第59話 〜統合〜
八月一日、金曜日。
朝。
目が覚めて、枕元の懐中時計を握った。
温かい。
でも、いつもより、ほんの少し、温度が、弱かった。
映像が来た。
川崎競輪。第七レース。
九番のラインが、最終バックで仕掛けて、四番、二番を連れて先団へ。
番号が、見えた。
9、4、2。
でも、映像が、ぼやけていた。
以前の、輪郭がくっきりしている映像と違って、少しだけ、霞がかかっている。
*(また、これか)*
*(先月から、ぼやける日が増えている。最初は気のせいかと思ったけど、もう、気のせいじゃない)*
時計を、枕元に戻した。
窓の外で、八月の朝の光が、白く滲んでいた。
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八月一日。
田島フーズの、KY Holdingsへの株式譲渡が、正式に発効する日だった。
朝、山下から短いLINEが、来た。
*「会長、本日朝、田島フーズの全株式が当社に移転完了いたしました。登記変更も同時に手続き済みです。本日の田島フーズへの訪問は、十時に到着予定でよろしいでしょうか」*
*「了解。十時で」*
*「中島様も、ご一緒される旨、確認しております」*
*(中島さんが、わざわざ茨城まで来てくれる)*
着替えて、コーヒーを淹れた。
吉野さんに連絡を入れた。
「今日は、品川と茨城です。途中で中島さんを拾います」
「承知いたしました」
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品川区。
中島鉄也の自宅マンション。
約束の時間より、五分早く着いた。
吉野さんが、エントランス前で停車させた。
待つ間もなく、中島さんが、出てきた。
いつもの作業着姿ではなく、グレーのスーツに、ネクタイ。
手には、小さな紙袋を、提げていた。
「会長、おはようございます。本日は、よろしくお願いします」
「中島さん、こちらこそ。わざわざ、すみません」
「いえ。同じ町工場の人間として、お会いしたかったんです。田島さんと」
車に乗り込んだ。
吉野さんが、車を出した。
常磐道に向かって、走り出す。
中島さんが、紙袋を、軽く持ち上げた。
「手土産です。ナカジマ精工で、若い従業員が試作した治具を、ペットフードの製造ラインでも使えるんじゃないかと思って」
「治具、ですか」
「ええ。フードを成形する金型の、調整用です。微細な、精度調整のための器具で。田島さんのところで使ってる金型が、もし国産メーカーのものなら、合うはずです」
*(中島さん。買収のお祝いに、技術を持ってきた)*
「中島さん」
「はい」
「ありがとうございます」
「いえ。私が、ここまで来られたのは、会長のおかげですから」
中島さんが、窓の外に目を、向けた。
八月の関東平野が、強い陽射しの下で、白く光っていた。
「田島さんの工場、楽しみです」
「中島さんの工場も、八月で何ヶ月でしたっけ」
「九ヶ月です。三月末に譲渡契約をいただいてから」
「もうそんなになりますか」
「あっという間でした」
中島さんが、笑った。
白髪が、車内の光に、淡く映えていた。
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茨城県南部、田島フーズ。
工場の駐車場に、車を停めた。
正面玄関の上に、「田島フーズ株式会社」の看板。
その横に、新しい看板が、追加されていた。
「KY Holdings グループ」と、小さく。
*(山下が、手配してくれたのか)*
入口で、田島さんが、待っていた。
今日も、作業着の上にジャケット。でも、襟元に、新しい社員章のような小さなピンバッジが、付いていた。
「桐島さん、山下さん、ようこそ。今日からよろしくお願いします」
「こちらこそ。中島鉄也さんです。ナカジマ精工の、技術顧問」
中島さんが、深く、頭を下げた。
「中島と申します。本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」
「田島です。こちらこそ。同業ではありませんが、町工場の先輩として、お会いできるのを、楽しみにしておりました」
二人の手が、握手で、合わさった。
六十五歳の田島さんと、七十二歳の中島さん。
日に焼けた厚い手と、白くなった節くれだった手。
どちらも、ずっと、ものを作ってきた人の手だった。
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応接室に、入った。
お茶が出された。
「田島さん」
中島さんが、紙袋を、テーブルに置いた。
「これ、つまらないものですが」
「あ、これは」
田島さんが、紙袋から、小さな器具を取り出した。
金属製の、手のひらに収まる大きさ。先端に、微細な目盛りが刻まれている。
