第37話 〜再始動〜
山下さんからの着信が鳴ったのは、金曜の朝、コーヒーを淹れている最中だった。
「おはようございます、会長。ヴィクトリアマイルの件、ちょっと相談が」
「朝から競馬の話とは、珍しいですね」
「いや、FORECASTのデータ見てたら、面白い傾向が出てて」
五月中旬。
ラスベガスから帰ってきて、二ヶ月近く。
事業のことで頭がいっぱいの日々が続いていた。
ナカジマ精工の買収。横領事件の後始末。FORECASTの運営。不動産の管理。
ギャンブルに割く時間が、明らかに減っていた。
ポケットの中の懐中時計に、そっと触れた。
微かに、温かかった。
いつもの、小さな反応。
*(今日も、なんとなく来てるな)*
片手間で競馬や競艇に足を運んで、百万、二百万と、こつこつ積んできた。
片手間で勝てるのは、時計のおかげだ。
でも、腰を据えてやる日を、そろそろ作りたかった。
*(支出も増えてきたし、白金の物件も検討中だ。資金は、もっと要る)*
*(今週末、ちょっと、がっつりやるか)*
タワーマンションの窓から、五月の朝の光が、リビングに差していた。
空が、高かった。
この部屋に越してきて、もうすぐ一年になる。
淹れたコーヒーを持って、窓辺に立った。
一口、飲んだ。
東京タワーが、朝日の中で、赤く光っていた。
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十時に、恵比寿のオフィス。
山下さんが、ノートパソコンの画面を、俺に向けた。
「FORECAST、四月の月次です」
有料課金者が、九千五百人を超えていた。
月額サブスクリプションの売上が、約八百四十万。広告収入を合わせて、月商は約九百六十万。
小林さんのAI予測モデルの精度が安定したことで、解約率が下がってきている。
「順調ですね」
「はい。ただ、競合が、二社、似たようなサービスを始めました」
「コピー、ですか」
「明確なコピーではありません。ただ、UI設計が、寄せてきている印象です」
「中身はどうなんですか。予測精度」
「まだ、うちの方が上です。ただ、差は、徐々に縮まる可能性があります」
「小林さんのモデルが核なので、そこをどれだけ先に走れるか、ですね。特許とか、算法に関する知的財産の保護、少し調べてもらえますか」
「承知しました」
山下さんが、メモを取った。
「月間の課金収入が八百四十万で、サーバー費とか運営コストが、どのくらいですか」
「サーバー、運営、小林さんの人件費を含めて、月間約三百五十万です」
「つまり月次の粗利が六百万くらい」
「はい。年間換算で約七千万。安定した収益基盤になりつつあります」
「小林さんには、ちゃんと報酬の見直し、しましょう。功績に見合った水準に」
「承知しました」
西村が、隣のデスクから、顔を上げた。
「遊馬、高輪の方、二階の入居者、更新決まったぞ」
「お、ありがとう。何年更新?」
「二年。家賃据え置きで」
「いいよ、それで。テナントの入れ替えコストを考えたら、据え置きでいてくれる方がありがたい」
「だよな。俺もそう思った」
西村は、不動産の管理を一手に引き受けてくれている。
高輪の2LDK、港区の1LDK、それからタワーマンション下のテナントフロア。
全部で月間の家賃収入が百二十万を超えている。
「西村、最近忙しい?」
「まあまあ。管理業務が安定してきたから、少し余裕は出てきた。何かあるのか?」
「いや、別に。ただ、そのうちもう一軒増やすかもしれないから」
「おお、いいね。任せろ」
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「それから、不動産の件です」
港区白金の、築浅一棟マンション。
テナント付きで、表面利回り五・八パーセント。
価格は、一億一千万。
「午後、見に行こうかと」
「行きましょう」
午後二時。
白金の物件。
五階建て、全十二戸。
築五年。
外壁のタイルが、まだ綺麗だった。
エントランスのオートロック、宅配ボックス。
今どきの仕様が、一通り揃っている。
不動産会社の担当者が、共用部を案内してくれた。
「現在、十一戸が埋まっています。空き一戸は、来月に入居予定です」
「管理会社は、入れ替え可能ですか」
山下さんが聞いた。
「オーナーチェンジですので、現行の管理委託契約を引き継ぐ形になりますが、半年後には変更可能です」
「修繕積立金の推移を確認させてください」
「お持ちします」
俺は、建物の周囲を歩いた。
駅からは徒歩七分。
スーパーが二軒。
保育園が一つ、通り沿いにあった。
*(白金で一億一千万。利回り五・八。管理がしっかりしていれば、持っているだけで、年間約六百万の家賃収入が入る)*
*(KYHの法人口座から出すと、キャッシュが薄くなる。でも、不動産は、持ってるだけで働いてくれる資産だ)*
