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第67話 〜移転〜

 十月の第四週、月曜日の午後。


 西村と、二人で、恵比寿の商店街を、歩いていた。


 今日は、不動産物件の、視察。

 西村が、先週、不動産業者から、いい物件を、紹介された、と言ってきた。


 目的は、はっきりしていた。

 恵比寿のカフェ「NOEL」の、移転先の確保。

 瀬川美奈さんが、来年の春までに、移転を、決めなければならない状況。


 俺は、八月の段階で、瀬川さんに「不動産事業として、こちらで物件を、取得することも、検討できます」と、伝えていた。

 あれから、二ヶ月。

 西村が、その後を、引き継いで、物件を、探していた。


「会長、この路地、奥の方に、いい物件、ある」


 西村が、商店街から、細い路地に、入っていった。


 恵比寿の路地は、迷路みたいだった。

 メインストリートから、一本、入るだけで、急に、静かになる。

 古い住宅と、新しい飲食店が、混じり合った、不思議な空間。


 路地の、突き当たり近くに、その物件は、あった。


「これ」


 西村が、立ち止まって、指差した。


 二階建ての、小さな建物。

 一階は、店舗。

 二階は、住居スペース。

 外壁が、漆喰のような白で、古いが、しっかりした作りに、見えた。


「店舗、二十坪。二階の住居、十五坪。家賃、月二十万。保証金、六ヶ月分」


「家賃、安いな」


「うん。立地が、メインから、少し外れてるから。でも、この路地、最近、人気の店が、増えてる」


「中、見られる?」


「業者が、待ってる」


 不動産業者の男が、玄関の前で、待っていた。

 四十代後半。

 黒いスーツ姿。


「桐島さま、ようこそ。中、ご案内します」


 扉を、開けた。


 一階の店舗スペース。

 元は、何かの古道具屋だったらしい。

 木の床が、長年の使用で、味のある色合いに、なっていた。

 壁は、漆喰のままで、温かみが、ある。


 窓が、二か所。

 路地に面した、大きめの窓と、裏庭側の、小さい窓。

 光の入り方が、いい。


「カフェに、ちょうどいい広さ、ですね」


 西村が、言った。


「カウンター席を、五席、テーブル席を、十席、置けます。今のNOELより、少し、広い」


「キッチンは」


「奥に、独立してます。換気扇も、最近、新しくしたばかり、と聞いています」


 奥の、キッチンスペース。

 業務用の冷蔵庫が、入る大きさ。

 シンクが、二槽。

 調理台が、広い。


 *(瀬川さん、ここなら、もっと、楽に、仕事ができるかもしれない)*


---


 二階に、上がった。


 住居スペース。

 六畳の、リビング兼ダイニング。

 四畳半の、寝室が、二つ。

 小さなキッチンと、ユニットバス。


「リビングから、路地が、見下ろせます」


 業者の男が、説明した。


「窓を、開けると、商店街の音が、聞こえてくる、距離。でも、賑やかすぎは、ない」


 西村が、窓を、開けた。

 十月の風が、入ってきた。

 ひんやりとしている。

 でも、街の音が、確かに、聞こえてきた。


「会長、これ、いい物件だよ」


「うん」


「瀬川さん、ここなら、店と住まいが、一緒。学童の問題も、なくなる」


「美咲ちゃん、二階で、宿題が、できる」


「だね」


 *(西村は、瀬川さん親子の状況まで、考えてくれている)*


 *(俺が、伝えた以上のことを、覚えてくれている)*


「業者さん、この物件、いつまで、抑えられますか」


「来月の半ばまでは、優先的に、ご案内可能です。それ以降は、別の問い合わせが、入っていますので、難しくなるかと」


「了解。今週中に、結論、出します」


「お待ちしております」


---


 物件を、出た。

 商店街に、戻った。


