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第51話 〜決算〜


 二月の第一週。

 水曜日の朝。


 目が覚めて、枕元の懐中時計を握った。

 温かかった。


 映像が、来た。


 平和島競艇。第七レース。

 三号艇が、まくりでターンを決める映像。

 三連単の組み合わせが、鮮明に見えた。


 *(今日は平和島か。夕方のレースだ)*


 カーテンの隙間から、冬の朝日が差し込んでいた。

 二月の光は低い。でも、空は澄んでいる。


 シャワーを浴びて、コーヒーを淹れた。

 窓の外に、東京のビル群が広がっている。

 冬の空気の中で、ビルの輪郭がいつもより鋭く見えた。


 今日は、大事な日だ。

 山下さんとの、決算報告ミーティング。

 KY Holdingsの第一期が、終わった。


---


 十時。

 恵比寿のオフィス。


 会議室に入ると、山下さんが既にスクリーンの前に立っていた。

 テーブルの上には、三つのバインダーが並んでいる。

 それぞれの表紙に、手書きのラベル。


 「KY Holdings 第一期決算」

 「KY Live 第一期決算」

 「ナカジマ精工 第十二期決算」


 *(三つの会社の一年分が、この三冊に詰まっている)*


 西村もいた。

 椅子に座って、コーヒーを飲んでいる。


「全員揃いましたので、始めます」


 山下さんが、スクリーンに最初のスライドを映した。


---


「まず、KY Holdings株式会社。第一期の決算報告です。事業年度は一月一日から十二月三十一日まで。設立から、丸一年となります」


 山下さんが、売上と費用のグラフを表示した。

 月別の棒グラフ。

 前半は右肩上がり、夏以降に横ばいから微減、秋口で底を打って、年末に向けてわずかに回復。

 FORECASTの有料会員数と、見事に連動した曲線だった。


「第一期の連結ベースでの概要です。まず、KY Holdings単体から」


 山下さんが数字を読み上げた。


「売上高は、アプリ事業と不動産賃貸を合算して、約一億二千九百万円。内訳は、FORECASTの課金・広告収入が約一億六百万円。不動産賃料収入が約二千三百万円。年間の営業費用は、人件費・オフィス賃料・開発費等で約六千二百万円。営業利益は約六千七百万円」


 西村が口笛を吹いた。


「一年目で営利六千七百万。悪くないじゃん」


「はい。ただし、ここから法人税等が差し引かれます」


 山下さんがスライドを切り替えた。

 法人税等の内訳が表示された。


「法人税、住民税、事業税を合算して——約一千二百万円」


 *(やっぱり来たか。第22話の山下さんの試算通りだ)*


 あの九月の日を思い出した。

 山下さんが淡々と「一千二百万円」と言った日。

 あの時は見込み額だったが、今、確定した。


「納税期限は二月二十八日です。既に申告書の準備は完了しておりますので、今週中に提出、月末までに納付の段取りで進めます」


「お願いします」


「なお、来期——第二期は、今期の実績に基づいた中間申告が発生します。時期は八月。金額は、今期の法人税の半額で約六百万円です」


 *(来期からは、中間申告も来る。山下さんが九月に言っていた通りだ。経営は、稼いだ端から金が出ていく仕組みになっている)*


「差し引き後の当期純利益は、約五千五百万円。第一期としては、十分な結果です」


 山下さんが、珍しく「十分」という言葉を使った。

 この人が数字に対して肯定的な評価を下す時は、本当にそうなのだ。


---


「次に、KY Live株式会社。六月設立、事業年度をKY Holdingsと揃えて十二月末としましたので、第一期は六月二十五日から十二月三十一日までの約六ヶ月間です」


 山下さんが、二冊目のバインダーを手に取った。


「売上高は、ギフト収入の事務所分と企業案件を合算して、約百三十一万円。営業費用は、人件費・ライバーサポート費・スタジオ運営費等で約八百四十五万円。営業損失は、約七百十四万円」


「赤字だね」


「はい。計画通りの赤字です」


 山下さんの声は、全く動揺がなかった。


「事業の立ち上げフェーズとして、想定の範囲内です。十二月末時点で、ギフト連動配信の定着、企業案件の開始、所属ライバー四名の確保——すべて計画を上回っております。数字は赤字ですが、事業の基盤は着実に構築されています」