*(高輪と港区の物件を含めると、不動産だけで、月間の家賃収入が百五十万を超える。積み上げてきたな)*
車に戻った。
吉野さんが、静かにエンジンをかけた。
「山下さん、修繕の数字が問題なければ、来週、買付入れましょう」
「はい」
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夕方。
車の中で、スマートフォンが鳴った。
樋口さんから。
「桐島さん、ツグミナクの件で、ご報告です」
「どうですか」
「調教師の柳田先生から。ゲート試験、合格しました」
「おお」
「馬体重が四百八十キロ前後で安定しまして、調教のタイムも、上がってきています。一週間前の坂路が五十一秒八。なかなかの数字です」
「いいですね」
「それで、六月の第二週、東京競馬場の新馬戦に、登録する予定です」
「デビュー戦、ですか」
「はい。桐島さんの馬が、初めてゲートに入る日です」
胸の中で、何かが、静かに動いた。
ツグミナク。
日高で出会って、セリで競り落として、名前をつけた馬。
あいつが、走る。
「楽しみにしてます」
「ただ、新馬戦は、本当に、何が起きるかわかりません。力のある馬でも、初戦は、戸惑うことがありますので」
「承知してます。まず、無事に、走ってくれれば」
「はい。良い報告ができるよう、こちらも準備します」
電話を切った。
*(ツグミナク、六月か)*
*(馬主として、初めてのレース)*
*(時計は、自分の馬のレースには、賭けない。賭けたら、意味がなくなる)*
*(あいつには、自分の脚で、走ってほしい)*
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夜。
ふくろう。
カウンターに、山下さんと並んで座った。
福田さんが、いつも通り、ハイボールと生ビールを出してくれた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまでした」
刺身の盛り合わせを頼んだ。
マグロ、ヒラメ、タコ、しめ鯖。
福田さんの刺身は、相変わらず丁寧だった。
「山下さん」
「はい」
「最近、体、動かしてます?」
「……まったく、してないですね。デスクワークと移動だけで」
「俺もです。ラスベガスの後、ずっと座り仕事で。体がなまってる感じがします」
「ジム、とか、ですかね」
「一人で黙々とやるのは、俺の性に合わない気がして」
福田さんが、カウンターの向こうから、ぽつりと言った。
「遊馬くん、ゴルフでもやったらどうだ」
「ゴルフですか」
「うちのお客さんで、経営者さんが何人か来るけど、みんなゴルフやってるよ。体も動かせるし、人脈も広がるし。一石二鳥だ」
「ゴルフか……やったこと、一度もないですね」
「最初は、打ちっぱなしから始めればいい。クラブも最初は借りれば十分だ。練習場に置いてあるし」
山下さんが、少し考えて、言った。
「確かに、中島社長も、ゴルフされると、おっしゃってましたね。工場にお伺いした時、待合室にゴルフのトロフィーが、何本かありました」
「中島さんが。へえ」
「お上手だそうですよ。昔は、月例のコンペにも、出ていらしたとか」
*(中島社長とゴルフか。工場買って、LVAD一緒にやってて、さらにゴルフでも付き合えたら、関係はもっと深くなるな)*
「福田さん、近くに打ちっぱなし、ありますか」
「練馬に一つ、あるよ。江古田の方に。俺は行ったことないけど、お客さんが通ってるって言ってた」
「ありがとうございます。今度、行ってみようかな」
「いいね。吉野くんに連れてってもらえ」
「吉野さん、ゴルフやるんですかね」
「さあ。でも、あの人、何でも付き合ってくれるだろ」
「確かに」
ハイボールを、もう一杯、頼んだ。
焼き鳥も追加した。
塩のねぎまと、タレのつくね。
福田さんが、静かに串を焼いてくれた。
「遊馬くん」
「はい」
「最近、顔色、いいよ」
「そうですか。自分じゃわからないですけど」
「去年の秋に比べたら、全然違う。目の、奥の色が、変わった」
「目の奥、ですか」
「うん。去年は、何かに追われてる目だった。今は、自分で走ってる目をしてる」
*(福田さんは、時々、こういうことを、さらっと言う)*
*(この人の観察眼は、たぶん、カウンターの向こう側で、何百人もの人間を見てきたから磨かれたんだろう)*
「ありがとうございます」
「まあ、走りすぎて体壊すなよ。ゴルフで、ちょっと息抜きしな」
「はい」
ハイボールを飲みながら、山下さんが、少し声を落として言った。
「会長、一つ、ご相談が」
「何ですか」
「横領事件の後処理で、ライバー事務所の業界構造を、少し調べていました」
あの事件の当事者が、ライバーに貢いでいた金。
あの事件の後、山下さんは、投げ銭の仕組みやライバー事務所の収益構造を独自に調査していた。
「それで、何か見えました?」
