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第60話 〜夜の客〜

 八月二日、土曜日の午後三時。


 南青山のマンションで、目を覚ました。


 昼寝してしまっていた。

 昨日、田島フーズの統合初日で、茨城を往復した疲れが、残っていた。

 窓のカーテンが、半分閉じられたまま。

 部屋の中に、午後の光が、斜めに差し込んでいた。


 顔を洗って、コーヒーを淹れた。

 冷たい水を、そのまま一杯、飲んだ。

 夏の午後の喉に、染み込んでいくのが、わかった。


 スマートフォンに、桑原さんからのLINEが、来ていた。

 昨日の夜にもらったまま、返事をしていなかった。


 *「お久しぶりです。週末、お時間ありますか。少しだけ、お話したくて」*


 *「土曜の夜、空いてます」*


 俺が、昨日返した文面。

 桑原さんからの返信は、それきり、来ていなかった。


 短い返信が、桑原さんらしかった。

 長く書く人ではない。会えば、いくらでも話す人だけど、文字数で何かを表現したがらない。


 時計を、見た。三時半。

 ふくろうに向かうのは、六時半でいいだろう。


 ソファに、座り直した。

 窓の外に、八月の青い空。雲が、白く、ゆっくりと、流れていた。


 *(桑原さん。最近、ちゃんと会えていない)*


 最後に会ったのは、六月の中旬。

 代官山のイタリアンで食事をして、それから桑原さんのマンションで、夜を過ごした。


 あれから、一ヶ月半。

 俺の側で、田島フーズの買収準備があって、八王子のシェルターに行って、ペットフードの構想を進めていた。

 桑原さんの側でも、翻訳の納期が重なっていたらしく、互いに、忙しい時期だった。


 LINEのやり取りは、続いていた。

 でも、「お変わりないですか」「お忙しそうですね」みたいな、短いものばかり。

 約束を取って、会いましょう、までは行かない。


 *(俺が、桑原さんから距離を置いていた。事業のことで、頭がいっぱいで)*


 *(向こうも、それを、わかっていたんだろう)*


 *(今日、わざわざ約束を取ってきたということは、何か、話したいことがあるんだろう)*


---


 六時半。

 タクシーを拾って、練馬に向かった。


 吉野さんには、休んでもらった。

 土曜の夜まで動かしては、申し訳ない。


 車内で、窓の外を、見ていた。

 夏の夕方の東京。陽はまだ高いが、空の色が、徐々に赤を帯び始めていた。

 通り過ぎる店先で、子どもが冷たいジュースの缶を、両手で抱えていた。


 信号で、停まった。

 歩道を、若いカップルが、手を繋いで歩いていた。

 女の子が、男の子の肩に、軽く頭を、預けていた。


 *(人と人が、ちゃんと触れ合っている)*


 俺と桑原さんは、たぶん、もう、ああいう触れ合い方ではない。

 最初から、ああいう関係でもなかったかもしれない。


 桑原さんは、いつも、半歩、距離を置いていた。

 俺もまた、半歩、置いていた。

 その距離感が、心地よかった。


 *(でも、その距離感が、いつまで保てるのか)*


 信号が、変わった。タクシーが、動き出した。


---


 ふくろうの扉を、開けた。


 夕方の七時。

 まだ、客は少ない。

 カウンターの奥に、福田さんがいた。


「あら、遊馬くん。今日は早いね」


 和代さんが、笑いながら、言った。


「今日、人と会う約束があって。先に来ました」


「桑原さん?」


 福田さんが、グラスを拭きながら、聞いた。


「あ、はい。なんで、わかったんですか」


「いや、勘だよ。最近、遊馬くんが、桑原さんと一緒に来ること、減ってたから」


「……バレてますね」


「常連同士のことは、見てればわかるよ」


 福田さんが、ハイボールを、置いてくれた。

 俺は、カウンターの一番奥の席に、座った。


 いつもの席。

 桑原さんと、初めて並んで飲んだ席だった。


 桑原さんが、ジンジーニャの瓶を受け取った日。

 桑原さんが「連絡先、交換しておきますか」と言った日。

 あの席だった。


「今日、桑原さん、何の用?」


 和代さんが、お通しを出しながら、聞いた。


「わからないです」


「わからないって」


「LINEで『少しだけ、お話したくて』って。それだけ」


「それは、聞いてみないとわからないね」


 和代さんが、笑った。


「でも、悪い話じゃないと思うよ」


「なんで、そう思うんですか」


「あの人は、悪い話を、わざわざ呼び出して言うタイプじゃないから。本当に悪い話なら、もう、連絡してこない」


