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第61話 〜薄明〜

 八月の第二週、月曜日の朝。


 目が覚めた。

 枕元の懐中時計に、手を伸ばす。


 冷たい。


 しばらく、握ったまま、目を、閉じていた。

 熱が、来るのを、待った。


 来なかった。


 *(また、冷たい。こういう日が、増えてきた)*


 起き上がって、カーテンを、開けた。

 八月の朝の光が、白く差し込んでいた。

 遠くで、蝉の声が、聞こえる。

 窓ガラスに、汗のような湿気が、薄く、付いていた。

 もう、夏の朝の温度に、戻っていた。


 時計を、テーブルに、置いた。

 翠色の蓋が、朝の光を、受けている。

 針が、相変わらず、逆向きに、動いていた。


---


 コーヒーを、淹れた。

 今朝も、瀬川さんのエチオピアの豆。

 お湯を、八十五度に、温度計で測って、注ぐ。

 立ち上る湯気が、フローラルな香りを、運んだ。


 ソファに、座った。


 ノートを、開いた。

 過去三十日間の、時計の記録を、つけている。

 日付。温度(温/冷)。映像の鮮明度(鮮明/ぼやけ/なし)。的中の有無。


 三十日のうち、温かかった日が、十八日。

 そのうち、映像が鮮明だった日が、十二日。

 ぼやけていた日が、六日。

 冷たかった日は、十二日。


 先月の同じ時期と、比べた。

 先月は、温かい日が、二十二日。鮮明な日が、十八日。冷たかった日は、八日。


 *(明らかに、減っている)*


 *(温かい日が、四日減った。鮮明な日が、六日減った。冷たい日が、四日増えた)*


 ノートに、今日の日付と「冷/映像なし」を、書き加えた。


 *(先月の同じ時期と比べて、月収が、約三分の二に、落ちている)*


 *(先月は、片手間で月二千万を稼げていたが、今月は、まだ千二百万程度)*


 ペンを、置いた。

 コーヒーを、一口、飲んだ。

 花のような香りが、口の中に、広がった。


 *(衰えている。これは、もう、認めるしかない)*


 *(去年の十月くらいから、ぼやける日が、増え始めた)*


 *(最初は、誤差だと、思っていた。たまに、ぼやける日があるだけ、と)*


 *(でも、ぼやけが続き、冷たい日も、増えてきた)*


 *(これは、回復するものじゃ、ない)*


 窓の外で、蝉が、また、鳴いた。

 夏の温度。

 昔は、温かい時計を、握って、夏の朝を、迎えていた。

 今朝は、冷たい時計を、テーブルに、置いて、コーヒーを、飲んでいる。


 *(時計が、いつまで、応えてくれるか)*


 *(その答えに、踏み込むのが、怖い)*


 *(でも、踏み込まないと、何も、始まらない)*


---


 九時。

 吉野さんが、迎えに来た。


「会長、おはようございます」


「おはようございます。今日は、事務所までで」


「承知しました」


 車内で、窓の外を、見ていた。

 月曜の朝の通勤ラッシュ。

 歩道を歩く人が、汗を、拭いていた。

 八月のサラリーマンは、ジャケットを、片手に、持って歩いていた。


 *(俺も、昔は、ああいう一人だった)*


 *(朝、駅まで、歩いて、満員電車に、乗っていた)*


 *(負けを引きずったまま、会社に、行っていた)*


 *(今、こうして、車で、自分のオフィスに、向かっている)*


 *(変わった。本当に、変わった)*


