第53話 〜投資〜
三月の第二週。
月曜日の朝。
目が覚めて、枕元の懐中時計を握った。
温かかった。
映像が、来た。
中山競馬。第十一レース。
芝2000メートル。
七番の馬が、中団から三角で外に出して、直線で一気に突き抜ける映像。
二着は三番。三着は十一番。
*(中山か。春の中山だ。午後のレースだな)*
カーテンを開けた。
三月の朝日が、リビングに差し込んだ。
二月より、光の角度が高い。春が、近い。
スマートフォンを見ると、山下さんからLINEが来ていた。
朝六時三十分。この人は、本当に早い。
*「おはようございます。本日十時にオフィスにお越しいただけますか。ご報告がございます」*
*(報告。山下さんがこういう言い方をする時は、大体、いい話だ。悪い話の時は『ご相談』と言う)*
*「わかった。十時に行く」*
シャワーを浴びて、コーヒーを淹れた。
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十時。
恵比寿のオフィス。
山下さんが、会議室で待っていた。
テーブルの上に、薄い封筒が一通。
「会長、お待ちしておりました」
「おはよう。報告って?」
山下さんが、封筒を差し出した。
「融資が、承認されました」
封筒を受け取った。
中に、銀行の書面が入っていた。
「融資承認通知書」
融資金額:金壱億円也
融資期間:五年
金利:年一・四五パーセント(変動)
返済方法:元金均等月賦返済
実行予定日:三月十一日
*(一・四五。山下さんの予測より、少し低い)*
「金利が予測より低いね」
「はい。審査の過程で、田中次長が社内で推してくださったようです。初年度の営業利益率と、自己資金比率の高さが評価されました」
「田中さんには、お礼を言わないと」
「実行日に改めて挨拶に伺います。その際に、お礼をお伝えしましょう」
山下さんが、二枚目の書類を出した。
「融資金使途計画(確定版)」と書かれている。
「使途の最終確認です。三つに分けます」
一つ目。ナカジマ精工への設備投資。三千万円。
超小型インペラの量産化に向けた、五軸制御CNC旋盤の導入。
二つ目。KY Liveのスタジオ増設。二千万円。
渋谷の既存スタジオを拡張し、配信ブースを三室から六室に。収録用の防音スタジオも新設。
三つ目。不動産新規物件の取得。五千万円。
物件の頭金として。残額は物件ごとの不動産担保ローンで調達。
「明後日の水曜日に一億円が入金されます。入金確認後、速やかに各投資を実行してまいります」
「わかった。山下さん、ありがとう」
「仕事ですから」
山下さんの定型句。
でも、今日は少しだけ、声に張りがあった気がした。
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水曜日。
朝九時半。
山下さんから、電話が来た。
「会長、入金を確認いたしました。KY Holdings法人口座に、一億円。間違いございません」
「……来たか」
「はい。来ました」
スマートフォンの画面を見た。
法人口座のアプリ。
残高の桁が、一つ増えていた。
*(一億。銀行から、一億を借りた。今までは、全部自分の金だった。時計の金。ギャンブルの金。それを回して、事業を作ってきた)*
*(今日から、違う。人の金で、事業を回す。銀行が、俺を信用した。その信用に見合う結果を出さなきゃいけない)*
「会長、早速ですが、ナカジマ精工の件を進めてよろしいでしょうか。松田さんと設備メーカーとの三者打ち合わせを、今週金曜に設定しております」
「俺も行く」
「……会長がご出席になりますか」
「三千万の設備だよ。松田さんの顔を見て、話を聞きたい」
「承知しました。金曜日の午前十時に、大田区の工場でお待ちしております」
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金曜日。
吉野さんの車で、大田区に向かった。
春の日差しが、フロントガラスに柔らかく入ってくる。
三月の東京は、まだ冷たい風が吹くが、光だけは春だった。
工場に着いた。
ナカジマ精工の門をくぐると、金属を削る音が、低く響いていた。
この音を聞くと、いつも、松田さんの手を思い出す。四十年間、金属に向き合ってきた手。
事務棟の会議室に入ると、三人がいた。
松田さん。健太郎。
そして、作業着を着た五十代の男性。
「桐島会長、お忙しいところありがとうございます。今日は、工作機械メーカーの高橋さんに来ていただいています」
松田さんが紹介してくれた。
高橋さんは、工作機械メーカーの営業技術者だった。
「桐島です。よろしくお願いします」
「高橋です。本日は、五軸制御CNC旋盤のご提案にまいりました」
高橋さんが、カタログとノートパソコンを開いた。
画面に、大型の工作機械が映し出された。
金属の塊のような筐体。中心に、精密なチャックが見える。
