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第66話 〜便り〜

 十月の第三週、月曜日の朝。


 目が覚めて、枕元の懐中時計を、握った。

 冷たい。


 *(今週、まだ、温かい日が、ない)*


 ノートに、記録を、付けた。

 「十月十六日 冷/映像なし」


 ペンを、置いた。


 窓の外、十月後半の朝の空気が、冷たかった。

 窓ガラスに、薄い結露が、出ていた。

 もう、暖房を、入れる季節が、近かった。


 コーヒーを、淹れて、ソファに、座った。


 しばらく、ぼんやりと、していた。


 時計を、テーブルに、置いたまま。


 *(先週から、温かい日が、極端に、減った)*


 *(来月は、どうなるか、わからない)*


 窓の外で、街路樹の葉が、風に、揺れていた。

 ところどころ、赤い葉。

 昨日まで、緑だった枝が、今朝は、黄色く、なっていた。


 *(季節は、待ってくれない)*


---


 九時。

 吉野さんが、迎えに来る前に、エントランスに、降りた。

 マンションの郵便受けを、確認しておくため。


 最近、書類関係は、ほとんど、オフィスに、届く。

 マンションには、銀行のDMくらいしか、来ない。


 郵便受けを、開けた。


 茶色い、A4サイズの封筒が、入っていた。

 差出人の欄を、見た。


 神奈川県相模原市、依存症回復支援センター ひだまり荘。

 橘修。


 *(橘から、手紙)*


 俺は、しばらく、封筒を、見つめていた。


 最後に、橘からの便りが、あったのは、五月の連休前。

 あの時は、短いメッセージで、「治療プログラムが、半年経ちました」と、それだけだった。


 今回は、A4の封筒。

 厚さが、ある。

 たぶん、何枚も、便箋が、入っている。


 封筒を、ジャケットの内ポケットに、入れた。


 オフィスに、着いてから、ゆっくり、読もう。


---


 吉野さんが、迎えに来た。


「会長、おはようございます」


「おはようございます」


「本日は、事務所に直接で、よろしいでしょうか」


「お願いします」


 車内で、ジャケットの内ポケットに、手を、当てた。

 封筒の感触が、あった。


 *(橘、何を、書いてくれたんだろう)*


 車が、走り出した。

 窓の外を、見ていた。

 十月後半の、月曜の朝。

 通勤の人が、コートを、着始めていた。

 ジャケットだけでは、寒い時間帯が、増えていた。


---


 オフィスに、着いた。

 まだ、九時半。

 西村も、山下も、まだ、来ていなかった。


 会議室に、入った。

 扉を、閉めた。


 ジャケットの内ポケットから、封筒を、出した。

 席に、座って、開封した。


 便箋が、出てきた。

 白い、無地。

 手書きの文字が、ぎっしりと、書かれていた。

 六枚あった。


 *(橘らしい、几帳面な字)*


 ゆっくりと、読み始めた。


---


 *「桐島さんへ*


 *ご無沙汰しております。橘修です。*


 *五月の連絡から、また半年が経ちました。手紙を書こうと思いつつ、書けないまま、夏が過ぎていきました。*


 *ここ、ひだまり荘は、神奈川県相模原市の山間にある、依存症回復のための施設です。私は、三月から、入所しております。当初、二か月の予定が、結果的に半年以上、滞在しています。*


 *まず、私の状態について、ご報告します。*


 *配信への課金は、完全に、止まりました。最後に課金したのは、三月十六日です。八か月以上、画面の向こうの方へ、お金を送っていません。*


 *ただ、依存症が、完治したかと言われると、答えは、否です。今でも、夕方になると、配信を、見たくなります。それを、見ないように、自分を、抑える。その繰り返しです。*


 *治療プログラムでは、認知行動療法と、グループセラピーを、受けています。同じく依存症から回復しようとする方々と、週に三度、話し合います。話せば話すほど、自分が、どれほど、画面の向こうの存在に、依存していたかが、わかります。*


 *依存していた理由も、見えてきました。*


 *私は、八年間、競馬データのブログを、一人で、書いていました。月に三万人ほどの読者は、いました。コメントも、たくさん、もらいました。でも、それは、私個人を、見てくれていたわけでは、ありません。データを、見てくれていたんです。*