 *(でも、時計がなくなれば、もしかしたら、戻るかもしれない)*


 信号で、止まった。

 助手席の窓越しに、ベビーカーを押す女性が、見えた。

 子どもが、ぐずっていた。

 女性が、優しく、なだめていた。


 *(瀬川さん、思い出すな。あの人も、もっと若い頃、こうやって、ベビーカーを、押してたんだろう)*


 吉野さんが、車を、動かした。


---


 十時。

 恵比寿のオフィスに、着いた。


 今日は、月次レビューの日。

 月初の月曜は、いつも、これがある。


 会議室に、入った。

 山下が、いつもの席で、書類を、整理していた。

 その横に、新しいファイルが、追加で、二冊。

 いつもより、データが、多そうだった。


「会長、おはようございます」


「おはよう」


「八月第一週の数字を、お持ちしました」


 山下が、新しいファイルを、テーブルに、置いた。


 俺は、椅子に、座って、ファイルを、開いた。


 FORECASTの売上は、横ばい。

 不動産は、品川マンションが満室で安定。

 KY Liveは、佐々木のフォロワーが、九万人を超えて、企業案件の単価が、上がっている。

 ナカジマ精工は、CNC旋盤の本格稼働で、加工精度が、向上。

 田島フーズは、連結初月で、想定通り。


 全体として、グループの数字は、伸びている。


 でも、俺個人のギャンブル収益が、落ちている。


「山下」


「はい」


「俺個人の、追加出資のペース」


「先月までは、月平均で、千五百万円から二千万円のペースで、入っておりましたが、今月は、まだ、五百万円程度です」


「ええ」


「何か、ご事情がありますか」


 山下が、こちらを、見た。

 いつもの表情。感情を、載せない目。

 でも、その奥に、ほんの少しだけ、何かを、探る気配が、あった。


 俺は、しばらく、黙っていた。


 *(山下に、時計のことを、話すべきか)*


 *(話せば、たぶん、信じてもらえる。一年半前、初対面の時から、信じてくれている人だ)*


 *(でも、話すと、山下に、責任の重さが、また、増える)*


 *(それは、避けたい)*


 *(話さなくても、伝わる方法は、ある)*


「山下」


「はい」


「グループの事業を、俺の個人資金に、頼らない形で、回せるようにしたい」


 山下が、ペンを、置いた。


「と、おっしゃいますと」


「俺の個人資金が、何らかの理由で、入らなくなった場合。例えば、俺が、明日から、事業に関われなくなった場合。グループは、回るか」


 山下が、しばらく、考えた。


「現状では、回りません」


「やっぱり、そうか」


「FORECAST、不動産、KY Live、ナカジマ精工、田島フーズ。五事業のキャッシュフロー合算で、月次の収入が、約二千百万円。固定費が、約一千二百万円。融資返済が、約五百万円。グループ全体の月次余剰は、約四百万円でございます」


「四百万」


「はい。会長の個人資金からの追加出資が、止まれば、新規投資や、追加の事業展開は、できなくなります。ただし、現状の事業の運営は、四百万円の余剰で、回せます」


「設備投資や、ライン増設の予定は」


「田島フーズのライン増設、三千五百万円。これは、設備メーカーへの分割払いで、対応可能ですが、頭金千七百五十万円が、九月に必要です。会長からの追加出資なしで、これを賄うと、法人の手元現金が、薄くなります」


