第70話 〜論文〜
十一月の最終週、水曜日の朝。
目が覚めて、枕元の懐中時計を、握った。
温かい。
ぼやけながらも、温かい。
映像が、来た。
大井競馬、第十一レース。
ナイター。
四番が、好位から、抜け出していく。
二着が二番。三着が七番。
ノートに、記録した。
「十一月二十五日 温/ぼやけ/大井4-2-7」
窓のカーテンを、開けた。
十一月末の朝。
空が、灰色に、雲っていた。
冬の予感。
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九時。
吉野さんが、迎えに来た。
「会長、おはようございます」
「おはようございます。今日、ナカジマ精工に、寄ります」
「承知いたしました」
「先に、事務所で、十時に山下と、ミーティング。その後、ナカジマ精工へ」
「了解しました」
車内で、スマートフォンを、開いた。
中島さんから、LINEが、来ていた。
*「会長、先週、学会誌が、届きました。本日、ご都合よろしければ、お立ち寄りください」*
*「お昼過ぎに、伺います」*
*「お待ちしております」*
*(松田さんの、超小型インペラ論文)*
*(先月、掲載予定が、今月に、ずれ込んだ)*
*(やっと、形に、なった)*
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午前中、オフィスで、山下と、月次レビューと、追加の業務を、片付けた。
橘修が、今週月曜から、在宅勤務で、復帰していた。
月曜の朝、初日に、橘から、LINEが、来た。
*「会長、改めて、ありがとうございます。本日より、復帰します。データ分析、頑張ります」*
*「お帰り。よろしく」*
短いやり取り。
でも、橘らしい、丁寧な、復帰の挨拶だった。
山下が、橘の業務を、すでに、整理していた。
「会長、橘さんの業務、当面は、KY Pet Foods のシェルター別フード消費分析、と、FORECASTのユーザー行動分析の二本で、進めます」
「了解」
「在宅勤務環境も、整いました。神奈川県相模原市から、転居先の、横浜市の小さなアパートで、勤務されます」
「相模原から、横浜に、移ったのか」
「ええ。退所と同時に。お一人で、ご決断されたようです」
「橘らしいな」
「来月、十二月の中旬に、初めての対面ミーティングを、予定しています。場所は、恵比寿のオフィス」
「了解。俺も、参加する」
「西村さんも、ご参加の予定です」
「うん」
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昼。
ナカジマ精工に、向かった。
大田区の工場。
いつもの、油の匂いと、機械の音。
松田が、工場の入り口で、待っていた。
「会長、いらっしゃい」
「お久しぶりです、松田さん」
「お久しぶり、というほどでも、ないですけどね。でも、お顔を、見られて、嬉しいです」
松田の手に、薄い冊子。
学会誌だった。
「日本機械学会誌」と、書かれていた。
「これ、ですか」
「はい。今月号です」
「中、見せていただいて、いいですか」
「もちろん」
俺は、松田から、冊子を、受け取った。
目次を、開いた。
「超小型インペラの加工精度向上に関する研究 ──三軸補正型五軸制御CNC旋盤を用いた新製造プロセスの提案──」
著者欄。
松田俊夫(株式会社ナカジマ精工 研究所長)。
佐藤直樹(東京大学工学部 教授)。
他、共著者三名。
ページを、めくった。
数式と、グラフと、加工写真が、ぎっしりと、並んでいた。
俺には、専門的な内容は、わからない。
でも、松田の名前が、論文に、ある。
二十年ぶり、と言っていた。
「松田さん、本当に、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「中島さんは」
「もう、ご覧になりました。先週、お電話で、お話しました。とても、喜んでくださって」
「健太郎さんは」
「奥で、お待ちしています」
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研究室に、入った。
健太郎が、デスクで、何かの図面を、見ていた。
「会長、お疲れさまです」
「健太郎さん、ご無沙汰しています」
「論文、ご覧になりましたか」
「はい。素晴らしいですね」
「松田所長の、二十年、です」
健太郎が、しみじみと、言った。
「俺、入社前から、松田所長の話は、聞いていました。父から。『あの人は、本当は、もっと、すごい仕事を、する人なんだ』って」
「中島さんが、そう、おっしゃっていたんですか」
「ええ。でも、ナカジマ精工が、町工場の規模だったから、松田所長の力を、生かせなかった。父は、ずっと、それを、悔やんでいました」
「健太郎さん」
「はい」
「これからは、健太郎さんが、松田さんの仕事を、生かしていく番です」
「はい。頑張ります」
「来年の春には、健太郎さんが、代表ですよね」
