第45話 〜練習〜
八月の第三週。
水曜日の午後。
吉野さんの車で、渋谷のスタジオに向かった。
今日は、アンちゃんのテスト配信の日だ。
スタジオに着くと、藤原さんがすでに準備を進めていた。
配信ブースの一つに、照明とカメラがセッティングされている。
マイクのテスト音が、防音された室内に小さく響いていた。
「会長、水野さんにも声をかけてあります。三十分後に来る予定です」
「水野さんも来るの?」
「はい。先輩ライバーとして、水沢さんのテスト配信を見てもらおうと思いまして。同じ立場の経験者がそばにいると、緊張がほぐれるので」
「いい判断だね」
*(藤原さんは、本当に気が利く。配信の技術だけじゃなくて、人の心理も読める人だ)*
午後二時半。
アンちゃんが、スタジオに来た。
白いサマーニットにベージュのスカート。今日は少し化粧を整えている。テスト配信とはいえ、カメラの前に立つことを意識しているのがわかった。
「こんにちは、藤原さん。今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします。水沢さん、緊張してますか?」
「……してます。めっちゃしてます」
アンちゃんが、正直に言った。
両手を膝の上で握っている。
「大丈夫ですよ。今日は非公開で、僕と会長と、あと水野さんだけが見ます。失敗しても何の問題もないです。カメラの前で喋る感覚を掴んでもらうのが目的なので」
「水野さんも来るんですか?」
「はい。もうすぐ到着すると思います」
アンちゃんが、少しだけ、肩の力を抜いた。
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午後三時少し前。
水野さんが到着した。
「すみません、ちょっと遅くなりました」
「いえ、ちょうどいいですよ。水野さん、こちらが水沢アンさん。今日テスト配信をする方です」
「はじめまして。水野まりです。よろしくお願いします」
水野さんが、にこっと笑った。
明るくて、自然で、壁のない笑顔。
配信で見せるあの感じが、目の前にそのままあった。
「はじめまして。水沢アンです。水野さんの配信、見てます。すごく楽しくて」
「え、本当ですか。嬉しい。ありがとうございます」
水野さんが、照れたように頬を押さえた。
二人の間に、一瞬で空気が柔らかくなった。
初対面なのに、不思議と壁がない。
「水沢さん、今日初めてカメラの前に立つんですよね。緊張しますよね」
「します。もう手が震えてます」
「わかります。私も最初、声が裏返って大変でした。でも、カメラの向こうに人がいると思わないで、スマホで友達とビデオ通話してると思えば、意外と喋れますよ」
「ビデオ通話……」
「そう。友達に、今日あったこと話すだけ。それだけです」
アンちゃんが、少し目を見開いた。
その言葉が、ストンと入ったのが見えた。
*(水野さんは、人の緊張をほどくのが上手い。自分の経験をそのまま伝えるから、説得力がある)*
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午後三時。
テスト配信が始まった。
非公開設定。
視聴者は、藤原さんのスマートフォンと、俺のスマートフォンの二台だけ。
水野さんは、ブースの外でモニターを見ている。
アンちゃんが、カメラの前に座った。
リングライトの光が、顔を柔らかく照らしている。
「えっと……はじめまして。水沢アンです」
最初の十秒。
声が硬かった。目線がカメラから少しずれていて、手がテーブルの下で動いていた。
「今日は、テスト配信ということで、自由に喋っていいって言われたんですけど……何話せばいいんだろう」
笑いが混じった。
自分の緊張を、ごまかさずに出した。
それが、逆に自然だった。
「あ、えっと、私、六本木でキャバクラのお仕事をしてます。もう三年くらい。今日はお休みの日なので、こうやって、配信のテストをさせてもらっています」
話し始めると、少しずつ、声が柔らかくなっていった。
アンちゃんは、話すことが嫌いな人じゃない。むしろ、人と話すのが好きな人だ。
ただ、カメラという「目」が、いつもと違うだけ。
五分経った。
藤原さんが、チャット機能を使って、コメントを送った。