 *(和代さんの言うこと、たぶん、当たってる)*


 ハイボールを、一口、飲んだ。

 夏の夕方のハイボールは、冷えていて、苦かった。


 壁の時計が、七時十分を指していた。

 桑原さんは、約束より、少しだけ早めに来る人だ。


---


 七時二十分。

 扉が、開いた。

 桑原さんが、入ってきた。


 白いブラウスに、紺色のスカート。

 肩に、黒い小さなバッグ。

 いつもより、髪を一つに、結んでいた。


 *(夏らしい格好。それでも、桑原さんらしさが、ちゃんとある)*


「遊馬さん。お久しぶりです」


「お久しぶりです、桑原さん」


 桑原さんが、隣の席に、座った。

 和代さんが、お絞りを、差し出した。


「桑原さん、いつものでいい?」


「白ワインを、グラスで。お願いします」


「はい、お待ちなさい」


 和代さんが、奥に下がった。

 福田さんが、まな板の上で、何かを切っていた。

 夏野菜の漬物の仕込みらしかった。


 しばらく、二人とも、黙っていた。


 桑原さんが、お絞りで、手を拭いた。

 長い指。日に焼けていない、白い手。


 *(こうして、隣に座るのが、何ヶ月ぶりだろう)*


「お元気でしたか」


 桑原さんが、先に、口を開いた。


「ええ。少し、忙しくしてました」


「ペットフードの事業のこと、ニュースで読みました」


「ああ、見てくれたんですか」


「西村さんが、上手にプレスリリースを書かれたんですね。お一人で五つの事業を回している経営者、と」


「いや、俺一人じゃないですよ。山下と、西村と、みんなの仕事です」


「そう、おっしゃると思いました」


 桑原さんが、少しだけ、笑った。


 その笑い方が、いつもの桑原さんで、俺は、少しだけ、安心した。

 会わない時間が空いても、桑原さんは、桑原さんのままだった。


 白ワインが、運ばれてきた。

 桑原さんが、グラスを軽く、揺らした。


「乾杯、しましょうか」


「何に?」


「お久しぶり、ということで」


 グラスを、重ねた。

 硬い音が、静かなふくろうの店内に、響いた。


---


 桑原さんが、ワインを一口、飲んだ。


 しばらく、お互いの近況を、話した。


 桑原さんは、先月、新しい翻訳の仕事を、受けていた。

 フランスの現代作家の長編。

 日本での翻訳権を、ある出版社が取った。

 桑原さんの過去の訳業を見て、編集者から、指名で依頼が来たという。


「いいですね、それ」


「ええ。私も、嬉しかったです」


「どんな話なんですか」


「南フランスの、小さな村が舞台です。家族と土地の話。村のオリーブ畑が代々受け継がれていて、その畑を継ぐかどうかで、登場人物たちが、揺れていく」


「翻訳、難しそうですね」


「難しいです。風景の描写が、すごく細かいんです。オリーブの木の節の数、葉の色の変化、土の匂い。日本語にすると、どうしても言葉が硬くなる」


「桑原さん、現地、行きたいですか」


 桑原さんが、グラスを、置いた。


「……それを、今日、お話したくて」


 俺は、ハイボールのグラスを、置いた。


 桑原さんが、こちらを、見た。

 いつもより、少しだけ、目に、力が入っていた。


「遊馬さん。来年の春、フランスに、行こうと思っています」


「プロヴァンス、ですか」


「はい。覚えていてくださったんですね」


「もちろん」


「翻訳した、この小説の舞台です。一度、その土地を、見てみたい。それと、向こうで、半年ほど、新しい翻訳の仕事に、専念したいと思っているんです」


「半年」


「ええ。先方の出版社と話が進んでいて。アヴィニョン近郊の、小さな家を、借りられそうで」


 桑原さんの声は、いつもの通り、淡々としていた。

 でも、目の奥に、少しだけ、輝きがあった。


 *(桑原さんが、自分のやりたいことを、自分で選んで動こうとしている)*


 *(俺は、それを、止めたいとは、思わない)*


「いいですね、それ」


「……そうですか?」


「ええ。桑原さんが、ずっと、行きたいと言っていた場所じゃないですか」


「行きたいと、言ってはいましたけど」


 桑原さんが、ワインを、もう一口、飲んだ。


「いざ、本当に行くとなると。お話しするのに、少しだけ、緊張しました」


「なんで、緊張するんですか」


「半年です」


 桑原さんが、グラスを、両手で、軽く包んだ。


「私たち、お付き合いしていますよね。でも、その関係は、お互いに、深く踏み込みすぎないことが、ベースになっていた気がします。それは、私にとっては、楽だった。遊馬さんにとっても、たぶん、そうだった」


