第36話 〜別の顔〜
五月上旬。
連休が明けた、週の水曜日。
夜七時。
銀座六丁目の、地下のバー。
山下さんが新しく紹介してくれた、医療機器分野の法規制に強い弁護士。
その人と顔合わせの、会食の席だった。
弁護士は女性だった。
四十代前半。
名前は、三宅由香里さん。
大手法律事務所を経てから独立して、医療機器のスタートアップを中心に、薬機法や医療機器認証の法務顧問を複数社務めている人だった。
山下さんの、昔の同僚の、さらに後輩筋という繋がりで、今回の顔合わせになっていた。
その場には、俺と山下さん、三宅さん、そしてもう一人、三宅さんの事務所のパートナーが参加していた。
話は一時間半ほどで終わり、契約の話は大筋で合意した。
三宅さんは、月額五十万円の顧問料で、ナカジマ精工 医療機器研究所の法務顧問を引き受けてくれることになった。
会食が終わって、店を出た。
銀座の夜は、平日でも、それなりに人が歩いていた。
山下さんが、三宅さんと事務所のパートナーを、タクシーまで送った。
俺と山下さんだけになった。
「山下さん、今日はありがとうございました。いい弁護士さん、紹介していただいて」
「こちらこそ、ご契約まで進んで、何よりでございます」
「もう一軒、どうですか」
「申し訳ございません。今夜は、家内と約束がございまして」
「失礼しました」
「桐島さんは、どうぞ、ごゆっくり」
山下さんも、タクシーに乗って帰っていった。
吉野さんは、今日は先に帰してあった。
俺は、一人で、銀座の通りを歩いた。
*(時間、まだ早いな)*
スマートフォンで時計を見た。
九時半。
タワーマンションに帰って、一人で飲み直しても、悪くはなかった。
でも、今夜は、なぜか、もう少しだけ、外にいたい気分だった。
---
八丁目の路地。
看板の出ていない、古いビルの二階。
以前、山下さんが一度だけ連れてきてくれた、静かなバー。
扉を押して、入った。
カウンター七席と、奥にテーブル席が二つ。
照明は薄暗い。
店主は、白髪の、六十代の男性。
山下さんに連れてきてもらった時から、何度か一人で通ったことがある。
「いらっしゃいませ、桐島様」
「こんばんは」
カウンターの端の席に座った。
オールドファッションド。
店主が、グラスに砂糖を入れて、ビターズを振って、オレンジを絞って、バーボンを注いだ。
氷を、丸く、手で削って入れた。
一口、飲んだ。
甘さと、ビターの苦みと、バーボンの温かさ。
良い順番で、舌に乗った。
奥のテーブル席に、女性が二人いた。
会話の声が、時々、聞こえてくる。
仕事の話だった。
PR関係の、イベントの打ち合わせ。
片方の女性が、もう片方に、進行表を見せている。
しばらく、俺は、ただ、グラスを傾けていた。
誰かと話したい気分でもなかった。
でも、一人の空間でもなかった。
どちらつかずの、緩い時間が欲しかった。
十分ほど経った頃、奥のテーブル席の打ち合わせが終わったらしく、年上の方の女性が先に店を出て行った。
残された女性が、テーブル席から、カウンターに移ってきた。
俺の二つ隣の席に座った。
「マスター、シャンパン。飲みかけのボトル、残ってましたよね」
「はい、あずかっております」
グラスが、置かれた。
細い、フルート型のグラス。
店主が、奥から半分ほど残っているボトルを持ってきて、注いだ。
女性が、グラスを軽く持ち上げて、一口、飲んだ。
それから、ふっと、息を吐いた。
「疲れた」
独り言のような声だった。
でも、カウンターの中の店主にも、俺にも、聞こえる音量。
誰に言ったわけでもない、でも、誰かに聞いてほしそうな、そういう言い方。
俺は、オールドファッションドを、一口飲んだ。
それから、少しだけ、視線を横に向けた。
女性と、目が合った。
二十代後半に見えた。
黒いワンピース。
髪は、肩より少し長い。
化粧は派手ではないが、目元がはっきりしている。
少し、疲れた顔をしていた。
