表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
71/79

第70話 〜論文〜

 十一月の最終週、水曜日の朝。


 目が覚めて、枕元の懐中時計を、握った。

 温かい。


 ぼやけながらも、温かい。


 映像が、来た。

 大井競馬、第十一レース。

 ナイター。

 四番が、好位から、抜け出していく。

 二着が二番。三着が七番。


 ノートに、記録した。

 「十一月二十五日 温/ぼやけ/大井4-2-7」


 窓のカーテンを、開けた。

 十一月末の朝。

 空が、灰色に、雲っていた。

 冬の予感。


---


 九時。

 吉野さんが、迎えに来た。


「会長、おはようございます」


「おはようございます。今日、ナカジマ精工に、寄ります」


「承知いたしました」


「先に、事務所で、十時に山下と、ミーティング。その後、ナカジマ精工へ」


「了解しました」


 車内で、スマートフォンを、開いた。

 中島さんから、LINEが、来ていた。


 *「会長、先週、学会誌が、届きました。本日、ご都合よろしければ、お立ち寄りください」*


 *「お昼過ぎに、伺います」*


 *「お待ちしております」*


 *(松田さんの、超小型インペラ論文)*


 *(先月、掲載予定が、今月に、ずれ込んだ)*


 *(やっと、形に、なった)*


---


 午前中、オフィスで、山下と、月次レビューと、追加の業務を、片付けた。


 橘修が、今週月曜から、在宅勤務で、復帰していた。

 月曜の朝、初日に、橘から、LINEが、来た。


 *「会長、改めて、ありがとうございます。本日より、復帰します。データ分析、頑張ります」*


 *「お帰り。よろしく」*


 短いやり取り。

 でも、橘らしい、丁寧な、復帰の挨拶だった。


 山下が、橘の業務を、すでに、整理していた。


「会長、橘さんの業務、当面は、KY Pet Foods のシェルター別フード消費分析、と、FORECASTのユーザー行動分析の二本で、進めます」


「了解」


「在宅勤務環境も、整いました。神奈川県相模原市から、転居先の、横浜市の小さなアパートで、勤務されます」


「相模原から、横浜に、移ったのか」


「ええ。退所と同時に。お一人で、ご決断されたようです」


「橘らしいな」


「来月、十二月の中旬に、初めての対面ミーティングを、予定しています。場所は、恵比寿のオフィス」


「了解。俺も、参加する」


「西村さんも、ご参加の予定です」


「うん」


---


 昼。

 ナカジマ精工に、向かった。


 大田区の工場。

 いつもの、油の匂いと、機械の音。


 松田が、工場の入り口で、待っていた。


「会長、いらっしゃい」


「お久しぶりです、松田さん」


「お久しぶり、というほどでも、ないですけどね。でも、お顔を、見られて、嬉しいです」


 松田の手に、薄い冊子。

 学会誌だった。

 「日本機械学会誌」と、書かれていた。


「これ、ですか」


「はい。今月号です」


「中、見せていただいて、いいですか」


「もちろん」


 俺は、松田から、冊子を、受け取った。

 目次を、開いた。


 「超小型インペラの加工精度向上に関する研究 ──三軸補正型五軸制御CNC旋盤を用いた新製造プロセスの提案──」


 著者欄。

 松田俊夫(株式会社ナカジマ精工 研究所長)。

 佐藤直樹(東京大学工学部 教授)。

 他、共著者三名。


 ページを、めくった。

 数式と、グラフと、加工写真が、ぎっしりと、並んでいた。


 俺には、専門的な内容は、わからない。

