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第52話 〜面談〜


 二月の第三週。

 火曜日の朝。


 目が覚めて、枕元の懐中時計を握った。

 温かかった。


 映像が、来た。


 川崎競馬。第八レース。

 ダート1400メートル。

 五番の馬が、四角で外に持ち出して、直線で一気に差し切る映像。

 二着は二番。三着は八番。


 *(川崎か。夜のレースだ。今日は、その前に、やることがある)*


 シャワーを浴びて、クローゼットを開けた。

 普段は、Tシャツにジャケットを引っ掛ける程度で済ませている。

 今日は、違った。


 山下さんから昨日、LINEが来ていた。


 *「明日の銀行面談ですが、スーツでお越しください。紺か濃いグレー。ネクタイは無地。靴は革靴。時計は、普通のものを。懐中時計は、ポケットの中に」*


 山下さんらしい指示だった。

 細かい。でも、必要なことだ。


 紺のスーツに袖を通した。

 買ったまま一度しか着ていない。タグを取る時に、値札が見えた。

 山下さんが入社直後に「社長はいつか必要になりますから」と見繕ってくれたものだ。


 鏡の前に立った。

 似合っているかどうかは、自分ではわからなかった。


 *(八年間、スーツなんて縁がなかった。バイト先のユニフォームと、競馬場のジーンズ。それが俺の制服だった)*


 ネクタイを締めた。

 不器用に結んで、三回目でようやく形になった。


 懐中時計を、スーツの内ポケットに入れた。

 胸の近くで、温かさが残っていた。


---


 十時。

 恵比寿のオフィス。


 山下さんが、会議室で待っていた。

 いつものスーツ。いつもの眼鏡。いつもの姿勢。

 ただし、今日は胸ポケットにCFOの名刺が入っている。


 テーブルの上に、バインダーが三冊と、薄い冊子が一部。


「会長、本日の流れを最終確認いたします」


「お願いします」


「十一時半に、丸の内の本店に到着します。先方は、法人営業部の次長と担当者の二名です。所要時間は一時間程度」


 山下さんが、薄い冊子を差し出した。

 表紙に「KY Holdings株式会社 事業計画書(要約版)」と書かれている。


「事業計画書の要約版です。会長には、事前に目を通していただきたい」


 開いた。

 一ページ目に、会社の概要。

 二ページ目に、事業の全体像。FORECAST、不動産、KY Live、ナカジマ精工の四事業。

 三ページ目に、第一期の財務サマリー。売上一億二千九百万。営利六千七百万。

 四ページ目に、融資の使途と返済計画。

 五ページ目に、第二期以降の収支見通し。


 全部で八ページ。

 凝縮されていた。


「よくこれだけまとめたね」


「銀行に見せる資料は、簡潔であるほど良い。数字が語れるなら、言葉は少なくていい」


 *(山下さんらしい哲学だ)*


「会長に一つだけお願いがあります」


「何?」


「銀行は、数字を見ます。しかし、数字だけでは融資を決めません。最後に判断を左右するのは、経営者の人間性です。会長には、なぜこの事業をやっているのか、これからどこに向かうのかを、ご自身の言葉で話していただきたい」


