第55話 〜再訪〜
五月の第二週、水曜日の朝。
目が覚めて、枕元の懐中時計を握った。
温かかった。
映像が、来た。
東京競馬場、第十レース。芝1,600メートル。
三番の馬が、好位から直線で抜け出していく映像。
二着は九番。三着は一番。
*(府中か。午後のレースだ)*
カーテンを開けた。
五月の光が、リビングに差し込んだ。
窓の外に、街路樹の新緑が見える。東京の樹々が、一斉に葉を茂らせている時季だった。
コーヒーを淹れながら、スマートフォンを開いた。
アンちゃんのTikTokに、通知が来ていた。
昨夜の配信で、保護犬の特集をやっていた。タイトルは「保護犬のフード事情」。
アーカイブを再生した。
アンちゃんが、保護団体から聞いたという話を、自分の言葉で話していた。
「フード代だけで月に何十万円。それを全部、寄付とボランティアで賄ってるんだって。すごいことだけど、すごいことをずっと続けなきゃいけないのは、しんどいよね」
コメント欄に、「うちも寄付してます」「フード送りたい」「もっと知りたい」という声が並んでいた。
同時視聴のピークは、九百人を超えていた。
*(アンちゃんが、保護犬のことを話すようになった。去年の譲渡会がきっかけだ)*
*(あの日から、半年以上が経った。俺の中にもずっと残っている。あの日聞いた話が)*
*(フードの費用、月に四十万。一団体で。全国のシェルターを合わせたら、年間で何十億という金が、フードに消えている)*
*(寄付じゃない方法。事業として成り立つ形。あの時から、ずっと考えている)*
コーヒーを飲み干した。
スマートフォンで、去年の譲渡会で話を聞いた団体のウェブサイトを開いた。
NPO法人「いのちの家」。代表、高木幸子。
所在地は、八王子市。
お問い合わせフォームから、見学の申し込みを送った。
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翌日。
高木さんから、返信が来た。
*「桐島様、ご連絡ありがとうございます。代々木公園の譲渡会に来てくださった方、覚えております。シェルターの見学、大歓迎です。ご都合のよい日をお知らせください」*
*(覚えていてくれたのか)*
金曜の午前に訪問することにした。
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金曜日。
吉野さんの車で、八王子に向かった。
中央道を走って、八王子インターで降りた。
住宅街を抜けて、丘の上に出ると、畑と樹々に囲まれた一画があった。
その奥に、平屋建ての建物が見えた。
門には、「NPO法人 いのちの家」と書かれた、手書きの看板。
駐車場に車を停めた瞬間、犬の鳴き声が聞こえてきた。
たくさんの犬の声。元気な声と、静かな声が、混ざり合っていた。
建物の入口で、高木さんが待っていてくれた。
五十代の女性。去年の譲渡会で見たときと、同じ顔。日に焼けた肌。作業着のような格好。手には、犬のリードを持っていた。
「桐島さん、お久しぶりです。遠いところ、ありがとうございます」
「こちらこそ。急にお願いしてすみません」
「いえ。見に来てくださるだけで、嬉しいですよ。どうぞ、中に」
門をくぐると、広い庭があった。
芝生の上に、犬用のサークルが三つ。中で、犬たちが走り回っている。
大型犬と小型犬が混じっていた。柴犬、トイプードル、雑種。
人懐っこい犬が、柵越しに尻尾を振ってきた。
「今、犬が七十三頭、猫が三十五頭います。去年お会いした時から、少し増えました」
「増えたんですか」
「ええ。年末に、ブリーダーの廃業で、一度に十二頭引き取りました。子犬もいて。受け入れキャパシティは、ぎりぎりです」
高木さんが、建物の中に案内してくれた。
一階は、犬のスペース。
個別のケージが並んだ部屋と、犬が自由に過ごせるフリースペースがあった。
床は清潔だった。消毒液の匂いが、かすかにする。
「毎朝、ボランティアさんが来て、掃除とフードの準備をしてくれます。散歩は、三回に分けて、一回あたり二十頭ずつ。全部回すのに、半日かかります」
「スタッフは、何人ですか」
「常勤が、私を入れて三人。あとはボランティアさんが、日替わりで五人から十人。でも、ボランティアさんは、来てくれない日もあります。その時は、三人で回します」
*(三人で、百頭以上の犬猫を世話している。それだけで、壮絶だ)*
二階は、猫のスペース。
広い部屋にキャットタワーが設置されていて、猫たちが自由に動き回っていた。
窓辺で日向ぼっこをしている猫。箱の中に丸まっている猫。じゃれ合っている子猫。
「猫の方が、譲渡が進みやすいです。犬は、散歩が必要なので、飼い主さんのハードルが高い。特に大型犬は、長期滞在になりがちです」
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事務スペースに案内された。