 時計を、見た。

 午後三時半。


「西村、これから、瀬川さんの店、寄ろう」


「うん。会長、話、する?」


「うん」


 二人で、商店街を、歩いた。

 別の路地に、入って、カフェ NOEL の、扉を、開けた。


 平日の午後三時半。

 店内は、フリーランスらしい客が、二人。

 瀬川さんが、カウンターの中で、グラスを、磨いていた。


「あ、桐島さん」


 瀬川さんが、顔を、上げた。

 俺の後ろの、西村に、気づいて、少し、不思議そうな顔を、した。


「瀬川さん、こちら、KY Holdings の、代表取締役の、西村です」


「西村と、申します。会長から、瀬川さんのことは、伺ってます」


「あ、はい。瀬川です」


 瀬川さんが、頭を、下げた。


「あの、お二人で、何か、ご用件で」


「実は、瀬川さんに、ご相談したいことが、ありまして」


 俺が、言った。


「カフェの移転、覚えてますか」


「ええ、もちろん」


「うちで、恵比寿に、物件を、取得する話。八月に、ちょっとだけ、お伝えしました」


「ええ、覚えてます」


「西村が、先週、いい物件を、見つけてきました。今日、視察してきました」


 瀬川さんが、グラスを、置いた。


「ほんとですか」


「同じ恵比寿。少し、メインから、外れた路地ですが、徒歩五分以内」


「広さは」


「店舗、二十坪。二階に、住居スペース、十五坪」


「住居も?」


「店舗と、住居が、一体になった物件。だから、家賃が、安い。月二十万」


 瀬川さんが、しばらく、無言になった。


「今の店、二十二万なので、二万、安くなります」


「住居も、込みで」


「ええ。住居も、込みで」


 瀬川さんが、ゆっくりと、頷いた。


「桐島さん、私、今の住まい、家賃十五万のマンションです。それを、引き払って、店の上に、住むなら」


「店と住居、合わせて、月二十万」


「家賃が、合計、半分以下に、なります」


「ええ」


 瀬川さんが、レジ台の上に、手を、置いた。


「あの、桐島さん」


「はい」


「これは、私への、施しですか」


 俺は、しばらく、瀬川さんを、見ていた。


 *(瀬川さんが、ちゃんと、聞いてきた)*


 *(俺は、その問いを、予想していた)*


「いえ、違います」


「違う、というのは」


「うちは、不動産事業を、やっています。今、都内に、五物件、持っています。利回りで、運用しています」


「ええ」


「この物件、利回り、計算すると、月二十万円の家賃で、約三パーセント。新築物件と、比べると、少し、低い数字ですが、立地と、状態を、考えると、悪くない投資です」


「桐島さんからしたら、収益物件、ということですか」


「そうです。瀬川さんに、お貸しすることで、収益が、出る。瀬川さんは、好立地で、安く、住居まで、確保できる」


「ですが、相場としては」


「相場は、もう少し、高いです。月二十五万円くらい、取れる物件です」


「では、相場より、安い」


「ええ。三分の二、くらいですね」


「それは、結果的に、施しです」


 瀬川さんの目が、まっすぐ、こちらを、見ていた。


 *(瀬川さんは、こういうところ、絶対に、譲らない)*


「瀬川さん、相場が、月二十五万円。うちが、月二十万円で、お貸しする。差額は、月五万円」


「ええ」


「年間で、六十万円。この六十万円を、どう、考えるか」


「その分が、施しになる、と」


「俺は、施しじゃない、と思います」


「なんで、ですか」


「瀬川さんの、コーヒーへの、対価です」


 瀬川さんが、しばらく、無言だった。


「私の、コーヒー」


「ええ。八月から、十月まで、俺は、瀬川さんの店に、月に二、三回、寄りました。コーヒーを、いただきました。エチオピアの豆も、もらいました。淹れ方も、教えてもらいました」


