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第38話 〜素振り〜


 五月の最後の週。

 日曜日の、午前。


「吉野さん、打ちっぱなし、付き合ってもらえますか」


「もちろんです」


 吉野さんは、何を頼んでも、一つ返事だった。

 アルファードの後部座席で、スマートフォンで練習場の場所を確認した。

 江古田のゴルフ練習場。

 福田さんが教えてくれたところだ。


 着いてみると、思ったより広かった。

 二階建ての打席が、ずらりと並んでいる。

 日曜の午前だからか、半分以上埋まっていた。

 年配の男性が多い。

 中に、若いカップルや、親子連れも、ちらほら。


 受付で、クラブのレンタルセットを借りた。

 七番アイアン、ピッチングウェッジ、ドライバー。


「会長、ゴルフは初めてですか」


「完全に初めてです」


「僕も、あまり詳しくはないんですが、基本のグリップだけ」


 吉野さんが、横の打席で、構えを見せてくれた。

 左手の甲を少し上に、右手で包むように握る。

 足は肩幅。

 膝を少し曲げる。


「こうですかね」


「いいと思います。最初は、七番アイアンで、ゆっくり振ってみてください」


 ボールをティーに乗せた。

 構えた。

 ゆっくり、振った。


 空振り。


 *(あ、当たんねえ)*


「もう少し、目線を下に。ボールの手前を見る感じで」


 もう一度。

 今度は、チョロ。

 ボールが五メートルくらい転がった。


「うーん」


「最初はそんなものです」


 三球目。

 当たった。

 ボールが、低い弾道で、八十ヤードくらい飛んだ。


「お」


「いいですね。芯の近くに当たってます」


 四球目、五球目。

 少しずつ、感覚が掴めてきた。

 打球が上がるようになった。


 十球目。

 パチン、と、いい音がした。

 ボールが、綺麗な弧を描いて、百二十ヤードの表示板の手前に落ちた。


「おお、会長、これ、初めてにしては、かなりいいです」


「マジですか」


「はい。素質ありますよ」


 *(福田さんの『なんとなく』、当たったのかもしれない)*


 一かご百球。

 全部打ち終わる頃には、七番アイアンで百二十ヤード前後を安定して飛ばせるようになっていた。

 ドライバーも試したが、こちらはまだスライスが多い。


「ドライバーは、もう少し練習が必要ですね」


「だな。でも、アイアンは、思ったより楽しい」


「ですよね。来週も来ますか」


「来よう」


 練習場の自販機で、二人で缶コーヒーを買った。

 ベンチに座って、飲んだ。

 五月の日差しが、気持ちよかった。

 汗を少しかいていた。


 *(体を動かすって、こんなに気持ちいいものだったのか)*


 *(ラスベガスの後、ずっとデスクワークか車移動か、酒を飲むかしかしてなかった)*


 *(ちょっと、生活のバランスが変わる気がする)*


---


 午後。

 吉野さんの車で、大田区へ。

 ナカジマ精工の工場。


 月例の進捗会議。

 松田さん、野口先生、健太郎さんが、会議室に揃っていた。


「桐島会長、お忙しい中ありがとうございます」


 松田さんが、頭を下げた。

 六十代後半の研究者。

 白衣ではなく、作業着。

 この人は、現場に近い研究者だった。


「現状のご報告です。超小型インペラの試作ですが、旋盤加工の精度を、もう一段上げる必要があることがわかりました」


「具体的には」


「現在の公差が、プラスマイナス五ミクロンです。LVAD用には、三ミクロン以下が求められます」


「五から三。たった二ミクロンですけど」


「はい。ただ、この二ミクロンが、チタン合金では、非常に難しいんです」


 野口先生が、補足した。


「インペラの回転速度が、毎分一万回転を超えます。そのレベルで安定回転させるには、羽根車一枚一枚のバランスが極めて均一でなければなりません。五ミクロンの公差では、微細な振動が出ます」


