、切っていた。

 黒い、シンプルなジャケット。

 手に、小さな書類カバン。


「会長、ご無沙汰しております」


 橘が、深く、頭を、下げた。


「橘さん、お久しぶり」


 俺は、立ち上がった。


 西村も、椅子から、立ち上がった。


「橘」


「西村さん、お久しぶりです」


「お前、痩せたな」


「治療施設で、規則正しい生活をしていたので、減りました」


「お前、半年前より、ちゃんとしてる」


「ありがとうございます」


 西村が、橘に、近づいた。


 橘が、少しだけ、緊張した顔を、した。

 でも、すぐに、表情を、戻した。


 西村が、橘の肩を、軽く、叩いた。


「戻ってきてくれて、嬉しい」


 橘が、しばらく、黙っていた。


「……ありがとうございます」


 西村の目が、潤んでいた。

 でも、すぐに、いつもの笑顔に、戻った。


「さあ、座って」


 橘が、椅子に、座った。


 俺の隣の席。

 以前、よく、橘が、座っていた席だった。


---


 山下が、コーヒーを、入れに、行った。

 会議室に、四人で、座った。


 橘の手が、軽く、震えていた。

 膝の上で、両手を、握ったまま。

 顔は、落ち着いていた。

 でも、体の方は、まだ、緊張を、引きずっていた。


 俺は、橘の手を、見て、何も、言わなかった。

 長い半年間、橘が、自分の体と、向き合ってきたことが、わかった。


 山下が、コーヒーを、入れて、戻ってきた。


「桐島さん、雇用契約書、ご確認、お願いします」


 俺は、ファイルを、開いた。


 月給四十万円。

 業務委託ではなく、雇用契約。

 在宅勤務、基本。

 月一回、出社。

 業務内容:データ分析。

 契約期間:一年。更新あり。

 有給休暇、社会保険、すべて、適用。


「橘さん、ご確認ください」


 山下が、橘に、ファイルを、渡した。

 橘が、ゆっくりと、書類を、読んだ。


「桐島さん、本当に、月四十万円も、いただいて、よろしいのですか」


「うん」


「私、自信が、ないんです」


「何の」


「四十万円分の、価値を、生み出せるか」


「橘さん、自信、なくて、いい」


「えっ」


「最初は、自信、なくて、いい。半年、やってみて、自信が、ついたら、報告して。報酬を、上げる」


「報酬を、上げる、ですか」


「うん。橘さんの自信が、五十万円分に、なったら、五十万円。百万円分に、なったら、百万円」


「……」


「逆に、もし、橘さんが、休む必要が、出てきたら、すぐに、休む。給与は、変動するかも、しれない。でも、続けて、いい」


 橘が、しばらく、書類を、見ていた。


「……ありがとうございます」


「サイン、お願いします」


 橘が、ペンを、取った。

 ゆっくりと、サインした。

 慎重に、丁寧に。


 雇用契約書が、完成した。


---


 契約の手続きが、終わった後。

 俺は、橘に、業務の話を、した。


「橘さん、当面の仕事は、二つ」


「はい」


「一つ、KY Pet Foods のシェルター別、フード消費分析。各団体の月次データから、消費パターンと、ロスを、洗い出す。改善の提案を、毎月、レポートしてほしい」


「了解しました」


「二つ、FORECASTのユーザー行動分析。年明けから、小林の新アルゴリズムが、実装される。実装前後のユーザー行動の変化を、追って、レポートしてほしい」


「了解しました」


「両方とも、月次レポート。形式は、橘さんに、お任せ」


「ありがとうございます」


「業務量、足りますか」


「いえ、これだけで、月四十時間程度です。私の能力で、月百時間は、できると思います」


「では、追加の業務を、徐々に」


「お願いします」


 橘が、頷いた。


 西村が、ふと、聞いた。


「橘、お前、シェルターの方、興味あるんだろ」


「ええ」


「会長から、聞いた。シェルターの数字、分析したい、って」


「はい。手紙にも、書きました」


「データ以外でも、シェルターの活動に、関わりたい?」


 橘が、しばらく、考えてから、答えた。


「直接の対人接触は、まだ、難しいかもしれません。でも、データを、見れば、各団体の現場が、見えてきます。それで、私自身も、何か、繋がっている、と感じられるかもしれません」