六畳ほどの部屋。デスクとパソコン、書類の山。壁に、保護した動物たちの写真が、びっしりと貼ってある。
高木さんが、お茶を出してくれた。
「桐島さん、今日はどういったご用件で?」
「去年の譲渡会で聞いた話が、ずっと頭に残っていて。フードの費用のこと。資金が厳しいというお話。それで、実際の現場を、自分の目で見たいと思ったんです」
高木さんが、少し目を細めた。
「覚えていてくださったんですね」
「はい。単刀直入に聞いてもいいですか。今、一番お金がかかっているのは何ですか」
「フードです。断トツで」
高木さんが、帳簿を開いた。
手書きの数字が、ぎっしりと並んでいた。
「月間のフード費用が、今は約四十五万円。去年より、増えています。頭数が増えたので。年間にすると、約五百四十万円です」
「フードは、どこで買っているんですか」
「ホームセンターで、業務用の安いものを買っています。一袋十五キロで三千円前後のもの。栄養面では、本当はもっといいものをあげたいんですけど、予算的に、限界があって」
「メーカーから直接買うことは?」
「以前、問い合わせたことがあります。でも、小ロットだと値引きがほとんどなくて。結局、ホームセンターの方が安いことが、多いんです」
*(メーカーの仕組みとして、小ロットだとコスト削減が難しい。でも、大量に作って、大量に配れる仕組みがあれば──)*
「高木さん、全国のシェルターって、どのくらいあるんですか」
「正確な数は把握していませんが、環境省のデータでは、全国に約五百団体があります。うちのような小規模なところから、大きなシェルターまで。全部合わせると、保護されている犬猫は数万頭規模です」
「その全部が、フード代に苦しんでいる」
「はい。フードの寄付を募っているところが、ほとんどです。でも、寄付は安定しない。月によって、ばらつきがある。フードが足りなくなった月は、本当にきついです」
高木さんの声は、淡々としていた。
でも、帳簿を開いた手が、少しだけ震えていた。
十年以上、この活動を続けてきた人の手だった。
*(五百団体。数万頭。フード費用だけで、年間数十億。寄付に頼る仕組みでは、根本的に足りない)*
*(でも、もし。ペットフードを自分で作って、原価で提供できたら。あるいは、無償で配れたら)*
*(そのためには、ペットフードの製造拠点が要る。工場だ。既存のペットフードメーカーを買収するのが、一番早い)*
「高木さん」
「はい」
「もう少し、詳しく話を聞いてもいいですか。シェルターの運営のこと。全国のネットワークのこと」
高木さんが、少し驚いた顔をした。
でも、すぐに頷いた。
「もちろんです」
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一時間半ほど、話を聞いた。
全国のシェルターの実態。行政との連携の難しさ。ボランティアの高齢化。譲渡率の低さ。殺処分のこと。
高木さんは、一つ一つの話を、感情を抑えながら、正確に話してくれた。
帰り際、高木さんが門まで見送ってくれた。
「桐島さん、今日はありがとうございました。こうして、興味を持ってくださる方がいるだけで、励みになります」
「高木さん、一つだけ聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「もし、フードが無償で届くようになったら。毎月、安定して。全国のシェルターに。その場合、何が変わりますか」
高木さんが、一瞬、言葉を失った。
それから、ゆっくりと、答えた。
「……フード代が浮いた分を、医療費に回せます。今、治療を後回しにしている子が、いるんです。目の手術が必要な犬。歯の治療が必要な猫。フード代がなくなれば、その子たちを、ちゃんと、治してあげられる」
高木さんの目が、かすかに、光っていた。
「それだけじゃない。フードの心配がなくなれば、もっと多くの犬猫を受け入れられる。今は、キャパシティの問題で、保護を断っているケースがあるんです。受け入れたくても、フードが足りなくて」
「……わかりました。ありがとうございます」
「桐島さん、もしかして──」
「まだ、何も決まっていません。でも、考えます」
高木さんが、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。期待しすぎないようにしますが、お気持ちだけで、嬉しいです」
帰りの車に乗り込む前、財布から札を抜いた。封筒もなく、ただ手で揃えただけの三十万円を、高木さんに渡した。
「今月のフード代の足しに、使ってください」
高木さんが、両手で受け取った。何かを言いかけて、結局、黙って、もう一度、頭を下げた。
車に乗った。
八王子の丘の上から、街が見下ろせた。
五月の緑が、眩しかった。
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午後。