「はい。ライバー事務所というのは、原価がほぼ人件費と配信機材だけなので、粗利率が非常に高い事業です。上位の事務所は、月商で数千万から一億規模に達しています」
「ほう」
「問題は、所属ライバーの発掘と育成、それからマーケティングです。そこに資金を投じられれば、後発でも十分に参入できる構造だと思います」
*(ライバー事務所、か)*
*(あの横領事件がきっかけで、この業界に目が向いた。皮肉だけど、面白い巡り合わせだ)*
「もう少し、詳しく調べてもらっていいですか」
「はい。来月までに、参入の可否判断ができる資料を、まとめます」
「ありがとうございます」
福田さんが、〆の焼きおにぎりを、カウンターに置いた。
醤油の香ばしい匂いが、鼻を突いた。
一口かじった。
外はカリッと、中はふわっとしていた。
*(今日は、不動産を見て、ツグミナクの報告を聞いて、ゴルフの話が出て、ライバー事務所の芽が出た)*
*(いい金曜日だった)*
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翌日、土曜日。
朝、六時前。
目が覚めた。
枕元の時計を、握った。
熱かった。
一瞬、手を離しそうになった。
最近の片手間のレースとは、まるで違う。
ラスベガスの時と同じくらいの、強い反応だった。
映像が、来た。
東京競馬場。
芝コースの、最後の直線。
内を粘る、白い帽子の馬。「6」。
外から一気に差し切る、赤い帽子。「14」。
大外から追い込んで三着に突っ込む、黄色い帽子。「3」。
3連単。
14→6→3。
映像が、鮮明だった。
色も、番号も、着順も、くっきり。
ラスベガスの時と、同じ精度。
いや、もっと、鮮明かもしれない。
*(……来た)*
心臓が、少し、速くなった。
*(二ヶ月近く、黙ってたくせに)*
*(急に、来やがった)*
時計を、もう一度、握り直した。
まだ、熱い。
掌の中で、脈打つような温かさだった。
出走表を調べた。
東京競馬場、第11レース。
ヴィクトリアマイル。
GI。
14番、セレスティアルブルー。
前日オッズは、約十八倍。五番人気あたり。
四歳牝馬。前走は阪神牝馬ステークス三着。
末脚には定評があるが、GIの舞台では未知数。
6番、ダイヤモンドフラッシュ。
一番人気の先行馬。
前走で安田記念三着。牡馬相手に好走した実績。
3番、クレセントノーツ。
追い込み一辺倒。八番人気。
展開が向けば一発ある、という評価。
*(14番頭で、一番人気が二着に沈む形。配当は、かなり、つくな)*
*(三十万。いや、もう少し、いくか)*
*(三十万にしておこう。久しぶりだし、感覚を取り戻すつもりで)*
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午後。
東京競馬場。
府中の、指定席。
五月の競馬場は、風が気持ちよかった。
芝の匂いがした。
スタンドに、人が多い。
GIの日は、普段来ない客も来る。
家族連れ、カップル、スーツ姿のサラリーマン。
人の顔が、みんな、少し高揚している。
*(この空気、久しぶりだ)*
*(ラスベガスのカジノとは、まるで違う)*
*(日本の競馬場の、この開放感。空の下で馬が走る、って、やっぱりいいな)*
時計を、ポケットの中で、握った。
まだ、温かい。
馬券を買った。
3連単、14→6→3。
一点、三十万円。
窓口のスタッフが、一瞬だけ、手を止めた。
GIの三十万一点買い。
目立つ金額ではあるが、GIなら珍しくもない。
黙って処理してくれた。
パドックを見に行った。
14番のセレスティアルブルーは、落ち着いた歩様だった。
毛艶が良い。
騎手が、跨った。
若い騎手。でも、目が据わっていた。
*(いい面構えしてるな。騎手も馬も)*
席に戻った。
発走十分前。
スタンドの空気が、変わっていく。
GIの前の、あの独特な緊張。
金を賭けている人間にだけわかる、空気の密度の変化。
ファンファーレが鳴った。
スタンドが、一瞬、静まった。
直後に、歓声。
手拍子。
五月の風が、歓声を、空に散らした。
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ゲートが開いた。
各馬が飛び出す。
6番ダイヤモンドフラッシュが、好スタートからハナを主張。
内に入って、先頭をキープ。
14番セレスティアルブルーは、出遅れ気味。中団の後方。
*(おい、出遅れた)*
時計を握った。
熱い。
*(信じろ。映像を、信じろ)*
1コーナー。
先頭は6番。
二番手に人気薄の逃げ馬が食らいつく。
14番は、七、八番手の外目。
じっと、脚を溜めている。
向こう正面。
ペースが速い。
前半の600メートル通過が、33秒台。
ハイペースだ。
*(前が飛ばしてる。これは、差し馬の展開だ)*
3コーナー。
14番の騎手が、少しだけ、手綱を動かした。