「金型の調整用、ですよね」
「ご存知でしたか」
「これは、なかなか手に入らないものだ。市販品より、精度が高いと聞きます」
「ナカジマ精工の若い従業員が、試作したものです。研究の合間に。私から、ご挨拶代わりに、と」
田島さんが、しばらく、器具を見つめていた。
「……ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
「いえ。お役に立てば」
二人が、もう一度、握手をした。
*(金属加工とペットフード。業界は違うけど、ものを作る人間同士に、通じるものがある)*
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工場の中を、四人で歩いた。
田島さんが、中島さんに、製造ラインを説明した。
中島さんが、ところどころで、質問をした。
「このミキサーは、何年使われてますか」
「十八年ですね。三回、オーバーホールしてます」
「日本製ですか」
「ええ。新潟のメーカーで、もう作ってないですが」
「メンテナンスは」
「うちの長老が、できます。十五年いる従業員で、機械の音だけで、不調がわかる」
「いい人がいる」
中島さんが、しみじみと、言った。
田島さんが、少し、照れた。
「いやあ、当たり前のことを、当たり前にやってるだけですけどね」
「その『当たり前』が、一番、難しいんです」
中島さんの言葉に、田島さんが、頷いた。
*(二人とも、自分の言葉で、自分の仕事のことを、話せる。それが、技術屋のすごさだ)*
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倉庫を出て、事務所に戻った。
山下が、新しい組織図を、テーブルに広げた。
「八月一日付で、田島フーズの組織は、KY Holdingsの傘下に入りました。基本的に、現行の体制を維持。田島社長は、代表取締役を退任され、技術顧問に就任。新代表取締役は、当面、私が兼任いたします」
「山下さんが、代表ですか」
田島さんが、聞いた。
「はい。CFOとしての立場を維持しながら、田島フーズの代表も務めます。実務は、田島顧問にお任せする形でございます」
「わかりました」
「ご質問は」
「いえ。お任せします」
田島さんが、頷いた。
俺が、口を開いた。
「田島さん、一つだけ提案があります」
「はい」
「田島フーズの製品ラインに、新しいブランドを追加しませんか」
「新ブランド?」
「『KY Pet Foods』というブランドです。既存の田島フーズの製品は、そのまま継続。新ブランドは、シェルター向けの、無償提供フードに使います」
「無償提供用の、別ブランド?」
「はい。同じ品質で、パッケージだけ変える。『この袋のフードは、保護犬・保護猫のために作られています』と、明記する」
田島さんが、しばらく、考えた。
「……なるほど。寄付したフードだとわかれば、シェルター以外の人が買おうとはしない。卸先の棲み分けが、できる」
「そういうことです。それに、ボランティアや支援者が、自分たちの活動を、ブランドとして認識できる。『私たちは KY Pet Foods のシェルターネットワークに所属しています』と、シェルター側が誇りを持って言える」
「いいですね、それ」
田島さんの目に、また、光が、戻っていた。
「パッケージのデザインは、こだわりたい。安っぽく見せたくない」
「もちろんです。デザイナーは、こちらで手配します」
「私からも、一つ、提案があります」
「どうぞ」
「シェルター向けの製品には、月齢別のラインナップを用意したい。子犬用、成犬用、シニア用。猫も同じく。保護される動物は、月齢がバラバラだから、栄養設計が違うフードが必要です」
「お任せします。田島さんが、必要だと判断したラインナップを、揃えてください」
「わかりました」
田島さんが、メモを取った。
古いボールペンで、字が、少し震えていた。でも、その字には、力があった。
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昼。
田島フーズの近くの定食屋で、四人で、ランチを取った。
田舎の定食屋で、煮魚と漬物がついた定食を食べた。
中島さんが、田島さんに聞いた。
「田島さん、これからのこと、何か、考えていることはありますか」
田島さんが、味噌汁を、一口飲んでから、答えた。
「正直、買収の話を最初に聞いた時は、終わりが見えた気がしました。三十年やってきた工場が、自分のものじゃなくなる。社員に、どう説明したらいいかも、わからなかった」
「ええ」
「でも、桐島さんに会って、考えが変わりました。これは、終わりじゃない。続きだ。むしろ、自分一人では、できなかったことが、できるようになる」