 *会社に入る前、私は、人と話すのが、苦手でした。仕事の都合で、必要な会話は、しました。でも、深い対話は、なかったと、思います。*


 *配信の方は、私個人を、見てくれている、と感じていました。コメントを、覚えてくれている。私の名前を、出してくれる。私の好みを、知ってくれている。それが、心地よかった。*


 *でも、それは、商品としての繋がりでした。私が、課金していたから、私を、見てくれていたんです。*


 *それに、気づくのに、時間が、かかりました。*


 *KY Holdingsで、皆さんと働いた半年は、私にとって、人生で初めて、人と、密に関わった時間でした。山下さんと、毎日、数字の話を、しました。西村さんと、馬鹿話を、しました。小林さんと、技術の話を、しました。会長と、お会いするたびに、新しい仕事の提案を、もらいました。*


 *それなのに、私は、配信に、課金し続けた。それは、新しい関係に、慣れていなかったからかもしれません。距離が近すぎて、怖かったのかもしれません。逃げ場として、画面の向こうを、選んでいました。*


 *分析しても、過去は、取り戻せません。私が、四百五十万円分、会社のお金を、横領した事実は、変わりません。皆さんに、ご迷惑を、おかけしました。本当に、申し訳ありません。*


 *ここから、私が、何を、お伝えしたいか、です。*


 *治療プログラムは、今月末で、終了します。施設は、来月の頭に、退所する予定です。*


 *その後、私は、まだ、配信から、完全に、離れることはできない。誰かと、毎日、密に関わるのも、まだ、難しいと、感じています。再発の可能性が、ある。*


 *でも、何か、形を変えて、皆さんと、関わりたい気持ちが、あります。*


 *もし、可能なら、データ分析の仕事を、在宅で、させてもらえないでしょうか。シェルターのフードの数字、KY Pet Foods の販売データ、FORECAST のユーザーの行動分析。私の得意な仕事です。事務所に毎日、行けなくても、できる仕事です。*