外に持ち出す。
4コーナー。
先頭の6番が、まだ粘っている。
でも、脚色が、ほんの少し、鈍りかけている。
14番が、外からじわじわと上がってくる。
三番手、二番手。
直線。
14番の騎手が、追い出した。
馬が、ギアを入れ替えるように、一気に加速した。
6番が、内ラチ沿いで必死に粘る。
14番が、一完歩ずつ、差を詰める。
残り200メートル。
14番が、6番を捉えた。
先頭に立った。
6番が、二番手に後退。
後方から3番クレセントノーツが、猛然と追い込んできた。
大外一気。
前を何頭もごぼう抜きにして、三着圏内に突っ込んでくる。
ゴール板。
14→6→3。
映像の通りだった。
確定の表示が出た。
審議なし。
払い戻し。
3連単、14→6→3。
配当、924.5倍。
三十万円が、二千七百七十三万五千円。
*(……来た)*
*(帰ってきた)*
立ち上がった。
深く、息を吐いた。
五月の風が、頬を撫でた。
スタンドの歓声が、まだ続いていた。
時計を、ポケットの中で握った。
まだ、温かかった。
いや、さっきより、少し、冷めかけている。
今日の仕事は、これで終わり、と言うように。
*(片手間でちまちまやってた時とは、桁が違う)*
*(これだよ。この感覚だ)*
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高額払い戻し窓口。
本人確認書類の提示。
記録。
紙袋。
全部、何度もやった手順だった。
でも、久しぶりだった。
紙袋の重さが、手のひらに、懐かしかった。
競馬場を出た。
吉野さんの車が、駐車場で待っていた。
「お疲れさまです」
「吉野さん、帰りましょう」
「はい」
車に乗り込んだ。
シートに、深く、沈んだ。
スマートフォンに、FORECASTのプッシュ通知が来ていた。
今日のレース結果と、アプリの予測精度のサマリー。
ヴィクトリアマイルは、アプリの予測では14番は三番手候補。
一着予測は6番だった。
*(小林さんのモデルでも、14番は候補には入ってたのか)*
*(でも、一着とは読めなかった。配当の旨味は、そこに出る)*
*(AI予測と、時計。役割が、違う)*
*(FORECASTは、多くの人に、勝率を少し上げる道具。時計は、俺だけの、絶対的な武器)*
*(両方、あっていい)*
窓の外を、五月の府中の街が流れていた。
欅の並木が、緑に輝いていた。
*(明日、山下さんに報告しよう。二千七百万。片手間でちまちま積んでた分を、一発で超えたな)*
*(白金の物件、これで資金的にも余裕が出た)*
*(ツグミナクのデビュー戦が、六月)*
*(ゴルフ、始めてみるか)*
*(福田さんの『なんとなく』を、信じてみるのも、たまには、いい)*
吉野さんの車が、首都高に入った。
五月の午後の光が、ビルの間を縫って、フロントガラスに落ちた。
俺は、ポケットの中の時計を、もう一度だけ、触った。
冷たくなっていた。
今日の分は、もう、終わったらしい。
*(また明日、頼むぞ)*
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**── 残高メモ(第37話)──**
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約17,807.8万円 |
| ヴィクトリアマイル 3連単的中(30万→2,773.5万) | +約2,743.5万円 |
| 物件内覧交通費・会食費等 | ▲約3万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約20,548.3万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約4,997.4万円 |
| FORECAST 4月月次売上 | +約960万円 |
| オフィス賃料・人件費等(4月分) | ▲約350万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約5,607.4万円** |
### ナカジマ精工
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約4,800万円(運転資金・研究費) |
| 受注加工売上(4月分) | +約250万円 |
| 人件費(従業員14名・社保込み) | ▲約350万円 |
| 研究費・材料費 | ▲約50万円 |
| 工場賃料(桐島個人名義物件) | ▲約30万円 |
| 光熱費・設備維持費 | ▲約40万円 |
| **ナカジマ精工 口座残高** | **約4,580万円** |
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*【第38話 へ続く】*