「好きな食べ物は何ですか?」
アンちゃんが、画面を見た。
「あ、コメント来た。好きな食べ物……焼肉。もう圧倒的に焼肉。タン塩から始めて、ハラミいって、最後にカルビ。これが鉄板」
声のトーンが、一気に変わった。
好きなものの話をしている時の、この人の声は、聞いていて気持ちがいい。
カメラのことを忘れている。
俺も、コメントを送った。
「焼肉のタレ派? 塩派?」
「あ、もう一個コメント。タレか塩かって? 基本は塩なんだけど、カルビだけはタレ。これ譲れない。タレのカルビを白米にワンバンさせて食べるのが最高なの」
身振り手振りが入った。
表情が生き生きしている。
キャバクラで鍛えられた、人を引き込む話し方が、自然に出ていた。
藤原さんが、次のコメントを送った。
「最近ハマっていることは?」
「最近ハマってること……あ、ネイルかな。友達がネイリストで、毎月やってもらってるんだけど、最近自分でもやり始めたの。セルフネイル」
アンちゃんが、自分の爪をカメラに近づけた。
「今日のこれ、自分でやったんだけど——あ、ここちょっとはみ出してるのバレる?」
笑った。
画面の中のアンちゃんが、楽しそうだった。
十五分が経った。
藤原さんが、少し難しいコメントを送った。
「今の仕事で一番大変なことは?」
アンちゃんが、一瞬、考えた。
「大変なこと……うーん。お客さんの気持ちに寄り添いすぎちゃう時かな。楽しい人ばかりじゃないから。でも、それも含めて、人と向き合う仕事なんだよね。嫌いじゃないです、そういうの」
声のトーンが落ち着いて、少し深みが出た。
真面目な話をする時の、この人の空気は、独特だ。
飾らない。でも、軽くもない。
*(アンちゃんは、話の切り替えができる人だ。楽しい話から真面目な話に、自然に移れる。これは、配信者として大きな武器になる)*
三十分。
藤原さんが、タイマーを見て、マイクをオフにしたまま俺に小声で言った。
「会長、すごいですね。初めてとは思えない」
「でしょ」
「あと三十分、続けてもらいます。後半は、水野さんにもコメントを入れてもらいます」
水野さんが、自分のスマートフォンからコメントを送り始めた。
「私もキャバで働いてたことあるんですけど、アフターって行きます?」
アンちゃんが、目を丸くした。
「え、水野さんキャバ経験あるんですか? アフターは……正直、気分による。行きたい時は行くし、疲れてる時は断る。無理はしない主義」
「わかります。私もそうでした」
コメントでのやりとりが、自然な会話になっていた。
水野さんが、意図的にアンちゃんの得意な話題を引き出している。
これも、配信者としてのスキルだ。
一時間が経った。
藤原さんが、終了の合図を出した。
「水沢さん、お疲れさまでした。一時間、しっかり喋れましたね」
アンちゃんが、カメラの前で、ほっと息をついた。
「あー……緊張した。でも、途中から楽しかった。コメントが来ると、返したくなるんだよね」
「それです。その感覚が一番大事です」
藤原さんが、メモを見ながら続けた。
「水沢さんの強みは、三つあります。一つ目は、声のトーンの幅。楽しい話と真面目な話で、自然に声が変わる。聞いていて飽きないです。二つ目は、リアクションの大きさ。身振り手振りが入ると、画面が華やかになる。三つ目は、自己開示の自然さ。自分のことを話す時に、構えない。視聴者は、そういう人に親近感を持ちます」
アンちゃんが、少し照れた顔をした。
「そんなに褒められると、逆に緊張する」
「課題もあります」
「あ、やっぱり」
「カメラ目線が安定しないです。コメントを読む時に目線が下がるのは仕方ないんですが、喋っている時はなるべくカメラを見るようにしてください。あと、話の終わり方。一つの話題が終わった後、次の話題に移る間が少し長い。これは、慣れで解消できます」
「わかりました。練習します」
「来週も同じ時間に、テスト配信をしましょう。三回くらいやって、本人がいけると感じたら、初配信のスケジュールを決めます」
アンちゃんが、しっかり頷いた。
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テスト配信が終わった後、スタジオのラウンジスペースで、四人でコーヒーを飲んだ。