「松田様から、加工対象と精度要件をお聞きしまして、最適な機種をご提案いたします。五軸同時制御の最新モデルです。加工精度は最大でプラスマイナス二ミクロン。チタン合金の微細加工に対応しております」
松田さんの目の色が変わった。
普段は穏やかな目をしている人だが、機械の話になると、目が鋭くなる。
「二ミクロン。今うちにある旋盤だと、どうしても五ミクロンが限界でね。二ミクロンが安定して出せるなら、量産の歩留まりが全然違う」
「はい。この機種は、医療機器の部品加工で多くの実績がございます。インペラのような複雑形状にも対応できます」
「導入費用は?」
高橋さんが、見積書を出した。
「本体が二千四百万円。周辺設備と設置工事を含めて、約二千八百万円。保守契約が年間百二十万円です」
松田さんが、見積書を見た。
それから、こちらを見た。
「桐島さん。この機械が来たら、うちの工場は変わります」
松田さんの声は、静かだった。でも、重かった。
「今の設備でも、仕事はできる。大手メーカーの注文にも応えられる。でも、量産はできない。一個一個、手で調整して、精度を出している。それが、この機械なら——」
松田さんが、言葉を切った。
四十年間、金属と向き合ってきた人の、言葉だった。
「これがあれば、健太郎にも任せられる。俺の手じゃなくても、精度が出る。技術を、人に渡せるようになる」
健太郎が、隣で、黙って頷いていた。
*(松田さんは、自分の技術を守りたいんじゃない。渡したいんだ。次の世代に)*
「高橋さん、発注をお願いします」
「ありがとうございます。納期は約三ヶ月です。六月中旬のお届けになります」
「据え付けと試運転にどのくらい?」
「一週間ほどいただきます」
松田さんが、小さく息を吐いた。
「桐島さん、ありがとうございます」
「松田さんが『変わる』って言ったんだ。俺は、松田さんの言葉を信じて金を出すだけだよ」
松田さんが、少しだけ笑った。
この人が笑うのは珍しい。山下さんと似ている。
工場を出る時、健太郎が門のところまで見送りに来た。
「桐島さん」
「何?」
「師匠が、あんなに嬉しそうな顔をしたのは、久しぶりです」
「そうなんだ」
「はい。うちの工場が買収された時も、桐島さんが来てくれた時も、師匠は嬉しそうでした。でも、今日は特別です。あの機械は、師匠がずっと欲しかったものですから」
*(松田さんは、自分からは言わなかった。欲しいとは。必要だとは言ったけど、欲しいとは言わなかった。この人は、そういう人だ)*
「健太郎、頼んだよ。松田さんの技術、しっかり受け継いでくれ」
「はい。絶対に」
吉野さんの車に乗った。
工場の門が、バックミラーの中で小さくなっていった。
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午後。
渋谷のKY Liveのスタジオに寄った。
藤原さんが、増設計画の図面を広げてくれた。
現在の配信ブース三室に加えて、新たに三室を増設。さらに、防音仕様の収録スタジオを一室。
「この規模なら、所属ライバーが十人になっても対応できます。企業案件の撮影も、外のスタジオを借りずに済むようになります」
「工期は?」
「内装業者に確認したところ、四月着工、六月末完成の予定です。工事中も、既存の三ブースは通常通り使えます」
「予算は?」
「内装工事と設備で、一千八百万。予備費を含めて、二千万以内で収まります」
「お願いします」
藤原さんが、少し声のトーンを上げた。
「会長、スタジオが広くなれば、コラボ配信の幅が格段に広がります。今は、水野さんとアンちゃんのコラボ配信が人気ですけど、三人以上の同時配信ができるようになれば、イベント企画の幅も広がる」
「藤原さんに任せるよ。スタジオのことは、藤原さんが一番わかってる」
「ありがとうございます」
スタジオを出た。
渋谷の街は、三月の陽気で人が多かった。
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翌週。
西村と、不動産の物件視察に出かけた。
吉野さんの車で、品川区に向かった。
「ここだよ」
西村が指差した先に、五階建てのマンションが建っていた。
築十二年。全十八戸。鉄筋コンクリート造。
駅から徒歩七分。品川区の住宅街。
「今、満室。利回りは表面で六・八パーセント。管理状態もいい。外壁もきれいだし、エントランスの掃除も行き届いてる」
西村が、物件の資料を見せてくれた。
売却価格は、一億二千万円。
頭金五千万、残りは不動産担保ローン。
「西村さん、この物件のどこがいいの」
「まず、立地。品川はここ数年、再開発で地価が上がってる。マンションの価値が落ちにくい。次に、入居者の属性。ファミリーと単身の混合だけど、全戸とも賃貸契約が安定してる。退去率が低い」
「ネガティブな点は?」
