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第58話 〜買収〜


 七月の第三週、火曜日の午前。


 恵比寿のオフィス。

 山下が、ファイルを開いた。


「会長、田島フーズのデューデリジェンスが、完了いたしました。報告します」


「どうだった?」


「問題ございません」


 山下が、いつもの無表情のまま、報告を始めた。


「財務。過去五期分の決算書を、精査しました。売上は年商約二億五千万で、安定。営業利益率は約三パーセント。大きくはありませんが、赤字にはなっておりません。簿外債務もなし」


「法務は?」


「取引先との契約関係、すべて確認済みです。訴訟リスクなし。知的財産権も、田島フーズが適正に保有しております。製造に関する特許が二件。商標登録が三件」


「労務は?」


「従業員は十二名。全員、正社員。雇用条件は業界水準。退職金制度あり。未払い残業代もなし。全従業員が、買収後も雇用継続を希望されております」


「わかった。問題ないということだね」


「はい。買収額については、一億一千万で先方と合意できる見通しでございます。田島社長は、当初の希望額が一億二千万でしたが、デューデリジェンスの結果を踏まえて、一億一千万で了承されました」


「田島さんは、納得してくれた?」


「はい。買収後の方針──社名の維持、従業員の雇用継続、田島社長の顧問就任──これらの条件が、先方にとって、金額以上に重要だったようです」


 *(そうだろうな。田島さんにとって、三十年間の仕事が続くことが、一番大事なんだ)*


「追加融資の方は?」


「メインバンクの田中次長から、昨日、正式に承認の連絡がございました。融資額は一億五千五百万円。金利は年二・〇パーセント。返済期間は五年。元金均等月賦返済です」


「毎月の返済は?」


「新規分の月額返済が、約二百八十四万円。既存融資の返済と合わせると、月額約四百六十四万円になります」


「法人の月次キャッシュフローで、回るか?」


「FORECASTの売上と不動産賃料を合わせた月間収入が、約一千万。固定費が約六百万。融資返済後の余剰は、月約百万程度になります。余裕はありませんが、田島フーズの売上が連結されれば、月間収入は大幅に増えます」


「田島フーズの月次売上は?」


「現状で、月間約二千百万。原価と人件費を引いた営業利益が、月間約六十万。買収後、ライン増設で生産量を上げれば、月間売上は四千万を超える見通しでございます」


 *(月四千万。年間で五億近い。販路さえ広げれば、十分に成長できる規模だ)*


「了解。進めよう」


「承知しました。調印のアポイントを、来週で調整いたします」


---


 七月の第四週、木曜日。


 吉野さんの車で、再び茨城に向かった。

 常磐道を、北上する。

 七月の関東平野は、田植えから二ヶ月が過ぎて、水田が一面の緑に変わっていた。


 山下が、助手席で、書類の最終確認をしていた。

 分厚いファイルが、二冊。株式譲渡契約書と、付随する合意書。


「会長、本日の調印で、田島フーズの全株式がKY Holdingsに移転いたします。効力発生日は、八月一日。それまでの期間で、登記変更と金融機関への届出を、完了させます」


「わかった」


「一つ、確認ですが、社名は維持でよろしいですか」


「もちろん。田島フーズのまま。看板も、変えない」


 山下が、小さく、頷いた。


---


 田島フーズの事務所。

 応接室に、田島さんが、待っていた。


 前回と同じ、作業着の上にジャケット。

 でも、表情が、少し違った。前回は緊張が見えたが、今日は、穏やかだった。


「桐島さん、山下さん、本日は、よろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 テーブルの上に、契約書が、並べられた。