「来年の見通しは?」


「藤原さんの試算では、来年夏頃に単月黒字化。年間では、なお赤字の見込みですが、赤字幅は大幅に縮小します。佐々木さんのフォロワーが十万を超えれば、企業案件の単価が跳ね上がります。その前提が崩れなければ、来期後半には黒字基調に転じます」


「わかった。焦らず行こう」


「はい。なお、KY Liveの法人税等は、赤字のためゼロです。この欠損金は翌期以降に繰り越されますので、黒字化した際の税負担を軽減できます」


 西村が頷いた。


「赤字を先行投資として使えるってことか。山下さん、計算ずくだね」


「仕事ですから」


 山下さんの定型句だった。


 *(KY Liveのキャッシュが薄くなっていたので、先月、KYHから五百万を注入した。藤原さんのレポートでは、この先三ヶ月分の運転資金は確保できている。あとは、数字が追いつくのを待つだけだ)*


---


「最後に、ナカジマ精工株式会社。こちらは従来の決算期が三月末でしたが、買収に伴い、グループ管理の効率化のため十二月末に変更しております。移行期として、四月一日から十二月三十一日までの九ヶ月決算となります」


「九ヶ月か。短いね」


「はい。来期からは、通常の十二ヶ月決算に戻ります」


 山下さんが三冊目を開いた。


「売上高は、受注加工と大手メーカー取引を合算して約二千八百六十万円。営業費用は、人件費・材料費・工場賃料・設備維持費等で約四千二百五十万円。営業損失は約一千三百九十万円」


「こちらも赤字か」


「はい。ただし、三つの点で状況は大きく改善しています」


 山下さんが指を三本立てた。

 この人が指を立てるのは珍しい。


「一つ目。月次の推移を見ると、四月は月間赤字二百二十万でしたが、十一月と十二月はほぼ収支均衡に到達しています。つまり、赤字は前半に集中しており、後半は自走できる体質に変わりつつあります」


「二つ目。大手医療機器メーカーとの継続取引が正式に確定しました。月額百二十万の安定収入が、来期から通年で入ります。これだけで、月次黒字が定着する計算になります」


「三つ目。前期までの繰越欠損金が約一千五百万円ございます。今期の赤字分と合算すると、約二千九百万円の欠損金が翌期に繰り越されます。来期以降、利益が出ても、この範囲内であれば法人税はかかりません」


 *(赤字が、来期の盾になる。山下さんの計算ずくだ)*


「ナカジマ精工の法人税等も、繰越欠損金の範囲内のため、実質ゼロです」


「松田さんと健太郎さんに、この数字を共有しておいてもらえますか。従業員の皆さんにも、赤字だけど改善しているということを、きちんと伝えたい」


「承知しました。中島さんにも、レポートをお送りしておきます」


---


「以上が、三社の決算報告です」


 山下さんがスクリーンの電源を落とした。

 蛍光灯の明かりが戻ってきた。


 三冊のバインダーを見つめた。

 一年分の数字。

 一年分の判断。

 一年分の人の営み。


「山下さん」


「はい」


「一つ、提案がある」


 山下さんが、こちらを見た。

 いつもの、感情の読めない目。


「山下さんに、CFOに就任してもらいたい」


 会議室が、一瞬だけ、静かになった。

 エアコンの低い音だけが響いていた。


「……CFO、でございますか」


「はい。最高財務責任者。KY Holdingsグループ全体の財務を統括するポジションです」


 西村がコーヒーカップを置いた。


「俺も賛成。つーか、遅いくらいだよ。山下さんは最初から、実質CFOの仕事をしてたじゃん」


「いや、肩書きの問題じゃないんだ」


 俺は、西村ではなく、山下さんを見て言った。


「この先、銀行との交渉が始まる。対外的な信用力が必要になる。取締役兼経理と、CFOでは、名刺を渡した時の重みが違う。山下さんの実力に見合ったポジションを、ちゃんと形にしたい」


 山下さんは、数秒間、眼鏡の奥の目を動かさなかった。

 考えているのか。感情を整理しているのか。

 この人の内面は、いつも読めない。


「……承知いたしました。お引き受けします」


「ありがとうございます」


「ただし、一つだけ。肩書きが変わっても、私のやることは変わりません。数字を見て、嘘のない報告をして、会長の判断を支えること。それだけです」


「それだけで十分です」


 山下さんが、わずかに頭を下げた。

 表情は変わらない。

 でも、姿勢が、ほんの少しだけ、深く下がった気がした。


---


 西村が席を立った後、山下さんが切り出した。


「会長、決算に関連して、もう一つご相談がございます」


「どうぞ」


「融資の件です」


 山下さんが、新しい資料を取り出した。

 表紙には「金融機関アプローチ計画(案)」と書かれていた。


「第一期の決算書が確定したことで、金融機関への融資申請が現実的になりました。設立初年度は、実績がないため銀行からの融資は極めて困難でした。しかし、一年分の決算書——しかも、営利六千七百万の数字が揃ったことで、状況が変わります」