「薄くなる、というのは、どのくらい」


「九月末時点で、KY Holdings の口座残高が、八千万円を切る見込みです。緊急時の備えとしては、ぎりぎり許容範囲ですが、不測の事態には、対応できません」


 山下が、別のシートを、開いた。


「会長、いまのご質問の意図は、何でしょう」


 俺は、コーヒーを、一口、飲んだ。


 会議室に、置いてあった、いつもの安いインスタント。

 瀬川さんの豆と比べると、味の鋭さが、全然、違う。


「ギャンブルで、稼げなくなる可能性が、ある」


「……いつ頃の話でしょう」


「わからない。明日かもしれないし、来年かもしれない。でも、確実に、その日は、来る」


 山下が、書類を、テーブルに、置いた。

 ペンを、握り直した。


「会長」


「はい」


「ギャンブルの勝率が、落ちている、ということでしょうか」


「勝率というか、勝てる日が、減っている」


「具体的には」


「先月は、月の三分の二、勝負できる日が、あった。今月は、半分以下に、なりそうだ。来月は、もっと、減るかもしれない」


「……」


「俺は、自分のギャンブルの勝率に、確信があった。それは、ある『仕掛け』が、機能していたからだ。その仕掛けが、最近、機能しなくなり、始めている」


「仕掛け、と申しますと」


「詳しくは、言わない。話しても、信じてもらえないと思う」


 山下が、しばらく、俺を、見ていた。


 会議室の空気が、静かに、止まっていた。

 窓の外で、ビルの工事現場の音が、遠くから、聞こえていた。


「桐島さんが、最初に、私のところに来た時のことを、覚えております」


「……はい」


「『百パーセントの確率で、勝てる』と、おっしゃいました」


「ええ」


「あの時、私は、それを、信じました。理屈はわからないが、目の前で、二日続けて、競輪のレースを、当てられた。それで、十分でした」


 山下が、ペンを、机に、置いた。


「今、桐島さんが、その仕掛けが、弱り始めている、とおっしゃるなら。私は、それも、信じます」


「ありがとう」


「ご事情を、深くお聞きするつもりは、ございません。ただ、CFOとして、事業計画を、見直す必要があると、理解いたしました」


 *(山下が、踏み込んでこない。それが、ありがたい)*


 *(同時に、たぶん、半分は、推測している。それでも、踏み込まない)*


「具体的に、どう見直す」


「三点ございます」


 山下が、ノートに、書き出した。


「一つ目。グループ全体の月次余剰を、四百万円から、最低でも一千万円まで、引き上げる。これにより、新規投資の自己資金比率を、高められます」


「方法は」


「FORECASTの新アルゴリズム実装で、月商を、月七百万円から千二百万円に。KY Liveの黒字化を、来年三月までに、前倒し。田島フーズの販路拡大で、月四百万円の利益を、年内に達成」


「FORECAST、五割増しか。難しいだろ」


「現在のFORECASTは、競馬予想に特化しています。これに、競輪・競艇の予想モジュールを、追加する。さらに、AIによるパーソナライズ機能を、強化。プレミアム会員制を、導入。月額三千円のサブスクリプションで、上位機能を提供する形」


「小林に、できるか」


「先週、相談しました。技術的には、可能とのこと。実装に、三ヶ月。新アルゴリズム実装と、合わせて、年末までに、完成見込みです」


「KY Live の黒字化は」


「現状の月次赤字、約九十万円。これを、来年三月までに、ゼロまで、引き上げる。具体的には、佐々木のフォロワー十万人到達後、企業案件の単価を、現在の倍にする。それと、新人ライバーの育成で、所属ライバーを、現五名から、八名に。月間収入を、現在の六十万円から、百五十万円に」


「藤原さんは、それで、いいって言ってる?」


「藤原さんからの提案でございます。私は、確認しただけです」


「了解」


 *(藤原は、KY Live を、自分の事業として、本気で、回している)*


 *(俺が、口を出さなくても、勝手に、伸びる仕組みが、できている)*


「二つ目」


「会長の個人資金を、グループ法人に、追加で大規模に注入。一気に、五千万円から、一億円を、入れていただく。これで、新規融資の依存度を、下げます」


「いつ、入れる」


「ご都合の良いタイミングで結構です。年内か、来春までに」


「来月、入れるよ」


「……来月ですか」


「ああ。今月は無理だけど、来月以降、毎月、五千万円ずつ、計三回。合計一億五千万。これで、グループの手元現金を、厚くする」


 山下が、ペンを、握り直した。


「……それは、ありがたいですが」


「俺の個人資金、まだ、二億五千万くらいある。三回に分けて、一億五千万入れても、まだ、一億は残る。生活には、困らない」


「……」


「時計が、いつ止まるか、わからない。だから、止まる前に、入れておきたい」


 山下が、しばらく、こちらを、見ていた。


「承知しました。スケジュールを、組ませていただきます」


「頼む」


「三つ目」


「うん」


「シェルター向けの無償フード提供事業を、CSR的な側面で位置づけ、社会的な評価を、高めることで、将来的な追加融資や、パートナーシップの可能性を、広げる」


「具体的には」


「西村さんが、すでに、メディア対応を、進めています。九月の初荷搬送のタイミングで、本格的なプレスリリースを、出す。新聞社、ペット業界誌、地方紙にも、ご紹介する」


「うん」


「来年以降、ESG投資の観点から、当社の活動に、興味を持つ機関投資家が、出てくる可能性も、あります。その場合、私募債発行や、信用力を背景とした追加融資の交渉が、有利に進められます」