「いいじゃん」


「西村さん」


「うん」


「私、また、KY Holdings の一員に、なれて、嬉しいです」


 橘の声が、少しだけ、震えていた。


「私、ここに、戻れる、とは、思っていませんでした」


「橘」


「はい」


「お前、いつも、データの話、してくれて。俺、それ、楽しかったよ」


「西村さんも、いつも、変な話、してくれて。私、それ、楽しかったです」


 西村が、笑った。

 橘も、笑った。


 俺と山下も、笑った。


 *(戻ってきた)*


 *(みんなで、戻ってきた)*


---


 お昼。

 四人で、近くの定食屋に、行った。

 久しぶりの、全員での、食事。


 橘が、煮魚定食を、頼んだ。

 西村が、唐揚げ定食。

 俺と山下は、ハンバーグ定食。


「橘、変わってないな。煮魚」


「西村さんも、変わってないですね。唐揚げ」


「だな」


 西村が、笑った。


 橘が、ご飯を、ゆっくりと、食べていた。

 よく、噛んでいた。

 半年間の治療プログラムで、食べ方も、変わったのかもしれない。


「橘さん」


 俺は、ジャケットの内ポケットから、紙袋を、出した。


「これ、退所祝い」


「えっ」


「西村が、選びきれなかったから、俺が、代わりに」


「いや、それは違うって、会長」


 西村が、慌てた。


「俺も、選ぼうとしたけど、間に合わなくて。会長、ありがとう」


「西村さん」


 橘が、紙袋を、受け取って、覗いた。


「玉露」


「ええ。京都の老舗の」


「私、お茶、好きです。よく、覚えてくれていましたね」


「橘さんは、たまに、コーヒーじゃなくて、お茶を、入れていたから」


「……ありがとうございます」


 橘が、頭を、下げた。


「西村さん、ありがとうございます」


「いや、俺じゃない、会長だ」


「お二人とも、ありがとうございます」


 橘の指が、また、軽く、震えていた。

 でも、目は、しっかりと、こちらを、見ていた。


---


 夕方。

 オフィスに、戻った。


 橘は、自分のデスクに、座った。

 半年前と、同じ席。


 パソコンを、立ち上げた。

 メールを、確認していた。


 俺は、隣の、自分のデスクで、メモを、見ていた。


「会長」


「うん」


「ここの席、空けてくださって、ありがとうございました」


「いつでも、いられるように、空けておいた」


「ありがとうございます」


 橘が、画面に、目を、戻した。


 *(橘の席が、また、埋まった)*


 *(事務所の景色が、また、戻った)*


---


 夜の六時。

 橘が、帰り支度を、始めた。


「会長、本日は、ありがとうございました」


「うん」


「来週、また、来ます」


「来週、出社、決まってないけど、いいの」


「ええ。月一、と言っても、最初は、頻度を、上げた方が、いい気がします」


「了解。じゃあ、来週、また」


「はい」


 橘が、ジャケットを、着て、書類カバンを、持って、扉を、開けた。


 西村が、立ち上がって、扉のところまで、見送った。


「橘、お疲れ」


「西村さん、お疲れ様でした」


「明日から、横浜から、データ送ってくれよ」


「もちろんです」


「お前、また、データの話、いっぱい、聞かせてくれ」


「はい」


 橘が、深く、頭を、下げて、出ていった。


 扉が、閉まった。


 西村が、しばらく、扉を、見つめていた。


「会長」


「うん」


「今日、よかった」


「うん」


「あいつ、ちゃんと、戻ってきた」


「うん」


「俺、あいつのこと、忘れないでいて、よかった」


「うん」


 西村が、自分のデスクに、戻った。


 *(西村は、いつも、感情を、ちゃんと、言葉に、する)*


 *(それが、西村の、いいところ)*


---


 夜の九時。

 タワーマンションのリビング。


 窓の外、東京の夜景。

 十二月の夜は、本当に、冷たい。


 懐中時計を、テーブルに、置いた。

 握ってみた。


 温かかった。


 驚いた。

 夕方には、冷たくなっていたはずだった。

 夜になって、温度が、戻っていた。


 *(温度が、変動するようになった)*


 *(昼に冷たくなって、夜に温まる)*


 *(時計が、不安定になっている)*


 ソファに、座って、コーヒーを、淹れた。


 スマートフォンに、橘から、LINEが、来ていた。


 *「会長、本日は、本当に、ありがとうございました。横浜の自宅に、無事、戻りました。明日から、しっかりと、業務に、入ります」*


 *「お疲れさま」*


 *「会長」*


 *「うん」*


 *「お茶、入れて、飲みました」*


 *「いい香りでしたか」*


 *「ええ。久しぶりに、自分のために、お茶を、入れました」*


 *(橘が、自分のために、お茶を、入れた)*


 *(半年前の橘なら、自分に、何かを、する余裕は、なかった)*


 *「橘さん、これからも、自分のために、お茶を、入れてください」*


 *「はい」*


 短い返信。

 でも、橘の意思が、伝わってきた。


---


 窓を、開けた。

 冷たい夜風が、入ってきた。

 遠くで、十二月の夜の街の音。


 *(橘が、戻ってきた)*


 *(時計が、衰えている)*


 *(同じ時に、両方が、起きている)*


 *(戻ってくるものと、消えていくもの)*


 *(人生の収支は、いつも、こうなのかもしれない)*


 ベッドに、入った。

 目を、閉じた。


 外で、冷たい夜が、深まっていった。


---


**── 残高メモ ──**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 12月初旬 ギャンブル収益(温度低下のため少なめ) | +約120万円 |

| 個人費用(玉露・タクシー等) | ▲約2万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約27,427万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約27,545万円** |


*時計の温度が、日内変動するように。朝冷たく、夜温まる、ような不安定な日が出現。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 桐島個人より追加出資(12月分) | +5,000万円 |

| 前話繰り越し(法人) | 約14,309万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約19,309万円** |


*12月、桐島個人からの追加出資5,000万を実行(累計1.5億完了)。橘修、本日対面復帰。雇用契約締結。月給40万・在宅勤務。半年前と比べ、体重減・髪型変化はあるも、本人意思はしっかり。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(KY Live) | 約15万円 |

| **KY Live 法人口座** | **約15万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約5,162万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,162万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,755万円 |

| **田島フーズ 口座残高** | **約1,755万円** |


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約27,545万円 |

| KY Holdings(法人) | 約19,309万円 |

| KY Live | 約15万円 |

| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |

| 田島フーズ | 約1,755万円 |

| **総資産(融資別)** | **約53,786万円** |


*融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。橘修、対面復帰完了。総資産が初めて5億3千万円を突破。桐島個人からの計画出資(5,000万×3回=1.5億)が、本日で完了。*


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