「融資か。今まで、全部自己資金でやってきたけど」


「はい。そして、それが限界に近づいています」


 山下さんの声が、わずかに低くなった。

 この人の声が低くなる時は、大事な話をする時だ。


「率直に申し上げます。現在のKY Holdingsグループの資金構造は、会長の個人資金に過度に依存しております。ナカジマ精工への追加出資。KY Liveへの運転資金注入。不動産の現金購入。すべて、会長の個人口座から捻出しています」


「……言われてみれば、その通りだね」


「会長の個人資金力は、率直に申し上げて、異常です。しかし、事業体として健全に成長するためには、金融機関との取引実績——つまり融資を受けて、きちんと返済するという実績が不可欠です」


 *(山下さんが「異常」と言った。この人がそういう言葉を使うのは、珍しい。それだけ、真剣だということだ)*


「融資を受けること自体が、信用の証になるということですか」


「その通りです。銀行から金を借りられるということは、銀行がその会社を信頼しているということです。将来的に、大型の不動産投資や、ナカジマ精工の設備投資、あるいはM&Aを検討する際に、融資枠があるのとないのとでは、選択肢の幅が全く違います」


 山下さんが、資料のページをめくった。


「具体的なご提案です。メインバンクの法人営業部に、融資のご相談をしたいと考えております。申請額は一億円。期間は五年。金利は、現在の市場環境と当社の財務内容を考慮すると、一・五パーセント前後で交渉可能と見込んでおります」


「一億円」


「はい。使途は三つです。一つ目が、ナカジマ精工の新規設備投資。超小型インペラの量産化に向けた精密旋盤の導入に、約三千万。二つ目が、KY Liveのスタジオ増設。配信ブースの拡張と、収録スタジオの整備に約二千万。三つ目が、不動産事業の新規物件取得の頭金として約五千万」


 *(一億。銀行から一億を借りる。今まで、全部自分の金でやってきた。その感覚を、変えないといけない)*


「山下さん、俺にとっては、借金って感覚的にちょっと怖いんだけど」


 正直に言った。

 八年間の貧困時代。

 百万の壁。

 その記憶が、まだ体に残っている。


「お気持ちは理解しております」


 山下さんが、穏やかに言った。


「ただ、個人の借金と、法人の融資は、本質的に異なります。法人融資は、事業の成長を加速させるためのツールです。一億円を年利一・五パーセントで借りた場合、年間の利息は百五十万円。月に直すと、約十二万五千円です。この金額で、三千万の設備と、五千万の不動産が手に入るのであれば、投資効率は極めて高い」


「月十二万五千円か」


「はい。FORECASTの有料会員が、十三人分の月額課金に相当します」


 *(十三人分。そう言われると、確かに安い)*


「わかった。進めてくれ」


「承知しました。来週、メインバンクの法人営業部にアポイントを取ります。会長にもご同席いただきます。決算書と事業計画書を持参して、まず初回のお打ち合わせから始めます」


