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第56話 〜工場〜


 五月の最終週、月曜日の午前。


 恵比寿のオフィス。

 山下が、いつもの席で待っていた。

 テーブルの上に、薄いファイルが、一冊。


「会長、先日ご依頼いただいたペットフードメーカーの調査結果でございます」


「ありがとう。早いね」


「業界構造がシンプルでしたので」


 山下が、ファイルを開いた。


「まず、国内のペットフード市場の概要です。市場規模は年間約五千五百億円。成長率は年二から三パーセント。大手三社で市場の約六割を占めています。残りの四割を、中小メーカーと輸入品が分け合う構造でございます」


「中小メーカーは、何社くらいある?」


「製造業としてペットフードを手がけている中小企業は、全国で約百二十社。うち、自社工場を持っているのは約七十社。残りはOEM──他社の工場で委託生産しております」


「買収可能な規模の会社は?」


 山下が、ファイルの次のページを開いた。

 五社の名前が、並んでいた。


「条件を絞りました。自社工場を持っていること。年商五億以下であること。事業承継や経営難の問題を抱えていること。この三条件で、五社をリストアップしております」


 五社の概要を、山下が順に説明した。


 一社目。千葉県。年商三億。犬用ドライフード専業。社長が七十歳で後継者不在。

 二社目。埼玉県。年商二億。犬猫兼用。OEM比率が高い。赤字続き。

 三社目。静岡県。年商四億。犬猫兼用。自社ブランドあり。社長の健康問題で売却検討中。

 四社目。群馬県。年商一億五千万。猫用フード専業。工場が老朽化。

 五社目。茨城県。年商二億五千万。犬猫兼用。国産原料にこだわり。社長が事業売却を打診中。


「この中で、特に有望なのはどれですか」


「三社目の静岡と、五社目の茨城かと存じます」


 山下が、二社の資料を並べた。


「静岡は、自社ブランドを持っている点が強い。年商四億の実績があり、製造ラインも整備されている。ただし、売却額が高い。推定で二億五千万前後」


「茨城は?」


「年商二億五千万。国産原料にこだわった製品で、品質には定評がある。ただし、営業力が弱く、販路が限られています。売却額は推定一億二千万前後。こちらの方が、当社の投資規模に合っているかと」


「茨城の会社に、興味がある。見に行けるか」


「アポイントを取ります。社長が売却に前向きですので、話は早いかと思います」


---


 六月の第一週、水曜日。


 朝、枕元の懐中時計を握った。

 温かかった。


 映像が、来た。


 浦和競馬、第八レース。

 ダート1,400メートル。

 一番の馬が逃げ切る映像。

 二着は四番。三着は七番。


 *(浦和か。夕方のレースだ。今日は工場の視察だから、帰りに寄れる)*


 シャワーを浴びて、スーツに着替えた。

 ネクタイは、山下に言われた紺の無地。

 先方の社長に会うのだから、きちんとした格好で行く。


---


 吉野さんの車で、茨城に向かった。

 常磐道を北上する。

 六月の関東平野は、水田に水が張られて、鏡のように空を映していた。


 山下が、助手席で資料を確認していた。


「会長、先方の社長は、田島誠二さん。六十五歳。創業者です。三十年前に、地元の飼料工場を改装して、ペットフードの製造を始めた方でございます」


「創業社長か」


「はい。国産の鶏肉と野菜を使った、無添加のフードを作っています。品質は高いのですが、販路が地元のペットショップとネット通販に限られていて、売上が頭打ちになっている状況です」