「水野さん、コメントありがとうございました。すごく助かりました」
アンちゃんが、水野さんにお礼を言った。
「いえいえ。水沢さん、すごく良かったですよ。私が初めてカメラの前に立った時なんて、五分で頭が真っ白になりましたから」
「え、そうなんですか」
「はい。藤原さんに『一回休憩しましょう』って言われて、トイレで深呼吸してました」
水野さんが、自分の失敗を笑い話として話した。
アンちゃんが、笑った。
水野さんも、笑った。
二人の間に、先輩と後輩というほど堅くもなく、友達というほど砕けてもいない、ちょうどいい距離感が生まれていた。
*(この二人の相性はいい。水野さんが先に道を歩いて、アンちゃんがその後を追う。いい関係になりそうだ)*
「水沢さん、配信のこと、何でも聞いてください。私でわかることなら、何でも教えます」
「ありがとうございます、水野さん。すごく心強い」
水野さんが帰った後、藤原さんが俺に向かって言った。
「水沢さん、相当なポテンシャルです。初回のテスト配信で一時間喋り切れる人は、なかなかいません。カメラへの慣れはこれからですが、ベースの会話力は完成されています」
「本配信は、いつ頃になりそう?」
「テスト配信をあと二、三回やって、九月の頭を目標にしたいです。初配信のテーマと告知の準備もありますので」
「わかった。任せる」
「あと、マネージャーの採用の件ですが、候補者が二名まで絞れています。来週、面接を予定しています」
「早いね」
「ライバー業界の経験者を中心に当たりました。どちらも即戦力です。スカウト候補の三名にも、コンタクトを取り始めています。一名から、前向きな返事が来ています」
*(KY Liveが、一つの組織として動き始めている。藤原さんを中心に、歯車が回り始めた)*
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夜。
吉野さんの車で、平塚に向かった。
平塚競輪場。
ナイター開催。
競輪場に着くと、独特の空気があった。
競馬場とは違う。もっとコンパクトで、もっと近い。
バンクの周りに、スタンドが密集している。
照明がバンクを白く照らして、自転車のフレームが光っていた。
指定席を取った。
バンクが目の前だった。
選手が走ると、風圧と、タイヤが路面を切る音が、直接伝わってくる。
競輪は、人が走る。
馬ではなく、人だ。
選手の判断、駆け引き、脚力。すべてが人間のもの。
ラインという独特の連携がある。同じ地区の選手同士が、レース中に協力して走る。
誰が誰の後ろにつくか。いつ仕掛けるか。
人間の心理が、レースを決める。
ポケットの中の時計が、温かくなった。
握った。
映像が来た。
第八レース。
九車立て。
七番の選手が、最終バックから一気に捲る。三番が七番の番手から差して一着。五番が三着に残る。
3連単。3-7-5。
出走表を開いた。
三番は地元・南関東のエース格。七番は同じ南関東ラインの先行選手。南関東ラインが機能すれば、七番が風を切って三番が差す。五番は単騎の自力選手。混戦になれば三着に食い込む力がある。
*(ラインの決まり手。競輪の醍醐味だ)*
3連単。3-7-5。
五万円。
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第八レース。
号砲が鳴った。
九人の選手が、バンクを周回し始めた。
先頭誘導員の後ろで、隊列が組まれていく。
競輪のレースは、前半が静かだ。
選手たちは、自分のラインを組み、位置取りを争う。
本当の勝負は、残り二周から始まる。
残り二周。
赤板を通過した。
七番の選手が、じりじりと外に持ち出した。
三番が、七番の後ろにぴたりとつく。南関東ライン。
残り一周半。
打鐘が鳴った。
七番が、一気にペースを上げた。
脚を回す。風を切る。
三番が、その背中にぴたりとつく。風の抵抗を七番が全部引き受けている。
最終バックストレッチ。
七番が捲りに出た。
先行していた二番のラインを、外から一気に飲み込んでいく。
スピードが、明らかに違った。
四コーナー。
七番が先頭に立った。
三番が、七番の風よけから、外に持ち出す。