「俺、銀行との面談って初めてなんだけど」


「ご安心ください。私が段取りをすべて整えます。会長には、事業のビジョンを、ご自身の言葉でお話しいただければ結構です。数字は私が説明します」


「わかった。任せる」


---


 その日の夕方。


 吉野さんの車で、平和島競艇場に向かった。

 朝の映像通り、三号艇のまくり。

 三連単。五万円。


 払い戻しは、四百二十万円だった。


 *(四百二十万か。悪くない)*


 帰りの車の中で、窓の外を見た。

 首都高の照明が、等間隔で流れていく。


 山下さんの言葉を思い出した。

 「会長の個人資金力は、率直に申し上げて、異常です」


 *(異常、か。確かにそうだ。懐中時計で稼いだ金で、会社を回してきた。でも、山下さんが言いたいのは、それだけじゃ足りないということだ)*


 *(会社が大きくなれば、俺一人の力じゃ回せなくなる。銀行の力を借りる。人の力を借りる。それが、経営ということなのかもしれない)*


 *(CFO。最高財務責任者。山下さんには、もっと早くこの肩書きを渡すべきだった。あの人は最初から、その器だった)*


 *(来週、銀行に行く。決算書を持って。事業計画を持って。俺の言葉で、ビジョンを話す)*


 *(懐中時計で稼いだ金を、銀行に預けて、銀行から金を借りて、それで事業を回す。笑える話だ。でも、それが現実だ)*


 タワーマンションに着いた。

 エレベーターで上がって、リビングに入った。

 窓の外に、東京の夜景が広がっていた。


 ソファに座って、懐中時計を取り出した。

 銀色の蓋。すり減った彫刻。

 握った。

 温かかった。


 *(一年が過ぎた。二年目が始まった)*


 *(時計は、まだ応えてくれている。でも、いつか——)*


 その先は、考えなかった。

 テーブルの上に、山下さんが渡してくれたバインダーが置いてあった。

 「KY Holdings 第一期決算」

 表紙の文字を、指でなぞった。


 一年分の数字。

 一年分の信頼。


 *(二年目は、もっと大きくなる。その分、怖くもなる。でも、一人じゃない)*


 窓の外の夜景を見つめた。

 二月の夜は、冷たくて、静かで、透き通っていた。


---


**── 残高メモ(第51話)──**


*KY Holdings第一期決算確定。法人税等1,200万円を納付。KY Liveへ500万追加注入。山下さんCFO就任。メガバンクへの融資申請(1億円)を来週開始。*


### 個人資金(桐島遊馬)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約20,519.8万円 |

| 競馬・競艇収入(12月) | +約600万円 |

| 競馬・競艇収入(1月) | +約450万円 |

| 平和島競艇 3連単(5万→420万) | +約415万円 |

| 競馬・競艇収入(2月上旬・片手間分) | +約80万円 |

| 生活費・飲食費等(12月〜2月上旬) | ▲約15万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約22,049.8万円** |


### 法人資金(KY Holdings)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約5,831.4万円 |

| FORECAST 月次売上(12月・1月計) | +約1,550万円 |

| 不動産賃料収入(12月・1月計) | +約394万円 |

| オフィス賃料・人件費等(12月・1月計) | ▲約780万円 |

| 宮本エンジニア給与(12月・1月計) | ▲約116万円 |

| KY Live 追加運転資金注入 | ▲500万円 |

| 第一期法人税等(法人税・住民税・事業税) | ▲約1,200万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約5,179.4万円** |


*注:第一期当期純利益は約5,500万円。来期(第二期)より8月に中間申告(約600万円)が発生。融資申請中(1億円・5年・金利約1.5%)。*


### KY Live


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約216.5万円 |

| ギフト収入合計(12月・1月計) | +約42万円 |

| 企業案件収入(12月・1月計) | +約35万円 |

| 人件費・ライバーサポート等(12月・1月計) | ▲約320万円 |

| KY Holdingsより追加運転資金 | +500万円 |

| 法人税等(欠損のためゼロ) | ― |

| **KY Live 法人口座** | **約473.5万円** |


*注:真鍋優奈が12月加入(月額サポート+15万)。第一期(7月〜12月)営業損失は約714万円。欠損金は翌期に繰越。5人目のスカウト(音楽系男性ライバー)進行中。*


### ナカジマ精工


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約4,465万円 |

| 受注加工売上(12月・1月計) | +約720万円 |

| 大手メーカー継続取引(12月・1月計) | +約250万円 |

| 人件費(従業員14名・社保込み) | ▲約700万円 |

| 研究費・材料費 | ▲約100万円 |

| 工場賃料(桐島個人名義物件) | ▲約60万円 |

| 光熱費・設備維持費 | ▲約80万円 |

| 法人税等(繰越欠損金の範囲内のためゼロ) | ― |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約4,495万円** |


*注:決算期を3月末から12月末に変更(グループ統一)。移行期は4月〜12月の9ヶ月決算。営業損失約1,390万円だが、繰越欠損金で税負担ゼロ。1月より大手メーカー取引が月125万に増額、月次黒字が定着。*


---


### 全体サマリー(第51話時点)


| 口座 | 残高 |

|:--|--:|

| 桐島遊馬(個人) | 約22,049.8万円 |

| KY Holdings(法人) | 約5,179.4万円 |

| KY Live | 約473.5万円 |

| ナカジマ精工 | 約4,495万円 |


---


*【第52話 へ続く】*


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