「山下、そこまで、考えてくれてるのか」


「業務上、当然のことです」


 いつもの返事。

 でも、その「業務上、当然のこと」を、これだけのスケールで、淡々と、こなす人間は、そう、いない。


「山下」


「はい」


「あんたが、CFOで、よかった」


「業務上、当然のことです」


「いや、それでも、言わせて。本当に、よかった」


 山下が、ほんの少しだけ、目元を、緩めた。

 いつもなら、無表情のままだが、今日は、少しだけ、和らいでいた。


---


 ミーティングが、終わった。

 山下が、会議室を、出ていった。


 俺は、しばらく、残った。


 窓の外を、見ていた。

 恵比寿のビル群。

 八月の白い空。


 *(山下に、半分だけ、打ち明けた。残りの半分は、まだ、自分だけのものだ)*


 *(時計の存在。逆向きに動く針。映像。温度)*


 *(これを、全部、話すのは、まだ、早い気がする)*


 *(いつか、話す日が、来るかもしれない。でも、今日じゃない)*


 会議室を、出た。

 ソファに、座った。

 西村が、自分のデスクで、スマートフォンを、見ていた。


「会長、コーヒー、いる?」


「お願い」


 西村が、コーヒーを、淹れに行った。


「会長、最近、なんか、ぼんやりしてる時、多くない?」


「そう?」


「うん。考え事してる時間が、長いっていうか」


「そうかも」


「悩みあるなら、聞くよ」


「あんがと。でも、まだ、整理ついてないから」


「了解」


 西村が、コーヒーを、置いてくれた。


 *(西村は、こうやって、いつも、ドアを、開けてくれる)*


 *(押し付けがましくなく、でも、聞く準備は、ある)*


「西村」


「うん」


「お前、もし、俺が、明日から、急に、仕事できなくなったら、どうする?」


「えっ」


「比喩で、聞いてる」


「比喩か」


「うん。例えば、俺が、大病になるとか。事故に遭うとか」


「会長、もしかして、健康診断で、何か」


「いや、健康だ。本当に、比喩」


 西村が、頷いた。


「じゃあ、答えるよ。俺は、続けるよ、KY Holdings」


「続ける?」


「うん。山下さんと、相談して、できることを、やる。会長が、戻ってくるまで、留守を、守る」


「俺が、戻ってこなかったら?」


「戻ってこい」


「比喩で聞いてる、って言ったろ」


「比喩でも、戻ってこい」


 西村が、笑った。

 その笑い方が、いつもの西村だった。


「冗談はさておき、もし本当に、会長がいなくなったら。俺は、ずっと、ここに、残る。給料関係なく」


「給料、関係なくって、それ、生活、どうするんだよ」


「俺の生活費は、稼ぐよ。FORECAST の代表として、KY Holdings の代表として、稼ぐ。なんとかなる」


「西村」


「うん」


「お前、最初に、俺の話を聞いた時、二つ返事で、引き受けてくれたよな」


「ああ。覚えてる」


「あの時、なんで、引き受けてくれた?」


「お前のこと、十年以上、知ってたから」


「それだけ?」


「それだけ、だよ。十年以上、こいつは、嘘つかない、って知ってた。それが、全部」


 *(西村が、サラッと、こういうことを言う)*


 *(でも、サラッと言うから、本物だ)*


「ありがとう」


「いいって。コーヒー、冷めるよ」


 西村が、自分のデスクに、戻った。


 *(俺は、西村に、もう、感謝の気持ちでは、足りない)*


 *(一生、傍に、いてもらいたい)*


---


 午後。

 オフィスを、出た。


 吉野さんの車で、町を、走った。

 行き先は、決めていなかった。

 ただ、少し、走ってもらいたかった。


「吉野さん」


「はい」


「適当に、ドライブで」


「承知いたしました」