「……台本は?」


「ありません。台本を読む経営者を、銀行は信用しません」


 山下さんが、少しだけ、口元を緩めた。

 この人が笑いかけるのは、珍しい。


「会長は、人に話す時が一番強い。ご自分の言葉で話してください。私は、数字の裏付けに徹します」


「わかった」


---


 十一時十五分。

 吉野さんの車で、丸の内に向かった。

 首都高からビル群が見えてくる。

 二月の光が、ガラス張りのビルに反射していた。


 *(銀行。丸の内の本店。大手の、本店だ)*


 *(去年の今頃は、時計の力で金を稼ぎ始めて、まだ半年も経っていなかった。それが今、銀行の本店に融資の相談に行く)*


 車が、ビルの前に停まった。

 山下さんが先に降りて、入口の方を確認した。


「参りましょう」


 エントランスを抜けて、受付で名前を告げた。

 案内されたのは、八階の応接室だった。

 広い。窓の外に、皇居の緑が見えた。


---


 十一時半。


 法人営業部の次長が入ってきた。

 五十代前半。白髪が混じった短い髪。ネクタイの結び目が、きれいに整っている。

 名刺には「法人営業部 次長 田中誠一」と書いてあった。


 後ろに、三十代くらいの男性。担当者だろう。


「KY Holdings様、本日はお越しいただきありがとうございます。法人営業部の田中でございます」


「桐島です。よろしくお願いします」


「こちらが、担当の村田です」


「村田です。よろしくお願いいたします」


 名刺交換。

 山下さんが、「CFO 山下隆」の名刺を渡した。


 田中次長が、山下さんの名刺を見た。

 ほんの一瞬、目が動いた。


「山下様。以前、城南信用金庫にいらっしゃいましたか」


「はい。十五年ほど前になりますが」


「やはり。当時、合同の研修で一度ご一緒した記憶がございます。その節は」


「こちらこそ。ご縁でございますね」


 *(山下さん、銀行の人間と面識があったのか。この人の経歴は、まだ知らない部分がある)*


 田中次長の表情が、ほんの少し、柔らかくなった。

 それだけで、場の空気が変わった。


---


「では、早速ですが、御社の事業内容と融資のご相談について、お聞かせいただけますでしょうか」


 山下さんが、事業計画書を配った。


「まず、当社の概要と第一期の業績からご説明いたします」


 山下さんが、話し始めた。


 声は、いつもと変わらなかった。

 淡々と、正確に、過不足なく。

 でも、聞く人の目線がどこに向くかを計算した話し方だった。


 売上一億二千九百万。営利六千七百万。営業利益率五十二パーセント。

 田中次長の眉が、かすかに動いた。

 五十二パーセントという数字の意味を、この人は一瞬で理解している。


「不動産は、現在四物件を保有しており、稼働率は百パーセント。年間賃料収入は約二千三百万円です」


「全物件、自己資金での取得でしょうか」


「はい。全額、自己資金です」


 田中次長が、村田に目配せした。

 村田が、メモを取っている。


「子会社が二社ございます。KY Live株式会社。配信者のマネジメント事業です。昨年六月設立。第一期は営業赤字七百十四万円ですが、計画通りの先行投資期です。来年度の単月黒字化を見込んでおります」


「もう一社、ナカジマ精工株式会社。精密金属加工の製造業です。昨年三月に買収いたしました。第一期は移行期の九ヶ月決算で赤字でしたが、後半から月次黒字に転じております。大手医療機器メーカーとの継続取引も確定しております」


 田中次長が、事業計画書の四ページ目を開いた。

 融資使途のページ。


「三千万がナカジマ精工の設備投資、二千万がKY Liveのスタジオ増設、五千万が不動産新規物件の頭金。合計一億円ということですね」


「はい。返済原資は、FORECASTの月次収益と不動産賃料収入を中心に見込んでおります。年間の返済額は約二千万円。現在の経常利益水準であれば、十分にカバーできる計算です」


 田中次長が、資料から目を上げた。

 俺の方を、見た。


「桐島社長」


「はい」


「数字は拝見いたしました。設立初年度でこの業績は、率直に申し上げて、優秀です。一点、お聞かせください。桐島社長は、なぜこれだけ多岐にわたる事業を手がけていらっしゃるのですか」


 山下さんが、俺に目配せした。

 ここだ。


 少し、間を置いた。

 窓の外の皇居の緑が、二月の光の中で、静かに広がっていた。


「人に会ったから、です」


 田中次長が、少し首を傾げた。


「俺は——私は、最初、一人で始めました。自己資金で会社を作って、アプリを作って、不動産を買って。でも、事業が形になったのは、全部、人のおかげです」


 山下さんを、見た。


「この人が来てくれたから、会社がまともに動いた。ナカジマ精工は、七十二歳の技術者が四十年かけて磨いた技術を絶やしたくなかった。KY Liveは、才能のある配信者に活躍の場を作りたかった。全部、人に会って、その人がやりたいことに、自分の力を重ねた結果です」


 田中次長が、黙って聞いていた。

 メモは、取っていなかった。


「融資を受けたいのは、もっと多くの人の力を活かすためです。ナカジマ精工には、世界に通用する精密加工の技術がある。それを量産化するには、設備が要る。KY Liveは、今まさに成長の入口にいる。スタジオを広げれば、もっと多くの配信者を支えられる。不動産は、安定収益の基盤です。この三つに投資することで、グループ全体が一段上に行ける」