 山下が、条項を一つずつ、読み上げた。


 株式譲渡の対価。一億一千万円。

 従業員の雇用継続。全員。

 社名の維持。

 田島誠二の顧問就任。任期三年。報酬は月額五十万円。

 設備投資計画。ライン増設と品質管理設備の更新。総額三千五百万円。


 田島さんが、一つひとつ頷きながら、聞いていた。


「桐島さん」


「はい」


「最後に、一つだけ」


 田島さんが、こちらを見た。


「保護犬・保護猫へのフード提供。この計画は、本当に、実行してくれますか」


「します。これが、この買収の、一番の目的です」


 田島さんが、目を閉じた。

 数秒、黙っていた。


 目を開けた時、田島さんの目が、少しだけ、赤かった。


「三十年間で、一番嬉しい日です」


 ペンを取った。

 契約書に、田島さんがサインをした。

 続いて、俺がサインをした。


 山下が、契約書を、確認した。


「以上で、株式譲渡契約が成立いたしました。効力発生日は、八月一日でございます」


 握手をした。

 田島さんの手は、やはり厚くて、温かかった。


---


 調印の後、工場を一緒に、歩いた。


 製造ラインの横に立って、田島さんが言った。


「ここに、もう一本ラインを入れるんですね」


「はい。増設分の発注は、来月中に。年内に稼働開始が、目標です」


「ミキサーと成形機は、国内メーカーの方がいい。ペットフード用のラインは特殊なので。うちが昔から付き合いのある設備メーカーがあります」


「紹介してもらえますか」


「もちろんです。三十年の付き合いですから、いい条件で出してくれるはずです」


 田島さんの声に、力が、戻っていた。

 買収される側ではなく、新しい体制の一員として、すでに、動き始めている。


 *(この人は、辞めたかったんじゃない。一人で抱えきれなくなっていただけだ。背中を支える人間がいれば、まだまだ、やれる)*


 原料倉庫に入った。

 国産の鶏肉と野菜が、整然と並んでいた。冷蔵庫の温度計が、適正値を、示していた。


「田島さん、保護犬用のフードは、今の製品と同じ品質で作れますか」


「作れます。というか、同じものを出します。保護犬だからって、安い材料で作るのは、嫌だ。うちのフードを食べるなら、みんな同じ品質がいい」


「同感です」


 田島さんが、少しだけ、笑った。


「桐島さんは、不思議な人ですね。こんな若くて、事業をいくつも持ってて。なのに、犬猫のフードに、本気で向き合ってる」


「儲かるからやるんじゃないですよ。必要だから、やるんです」


「ああ、それは──わかります。うちも三十年間、儲からなくても続けてきたんで」


 田島さんが、倉庫の中を、見回した。

 三十年間、この人が守ってきた場所だ。


「でも、これからは儲けましょう。田島さんの技術を、もっと多くの人に届けるために」


「……はい。よろしくお願いします」


---


 帰りの車。

 常磐道を、南下する。


 山下が、タブレットで、数字を確認していた。


「会長、買収代金一億一千万は、明日付で田島社長の指定口座に送金いたします。融資金は、本日中にKY Holdingsの口座に着金する予定です」


「設備投資の方は?」


「田島さんから設備メーカーの紹介を受けた後、正式に発注いたします。前金は発注契約後に実行しますので、来月以降になるかと」


「了解。あと、田島さんの顧問報酬。月五十万は、田島フーズの経費から出すのか?」


「はい。田島フーズの販管費に計上いたします。月間営業利益の範囲内です」


「わかった」


 窓の外を、茨城の田園風景が、流れていった。

 七月の緑が、眩しかった。


 *(田島フーズ。KY Holdingsの傘下に入った。FORECAST、不動産、KY Live、ナカジマ精工、そして田島フーズ。五つ目の事業だ)*


 *(一つひとつ、人の顔がある。松田さん。中島さん。佐々木。アンちゃん。田島さん。その人たちの仕事を守って、広げるのが、俺の役割だ)*


---


 夜。

 吉野さんの車で、大井競馬場に向かった。


 七月の大井。ナイター開催。

 トゥインクルレースの照明が、夏の夜空に、映えていた。


 指定席に座った時に、ポケットの中の時計が、温かくなった。


 握った。


 映像が、来た。


 第十レース。

 ダート1,800メートル。

 三番が中団からまくる映像。六番が二着。一番が三着。


 *(大井のナイター。映像が、はっきりしている)*


 3連単。3−6−1。

 五万円。


 レースが始まった。

 三番が中団の外に、つけた。向正面で、少しずつポジションを上げていく。

 三角から四角にかけて、三番が外を回して、一気に先団に取りついた。

 直線。三番の末脚が、伸びた。六番が内で粘る。一番が、離された三着。


 3−6−1。確定。


 払い戻し。

 3連単。配当、四十二倍。

 五万円が、二百十万円。