吉野さんの運転で、東京競馬場に向かった。
府中の東京競馬場。
五月の府中は、新緑に包まれている。
広大なスタンドから見える芝コースの緑が、目に眩しかった。
指定席に座って、生ビールを買った。
五月の陽気の中で飲むビールは、格別だった。
朝の映像。三番の馬。芝1,600。
第十レース。
3連単。3−9−1。
六万円。
レースが始まった。
三番が好位の三番手につけた。ペースは、やや速い。
直線。三番が、前を行く馬の外に出した。
残り四百メートルで先頭に立つ。九番が後方から追い込んで二着。一番が粘って三着。
3−9−1。確定。
払い戻し。
3連単。配当、百三十倍。
六万円が、七百八十万円になった。
*(七百八十万。大きい)*
ビールを飲んだ。
スタンドから、ターフビジョンの残像が消えていった。
*(今日、高木さんの話を聞いて、頭の中で何かが動いた。まだ形にはなっていない。でも、方向は見えた気がする)*
*(ペットフードを作る。自分で。原価で、全国のシェルターに届ける。そのために、工場がいる。メーカーがいる)*
*(山下に相談しよう。ペットフード業界のことを、調べてもらおう)*
競馬場を出た。
吉野さんの車で、首都高に乗った。
五月の夕方の光が、ビル群を金色に染めていた。
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南青山に戻る前に、練馬で降ろしてもらった。
「吉野さん、今日はここで上がってください。お疲れさまでした」
「承知いたしました。お疲れさまでございます」
ふくろうの扉を開けた。
夕方六時。まだ、客はまばらだった。
「あら、遊馬くん。最近、よく来てくれるね」
和代さんが、奥から声をかけてきた。
「ちょっと、近くに用事があって」
カウンターに座った。福田さんが、ハイボールを置いてくれた。
「飯は?」
「軽くつまむくらいで」
「焼き鳥でも焼くか」
「お願いします」
福田さんが、串を炭の上に並べた。
ハイボールを一口飲んでから、和代さんに聞いた。
「和代さん、犬とか飼ったことあります? 保護犬とか」
「ああ。昔、実家でね。雑種だけど、十五年いたよ」
「そうなんですか」
「うちの娘が連れて帰ってきて、家族みたいなもんだったね。最後、看取った時は、本当に、泣いたよ」
和代さんが、笑いながら言った。
「なんで急に、犬の話?」
「いえ。今日、保護団体の見学に行ってきて。あちこちで、犬と猫が、面倒見られなくなってる現実を知ったんで」
「ああ、最近そういうの、よく聞くね」
福田さんが、串をひっくり返しながら言った。
「ホームセンターのドッグフードが、五年前と比べて、結構値上がってるらしいぞ。常連の三浦さんが、そんなこと言ってた」
「飼ってる人にも、効くんですか」
「家計に響いてるって、言ってたな。シェルターなんかは、もっと大変だろうな」
*(福田さんの世間話の中に、もう答えがあった)*
「俺、何か、やろうかと思って」
「ほう」
「ペットフードのこと。詳しくはまだ言えないんですけど」
福田さんが、串を皿に乗せて、置いた。
「遊馬くんがやることなら、間違いないだろ」
「そんなことないですよ」
「いやいや、お前は、見る目はあるよ。前から、思ってる」
「……ありがとうございます」
和代さんが、お通しの煮物を出してくれた。
「ちゃんと、食べな。痩せたよ、前より」
「太ってますよ、最近」
「嘘おっしゃい」
和代さんが、笑った。
ハイボールをもう一口、飲んだ。
*(俺が金で買えないものを買おうとしているとき、ふくろうの煮物は、変わらず温かい)*
その温度のことを、考えていた。
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夜。
タワーマンションのリビング。
山下にLINEを送った。
*「ペットフード業界について、調べてほしい。特に、国内の中小ペットフードメーカーの一覧と、買収可能な規模の会社があるかどうか」*
三分後に、返信が来た。
*「承知しました。少しお時間をいただきますが、今週中にレポートをお出しします。差し支えなければ、背景を教えていただけますか」*
*「保護犬・保護猫のシェルターに、フードを無償で提供したい。そのために、ペットフードを自分で製造する体制を作りたい」*
しばらく、既読のまま、返信がなかった。
一分ほど経って、短い返信が来た。
*「なるほど。理解いたしました。調査いたします」*
山下らしい返信だった。
驚いたのかもしれない。でも、この人は、感情を表に出さない。
代わりに、「理解いたしました」の一言に、受け止めた覚悟が、込められている。
スマートフォンを置いた。
窓の外の夜景を、見つめた。
懐中時計を取り出した。
テーブルの上に置いた。
冷たかった。
*(今日、高木さんの帳簿を見た。手書きの数字。あの数字の一つ一つが、犬猫の命だ)*