「築十二年だから、五年以内に大規模修繕が必要になる。その費用が一千万前後。あとは、管理組合がしっかりしているかどうか。ここは自主管理じゃなくて管理会社が入ってるから、その点は安心だ」
マンションの前に立った。
エントランスのガラスがきれいだった。植栽も手入れされている。
管理が行き届いている物件は、細部でわかる。
「中を見れる?」
「今日は外観だけ。内覧は、売主側のスケジュールが来週以降になる」
「わかった。西村さんがいいと思うなら、前向きに進めよう」
「了解。山下さんと資金計画を詰めておく」
車に乗った。
品川の住宅街を、吉野さんの車が抜けていく。
*(五つ目の物件。不動産は、最初の高輪のマンションから始まった。あの時は、一人で内覧して、一人で決めて、一人で金を払った。今は、西村がいて、山下さんがいて、銀行がいる)*
*(一人でやっていた頃より、判断が速い。人がいると、見える景色が増える)*
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午後。
吉野さんの車で、中山競馬場に向かった。
三月の中山。春の日差しが、スタンドに降り注いでいた。
芝コースの緑が、冬の枯れ色から、少しずつ鮮やかになり始めている。
指定席に座って、ホットコーヒーを買った。
三月の中山は、まだ風が冷たい。でも、日向にいると暖かかった。
朝の映像。七番の馬。芝2000。
第十一レース。
3連単。7-3-11。
八万円。
レースが始まった。
七番が中団につけた。ペースは落ち着いている。
三角で、七番が外に出した。直線に入る。
七番が、鮮やかに差し切った。三番が粘って二着。十一番が内から三着。
7-3-11。確定。
払い戻し。
3連単。配当、六十五倍。
八万円が、五百二十万円。
*(五百二十万。まあまあだ)*
コーヒーの残りを飲んだ。
スタンドから、中山の芝コースを見下ろした。
緑が戻り始めている。季節は、確実に動いている。
*(今週、三千万の旋盤を発注した。来週には、スタジオの増設工事が始まる。再来週には、不動産の内覧がある。全部、銀行から借りた金で動いている)*
*(競馬で五百二十万勝った。でも、それは俺の金だ。工場の旋盤に使う三千万は、銀行の金だ。重さが、違う)*
*(銀行の金で失敗したら、返済だけが残る。自分の金なら、失くしても自分が痛いだけだ。でも、銀行の金は、信用を失くす)*
競馬場を出て、吉野さんの車に乗った。
帰りの首都高から、東京の街並みが見えた。
三月の夕方の光が、ビル群をオレンジに染めていた。
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夜。
タワーマンションのリビング。
山下さんから、今週の投資実行状況をまとめたメールが来ていた。
一。ナカジマ精工。五軸制御CNC旋盤を発注。前金一千四百万円を支払い済み。残金一千四百万円は納品時。納品予定は六月中旬。
二。KY Live。スタジオ増設工事の契約締結。着手金八百万円を支払い済み。残金一千二百万円は完成時。工期は四月上旬から六月末。
三。不動産。品川区の収益マンション(1億2千万円)の内覧を来週に設定。購入決定後、頭金五千万円を支払い、残額は不動産担保ローンで調達。
山下さんが、メールの末尾に一行付け加えていた。
*「一億円の融資が入金されてから五日。既に二千二百万円が動いています。速度感としては適正です。来月末までに、三つの投資をすべて実行に移します」*
メールを閉じた。
窓の外に、東京の夜景。
懐中時計を取り出した。
テーブルの上に置いた。
銀色の蓋が、照明を反射していた。
*(一億借りて、一億使う。金が、回っている。俺の金じゃない金が、俺の判断で動いている)*
*(松田さんの旋盤。藤原さんのスタジオ。西村が見つけた物件。全部、人がやりたいことの先に、金を置いた。それだけのことだ)*
*(でも、怖い。正直に言えば、怖い。自分の金で負けるのは慣れている。ギャンブラーだから。でも、人の金で負けたことは、ない)*
コーヒーを淹れた。
ソファに座って、夜景を見た。
*(山下さんが、この流れを作ってくれた。決算を固めて、CFOの名刺を持って、銀行に行って、融資を引き出した。俺一人なら、まだ全部自己資金でやっていた。それが正しいとも限らない)*
*(経営って、こういうことなんだろう。自分の器だけで勝負するんじゃなくて、周りの力を使って、もっと大きな器を作る。山下さんが、それを教えてくれている)*
懐中時計に、手を伸ばした。
冷たかった。
映像は、もう来ない時間だ。
*(六月には、松田さんの工場に新しい旋盤が入る。スタジオが完成する。品川の物件も、おそらく決まる。全部が、同時に動く)*
*(忙しくなる。でも、悪くない忙しさだ)*
窓の外の夜景を見つめた。
三月の東京は、冬と春の境目にいた。
ビルの光が、いつもより少しだけ、暖かく見えた。