「……なるほど」


 田中次長が、わずかに頷いた。


「桐島社長。お若いですね」


「二十九です」


「二十九歳で、ここまでの事業を回していらっしゃる。失礼ですが、原資は?」


 *(来た。この質問が、一番怖かった)*


 山下さんが、口を開いた。


「桐島は、投資と個人事業で資産を築いております。詳細は確定申告書に記載の通りです。合法的な資産であることは、税理士として私が保証いたします」


 山下さんの声は、穏やかだったが、隙がなかった。

 「税理士として」という一言が、重みを持っていた。


 田中次長が、少しの間、こちらを見ていた。

 それから、微かに表情を崩した。


「ありがとうございます。本日のお話、大変よく理解いたしました。融資のご希望額、使途、返済計画ともに明確です。審査に進めさせていただきます」


「ありがとうございます」


「審査には、通常二週間から三週間ほどお時間をいただきます。追加資料のお願いがあれば、村田からご連絡いたします」


 村田が、丁寧に頭を下げた。


「一つだけ、申し添えさせてください」


 田中次長が、立ち上がりながら言った。


「初年度の業績で一億の融資申請というのは、私の経験上、珍しいケースです。しかし、数字は嘘をつきませんし、事業の多角化もリスク分散として合理的です。前向きに、検討させていただきます」


 *(前向きに。銀行の人がこの言葉を使う時は、かなりの確度で通るらしい。山下さんが、昨日そう教えてくれた)*


「よろしくお願いいたします」


 握手をした。

 田中次長の手は、乾いていて、しっかりしていた。


---


 ビルを出た。

 丸の内の冬の空気が、顔にあたった。

 二月の風が、冷たかった。


 山下さんが、隣を歩いていた。


「山下さん」


「はい」


「今日、俺、大丈夫だった?」


「はい。百点です」


「……百点は、嘘でしょ」


「八十五点です。『俺は』を途中で『私は』に言い直したところが減点です」


「細かいな」


「銀行は、細かいです」


 山下さんが、歩きながら、少しだけ口元を動かした。

 この人が笑うのは、本当に珍しい。


「ただ、あの場で自分の言葉で話せたのは、大きかった。田中次長の目の色が変わりました。数字は予想通りでしたが、経営者の人間性を確認できたことで、先方の心証は極めて良好だと判断しています」


「田中さんと面識があったのは助かったね」


「偶然です。ただ、偶然であっても、活かすのが仕事です」


 *(山下さんらしい言い方だ)*


 吉野さんの車に乗った。

 ネクタイを少しだけ緩めた。

 