 *(二百十万。堅めだけど、今日は十分だ)*


 ビールを、飲んだ。

 大井の夜風は、海が近い分、少しだけ涼しかった。


 スマートフォンに、山下からメールが、入っていた。


 *「田島フーズへの送金完了。先方から受領確認。登記変更の手続きを開始します」*


 *(動いた。ペットフードの事業が、正式に、うちのものになった)*


---


 タワーマンションに、戻った。

 リビングの窓から、東京の夜景。


 コーヒーを淹れた。

 ソファに座って、天井を、見上げた。


 *(一億一千万。大きな金額だ。でも、田島さんの三十年間の仕事には、数字では測れない価値がある)*


 *(ナカジマ精工の時と同じだ。人の技術と思いを引き受けた。帳簿の上では企業買収だけど、やっていることは、誰かの仕事を守ること)*


 *(ラインを増設する。生産量を上げる。販路を広げる。それと同時に、全国のシェルターにフードを届ける。高木さんの「いのちの家」には、真っ先に届けよう。七十三頭の犬と、三十五匹の猫。あの子たちに、田島さんのフードを、食べさせたい)*


 *(今は、まだ、スタートラインだ。でも、走り出すことはできた)*


 懐中時計を、テーブルの上に、置いた。

 翠色の蓋が、照明を映して、光った。


 窓の外で、東京の夜が、ゆっくりと、更けていった。


---


**── 残高メモ ──**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 大井競馬ナイター第10R(3連単3-6-1・配当42倍) | +約205万円 |

| 7月中旬〜下旬 片手間収益 | +約100万円 |

| 生活費・飲食費等 | ▲約5万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約24,444万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約24,744万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 追加融資入金(田島フーズ買収・設備投資用) | +15,500万円 |

| 田島フーズ株式取得代金 | ▲11,000万円 |

| 前話繰り越し(法人) | 約7,199万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約11,699万円** |


*追加融資1.55億を実行。買収代金1.1億を送金済み。設備投資前金(1,750万)は設備メーカーとの契約後に実行予定。融資借入残高:約24,833万円(既存9,333万+新規15,500万)。品川ローン残高:約6,953万円。新規融資の返済(月額約284万)は8月から開始。既存融資と合わせた月額返済は約464万円。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(KY Live、7月分計上済み) | 約344万円 |

| **KY Live 法人口座** | **約344万円** |


*7月分の収支は前話で計上済み。新スタジオ6ブース体制で稼働中。月間収入69万。赤字幅は月91万。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(ナカジマ精工、7月分計上済み) | 約4,765万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約4,765万円** |


*7月分の収支は前話で計上済み。五軸CNC旋盤が本格稼働中。月次黒字8ヶ月連続。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 既存口座残高(買収時点) | 約1,200万円 |

| **田島フーズ 口座残高** | **約1,200万円** |


*8月1日よりKY Holdings連結。月間売上約2,100万。営業利益月約60万。従業員12名。田島誠二が顧問就任(月額50万)。ライン増設(3,000万)・品質管理設備更新(500万)は来月以降に発注予定。*


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約24,744万円 |

| KY Holdings(法人) | 約11,699万円 |

| KY Live | 約344万円 |

| ナカジマ精工 | 約4,765万円 |

| 田島フーズ(8月〜連結) | 約1,200万円 |

| **総資産(融資別)** | **約42,752万円** |


*融資借入残高:約24,833万円(月額返済約464万)。品川ローン残高:約6,953万円(月額返済約30万)。設備投資3,500万は来月以降実行予定。*


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