「売却の理由は?」


「体力的に工場の管理が難しくなってきたことと、後継者がいないこと。息子さんがいらっしゃいますが、東京でサラリーマンをされていて、事業を継ぐ意思がないそうです」


 *(ナカジマ精工の中島さんと、似ている。技術や思いがあるのに、渡す相手がいない)*


---


 茨城県南部。

 田園地帯の中に、工場があった。


 平屋建ての、大きくない工場。

 駐車場に、車が五台ほど停まっている。

 正面玄関の上に、「田島フーズ株式会社」の看板。

 古びてはいるが、敷地は整理されていた。


 入口で、社長の田島さんが、出迎えてくれた。

 六十五歳。白髪交じりの短い髪。日焼けした顔。

 作業着の上に、ジャケットを羽織っていた。見た目は、ナカジマ精工の松田さんと、重なるところがある。


「桐島さん、わざわざ遠いところまで、ありがとうございます」


「田島さん、本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


「こちらは、CFOの山下です」


「山下でございます。よろしくお願いいたします」


 握手をした。

 田島さんの手は、厚くて、温かかった。


---


 工場を案内してもらった。


 原料の倉庫。国産の鶏肉、野菜、穀物が、整然と保管されていた。

 鮮度管理がしっかりしている。温度と湿度の記録が、壁に貼ってあった。


「原料は、全部国産です。地元の農家さんから、直接仕入れています。鶏肉は、つくばの養鶏場。野菜は、地元の農協。穀物は、栃木の農家さん」


「全部、顔が見える仕入れですか」


「はい。三十年間、同じ農家さんとやっています。原料の品質が、フードの品質を決めますから」


 *(原料へのこだわり。これは、大手メーカーにはない強みだ)*


 製造ラインに、入った。

 ミキサー、成形機、乾燥機、包装機。

 ラインは古いが、きれいに手入れされていた。


「月産で、ドライフードが約二十トン。ウェットフードが約五トン。今のキャパシティだと、年商三億くらいが上限です」


「ラインを増設すれば、生産量は上がりますか?」


「上がります。この工場のスペースなら、ライン一本追加で、月産五十トンまで対応できます。ただ、設備投資が必要で、うちの体力では、厳しかった」


 田島さんの声が、少しだけ、くぐもった。


「正直に言いますとね。この工場を大きくしたいって気持ちは、ずっとありました。いいフードを、もっと多くの犬猫に届けたかった。でも、一人じゃ限界がある」


 *(一人じゃ限界がある。松田さんも、同じことを言った。中島さんも、同じだった)*


---


 事務所で、お茶を出してもらった。

 応接セットは古いが、清潔だった。


「田島さん、単刀直入にお聞きします。当社が田島フーズを買収させていただく場合、田島さんは、どうされたいですか」


 田島さんが、少し、間を置いた。


「辞めたいわけじゃ、ないんです。体力的にきつくなってきたのは事実ですけど、この工場がなくなるのは、嫌だ。ここで三十年間、うちのフードを食べてくれた犬猫が、いるんです。その子たちのために、作ってきたんですから」


「わかります。だから、田島さんに、残っていただきたい」


 田島さんが、こちらを見た。


「残る?」


「はい。買収後も、製造の責任者として、残っていただきたい。原料の仕入先、品質の基準、レシピ。全部、田島さんの知識と経験に基づいています。それを、引き継いでもらいたい」


「……ナカジマ精工さんでも、同じようなことを、されたと聞きました」


「山下から、聞かれましたか」


「はい。金属加工の工場を買収して、元の社長さんに残ってもらっている、と」


 田島さんが、少しだけ、表情を崩した。


「桐島さんは、若いのに、物を大事にする方なんですね」


「俺は、人を大事にしたいだけです。田島さんが三十年間作ってきたものを、壊すつもりはありません。続けたい。もっと、大きくしたい」


 山下が、タイミングを見て、口を開いた。


「買収条件の詳細は、改めてお出しいたします。基本的な枠組みとして、株式の全量取得、田島社長には顧問として残留いただく形を想定しております。社名についても、ご希望があれば調整いたします」


 田島さんが、しばらく、黙っていた。

 窓の外で、工場の設備が、低く唸っていた。


「桐島さん。一つだけ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「買収して、このフードをどうするつもりですか。販路を広げるだけですか」