「同じです。私も、譲渡契約の前夜は、眠れませんでした」
「中島さんも、ですか」
「ええ。でも、翌朝、契約書にサインした瞬間、何か、肩の荷が下りた感じがして。あれは、不思議な感覚でした」
「わかります」
二人が、頷き合った。
*(中島さんの「肩の荷が下りた」。田島さんの「終わりじゃない、続き」。同じことを、別の言葉で表現している)*
*(事業承継とは、こういうことだ。引退ではなく、形を変えた継続)*
「中島さん、もう一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「ナカジマ精工で、健太郎さんは、どんな仕事を?」
中島さんが、少しだけ、笑った。
「息子は、最初は、生産管理から始めました。前職と同じ仕事です。今は、徐々に営業の方にも、関わってもらっています。お客さんとのやり取りを、覚えてもらってる段階です」
「順調ですか」
「順調です。元々、サラリーマンとして、人と話すことに慣れていましたから。技術的な部分は、松田が見てくれていますし」
「健太郎さんが、いつかは、代表に?」
「そのつもりです。早ければ、来年の春。今、徐々に権限を移譲しているところです」
「それは、いいですね」
田島さんの目が、遠くを、見ていた。
田島さんにも、息子がいる。でも、東京でサラリーマンを続ける息子には、工場を継ぐ意思はない。
二人の境遇は、似ていて、違う。
*(中島さんの息子は、戻ってきた。田島さんの息子は、戻ってこなかった。でも、田島フーズは、別の形で、続いていく)*
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午後。
茨城を出て、東京に戻る車の中。
中島さんが、後部座席で、目を閉じていた。
疲れたのだろう。
七十二歳が、片道二時間以上の移動を、こなしてくれた。
俺は、その横顔を、ちらっと見た。
*(中島さんと田島さんを引き合わせて、よかった。同じ世代、同じ立場の人間が、お互いを、認め合う場面を見られた)*
*(事業承継というのは、書類だけの話じゃない。人と人が、信頼で繋がるかどうかの話だ)*
車内で、スマートフォンが、震えた。
西村からのLINE。
*「会長、田島フーズの社員紹介ページ、KY Holdingsのコーポレートサイトに追加しました。今夜、公開します」*
*「了解。ありがとう」*
*「あと、メディアにプレスリリース打ちました。ペットフード事業の参入。来週から記事が出ると思います」*
*「いい仕事だ」*
*(西村も、動いている。みんな、それぞれの仕事をしている)*
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夕方。
川崎競輪場に、寄った。
朝の映像。九番、四番、二番。
でも、映像が、ぼやけていた。
投げる金額は、いつもの半分にした。
第七レース。
3連単。9−4−2。
五万円。
レースが、始まった。
九番のラインが、最終バックで仕掛けた。映像通り。
でも、最終直線で、内から差してきた六番が、二番を交わした。
ゴール。
9−4−6。
*(外れた)*
時計を、ポケットの中で握ってみた。
すでに、冷たくなっていた。
*(朝、ぼやけていた。それで、結果が、ずれた)*
*(先月から、こういう日が増えている。映像がぼやける日。そして、外れる日)*
五万円の馬券が、紙になった。
手の中で、薄っぺらく、見えた。
*(時計が、衰え始めている)*
川崎の夕暮れが、競輪場の外に広がっていた。
ベンチに座って、ビールを飲んだ。
*(衰えている、と思いたくない。でも、事実だ。月に二、三回、こういう日がある。次は、もっと増えるかもしれない)*
*(だからこそ、急がなきゃいけない。時計が完全に止まる前に、自分の力で回る仕組みを、もっと作っておく必要がある)*
*(田島フーズ。シェルターへのフード提供。これが、間に合うかどうか)*
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夜。
タワーマンションのリビング。
窓の外、東京の夜景。
八月の夜は、湿度が高い。窓ガラスに、薄い湿気が、付いていた。
懐中時計を、テーブルの上に、置いた。
翠色の蓋。
針が、相変わらず、逆向きに、動いている。
*(この時計を拾ってから、もうすぐ二年になる。最初は、毎日のように映像が来た。今は、来ない日もある。来ても、ぼやける日がある)*
*(ずっと続くものじゃ、なかったんだ。当たり前のことだけど)*
冷蔵庫から、ビールを出した。
ソファで、一人で飲んだ。
スマートフォンを、開いた。
桑原さんからのLINEが、来ていた。
*「お久しぶりです。週末、お時間ありますか。少しだけ、お話したくて」*
*(桑原さん。最近、あまり会えていない)*