「……そうですね」


「だから、私が半年間、日本を空けることに、何か、思うところは、ありますか」


 俺は、しばらく、黙っていた。


 桑原さんが、続けた。


「率直に、聞きます。遊馬さんは、私に、どうしてほしいですか。半年、日本にいてほしいですか。それとも、行っておいでと、言ってくれますか」


 俺は、ハイボールを、もう一口、飲んだ。

 氷が、グラスの中で、小さく、鳴った。


 *(桑原さんが、ちゃんと、聞いてきた。これは、避けて通れない問いだ)*


 *(俺が、桑原さんから距離を置いていたのは、関係を、これ以上深めることを、避けていたから。事業のせいにしていたけど、本当は、俺の問題だ)*


 *(でも、桑原さんが、自分の人生を、自分で選んで動こうとしている時に、それを止める権利は、俺にはない)*


 *(いや、止めるとか、止めないとか、そういう話じゃない)*


「桑原さん」


「はい」


「行ってきてください」


 桑原さんが、ほんの少し、目を、伏せた。


「……そう、おっしゃると思いました」


「期待してました?」


「いえ。期待していたら、こんな聞き方はしません。むしろ、行ってきてと言ってくれる遊馬さんが、私は、好きなんです」


 桑原さんが、こちらを、見た。


「それでも、これで、半年は会えなくなる。私たちの関係は、距離が空きます。それは、覚悟しています」


「桑原さん」


「はい」


「俺、フランスにも、行きますよ」


 桑原さんが、しばらく、俺を、見ていた。


「……どういう、意味ですか」


「最近、海外に出る話が、増えてきてるんです。ペットフードの原料で、ヨーロッパのオーガニック認証を取りに行く話とか。アプリの英語版リリースの話とか。あと、マカオに続いて、ヨーロッパのカジノにも、一度、行ってみたい」