「ええ」
「もう、準備、できてますか」
健太郎が、しばらく、考えてから、答えた。
「八割、できてます。残り、二割は、自信が、ないところ」
「具体的には」
「経営判断の、最終責任を、自分が、負う、というところです。今は、父や、松田所長や、会長に、相談しながら、判断していますが、本当に、自分一人で、判断できるのか」
「健太郎さん、それは、社長になってから、徐々に、慣れていけばいい話です」
「はい」
「最初から、一人で、判断する必要は、ありません。父も、松田さんも、俺も、いる。山下も、いる」
「ありがとうございます」
「ナカジマ精工は、続いていく組織です。健太郎さんの世代だけで、判断する必要は、ありません」
健太郎が、頷いた。
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工場の方に、移った。
五軸制御CNC旋盤が、稼働していた。
若い従業員──中林くん──が、加工データを、確認していた。
「中林くん、調子はどうですか」
「あ、会長」
中林が、慌てて、頭を、下げた。
「論文、見ましたか」
「もちろんです。松田所長の論文に、私の名前も、入ってます」
「えっ、入ってるんですか」
「ええ。試作の段階で、私が、手伝った部分を、評価して、共著者の最後に」
「すごいですね」
「松田所長が、無理に、入れてくださって。私の名前なんて、いらない、と言ったんですけど」
「松田さんらしい」
「ええ」
松田が、隣で、笑っていた。
「中林、若い時に、自分の名前が、論文に、載ったというのは、その後の人生に、響くんだ。私は、それを、知っているから」
「松田所長、ありがとうございます」
中林が、頭を、下げた。
*(松田さんが、自分の経験を、次の世代に、渡している)*
*(論文に、若手の名前を、入れる。そういう、形でも、技術は、継承される)*
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午後の三時。
大手医療機器メーカーの、クロイツ社の、担当者が、ナカジマ精工に、来た。
四十代の、男性二名。
黒いスーツ姿。
松田、健太郎、私、山下も、加わって、会議室で、面談。
「松田所長、論文の件、本当に、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「弊社、クロイツ社では、貴社の超小型インペラ技術に、強く、関心を、持っています」
「ええ、聞いています」
「具体的には、LVAD──体内埋め込み型心臓補助装置──の次世代モデル向け、超小型インペラの、共同開発を、ご提案したい」
「共同開発、ですね」
「はい。弊社が、設計と臨床試験を、担当し、貴社が、製造と精度評価を、担当する」
「期間は」
「三年計画です。開発予算は、約十五億円。うち、弊社からの開発委託費として、年間二億円を、ナカジマ精工さんに、お支払いします」
俺は、しばらく、無言だった。
*(年間二億円)*
*(ナカジマ精工の、現在の年商の、約二倍)*
*(これは、大きな話だ)*
「桐島会長、いかがでしょうか」
クロイツ社の担当者が、こちらを、見た。
「条件を、詳細に、確認させてください」
「もちろん。資料を、お持ちしました」
俺は、ファイルを、受け取った。
厚い。
専門的な内容が、ぎっしり。
山下が、隣で、メモを、取っていた。
「松田所長は、どう、お考えですか」
俺は、松田に、聞いた。
「技術的には、対応可能です。三年で、現在の超小型インペラの、加工精度を、さらに、半分の誤差に、まで、引き上げる、というのが、目標です」
「健太郎さんは」
「私は、ナカジマ精工の代表として、お受けしたいです。父にも、相談します」
「では、十二月中に、社内検討して、年明けに、お返事させていただきます」
「了解しました」
クロイツ社の担当者が、頭を、下げた。
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帰りの車。
吉野さんの運転で、ナカジマ精工から、オフィスへ、戻った。
山下が、助手席で、ファイルを、確認していた。
「会長、この共同開発、お受けすべきです」
「うん」
「ナカジマ精工の、第二創業に、なります」
「松田さんの、二十年の研究が、報われる」
「ええ」
「健太郎さんが、社長として、本格的に、動き出す、いい契機にも、なります」
「ええ」
「年間二億円の、追加収入は、グループ全体に、大きく、響きます」
「うん」
「私の見立てでは、来年から、グループ全体の月次余剰は、千五百万円を、超えます」
「すごいな」
「会長の、追加出資が、なくても、自走できる規模になります」
*(自走できる、と山下が言った)*
*(俺が、いなくても、回る組織が、できていく)*
「山下」
「はい」
「ありがとう」
「業務上、当然のことです」
いつもの返事。