 *(終わった。銀行との、初めての面談が)*


 *(怖かった。でも、山下さんがいたから、大丈夫だった)*


 *(一億円。あの銀行から、一億円を借りる。審査が通れば、俺はもう、ただのギャンブラーじゃない。銀行が認めた経営者になる)*


---


 夕方。

 吉野さんの車で、川崎に向かった。


 川崎競馬場。

 ナイター開催。

 二月の川崎は、空気が刺すように冷たい。

 照明に照らされたダートコースが、白く光っていた。


 指定席に座って、ホットコーヒーを買った。

 スーツのまま、競馬場にいる。

 周りの人間は、誰も気にしていなかった。

 競馬場では、スーツもジーンズも関係ない。みんな、ただの客だ。


 ポケットの中の時計が、温かいままだった。

 朝の映像。五番の馬。差し切り。


 第八レース。

 ダート1400メートル。

 3連単。5-2-8。

 十万円。


 レースが始まった。

 五番が、中団から外に出した。

 四角で、大きく外に持ち出す。

 直線。追い込みが、鮮やかだった。

 二番が粘って二着。八番が内から三着に食い込んだ。


 5-2-8。確定。


 払い戻し。

 3連単。配当、百三十四倍。

 十万円が、一千三百四十万円。


 *(千三百四十万。今日は、いい日だ)*


 ホットコーヒーの残りを飲み干した。

 スーツの胸ポケットの上から、懐中時計に触れた。

 温かさは、もう消えていた。


 *(朝は銀行。夜は競馬場。笑える一日だ。でも、両方とも俺の日常だ)*


 川崎の夜空を見上げた。

 照明塔の光が、冬の空に白く浮かんでいた。


---


 帰りの車の中。


 山下さんからLINEが来ていた。


 *「本日はお疲れさまでした。先ほど村田氏から連絡があり、追加資料として直近三ヶ月の月次試算表を求められました。明日中に送付いたします」*


 *「早いね。ありがとう」*


 *「審査のスピードが早いのは、先方が前向きな証拠です。良い兆候です」*


 スマートフォンを閉じた。


 窓の外を、首都高の明かりが流れていた。

 レインボーブリッジが、遠くに見えた。


 *(融資が通れば、動き出す。ナカジマの設備。KY Liveのスタジオ。新しい不動産。全部が、一度に動く)*


 *(今日、銀行で話した言葉は、嘘じゃなかった。人に会ったから、事業を始めた。それだけは、本当のことだ)*


 *(ただ、一つだけ嘘がある。原資の話だ。投資と個人事業。山下さんは、そう説明してくれた。法的には正しい。でも、本当のことは、俺と時計だけが知っている)*


 胸のポケットに手を当てた。

 懐中時計は、もう冷たくなっていた。


 タワーマンションに着いた。

 スーツを脱いで、ハンガーにかけた。

 シャワーを浴びて、リビングのソファに座った。


 窓の外に、東京の夜景。

 二月の夜は、まだ冬の色をしていた。


 *(二週間後には、答えが出る。銀行が、KY Holdingsを信用するかどうか)*


 *(もし通ったら。一億円の金が入って、一億円の借金が始まる。自分の金じゃない金で、事業を回す。それが、経営者だ)*


 *(山下さんが、俺をそこに連れて行こうとしてくれている。CFOという肩書きは、伊達じゃない)*


 コーヒーを淹れた。

 懐中時計を、テーブルの上に置いた。


 *(今日は、長い一日だった。でも、悪くない一日だった)*


---


**── 残高メモ(第52話)──**


*メガバンク法人営業部にて初回融資面談。田中次長の心証は良好、「前向きに検討」。審査は2〜3週間。川崎競馬ナイターで大当たり。*


### 個人資金(桐島遊馬)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約22,049.8万円 |

| 川崎競馬ナイター 3連単(10万→1,340万) | +約1,330万円 |

| 競馬・競艇収入(2月中旬・片手間分) | +約120万円 |

| 生活費・飲食費等 | ▲約3万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約23,496.8万円** |


### 法人資金(KY Holdings)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約5,179.4万円 |

| FORECAST 2月月次売上(横ばい) | +約770万円 |

| 不動産賃料収入(2月分) | +約197万円 |

| オフィス賃料・人件費等(2月分) | ▲約390万円 |

| 宮本エンジニア給与(2月分) | ▲約58万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約5,698.4万円** |


*注:融資は審査中。承認後に1億円が入金予定。*


### KY Live


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約473.5万円 |

| ギフト収入合計(事務所分10%・全ライバー・2月) | +約22万円 |

| 企業案件収入(事務所分30%・2月) | +約18万円 |

| 人件費・ライバーサポート等(2月分) | ▲約160万円 |

| **KY Live 法人口座** | **約353.5万円** |


*注:5人目の所属ライバー(音楽系男性・弾き語り)が2月に正式契約。月額サポート+15万。所属ライバー5名体制に。*


### ナカジマ精工


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約4,495万円 |

| 受注加工売上(2月分) | +約370万円 |

| 大手メーカー継続取引(2月分) | +約125万円 |

| 人件費(従業員14名・社保込み) | ▲約350万円 |

| 研究費・材料費 | ▲約50万円 |

| 工場賃料(桐島個人名義物件) | ▲約30万円 |

| 光熱費・設備維持費 | ▲約40万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約4,520万円** |


*注:月次黒字が3ヶ月連続で定着。大手メーカー取引月125万+受注加工370万=収入495万 vs 支出470万。融資承認後、精密旋盤導入(3,000万)予定。*


---


### 全体サマリー(第52話時点)


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約23,496.8万円 |

| KY Holdings(法人) | 約5,698.4万円 |

| KY Live | 約353.5万円 |

| ナカジマ精工 | 約4,520万円 |


---


*【第53話 へ続く】*


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