 桑原さんが、ワインのグラスを、もう一度、傾けた。


「だから、半年って言われても、ピンとこないんです。俺は、世界中、飛び回るつもりだから。フランスにも、絶対、行きます。アヴィニョンって、空港、ありますよね」


「……ニースかマルセイユから、列車で入るのが、一般的です」


「じゃあ、ニースかマルセイユまで飛んで、桑原さんの仕事を邪魔しない範囲で、顔を見せに行きます」


 桑原さんが、ふっと、息を、吐いた。

 笑いに、近かった。


「遊馬さん」


「はい」


「それは、私のため、ですか。それとも、ご自身のため、ですか」


「両方です。桑原さんに会いたいし、俺自身も、フランスは行ってみたい」


「正直な人ですね」


「桑原さんに、嘘をついても、たぶん、すぐバレるので」


「バレますよ。私は、嘘を見抜くのは、得意です」


 桑原さんが、笑った。

 今度は、はっきりと、笑った。


 *(桑原さんが、こんなふうに笑うのを、久しぶりに見た)*


「では、待っています」


「待っててください」


「ただし、変な観光客のような格好で、来ないでくださいね」


「気をつけます」


「アヴィニョンには、教皇庁の宮殿があります。世界遺産の橋もある。観光に来るには、いい街ですよ」


「桑原さんが、案内してくれますか」


「仕事が、暇な日なら」


「了解です」


 桑原さんが、ワインを、もう一口、飲んだ。


 俺は、ハイボールを、もう一口、飲んだ。


 胸の中で、何かが、ゆっくりと、降りていった。

 でも、それは、悲しみではなかった。

 むしろ、解放感に、近かった。


 *(俺たちは、関係を、終わらせなかった。距離を、認めただけだ)*


 *(距離があっても、続く関係というのが、ある。それを、桑原さんは、わかってくれた)*


---


 福田さんが、煮物の小鉢を、二つ、出してくれた。

 大根と、人参と、こんにゃく。


「お通しよ。たくさん食べな」


 和代さんが、笑いながら、言った。


「桑原さん、最近、痩せたんじゃない」


「そうですか?」


「目の下も、疲れて見えるよ。ちゃんと寝てる?」


「翻訳の納期前なので。来週には、落ち着きます」


「無理しちゃダメよ」


「はい。ありがとうございます」


 桑原さんが、煮物を、一口、食べた。


「美味しいです」


「うちの和代の煮物は、絶品だからね」


 福田さんが、得意げに、笑った。


 桑原さんが、こちらを、向いた。


「遊馬さん」


「はい」


「ふくろうの煮物は、変わらないですね」


「変わらないですね」


「変わらないものが、変わっていく自分を、見せてくれる」


 桑原さんが、ぽつりと、言った。


 俺は、それを、しばらく、咀嚼していた。


 *(変わらないもの。福田さんの煮物。和代さんの優しさ。桐島が、それを、確かに、必要としている)*


 *(変わっていく自分。事業が増えた。仲間が増えた。背負うものが、増えた)*


 *(桑原さんも、変わろうとしている。フランスに行く決断を、した)*


「桑原さん」


「はい」


「フランスから、戻ってきたら、また、ここで、飲みましょう」


「……ええ。約束、しましょうか」


 桑原さんが、グラスを、もう一度、軽く揺らした。


「そう言えば、フランスの白ワイン、向こうで、いろんな種類を試してみますね。気に入ったのがあったら、遊馬さんに、お土産で持って帰ります」


「楽しみにしてます」


「ジンジーニャの、お返しに」


「ああ、あれですか」


「あれが、最初でした。私たちの」


 桑原さんが、笑った。


 *(桑原さんは、覚えていてくれた)*


 *(あの時、俺がマカオから、ジンジーニャの瓶を持ち帰った。桑原さんが、本から目を上げた。連絡先を交換した)*


 *(あれが、始まり。今日が、一旦の、節目)*


「桑原さん」


「はい」


「春までは、まだ、半年以上、あります」


「ええ」


「もう少し、会いましょうよ」


 桑原さんが、こちらを、見た。


「……ええ。お互いの仕事が、落ち着いた頃に」


「了解です」


「ただし、私は、来月から、フランスの準備で、また忙しくなります」


「準備、何があるんですか」


「家を借りる契約、ビザの手続き、向こうでの仕事の打ち合わせ。それと、日本での仕事を、来年三月までに、全部、片付けないといけません」


「大変ですね」


「大変です。でも、楽しいです」


 桑原さんの目が、また、輝いていた。

 仕事を抱えて、忙しい桑原さんが、一番、桑原さんらしかった。


---


 九時。

 桑原さんが、立ち上がった。


「私、もう、帰ります。明日も、仕事なので」


「お送りします」


「いえ。一人で帰ります」


 桑原さんが、和代さんと、福田さんに、頭を下げた。


「ありがとうございました」


「桑原さん、来春、フランスに行くんだって?」


 福田さんが、聞いた。

 俺が話したわけではない。耳ざとい。


「来年の三月か、四月の予定です」


「ふうん。長いの?」


「半年ほどです」


「気をつけて、行きなよ」


「はい」


「帰ってきたら、また、ここに、飲みに来てよ」


「もちろんです」


 桑原さんが、扉を、開けた。

 外は、夏の夜の匂いがしていた。


 俺も、外まで、見送りに、出た。


「桑原さん」


「はい」


「気をつけて、帰ってください」


「ええ。遊馬さんも」


 桑原さんが、軽く、手を振った。

 駅の方へ、歩いていった。


 白いブラウスの後ろ姿が、夏の夜の街灯の下で、しばらく、見えた。


 *(桑原さんが、行く。でも、終わりじゃない)*


 *(俺は、フランスに、会いに行く。それまでに、もう何度か、ここで、飲む)*


---


 ふくろうに、戻った。

 カウンターに、座り直した。


 福田さんが、何も言わずに、ハイボールを、もう一杯、置いた。


 俺は、それを、ゆっくりと、飲んだ。


 しばらくして、和代さんが、隣に来た。


「遊馬くん、よかったね」


「何が、ですか」


「あの人、ちゃんと、自分の選択を、遊馬くんに、伝えに来た」