「いえ。保護犬・保護猫のシェルターに、フードを提供したいと考えています。全国のシェルターに。原価で、できれば無償で」


 田島さんの目が、大きくなった。


「……無償で?」


「はい。今、全国のシェルターが、フード代に苦しんでいます。月に何十万というフード代を、寄付とボランティアで賄っている。その構造を、変えたい。ペットフードの製造を、自前で持てれば、コストを下げられる。利益が出る販売事業と、無償提供の社会貢献を、同時に回したい」


 田島さんが、椅子の背もたれに、体を預けた。

 天井を、見上げた。


「三十年やってきて、こんな話は、初めてです」


「突拍子もない話で、すみません」


「いや。突拍子もないけど、嫌じゃない」


 田島さんが、こちらに目を、戻した。


「うちのフードを、保護犬に食べてもらえるなら。それは、三十年間作り続けてきた意味が、もう一つ、増えるということです」


 山下が、微かに、頷いた。


「田島さん、前向きに検討させていただいてもよろしいでしょうか」


「こちらこそ。よろしくお願いします」


 握手をした。

 田島さんの手は、来た時と同じように、厚くて、温かかった。


---


 帰りの車で、山下が言った。


「会長、田島フーズは良い会社です。原料の品質と、社長の人柄。買収後の運営も、スムーズにいく可能性が高いかと」


「買収額の見込みは?」


「先方の希望額を確認した上で、デューデリジェンスに入ります。推定一億二千万前後ですが、交渉次第です。当社の資金で対応可能な範囲です」


「設備投資は?」


「ライン増設が約三千万。品質管理設備の更新が約五百万。合計で三千五百万前後と見込んでいます」


「合わせると、約一億五千万か」


「はい。ナカジマ精工の買収時と、ほぼ同規模でございます」


 *(一億五千万。大きい金額だ。でも、個人資金で出せる。いや、今回も法人融資を検討すべきか)*


「資金調達は、どうする?」


「二つの選択肢があります。一つは、会長の個人資金からの追加出資。もう一つは、メインバンクに追加融資を打診すること。品川の物件取得と合わせて、融資実績があるので、追加融資のハードルは下がっています」


「どちらがいい?」


「追加融資をお勧めします。前回と同じ理由でございます。金融機関との取引実績を積むことが、長期的にグループの信用力を高めます」


「わかった。進めてくれ」


---


 浦和競馬場に、寄った。


 六月の浦和。梅雨の合間の晴れ間で、蒸し暑かった。

 スタンドの席に座って、アイスコーヒーを買った。


 朝の映像。一番の馬。逃げ切り。


 第八レース。

 ダート1,400メートル。

 3連単。1−4−7。

 五万円。


 一番が、ゲートを出てすぐに、先頭に立った。

 そのまま、逃げる。四番が二番手で、ついていく。

 直線。一番が、粘った。四番が追い込んだが、半馬身、届かない。

 七番が、大外から三着に、滑り込んだ。


 1−4−7。確定。


 払い戻し。

 3連単。配当、五十三倍。

 五万円が、二百六十五万円になった。


 *(二百六十五万。堅い配当だ)*


 アイスコーヒーを、飲んだ。

 浦和の空が、薄い雲に覆われていた。

 梅雨の気配がする。


 *(田島さん。三十年間、犬猫のためにフードを作ってきた人だ。松田さんと、同じ匂いがする。自分の仕事に誇りを持っている人の匂いだ)*


 *(あの工場を買う。田島さんに残ってもらう。ラインを増設して、生産量を上げる。それで、全国のシェルターにフードを届ける)*


 *(人に会って、その人の思いに共感して、金を出す。同じパターンだ。でも、このパターンが、一番うまくいく)*


 *(中島さんも、樋口さんも、田島さんも。みんな、自分のやってきたことを、誰かに、ちゃんと渡したがっている)*


---


 夜。

 タワーマンションのリビング。


 窓の外に、東京の夜景。

 六月の夜は、湿度が高い。窓ガラスが、少しだけ、曇っていた。


 コーヒーを淹れた。

 ソファに座って、今日のことを、振り返った。


 *(ナカジマ精工の時は、西村が持ってきた話だった。今回は、俺が自分で探した。高木さんに会って、フードの問題を知って、山下に調べてもらって、田島さんの工場に行った)*