 でも、松田の名前が、論文に、ある。

 二十年ぶり、と言っていた。


「松田さん、本当に、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「中島さんは」


「もう、ご覧になりました。先週、お電話で、お話しました。とても、喜んでくださって」


「健太郎さんは」


「奥で、お待ちしています」


---


 研究室に、入った。

 健太郎が、デスクで、何かの図面を、見ていた。


「会長、お疲れさまです」


「健太郎さん、ご無沙汰しています」


「論文、ご覧になりましたか」


「はい。素晴らしいですね」


「松田所長の、二十年、です」


 健太郎が、しみじみと、言った。


「俺、入社前から、松田所長の話は、聞いていました。父から。『あの人は、本当は、もっと、すごい仕事を、する人なんだ』って」


「中島さんが、そう、おっしゃっていたんですか」


「ええ。でも、ナカジマ精工が、町工場の規模だったから、松田所長の力を、生かせなかった。父は、ずっと、それを、悔やんでいました」


「健太郎さん」


「はい」


「これからは、健太郎さんが、松田さんの仕事を、生かしていく番です」


「はい。頑張ります」


「来年の春には、健太郎さんが、代表ですよね」


「ええ」


「もう、準備、できてますか」


 健太郎が、しばらく、考えてから、答えた。


「八割、できてます。残り、二割は、自信が、ないところ」


「具体的には」


「経営判断の、最終責任を、自分が、負う、というところです。今は、父や、松田所長や、会長に、相談しながら、判断していますが、本当に、自分一人で、判断できるのか」


「健太郎さん、それは、社長になってから、徐々に、慣れていけばいい話です」


「はい」


「最初から、一人で、判断する必要は、ありません。父も、松田さんも、俺も、いる。山下も、いる」


「ありがとうございます」


「ナカジマ精工は、続いていく組織です。健太郎さんの世代だけで、判断する必要は、ありません」


 健太郎が、頷いた。


---


 工場の方に、移った。

 五軸制御CNC旋盤が、稼働していた。

 若い従業員──中林くん──が、加工データを、確認していた。


「中林くん、調子はどうですか」


「あ、会長」


 中林が、慌てて、頭を、下げた。


「論文、見ましたか」


「もちろんです。松田所長の論文に、私の名前も、入ってます」


「えっ、入ってるんですか」


「ええ。試作の段階で、私が、手伝った部分を、評価して、共著者の最後に」


「すごいですね」


「松田所長が、無理に、入れてくださって。私の名前なんて、いらない、と言ったんですけど」


「松田さんらしい」


「ええ」


 松田が、隣で、笑っていた。


「中林、若い時に、自分の名前が、論文に、載ったというのは、その後の人生に、響くんだ。私は、それを、知っているから」


「松田所長、ありがとうございます」


 中林が、頭を、下げた。


 *(松田さんが、自分の経験を、次の世代に、渡している)*


 *(論文に、若手の名前を、入れる。そういう、形でも、技術は、継承される)*


---


 午後の三時。

 大手医療機器メーカーの、クロイツ社の、担当者が、ナカジマ精工に、来た。


 四十代の、男性二名。

 黒いスーツ姿。

 松田、健太郎、私、山下も、加わって、会議室で、面談。


「松田所長、論文の件、本当に、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「弊社、クロイツ社では、貴社の超小型インペラ技術に、強く、関心を、持っています」