 吉野さんが、車を、首都高に、乗せた。

 窓の外を、八月の白い空が、流れていく。


 *(時計が、衰えている。山下に、半分だけ、話した)*


 *(残りの半分は、まだ、自分だけのものだ)*


 *(でも、半分話しただけで、山下は、対策を、立て始めた)*


 *(あの人は、本当に、すごい)*


 *(俺は、一人じゃない。山下が、いる。西村が、いる。橘も──いや、橘は、まだ、戻ってない。でも、戻ってくる可能性は、ある)*


 窓の外の、青い空を、見ていた。

 雲が、ゆっくりと、流れていく。


 吉野さんが、バックミラー越しに、軽く、こちらを、見た。


「会長、お疲れですか」


「……少し、考え事を」


「ええ」


「ぼんやりした答えで、申し訳ない」


「いえ。考え事は、お一人の時に、なさるものでございますので」


 *(吉野さんは、何も聞かない。それが、ちょうどいい)*


 車が、レインボーブリッジを、渡った。

 夏の海が、橋の下で、光っていた。


 お台場のあたりで、車を、ぐるっと回ってもらった。

 観覧車が、白い空に、ゆっくりと、回っていた。


 *(観覧車。乗ったこと、ないな)*


 *(瀬川さんと、美咲ちゃんを、連れていったら、喜ぶかもしれない)*


 *(いや、それは、踏み込みすぎか)*


 *(俺は、瀬川さんの何でも、ない)*


 *(カフェの常連の一人、だ)*


---


 夕方。

 オフィスに、戻る前に、ナカジマ精工に、寄った。


 大田区の小さな工場。

 昼下がりの工場は、機械の音が、静かに、響いていた。


 駐車場に、車を、停めた。

 吉野さんが、エンジンを、止めた。


「吉野さん、しばらく、ここで、待っててください」


「承知しました」


 工場の中に、入った。


 夏の工場は、外と中の温度差が、激しい。

 機械の熱と、人の体温で、中は、外気よりも、もっと、暑かった。

 でも、エアコンが、効いていて、過ごしにくくは、ない。


 松田が、研究室で、論文の最終チェックを、していた。


「会長、いらっしゃい。突然ですね」


「近くを、通ったので」


「お茶でも、いれますか」


「いえ、すぐ帰ります。ちょっと、顔を見たかっただけで」


「はあ」


 松田が、首を、傾げた。

 でも、嫌そうではなかった。

 むしろ、ちょっと、嬉しそうな顔。


「論文、もうすぐですか」


「はい。来週には、投稿します。大学の先生方と、最終確認中です」


「楽しみですね」


「楽しみです。私の名前が、論文に載るのは、二十年ぶりです」


 松田が、書類を、テーブルに、置いた。

 その手は、節くれだっていた。

 長年、工具を、握り続けた、職人の手。


「会長」


「はい」


「ナカジマ精工を、買っていただいて、本当に、よかった」


「いえ」


「最近、よく思うんです。あの時、会長が、来てくれなかったら、私は、研究を、再開できなかった。健太郎も、戻ってきていなかった」


「松田さんが、研究を続けたいと、思い続けていたから、です」


「思っているだけでは、駄目なんです。形にしてくれる人が、必要だった」


 松田が、笑った。


「会長は、その『形にしてくれる人』でした」


 *(松田さんが、こんな言葉を、自分から言うのは、珍しい)*


「松田さん」


「はい」


「俺は、いつか、ここにいなくなるかもしれない」


 松田が、しばらく、こちらを、見た。


「……どういう意味です」


「比喩です。たとえば、俺が、事故に遭うとか、別の事業で忙しくなって、来られなくなるとか。そういう未来も、ありうる」


「会長」


「俺がいなくても、ナカジマ精工が、動き続ける状態に、しておきたい。松田さんが、健太郎さんに、技術を渡す。健太郎さんが、若い従業員に、経営を渡す。そうやって、続いていく形に」