「その振動が、体内に入れた時に問題になる」


「はい。血栓のリスクと、溶血のリスクが上がります」


 *(五ミクロンから三ミクロンへ。聞いた感じでは小さな差だけど、製造現場では、壁一枚挟むくらいの差があるのか)*


「解決策は、ありますか」


 松田さんが、少し、表情を変えた。


「中島前社長が、この問題に、十五年取り組んでいました。加工治具の設計に、独自のアプローチがあるんです。現在、その治具を再現する作業をしています」


「中島さんの技術を、引き継いでいる、ということですか」


「はい。ただ、図面だけでは再現できない部分がありまして。中島さんに、週に一度、技術指導に来ていただいています」


「中島さん、来てくれてるんですか」


「はい。嬉しそうに、来てくださっています」


 *(中島さん)*


 *(あの人の夢が、少しずつ、形になりつつある)*


「スケジュール感は、どのくらいですか。三ミクロンの精度が出るまで」


「順調にいけば、三ヶ月以内には。ただ、チタン合金の特性上、予想外の問題が出る可能性はあります」


「わかりました。資金面で必要なものがあれば、遠慮なく言ってください」


「ありがとうございます」


 健太郎さんが、会議の最後に、事務報告をしてくれた。

 工場の月次損益。

 本業の受注加工が、少しずつ回復している。

 赤字幅が、縮小傾向。


「健太郎さん、いい流れですね」


「はい。父が築いた取引先との関係が、少しずつ戻ってきています」


「よかった。引き続きお願いします」


---


 帰りの車の中。

 吉野さんの運転で、首都高を走りながら、スマートフォンを見た。


 桑原さんから、LINE。


 *「遊馬さん、お元気ですか。最近、少し忙しくしています。翻訳の仕事で、ちょっと面白い話が来ていまして。落ち着いたら、お会いしたいです」*


 *「忙しいの、いいですね。楽しみにしてます」*


 送った。

 短いやり取り。

 それだけだった。


 *(桑原さんも、自分のペースで、動いてる)*


 窓の外を、夕暮れの首都高の景色が流れていた。


---


 夜。

 タワーマンション。

 リビングで、ビールを一本開けた。


 時計を、胸ポケットから取り出して、テーブルに置いた。

 冷たかった。

 昨日のレース以降、また沈黙している。


 *(毎日来てくれなくてもいい。でも、また来てくれるなら、助かる)*


 スマートフォンに、山下さんからメール。

 ライバー事務所の業界レポートの、第一稿。


 開いた。

 スクロールした。


 事務所の数。

 市場規模。

 トップ事務所の月商。

 所属ライバーの平均収入。

 投げ銭の手数料率。

 プラットフォームごとの特徴。


 山下さんらしい、緻密な資料だった。

 数字と事実だけが並んでいる。

 感情的なコメントは、一切ない。


 *(粗利率が高い。参入障壁は低いが、差別化が難しい)*


 *(つまり、資本力とマーケティング力がある後発が、一気に取りに行ける市場だ)*


 *(KYHなら、初期投資の資金は出せる。問題は、人だ。配信のプロデュースができる人間が、いるかどうか)*


 メールに返信した。


 *「山下さん、ありがとうございます。よくまとまってます。来週、この資料をベースに、もう少し詰めましょう」*


 窓際に立って、東京の夜景を、眺めた。

 東京タワーの赤い光が、いつもと同じ場所で、光っていた。


 *(今日は、ゴルフの初打ち。ナカジマ精工の進捗報告。ライバー事業の資料)*


 *(三つの軸が、並行して動いてる)*


 懐中時計を手に取った。

 翠色の文字盤が、夜の光の中で、鈍く光っていた。

 針が、相変わらず、逆向きに動いている。


 *(五月が、終わる。六月が来る)*


 *(ツグミナクのデビュー。白金の物件。ライバー事務所の判断)*


 *(全部、もうすぐだ)*


 スマートフォンが光った。

 福田さんからの、LINEだった。


 『日曜、練習場どうでした? 来週、コース出ませんか。初心者向けのとこ、押さえられますよ』


 *(早いな、この人)*


 少し笑って、「ぜひ」と、返した。


 六月が、すぐそこまで来ていた。


---


**── 残高メモ(第38話)──**


*本話では大きな資金移動なし。*


### 個人資金(桐島遊馬)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約20,548.3万円 |

| ゴルフ練習場・生活費等 | ▲約2万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約20,546.3万円** |


### 法人資金(KY Holdings)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約5,607.4万円 |

| *(変動なし)* | ― |

| **KY Holdings 法人口座** | **約5,607.4万円** |


### ナカジマ精工


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約4,580万円 |

| 研究用治具・材料費 | ▲約45万円 |

| **ナカジマ精工 口座残高** | **約4,535万円** |


---


*【第39話 へ続く】*


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