「ええ、聞いています」


「具体的には、LVAD──体内埋め込み型心臓補助装置──の次世代モデル向け、超小型インペラの、共同開発を、ご提案したい」


「共同開発、ですね」


「はい。弊社が、設計と臨床試験を、担当し、貴社が、製造と精度評価を、担当する」


「期間は」


「三年計画です。開発予算は、約十五億円。うち、弊社からの開発委託費として、年間二億円を、ナカジマ精工さんに、お支払いします」


 俺は、しばらく、無言だった。


 *(年間二億円)*


 *(ナカジマ精工の、現在の年商の、約二倍)*


 *(これは、大きな話だ)*


「桐島会長、いかがでしょうか」


 クロイツ社の担当者が、こちらを、見た。


「条件を、詳細に、確認させてください」


「もちろん。資料を、お持ちしました」


 俺は、ファイルを、受け取った。

 厚い。

 専門的な内容が、ぎっしり。

 山下が、隣で、メモを、取っていた。


「松田所長は、どう、お考えですか」


 俺は、松田に、聞いた。


「技術的には、対応可能です。三年で、現在の超小型インペラの、加工精度を、さらに、半分の誤差に、まで、引き上げる、というのが、目標です」


「健太郎さんは」


「私は、ナカジマ精工の代表として、お受けしたいです。父にも、相談します」


「では、十二月中に、社内検討して、年明けに、お返事させていただきます」


「了解しました」


 クロイツ社の担当者が、頭を、下げた。


---


 帰りの車。

 吉野さんの運転で、ナカジマ精工から、オフィスへ、戻った。


 山下が、助手席で、ファイルを、確認していた。


「会長、この共同開発、お受けすべきです」


「うん」


「ナカジマ精工の、第二創業に、なります」


「松田さんの、二十年の研究が、報われる」


「ええ」


「健太郎さんが、社長として、本格的に、動き出す、いい契機にも、なります」


「ええ」


「年間二億円の、追加収入は、グループ全体に、大きく、響きます」


「うん」


「私の見立てでは、来年から、グループ全体の月次余剰は、千五百万円を、超えます」


「すごいな」


「会長の、追加出資が、なくても、自走できる規模になります」


 *(自走できる、と山下が言った)*


 *(俺が、いなくても、回る組織が、できていく)*


「山下」


「はい」


「ありがとう」


「業務上、当然のことです」


 いつもの返事。

 でも、今日は、その「業務上、当然のこと」が、特別に、嬉しかった。


---


 夜の七時。

 大井競馬場のナイターに、行った。


 朝の映像。

 第十一レース。4番、2番、7番。

 ぼやけていた。

 今夜の賭けは、五万円。


 指定席に、座って、ビールを、飲んだ。

 冷えたビールが、喉を、滑り落ちていった。


 第十一レース。

 3連単、4−2−7。


 レースが、始まった。

 四番が、好位の二番手につけた。

 最終コーナーで、外から、まくった。

 直線で、先頭に立つ。

 二番が、内で、粘った。

 七番が、後方から、外を、回して、追い込み、三着。


 ゴール。

 4−2−7。確定。


 配当、八十四倍。

 五万円が、四百二十万円。


 *(当たった)*


 *(ぼやけながらも、当たった)*


 払い戻し窓口で、現金を、受け取った。

 紙袋に、入った札。

 いつもの、感触。


 *(時計が、まだ、応えてくれている)*


 *(衰えながらも、続けてくれている)*


---


 帰宅して、リビングに、入った。

 窓の外、東京の夜景。

 十一月末の夜は、冷たかった。


 懐中時計を、テーブルに、置いた。

 今日の温度の余韻が、まだ、ほのかに、残っていた。


 ソファに、座った。

 ビールを、もう一杯、開けた。


 *(今日、松田さんの論文が、形に、なった)*


 *(クロイツ社との共同開発の話が、来た)*


 *(健太郎さんが、社長として、動き始める準備が、進んでいる)*


 *(時計が、衰えても、ナカジマ精工は、第二創業に、向かう)*


 *(同じパターンで、田島フーズも、KY Liveも、回り続ける)*


 窓を、開けた。

 冷たい夜風が、入ってきた。

 遠くで、誰かの笑い声。

 十一月末の、東京の夜。


 *(明日も、続いていく)*


 ベッドに、入った。

 目を、閉じた。


---


**── 残高メモ ──**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 大井競馬ナイター第11R(3連単4-2-7・配当84倍) | +約415万円 |

| 11月後半 片手間収益 | +約100万円 |

| 個人費用 | ▲約8万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約26,920万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約27,427万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(法人、11月分計上済み) | 約14,309万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約14,309万円** |


*クロイツ社との超小型インペラ共同開発(3年計画・15億円規模)の提案を受領。年明けに正式回答予定。承諾の場合、ナカジマ精工は年間2億円の開発委託費が新規発生。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(KY Live) | 約15万円 |

| **KY Live 法人口座** | **約15万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約5,162万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,162万円** |


*松田俊夫研究所長の超小型インペラ論文、日本機械学会誌11月号に掲載。共著:佐藤直樹東大教授ほか。中林佑(22歳・新入社員)も共著者として記載。月次黒字13ヶ月連続。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,755万円 |

| **田島フーズ 口座残高** | **約1,755万円** |


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約27,427万円 |

| KY Holdings(法人) | 約14,309万円 |

| KY Live | 約15万円 |

| ナカジマ精工 | 約5,162万円 |

| 田島フーズ | 約1,755万円 |

| **総資産(融資別)** | **約48,668万円** |


*融資借入残高:約23,718万円。品川ローン残高:約6,832万円。クロイツ社共同開発承諾の場合、来年から月次余剰1,500万円超の見込み。「桐島の追加出資なしで自走可能」とCFO山下が見立て。*


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