 松田が、頷いた。


「もう、続いていますよ」


「そうですか」


「健太郎は、来年の春に、代表になります。私は、相談役に。若い従業員には、私が、一人ずつ、技術を、渡しています。会長がいなくても、この工場は、回ります」


「……ありがとうございます」


「だから、会長は、安心して、別の場所で、別の仕事を、してください。ナカジマ精工は、大丈夫です」


 松田が、もう一度、笑った。


 *(俺は、何を、心配していたんだろう)*


 *(松田さんは、もう、自分の手で、ここを、守る人になっている)*


---


 工場の中を、少し、歩いた。


 五軸CNC旋盤の前で、健太郎が、若い従業員に、何かを、説明していた。

 画面の中に、3Dのモデルが、表示されている。

 超小型インペラの設計図。


 俺が近づくと、健太郎が、こちらを、向いた。


「あ、会長。お疲れさまです」


「健太郎さん、忙しいところ、すみません」


「いえ。今、新入社員に、設計の基礎を、教えていたところです」


「新入社員」


「先月、入った中林くんです。中林、こちらは、会長」


「中林です。よろしくお願いします」


 二十代前半の、若い男。

 短い髪。眼鏡。

 工場の作業着が、まだ、しっくり来ていない感じだった。


「中林くん、何の専門ですか」


「機械工学です。大学院で、製造プロセスの自動化を、研究してました」


「ナカジマ精工に、決めた理由は」


「松田所長の論文を、読んで。インペラ加工の精度に、興味があったので」


 *(また、新しい人材が、入ってきている)*


 *(松田さんの研究が、人を、呼んでいる)*


「中林くん、頑張ってください」


「はい」


 中林が、頭を、下げた。


 健太郎が、隣で、少しだけ、誇らしげに、頷いていた。


 *(健太郎さんが、次世代を、育てている)*


 *(松田さんから、健太郎さんへ。健太郎さんから、中林さんへ。技術が、確かに、繋がっている)*


---


 ナカジマ精工を、出た。

 車に、戻った。

 吉野さんが、エンジンを、かけた。


「会長、お疲れさまでした」


「ありがとう。タワマンに、戻ってください」


「承知しました」


 車が、走り出した。


 窓の外、夏の東京。

 夕方近くなって、空の色が、少し、変わり始めていた。


 *(松田さんに、会いに行って、よかった)*


 *(俺がいなくなっても、ナカジマ精工は、続く。それを、聞けた)*


 *(同じことを、田島さんにも、確認したい)*


 *(同じことを、桑原さんにも、アンちゃんにも、伝えたい)*


 *(俺がいなくなっても、続いていく関係が、ある。それを、ちゃんと、信じていたい)*


---


 タワーマンションに、戻った。

 リビングに、入った。


 窓の外、東京の夜景。

 八月の夜風は、まだ、温かい。


 懐中時計を、テーブルの上に、置いた。

 握ってみた。

 冷たい。


 今日は、結局、一度も、温かくならなかった。


 *(時計が、衰えていく。それは、寂しいことだ。でも、悲しいことじゃないかもしれない)*


 *(時計が、俺を、ここまで、運んでくれた)*


 *(山下と、西村と、橘と、小林と、アンちゃんと、桑原さんと、樋口さんと、中島さんと、松田さんと、田島さんと、健太郎さんと、中林さんと、高木さんと、瀬川さんと、美咲ちゃんと──そして、ナカジマ精工と、田島フーズと、シェルターの犬猫たち)*


 *(みんな、時計が、連れてきてくれた。そして、その人たちが、今度は、時計がなくても、俺を、運んでくれる)*


 *(怖くないと言ったら、嘘になる。でも、絶望しているわけでもない)*


 ソファに、座った。

 天井を、見上げた。


 冷蔵庫から、ビールを、出して、飲んだ。


 明日も、また、時計を、握る。

 温かければ、行く。

 冷たければ、行かない。


 それだけの、シンプルなルールで、ここまで来た。


 いつか、温かい日が、ゼロになる日が、来る。

 その日に、俺が立っている場所が、どこか。


 それだけを、考えていた。


---


 夜十時。

 スマートフォンに、桑原さんから、LINEが、来ていた。


 *「遊馬さん、お元気ですか。来週末、お時間ありますか。ふくろうで、お話したくて」*


 *(桑原さんが、また、誘ってくれた)*


 返信を、書いた。


 *「来週末、土曜の夜、空けます。久しぶりですね」*


 *「では、土曜の夜、ふくろうで」*


 短いやり取り。

 でも、桑原さんとは、これくらいの距離感が、ちょうどいい。


 ベッドに、横になった。

 目を、閉じた。


 外で、夏の夜が、深まっていった。

 遠くで、車のクラクションが、鳴っていた。


 *(明日も、続いていく)*


 *(時計の温度に、関係なく)*


---


**── 残高メモ ──**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 8月第1〜2週 ギャンブル収益(鮮明度低下のため減少) | +約580万円 |

| 生活費・外食等 | ▲約8万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約24,852万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約25,424万円** |


*8月のギャンブル収益は、過去30日比で、約3分の2に低下。時計の鮮明度低下が、常態化。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(法人、8月分計上済み) | 約11,782万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約11,782万円** |


*8月の月次は、前話で計上済み。グループ全体の月次余剰は、約400万円で、安定。CFO山下と、月次余剰を1,000万円まで引き上げる計画に着手。来月以降、桐島個人から法人へ追加出資(5,000万×3回=1.5億)を実行予定。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(KY Live、8月分計上済み) | 約258万円 |

| **KY Live 法人口座** | **約258万円** |


*藤原ディレクターから、来年3月までの黒字化計画を提案。佐々木のフォロワー10万人到達後、企業案件単価倍増を目指す。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(ナカジマ精工、8月分計上済み) | 約4,845万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約4,845万円** |


*超小型インペラ論文、来週、学術誌に投稿予定。中林新入社員(機械工学修士)、先月入社。中島健太郎が次世代育成を本格化。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(田島フーズ、8月分計上済み) | 約1,210万円 |

| **田島フーズ 口座残高** | **約1,210万円** |


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約25,424万円 |

| KY Holdings(法人) | 約11,782万円 |

| KY Live | 約258万円 |

| ナカジマ精工 | 約4,845万円 |

| 田島フーズ | 約1,210万円 |

| **総資産(融資別)** | **約43,519万円** |


*融資借入残高:約24,549万円。品川ローン残高:約6,927万円。CFO山下と「個人資金に頼らない事業運営」への計画見直しに着手。三本柱:①月次余剰の引き上げ、②個人資金からの大規模追加出資、③CSR的位置づけによる社会的評価の向上。*


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