*(金があれば、救える命がある。でも、金を配るだけじゃ、持続しない。山下がいつも言っている──「仕組みを作れ」と)*
*(ペットフードメーカーを買収する。製造コストを下げる。利益が出るビジネスとして回しながら、シェルターには原価で、できれば無償で、フードを届ける。事業と社会貢献を、同時に回す)*
*(……できるのか? 俺に)*
*(一人じゃできない。でも、山下がいる。西村がいる。中島さんも、松田さんもいる。人を探して、人に任せて、仕組みを作る。今までやってきたことの、延長線上に、これもある)*
*(時計が、いつまで応えてくれるかは、わからない。だから、今のうちに、種を蒔いておきたい)*
コーヒーを淹れた。
ソファに座って、夜景を見つめた。
五月の東京は、夜風が心地よかった。
窓を少しだけ開けると、初夏の匂いが、入ってきた。
*(ペットフード。次の事業は、これだ)*
*(金で買えないものを、金で買えるようにする。その方法を、見つけたい)*
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**── 残高メモ ──**
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 東京競馬第10R(3連単3-9-1・配当130倍) | +約774万円 |
| 5月上旬〜中旬 ギャンブル収益(片手間分) | +約180万円 |
| 「いのちの家」への寄付 | ▲30万円 |
| 生活費・外食等 | ▲約3万円 |
| 前話繰り越し(個人) | 約22,586万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約23,507万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| FORECAST 5月月次売上(横ばい安定) | +約770万円 |
| 不動産賃料収入(5月分・既存4物件) | +約197万円 |
| オフィス賃料・人件費等(5月分) | ▲約390万円 |
| 宮本エンジニア給与(5月分) | ▲約58万円 |
| 融資返済(5月分) | ▲約180万円 |
| 品川マンション購入(頭金+諸費用) | ▲5,150万円 |
| KY Live追加運転資金注入 | ▲500万円 |
| 前話繰り越し(法人) | 約14,356万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約9,045万円** |
*品川区収益マンション(1.2億・全18戸)取得済。頭金5,000万、諸費用150万。残額7,000万は不動産担保ローン(金利2.1%・25年)。来月より品川物件の賃料収入(月約68万)が加算される。融資借入残高:約9,667万円。不動産ローン残高:7,000万円。*
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| ギフト収入合計(事務所分10%・5月) | +約30万円 |
| 企業案件収入(事務所分30%・5月) | +約28万円 |
| 人件費・ライバーサポート等(5月分) | ▲約160万円 |
| KYHより追加運転資金 | +500万円 |
| 前話繰り越し(KY Live) | 約134万円 |
| **KY Live 法人口座** | **約532万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 受注加工売上(5月分) | +約390万円 |
| 大手メーカー継続取引(5月分) | +約125万円 |
| 人件費(従業員14名・社保込み) | ▲約350万円 |
| 研究費・材料費 | ▲約50万円 |
| 工場賃料(桐島個人名義物件) | ▲約30万円 |
| 光熱費・設備維持費 | ▲約40万円 |
| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約4,595万円 |
| **ナカジマ精工 口座残高** | **約4,640万円** |
*ナカジマ精工は月次黒字6ヶ月連続。五軸CNC旋盤は6月中旬納品予定。超小型インペラ研究は第五段階。*
| 口座 | 残高 |
|:--|--:|
| 桐島遊馬(個人) | 約23,507万円 |
| KY Holdings(法人) | 約9,045万円 |
| KY Live | 約532万円 |
| ナカジマ精工 | 約4,640万円 |
| **総資産(融資別)** | **約37,724万円** |
*融資借入残高:約9,667万円。品川マンション不動産ローン残高:7,000万円。旋盤残金1,400万円(6月)+スタジオ残金1,200万円(6月)が今後の確定支出。*