ゴール前の直線。
三番が、七番を差した。
五番は、混戦の中をうまく捌いて、三着に食い込んだ。
3-7-5。確定。
払い戻し。
3連単。配当、百四十二倍。
五万円が、七百十万円。
*(競輪のライン決着は、配当が跳ねる。人間の駆け引きが、数字に出る)*
もう一レース。
時計が温かくなるのを待った。
しかし、今夜はもう反応がなかった。
*(一回か。十分だ)*
ビールを一口飲んで、平塚の夜空を見上げた。
照明に照らされたバンクが、白く光っていた。
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帰りの車の中で、スマートフォンを開いた。
藤原さんからLINE。
*「本日のテスト配信の所感レポートをまとめました。水沢さんの声質分析、カメラワークの改善点、初配信に向けたスケジュール案を添付します」*
添付ファイルを開いた。
細かい。
テスト配信の一分ごとのメモが、スプレッドシートに整理されていた。
声のトーンの変化。目線の動き。コメントへの反応速度。
全部、数字で記録している。
*(藤原さんは、感覚を数字に落とし込める人だ。これがディレクターの力だ)*
返信した。
*「ありがとう。完璧なレポート。水野さんの今夜の配信データもあったら、明日まとめて見たい」*
*「承知しました。水野さんの直近一週間のデータも合わせてお送りします」*
スマートフォンを閉じた。
吉野さんの車が、首都高を走っていた。
湾岸線の明かりが、窓の外を流れている。
*(今日は、いい日だった。アンちゃんのテスト配信が上手くいった。競輪も当たった。藤原さんの仕事は、相変わらず丁寧だ)*
*(明日は、小林さんのエンジニア採用の面接スケジュールを確認しよう。FORECASTのテコ入れも、止めるわけにはいかない)*
窓の外に、東京の夜景が広がっていた。
八月の夜は、少しだけ涼しくなっていた。
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**── 残高メモ(第45話)──**
*アンちゃんテスト配信(スタジオ・非公開)成功。水野×アンちゃん初対面。KY Liveマネージャー候補2名・スカウト候補1名前向き。平塚競輪ナイター3連単的中。*
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約16,863.8万円 |
| 平塚競輪ナイター 3連単(5万→710万) | +約705万円 |
| 競馬・競艇収入(8月第3週・片手間分) | +約120万円 |
| 飲食費・交通費等 | ▲約2万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約17,686.8万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約4,234.4万円 |
| *(当話内変動なし)* | ― |
| **KY Holdings 法人口座** | **約4,234.4万円** |
*注:エンジニア(FORECAST用)・マネージャー(KY Live用)の採用費は翌月以降に計上予定。*
### KY Live
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約636.5万円 |
| 水野まり配信 ギフト収入(事務所分10%・8月第3週分) | +約1.5万円 |
| **KY Live 法人口座** | **約638万円** |
*注:水野まりフォロワー3,500人(増加中)、同時視聴ピーク550人。アンちゃんテスト配信1回目完了、初配信は9月頭目標。*
### ナカジマ精工
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約3,585万円 |
| *(当話内変動なし)* | ― |
| **ナカジマ精工 口座残高** | **約3,585万円** |
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*【第46話 へ続く】*