*「土曜の夜、空いてます」*
*「では、いつものふくろうで」*
*「了解です」*
桑原さんから、それだけ。
短い返信が、桑原さんらしかった。
*(土曜日。桑原さんと、ふくろうで。何を話すんだろう)*
*(俺が、忙しくなりすぎているのを、見抜かれているのかもしれない)*
ビールを、もう一口、飲んだ。
懐中時計が、テーブルの上で、ひっそりと、息をしていた。
冷たいまま、動いていない。
窓の外で、雷の音が、遠くで、鳴った。
八月の夜は、不安定だった。
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**── 残高メモ ──**
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 川崎競輪第7R(3連単9-4-2・外れ) | ▲5万円 |
| 7月末〜8月初旬 片手間収益 | +約120万円 |
| 生活費・外食等 | ▲約5万円 |
| 前話繰り越し(個人) | 約24,744万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約24,854万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| FORECAST 8月月次売上 | +約760万円 |
| 不動産賃料収入(8月分・既存4物件+品川) | +約265万円 |
| オフィス賃料・人件費等(8月分) | ▲約390万円 |
| 宮本エンジニア給与(8月分) | ▲約58万円 |
| 既存融資返済(8月分) | ▲約180万円 |
| 新規融資返済(8月分・初回) | ▲約284万円 |
| 品川マンション不動産ローン返済(8月分) | ▲約30万円 |
| 前話繰り越し(法人) | 約11,699万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約11,782万円** |
*8月から新規融資の返済が開始(月額284万)。融資返済合計は月494万。月次キャッシュフロー余剰は約100万に圧縮。融資借入残高:約24,549万円。品川ローン残高:約6,927万円。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| ギフト収入合計(事務所分10%・8月) | +約38万円 |
| 企業案件収入(事務所分30%・8月) | +約36万円 |
| 人件費・ライバーサポート等(8月分) | ▲約160万円 |
| 前話繰り越し(KY Live) | 約344万円 |
| **KY Live 法人口座** | **約258万円** |
*月間収入74万、赤字幅86万。佐々木フォロワー9万人到達。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 受注加工売上(8月分) | +約430万円 |
| 大手メーカー継続取引(8月分) | +約125万円 |
| 人件費(従業員14名・社保込み) | ▲約350万円 |
| 研究費・材料費 | ▲約50万円 |
| 工場賃料・光熱費等 | ▲約75万円 |
| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約4,765万円 |
| **ナカジマ精工 口座残高** | **約4,845万円** |
*月次黒字9ヶ月連続(純増80万)。超小型インペラの論文、大学チームが投稿準備完了。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 月間売上(8月分・既存販路) | +約2,100万円 |
| 原料費・人件費等 | ▲約2,040万円 |
| 田島顧問報酬 | ▲約50万円 |
| 前話繰り越し(田島フーズ) | 約1,200万円 |
| **田島フーズ 口座残高** | **約1,210万円** |
*KY Holdings連結初月。月間営業利益約10万(顧問報酬計上後)。ライン増設準備中(発注は9月中)。*
| 口座 | 残高 |
|:--|--:|
| 桐島遊馬(個人) | 約24,854万円 |
| KY Holdings(法人) | 約11,782万円 |
| KY Live | 約258万円 |
| ナカジマ精工 | 約4,845万円 |
| 田島フーズ | 約1,210万円 |
| **総資産(融資別)** | **約42,949万円** |
*融資借入残高:約24,549万円。品川ローン残高:約6,927万円。設備投資3,500万は9月以降発注予定。*