 *給与は、いりません。最低限の生活費が、出れば、それで十分です。私が、今、お渡しできる仕事の対価として、それが、適正だと、思います。*


 *もちろん、断られて、当然の話です。会社に、四百五十万円分の損失を、与えた人間が、ノコノコと、戻ろうとしているだけです。*


 *ただ、お伝えしたかった。私が、皆さんのことを、忘れていない。皆さんと、別の形でも、繋がりたいと、思っている。それを、お伝えしたかった。*


 *ご無理を、申し上げて、すみません。お返事を、いただける場合は、施設の住所に、お送りください。退所した後の住所は、決まったら、改めてご連絡します。*


 *会長、皆さんに、宜しくお伝えください。*


 *寒くなってきました。ご自愛くださいませ。*


 *橘修」*


---


 俺は、便箋を、テーブルに、置いた。


 しばらく、無言で、座っていた。


 窓の外で、街の音が、ぼんやりと、聞こえていた。


 *(橘が、戻りたいと、書いてきた)*


 *(給与は要らない、と書いている)*


 *(依存症は、まだ、完治していない、とも、書いている)*


 俺の中に、いろんな感情が、混じっていた。

 嬉しい、と、思った。

 でも、警戒する気持ちも、あった。

 また、何か、起きるんじゃないか、という。


 でも、それより、橘が、自分の状態を、こんなに、正確に、書いてきたことに、感心していた。


 *(橘は、もう、一年前の、橘じゃない)*


 *(自分を、客観視できる人間に、なっている)*


---


 扉が、開いた。

 山下が、入ってきた。


「会長、おはようございます」


「おはよう」


「会議室に、お早くから」


「ちょっと、手紙を、読んでて」


「手紙、ですか」


「橘から」


 山下が、しばらく、こちらを、見ていた。


「……拝読しても、よろしいでしょうか」


「ぜひ」


 俺は、便箋を、山下に、差し出した。

 山下が、椅子に、座って、ゆっくりと、読み始めた。


 六枚の便箋を、読み終えるまで、二十分くらい、かかった。

 山下が、最後の便箋を、置いた。


「会長」


「うん」


「橘さんは、ご本人の状態を、正確に、把握されていますね」


「そう、思った」


「再発の可能性が、あることも、ちゃんと、書いている。それは、信頼に、足る情報です」


「うん」


「在宅勤務での復帰、技術的には、可能でございます」


「そうか」


「ただ、給与なしは、難しい。社会保険、健康保険の問題が、あります。最低限、月給という形で、雇用契約を、結ぶ必要が、あります」


「いくらくらいで」


「月四十万円、くらいが、適正かと。データ分析の専門職としての、市場価値の下限です」


「橘の希望より、上だな」


「ご本人が、適正と思う額より、少し、上で、設定する。それが、私たちが、橘さんに、伝える誠意です」


 *(山下は、いつも、こうやって、人の尊厳を、ちゃんと、守る)*


「了解。月四十万、で進めよう」


「契約形態は、業務委託では、なく、雇用契約。在宅勤務を、基本とし、必要に応じて、月一回程度、出社」


「うん」


「対面接触の頻度は、徐々に、増やしていく。橘さん本人の、ペースで」


「うん」


「承知しました。橘さんへのお返事と、雇用契約の準備を、進めます」


 山下が、ファイルを、閉じた。


「会長」


「うん」


「橘さんが、戻ってくることに、私は、賛成です」


「俺もだ」


「業務上、当然の判断、だけではなく」


「ええ」


「個人的にも、嬉しい話、でございます」


 *(山下が、こうやって、自分の感情を、口に出すのは、珍しい)*


 *(橘の手紙が、山下にも、響いている)*


---


 会議室の扉が、また、開いた。

 西村が、入ってきた。


「あれ、何か、ミーティング? 俺、入ってない?」


「いや、ミーティングじゃ、ない」


「じゃあ、なんで、二人で、シリアスな顔してんの?」


「橘から、手紙が、来た」


 西村が、しばらく、こちらを、見た。


「……マジで?」


「マジで」


「読んでいい?」


「もちろん」


 西村が、便箋を、手に取って、ソファに、深く、座って、読み始めた。


 俺は、コーヒーを、淹れに、立った。

 戻ってくる頃には、西村が、最後の便箋を、読み終えていた。


 西村が、便箋を、テーブルに、置いた。

 しばらく、無言だった。


 それから、ぽつりと、言った。


「あいつ、ちゃんとしてる」


「うん」


「びっくりするくらい、ちゃんとしてる」


「うん」


「会長、戻すよね?」


「戻すよ」


「そうだよね」


 西村が、頷いた。


「俺、橘のこと、しばらく、考えないようにしてた」


「ええ」


「四百五十万、損したから、じゃない。あいつが、辛そうにしてた半年、俺が、何も気づけなかったのが、嫌で。それを、考えるのが、嫌で」


「西村」


「うん」


「お前の、せいじゃない」


「俺だけじゃない。山下さんも、小林も、会長も。みんな、気づけなかった。だから、そういうことなんだろうな、と」


「うん」


「でも、あいつが、こうやって、ちゃんと、戻ってこようとしてくれてる。これは、嬉しい」


「うん」


「会長、俺、あいつに、何か、買ってきたいんだけど。退所祝い、的な」


「お前、本当に、変わってないな」


「変わらないだろ。お前、十年知ってる」


 西村が、笑った。

 いつもの、西村の笑い方。


---


 午後。

 俺は、橘への返事を、書いた。


 オフィスのデスクで、白い便箋に、ペンで、書いた。


 *「橘さんへ*


 *お手紙、拝読しました。半年間、ご自身と、向き合ってこられたこと、本当に、お疲れさまでした。*


 *在宅勤務での復帰、こちらも、賛成です。*


 *ただし、給与なしは、難しい。月給四十万円で、雇用契約を、結ばせてください。データ分析の専門職としての、適正な対価です。*


 *業務内容は、橘さんがお書きの通り。KY Pet Foods の販売データ、シェルターのフード使用データ、FORECAST のユーザー行動分析。順次、追加していきます。*