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**── 残高メモ(第53話)──**
*メガバンクからの法人融資1億円が実行。ナカジマ精工の五軸CNC旋盤を発注(前金1,400万)、KY Liveスタジオ増設工事を契約(着手金800万)、品川区の収益マンションを来週内覧予定(頭金5,000万は次話以降)。*
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約23,496.8万円 |
| 中山競馬 3連単(8万→520万) | +約512万円 |
| 競馬・競艇収入(3月上旬〜中旬・片手間分) | +約200万円 |
| 生活費・飲食費等 | ▲約3万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約24,205.8万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約5,698.4万円 |
| メガバンク法人融資(1億円・5年・年利1.45%) | +10,000万円 |
| FORECAST 3月月次売上(横ばい安定) | +約770万円 |
| 不動産賃料収入(3月分・既存4物件) | +約197万円 |
| オフィス賃料・人件費等(3月分) | ▲約390万円 |
| 宮本エンジニア給与(3月分) | ▲約58万円 |
| ナカジマ精工設備投資(CNC旋盤前金) | ▲1,400万円 |
| KY Liveスタジオ増設(着手金) | ▲800万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約14,017.4万円** |
*注:融資1億入金済み。ナカジマ精工旋盤残金1,400万(6月納品時)、スタジオ増設残金1,200万(6月完成時)、不動産頭金5,000万(購入決定後)が今後支出予定。融資返済は4月開始(月額約180万=元金167万+利息約12万)。借入残高1億円。*
### KY Live
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約353.5万円 |
| ギフト収入合計(事務所分10%・全ライバー・3月) | +約25万円 |
| 企業案件収入(事務所分30%・3月) | +約22万円 |
| 人件費・ライバーサポート等(3月分) | ▲約160万円 |
| KYHよりスタジオ増設資金(着手金) | +800万円 |
| スタジオ増設工事着手金 | ▲800万円 |
| **KY Live 法人口座** | **約240.5万円** |
*注:スタジオ増設資金はKYHからの出資として処理。増設工事(4月〜6月末)。完成時に残金1,200万をKYHが追加出資予定。5名体制で月間収入が約47万に成長(ギフト25万+企業案件22万)。赤字幅は月113万に縮小。*
### ナカジマ精工
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約4,520万円 |
| 受注加工売上(3月分) | +約380万円 |
| 大手メーカー継続取引(3月分) | +約125万円 |
| 人件費(従業員14名・社保込み) | ▲約350万円 |
| 研究費・材料費 | ▲約50万円 |
| 工場賃料(桐島個人名義物件) | ▲約30万円 |
| 光熱費・設備維持費 | ▲約40万円 |
| KYHより設備投資資金(旋盤前金) | +1,400万円 |
| 五軸CNC旋盤 前金支払い | ▲1,400万円 |
| **ナカジマ精工 口座残高** | **約4,555万円** |
*注:月次黒字4ヶ月連続(月間収入505万 vs 支出470万=純増35万)。五軸制御CNC旋盤(五軸制御CNC旋盤)を発注。納品は6月中旬。残金1,400万は納品時にKYHが追加出資。*
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### 全体サマリー(第53話時点)
| 口座 | 残高 |
|:--|--:|
| 桐島遊馬(個人) | 約24,205.8万円 |
| KY Holdings(法人) | 約14,017.4万円 |
| KY Live | 約240.5万円 |
| ナカジマ精工 | 約4,555万円 |
*融資借入残高:1億円(返済開始は4月から)。不動産頭金5,000万+旋盤残金1,400万+スタジオ残金1,200万=今後の確定支出7,600万円。*
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*【第54話 へ続く】*