「ええ」


「俺は、瀬川さんの店で、コーヒー以上のものを、もらっています。空気、と言うべきか、空間、と言うべきか。とにかく、金額に、できないものを、たくさん」


「……」


「だから、月五万円は、施しじゃない。俺が、もらってきたものへの、対価です」


 瀬川さんが、少しだけ、目を、伏せた。


「……でも」


「考えてください。今、すぐ、決めなくていい」


「考えます」


 西村が、横で、頷いていた。


---


 扉が、開いた。

 美咲ちゃんが、ランドセルを、背負って、入ってきた。


「ママ、ただいま」


「おかえり」


 美咲ちゃんが、俺と西村を、見て、目を、丸くした。


「あ、犬のお兄ちゃん! あと、知らないお兄ちゃん」


「美咲ちゃん、こんにちは。西村です。よろしくね」


「はい。よろしく」


 美咲ちゃんが、頭を、下げた。


「ママ、今日のおやつ、ある?」


「あるよ。あとで、出すね」


 美咲ちゃんが、カウンターの端に、座った。

 ランドセルから、ノートを、出した。


 俺は、ふと、思いついて、聞いた。


「美咲ちゃん、お引っ越し、する話、ママから、聞いてる?」


「お引っ越し?」


 美咲ちゃんが、不思議そうな顔を、した。


「あ、まだ、聞いてないか」


「お引っ越しするの?」


「するかも、しないかも、これからの話」


「どこに?」


「ここから、徒歩五分くらいの、別のお店」


「学校、変わる?」


「変わらないよ」


「じゃあ、いいかも」


 美咲ちゃんが、頷いた。


 瀬川さんが、横で、苦笑いしていた。


「美咲、お引っ越しの話、まだ、ちゃんとは、決まってないの。決まったら、ちゃんと、説明するから」


「うん」


 俺は、瀬川さんに、聞いてみた。


「この物件、二階が、住居なんです。リビングと、寝室が、二つ。お風呂と、キッチン」


「住居、込みなんですか」


「ええ。瀬川さんと、美咲ちゃんが、一緒に、住める」


 美咲ちゃんが、顔を、上げた。


「ここの上にも、住める?」


「美咲ちゃん、今のは、別の物件の話だよ」


「ふうん。じゃあ、新しい場所、上に、住めるの?」


「住めるよ」


「やった!」


 美咲ちゃんが、嬉しそうに、両手を、上げた。


「ママ、学童、もう、行かなくていいんでしょ?」


「美咲」


「だって、お店の上に住んだら、学校から帰って、すぐ、二階に、行ける」


「うん、そうだね」


「私、学童、嫌いだったの」


「ええ?」


 瀬川さんが、驚いた顔を、した。


「美咲、嫌いだったの?」


「うん。先生は、いい人だけど、人が、多くて、うるさくて」


「……知らなかった」


「言ってないもん」


「なんで、言わなかったの」


「ママが、忙しいから。困らせたくなかった」


 瀬川さんが、しばらく、無言だった。


「美咲」


 声が、震えていた。


「私、気づかなかった。ごめんね」


「いいよ、ママ。私、頑張れた」


 美咲ちゃんが、ノートを、開いた。

 漢字練習を、始めた。

 いつも通り。

 でも、いつもより、ほんの少しだけ、軽そうな顔を、していた。


 瀬川さんが、こちらに、目を、向けた。

 その目は、少し、潤んでいた。


「桐島さん」


「はい」


「ありがとうございます」


「いえ」


「物件、お借りします」


「……いいんですか」


「美咲が、こんな顔を、するなら。私は、それで、十分です」


「ご決断、ありがとうございます」


「桐島さんの、おっしゃっていた、コーヒーへの対価。受け取らせていただきます」


 瀬川さんが、深く、頭を、下げた。


 西村が、横で、ぱちぱちと、小さく、拍手を、した。


「めでたい! 会長、今夜、お祝いに、飲もう」


「だな」


「瀬川さんも、よかったら、ご一緒に」


「あ、私は、子どもが、いるので」


「美咲ちゃんも、連れて、近所で、ご飯」


「……それなら、いいですね」


 美咲ちゃんが、顔を、上げた。


「ご飯、行くの?」


「うん。ご飯、行こうか」


「やった!」


---


 その夜、四人で、商店街の中華屋に、入った。


 夕方の六時。

 いつも、瀬川さんが、店を閉める時間。


 美咲ちゃんは、ラーメンを、頼んだ。

 瀬川さんは、定食。

 俺と、西村は、餃子と、麻婆豆腐。

 ビールも、頼んだ。


 美咲ちゃんが、ラーメンを、すすりながら、機嫌よく、喋っていた。

 今日、学校で、誰と遊んだか。

 犬の絵、また、描いた話。

 好きな本のシリーズの、新刊が、来月、出る話。


 瀬川さんが、それを、隣で、笑いながら、聞いていた。


 西村が、餃子を、頬張りながら、聞いた。


「美咲ちゃん、ピアノとか、習い事、してる?」


「してない」


「やりたい?」


「うーん、わかんない」


「俺、ピアノ、やってたよ。子どもの頃」


「ほんと?」


「うん。下手だったけど」


「西村、お前、ピアノ、やってたんかよ」


「言ってない?」