 *対面接触は、最初は、月一回。橘さんのペースで、徐々に、増やしてください。事務所には、いつでも、橘さんの席を、空けておきます。*


 *退所後の住所が、決まったら、お知らせください。雇用契約書を、お送りします。*


 *西村が、橘さんに、何か、退所祝いを、買って、持っていきたいと、言っています。日にちが、合うなら、退所の翌日にでも、お会いしましょう。*


 *寒くなってきました。お体を、大切に。*


 *KY Holdings 会長 桐島遊馬」*


 便箋を、封筒に、入れた。

 封をして、神奈川県相模原市の、施設の住所を、書いた。


 夕方、オフィスからの帰りに、ポストに、投函した。


---


 夜。

 タワーマンションのリビング。


 窓の外、東京の夜景。

 十月の夜は、本当に、冷たくなっていた。

 窓を、開けるのが、躊躇われる。


 ソファに、座った。

 コーヒーを、淹れた。


 懐中時計を、テーブルの上に、置いた。

 握ってみた。

 冷たい。


 *(今日も、冷たいまま、一日が、終わる)*


 *(でも、橘の手紙が、来た)*


 *(時計が、衰えていく一方で、別のところで、新しい繋がりが、戻ってくる)*


 *(行ってしまうものと、戻ってくるもの。両方が、ある)*


 スマートフォンに、桑原さんから、LINEが、来ていた。


 *「今日、寒かったですね」*


 *「ええ」*


 *「フランス、もうすぐです」*


 *「三月末でしたっけ」*


 *「ええ。あと、五か月」*


 *「お互い、忙しい時期ですね」*


 *「桐島さんも、お忙しそうですね。橘さん、戻られるとか、西村さんから、連絡いただきました」*


 *(西村が、桑原さんにも、伝えたのか)*


 *「ええ。月末に、退所予定です」*


 *「いいニュースですね」*


 *「ええ」*


 *「みんな、それぞれの場所で、続いていますね」*


 *「ええ」*


 桑原さんからのLINEが、ふくらみのある言葉で、続いた。

 短いやり取り。

 でも、お互いの状況を、確認し合っている感じ。


 *(桑原さんが、フランスに行く前に、橘の復帰を、見届けられるのは、いいことだ)*


 *(桑原さんも、橘のことを、覚えてくれていた)*


---


 ベッドに、入った。

 目を、閉じた。


 今日、橘の手紙が、来た。

 長い、丁寧な、手紙。


 *(橘の手書きの字を、見たのは、初めてかもしれない)*


 *(オフィスでは、いつも、画面の中の文字だった)*


 *(手紙だと、人柄が、出る)*


 *(橘は、几帳面な人間だ。それが、字に、出ている)*


 外で、十月の夜風が、ビルの間を、抜けていく音が、聞こえた。


 *(明日、温かい時計を、握れたら、もう一度、感謝しよう)*


---


 翌朝。

 火曜日の朝。


 目が覚めて、枕元の懐中時計を、握った。


 温かい。


 ぼやけていた。

 でも、確かに、温かかった。


 映像が、来た。

 大井競馬。第十一レース。

 六番が、好位から、まくる。

 二着が四番。三着が一番。


 ノートに、記録を、付けた。


 *(橘の手紙が、来た翌朝に、温かくなった)*


 *(偶然か、それとも)*


 *(どっちでも、いい。感謝する)*


 窓のカーテンを、開けた。

 十月の朝の光が、白く、差し込んでいた。

 昨日より、ほんの少しだけ、空気が、柔らかく、感じた。


---


**── 残高メモ ──**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 大井競馬第11R(3連単6-4-1・配当68倍・5万円賭け) | +約335万円 |

| 10月第2〜3週 片手間収益 | +約120万円 |

| 個人費用(外食・交通費等) | ▲約8万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約26,049万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約26,496万円** |


*時計の温かい日が、週2-3日。橘修の手紙が届いた翌日の朝、ぼやけながらも温度が戻る。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 桐島個人より追加出資(10月分) | +5,000万円 |

| 前話繰り越し(法人) | 約12,408万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約17,408万円** |


*10月、桐島個人からの追加出資5,000万を実行。来月、再来月にも、5,000万ずつの追加出資を計画。グループの手元現金を厚くする方針。橘修の雇用契約準備中(月給40万・在宅勤務)。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(KY Live、10月分計上済み) | 約75万円 |

| **KY Live 法人口座** | **約75万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(ナカジマ精工、10月分計上済み) | 約5,057万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約5,057万円** |


*超小型インペラ論文、11月の学会誌掲載が確定。クロイツ社(外資系医療機器メーカー)からの追加発注、安定。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(田島フーズ、10月分計上済み) | 約1,615万円 |

| **田島フーズ 口座残高** | **約1,615万円** |


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約26,496万円 |

| KY Holdings(法人) | 約17,408万円 |

| KY Live | 約75万円 |

| ナカジマ精工 | 約5,057万円 |

| 田島フーズ | 約1,615万円 |

| **総資産(融資別)** | **約50,651万円** |


*融資借入残高:約23,981万円。品川ローン残高:約6,881万円。橘修より復帰希望の手紙届く。月末退所予定、雇用契約準備中。総資産が初めて5億円を突破。*


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