 *(少しずつ、自分の目で、次の事業を見つけられるようになっている。人に頼るだけじゃなく。自分の中に、方向感が育ってきている)*


 懐中時計を、テーブルの上に、置いた。

 翠色の蓋が、照明を映していた。


 *(ペットフード。次は、これだ。山下のデューデリジェンスが終わったら、動く)*


---


**── 残高メモ ──**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 浦和競馬第8R(3連単1-4-7・配当53倍) | +約260万円 |

| 5月下旬〜6月初旬 片手間収益 | +約160万円 |

| 生活費・飲食費等 | ▲約3万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約23,507万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約23,924万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| FORECAST 6月月次売上(横ばい安定) | +約770万円 |

| 不動産賃料収入(6月分・既存4物件) | +約197万円 |

| 品川マンション賃料収入(6月分・初月) | +約68万円 |

| オフィス賃料・人件費等(6月分) | ▲約390万円 |

| 宮本エンジニア給与(6月分) | ▲約58万円 |

| 融資返済(6月分) | ▲約180万円 |

| 品川マンション不動産ローン返済(6月分) | ▲約30万円 |

| ナカジマ精工CNC旋盤(残金・納品時) | ▲1,400万円 |

| KY Liveスタジオ増設(残金・完成時) | ▲1,200万円 |

| 前話繰り越し(法人) | 約9,045万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約6,822万円** |


*6月に旋盤残金(1,400万)とスタジオ残金(1,200万)を支払い、確定支出を完了。品川マンション賃料収入(月68万)開始。不動産賃料合計は月265万に増加。融資借入残高:約9,500万円。品川ローン残高:約6,977万円。田島フーズ買収資金(約1.55億)は追加融資で調達予定。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| ギフト収入合計(事務所分10%・6月) | +約33万円 |

| 企業案件収入(事務所分30%・6月) | +約30万円 |

| 人件費・ライバーサポート等(6月分) | ▲約160万円 |

| KYHよりスタジオ増設残金 | +1,200万円 |

| スタジオ増設工事残金支払い | ▲1,200万円 |

| 前話繰り越し(KY Live) | 約532万円 |

| **KY Live 法人口座** | **約435万円** |


*スタジオ増設完了(6月末)。配信ブース6室+収録スタジオ1室の新体制。月間収入63万。赤字幅は月97万に縮小。水沢アン専業化後、フォロワー15,000人到達。*


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 受注加工売上(6月分) | +約400万円 |

| 大手メーカー継続取引(6月分) | +約125万円 |

| 人件費(従業員14名・社保込み) | ▲約350万円 |

| 研究費・材料費 | ▲約50万円 |

| 工場賃料(桐島個人名義物件) | ▲約30万円 |

| 光熱費・設備維持費 | ▲約40万円 |

| KYHより設備投資資金(旋盤残金) | +1,400万円 |

| 五軸CNC旋盤 残金支払い | ▲1,400万円 |

| 前話繰り越し(ナカジマ精工) | 約4,640万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約4,695万円** |


*五軸CNC旋盤が6月中旬に納品・据付完了。試運転開始。月次黒字7ヶ月連続。量産体制に向けた準備が本格化。*


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約23,924万円 |

| KY Holdings(法人) | 約6,822万円 |

| KY Live | 約435万円 |

| ナカジマ精工 | 約4,695万円 |

| **総資産(融資別)** | **約35,876万円** |


*融資借入残高:約9,500万円。品川ローン残高:約6,977万円。田島フーズ買収(約1.55億)は追加融資で調達予定。*


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