「初めて、聞いた」


「十年、知ってて、初めて」


 西村が、笑った。


 *(西村は、まだまだ、知らないことが、ある)*


 *(十年、知ってる、はずなのに)*


---


 帰り際、店の前で。


「桐島さん、西村さん、本当に、ありがとうございました」


 瀬川さんが、また、頭を、下げた。


「いえ。明日から、契約と、改装の準備、進めますね」


「お願いします」


「店の引っ越しは、来年の三月、ですか」


「ええ。今の店の契約満了が、三月末です」


「では、それまでに、新店の改装、終わらせます」


「お願いします」


 美咲ちゃんが、こちらを、見上げた。


「お兄ちゃん、また、新しいお店に、来てくれる?」


「もちろん」


「犬の話、もっと、しよう」


「うん」


 美咲ちゃんが、軽く、手を、振った。

 瀬川さんと、美咲ちゃんが、商店街の方へ、歩いていった。


 俺と、西村が、その後ろ姿を、見送った。


---


 夜の十時。

 タワーマンションのリビング。


 窓の外、東京の夜景。

 十月の夜は、冷たかった。


 懐中時計を、テーブルに、置いた。

 今夜は、冷たい。


 でも、今日、別のところで、温かい時間が、あった。


 *(瀬川さんが、契約を、受け入れてくれた)*


 *(美咲ちゃんが、学童のことを、口に出した)*


 *(瀬川さんが、それに、気づいた)*


 *(一つの物件契約が、親子の関係も、少しだけ、変えた)*


 *(不動産事業は、ただ、利回りを、稼ぐ仕事じゃない)*


 *(人の生活を、変える、仕事だ)*


 *(俺は、そういう仕事を、している)*


 ソファに、座った。

 今夜は、コーヒーを、淹れた。

 瀬川さんから、もらった豆が、まだ、残っていた。


 花のような香り。


 *(瀬川さんの店は、続いていく)*


 *(場所が、変わっても)*


 *(俺の事業も、続いていく)*


 *(時計が、なくても)*


 窓を、開けた。

 冷たい夜風が、入ってきた。

 遠くで、車のクラクションが、鳴っていた。

 十月の夜の、東京。


 ベッドに、入った。

 目を、閉じた。


---


**── 残高メモ ──**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 10月第3〜4週 ギャンブル収益 | +約180万円 |

| 個人費用(中華・タクシー等) | ▲約6万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約26,496万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約26,670万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 恵比寿店舗物件 取得契約締結(11月実行予定) | 取得額:約8,000万円見込み |

| 前話繰り越し(法人) | 約17,408万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約17,408万円** |


*恵比寿の店舗物件(一階店舗20坪・二階住居15坪)の取得を決定。11月中に契約・決済予定。瀬川美奈様への賃貸条件:月20万円(相場25万円の三分の二)。年利回り3%(取得額8,000万円ベース)。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(KY Live、10月分計上済み) | 約75万円 |

| **KY Live 法人口座** | **約75万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(ナカジマ精工、10月分計上済み) | 約5,057万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,057万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(田島フーズ、10月分計上済み) | 約1,615万円 |

| **田島フーズ 口座残高** | **約1,615万円** |


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約26,670万円 |

| KY Holdings(法人) | 約17,408万円 |

| KY Live | 約75万円 |

| ナカジマ精工 | 約5,057万円 |

| 田島フーズ | 約1,615万円 |

| **総資産(融資別)** | **約50,825万円** |


*融資借入残高:約23,981万円。品川ローン残高:約6,881万円。瀬川美奈・美咲親子との店舗・住居一体物件契約決定。来年3月に開店予定。橘修、月末退所、雇用契約締結準備中。*


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