でも、今日は、その「業務上、当然のこと」が、特別に、嬉しかった。
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夜の七時。
大井競馬場のナイターに、行った。
朝の映像。
第十一レース。4番、2番、7番。
ぼやけていた。
今夜の賭けは、五万円。
指定席に、座って、ビールを、飲んだ。
冷えたビールが、喉を、滑り落ちていった。
第十一レース。
3連単、4−2−7。
レースが、始まった。
四番が、好位の二番手につけた。
最終コーナーで、外から、まくった。
直線で、先頭に立つ。
二番が、内で、粘った。
七番が、後方から、外を、回して、追い込み、三着。
ゴール。
4−2−7。確定。
配当、八十四倍。
五万円が、四百二十万円。
*(当たった)*
*(ぼやけながらも、当たった)*
払い戻し窓口で、現金を、受け取った。
紙袋に、入った札。
いつもの、感触。
*(時計が、まだ、応えてくれている)*
*(衰えながらも、続けてくれている)*
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帰宅して、リビングに、入った。
窓の外、東京の夜景。
十一月末の夜は、冷たかった。
懐中時計を、テーブルに、置いた。
今日の温度の余韻が、まだ、ほのかに、残っていた。
ソファに、座った。
ビールを、もう一杯、開けた。
*(今日、松田さんの論文が、形に、なった)*
*(クロイツ社との共同開発の話が、来た)*
*(健太郎さんが、社長として、動き始める準備が、進んでいる)*
*(時計が、衰えても、ナカジマ精工は、第二創業に、向かう)*
*(同じパターンで、田島フーズも、KY Liveも、回り続ける)*
窓を、開けた。
冷たい夜風が、入ってきた。
遠くで、誰かの笑い声。
十一月末の、東京の夜。
*(明日も、続いていく)*
ベッドに、入った。
目を、閉じた。
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**── 残高メモ ──**
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 大井競馬ナイター第11R(3連単4-2-7・配当84倍) | +約415万円 |
| 11月後半 片手間収益 | +約100万円 |
| 個人費用 | ▲約8万円 |
| 前話繰り越し(個人) | 約26,920万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約27,427万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(法人、11月分計上済み) | 約14,309万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約14,309万円** |
*クロイツ社との超小型インペラ共同開発(3年計画・15億円規模)の提案を受領。年明けに正式回答予定。承諾の場合、ナカジマ精工は年間2億円の開発委託費が新規発生。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(KY Live) | 約15万円 |
| **KY Live 法人口座** | **約15万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約5,162万円 |
| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,162万円** |
*松田俊夫研究所長の超小型インペラ論文、日本機械学会誌11月号に掲載。共著:佐藤直樹東大教授ほか。中林佑(22歳・新入社員)も共著者として記載。月次黒字13ヶ月連続。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,755万円 |
| **田島フーズ 口座残高** | **約1,755万円** |
| 口座 | 残高 |
|:--|--:|
| 桐島遊馬(個人) | 約27,427万円 |
| KY Holdings(法人) | 約14,309万円 |
| KY Live | 約15万円 |
| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |
| 田島フーズ | 約1,755万円 |
| **総資産(融資別)** | **約48,668万円** |
*融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。クロイツ社共同開発承諾の場合、来年から月次余剰1,500万円超の見込み。「桐島の追加出資なしで自走可能」とCFO山下が見立て。*