「……」


「あれは、遊馬くんのことを、まだ、信頼してる、ってことだよ」


「そうですか」


「そうだよ。信頼してない相手には、わざわざ、自分の人生の選択を、報告しに来ない」


 和代さんが、軽く、俺の肩を、叩いた。


「フランスに行ったら、また、桑原さん、深くなって帰ってくると思うよ」


「深く?」


「翻訳って、その土地に、深く入る仕事でしょ。半年、向こうに住んで、帰ってきたら、桑原さんも、変わってる。きっと、いい方に」


「……」


「で、遊馬くんも、それまでに、変わってる。お互い、新しい場所で会えるんじゃない?」


 *(和代さんは、いつも、いいことを、言う)*


「遊馬くん」


 福田さんが、いつもの、ぶっきらぼうな声で、言った。


「お前は、人を、繋ぎ続ける方が、いい。終わらせるんじゃなくて、繋ぎ続ける方が」


「……はい」


「そういう生き方を、もう、選んでるんだよ、お前は」


「……了解です」


 福田さんが、ふっと、笑った。


 *(福田さんが、たまにこういうことを言う時、本当に、頼りになる)*


---


 夜十時半。

 ふくろうを、出た。


 南青山まで、タクシーで帰った。

 車内で、スマートフォンを、見ていた。


 桑原さんからのLINEが、一件、来ていた。


 *「今日、お時間をいただいて、ありがとうございました。聞いてくださって、行ってきてと言ってくれて、嬉しかったです。フランスでの仕事、頑張ります。それと、本当に、来てくれるなら、嬉しいです」*


 返信を、書いた。


 *「こちらこそ、ありがとうございました。フランス、絶対行きます。それまでに、もう何度か、東京で会いましょう」*


 既読が、ついた。

 ハートのスタンプが、一つ、返ってきた。

 桑原さんが、スタンプを使うのは、珍しい。


 *(こういう、ささやかな変化が、嬉しい)*


 タクシーが、南青山の前で、停まった。


---


 タワーマンションのリビングに、入った。

 窓の外、東京の夜景。八月の夜は、まだ、温かい。


 冷蔵庫から、水を、出して、飲んだ。


 懐中時計を、テーブルの上に、置いた。

 翠色の蓋。針が、相変わらず、逆向きに、動いている。


 握ってみた。


 冷たい。


 *(今日は、冷たい。一日中、冷たかった)*


 ソファに、座った。

 天井を、見上げた。


 *(桑原さんとの関係が、続く。距離は、空く。でも、続く)*


 *(俺は、引き止めなかった。でも、終わらせもしなかった。中間の選択を、した)*


 *(金で買えないもの。確かに、ある。桑原さんの時間と、桑原さんの選択は、その代表だ。それでも、続く方法はある。会いに行けば、いい)*


 窓を、少しだけ、開けた。

 夏の夜風が、部屋に入ってきた。

 遠くで、車のエンジン音が、低く、聞こえた。


 *(明日は、日曜だ。何もしない日にしよう)*


 *(時計が、いつまで応えてくれるか、わからない。でも、今夜は、もう、考えない)*


 スマートフォンを、もう一度、開いた。

 アンちゃんからのLINEが、来ていた。


 *「遊馬くん、来週ヒマある? 配信のことで、相談したいことがあって」*


 *「火曜か水曜なら、空く。事務所に来てもらえる?」*


 *「了解! 火曜の午後、行く」*


 *(アンちゃんも、動いている。桑原さんも、動いている。みんな、自分の場所で、動いている)*


 懐中時計を、テーブルの上に置いたまま、ソファで、目を閉じた。


 外で、夏の夜が、ゆっくりと、深まっていった。


---


**── 残高メモ ──**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 個人費用(タクシー・ふくろう代等) | ▲約2万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約24,854万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約24,852万円** |


*8月1日〜2日。週末でギャンブル収益はなし。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(法人、8月分計上済み) | 約11,782万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約11,782万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(KY Live、8月分計上済み) | 約258万円 |

| **KY Live 法人口座** | **約258万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(ナカジマ精工、8月分計上済み) | 約4,845万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約4,845万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(田島フーズ、8月分計上済み) | 約1,210万円 |

| **田島フーズ 口座残高** | **約1,210万円** |


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約24,852万円 |

| KY Holdings(法人) | 約11,782万円 |

| KY Live | 約258万円 |

| ナカジマ精工 | 約4,845万円 |

| 田島フーズ | 約1,210万円 |

| **総資産(融資別)** | **約42,947万円** |


*融資借入残高:約24,549万円。品川ローン残高:約6,927万円。桑原彩花、来春よりフランス・アヴィニョンへ半年間の滞在予定。桐島は「会いに行く」と返答し、関係は維持。*


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