でも、それが、不思議と、魅力的だった。
女性が、先に口を開いた。
「一人ですか?」
「はい」
「私も一人です。今」
「今、ですか」
「さっきまでは、仕事の人と。でも、帰っちゃったんで、一人」
「そうですか」
女性が、少し笑った。
笑うと、目元の印象が、柔らかくなった。
「すいません、急に声かけて」
「いえ、いいですよ」
「バーで知らない人に声かけるって、あんまりしないんですけど、今日はちょっと、愚痴りたい気分で」
「愚痴、聞きますよ」
「本当ですか」
「バーの隣の席って、そういう機能があるものだと思ってます」
女性が、また笑った。
「仕事、PRの仕事してるんですけど、クライアントがめちゃくちゃなスケジュール変更してきて、来週のイベントが飛びそうなんです」
「それは、きつい」
「そう。きついんです」
「何のイベントだったんですか」
「新しくできたレストランのレセプション。料理長がフランス帰りの有名な人で、それをお披露目する予定だったのに、クライアントが『やっぱり六月にずらして』って」
「お店側にも、食材の手配とかあるでしょうに」
「そうなんですよ。私、さっきまで、その調整の打ち合わせしてて、胃が痛くて」
女性が、シャンパンを、また一口飲んだ。
「すいません、初対面で、いきなりお仕事の愚痴を」
「いいんですよ。聞いてて、面白かったです」
「面白かった?」
「PRの現場って、スピード感、すごいんですね」
「スピード感というか、全部、土壇場ですね。綺麗な計画通りに進むことなんて、一回もない」
女性が、カウンターにグラスを置いた。
俺の方に、少し、体を向けた。
「あなたは、お仕事、何されてるんですか?」
「いろいろです。小さな会社、いくつか経営してます」
「経営者さん?」
「経営者と言うと格好いいですけど、色々雑多にやってるだけです」
「謙遜ですね」
「本当です」
「……お名前、聞いていいですか」
「桐島です。桐島遊馬」
「里中彩です。呼び方は、お好きに」
里中さんが、手を、少しだけ、差し出した。
軽い握手をした。
手が、冷たかった。
シャンパンのグラスを、ずっと持っていたからだろう。
---
そこから、一時間ほど、話した。
里中さんは、二十九歳。
PR会社勤務、今年で六年目。
中目黒に住んでいる。
実家は福岡。
仕事の休みは不定期。
今日も、本当は十一時までにイベント準備の資料を作る予定だったが、クライアントのせいで全部ひっくり返って、やる気が消えて、バーに来た。
そういう話を、里中さんは、軽快に話した。
俺は、聞いていた。
時々、相槌を入れた。
俺自身のことは、深くは話さなかった。
会社を経営していること、馬主をやっていること、最近、大田区の町工場を買ったこと。
それくらい、さらっと話した。
「大田区の町工場?」
「はい」
「何を作ってる工場ですか?」
「金属加工です。精密部品」
「桐島さんって、面白い人ですね」
「面白いですか」
「二十代で、バラバラな事業を、いくつもやってる」
「二十八なんで、もう二十代ぎりぎりです」
「私と、一つしか違わない。しかも年下」
里中さんが、少し笑った。
シャンパンのグラスが、空になった。
店主が、新しいボトルを出そうとしたが、里中さんが、首を振った。
「もう一杯、違うのを」
「何になさいますか」
「桐島さんが、お勧めなら、何でも」
「おいおい」
俺は、少し、笑った。
それから、店主の方を見た。
「じゃあ、ギムレット、ベースはタンカレーで。ライムを、少し多めに」
「かしこまりました」
店主が、シェイカーを振り始めた。
里中さんが、俺を見ていた。
「桐島さん、詳しいんですね」
「最近、覚えたんです。この店の店主に、教えてもらって」
「じゃあ、最近なんですね」
「はい。一年前までは、缶チューハイと、ハイボールくらいしか飲まなかったので」
「変わりましたね」
「変わりました」
ギムレットが、置かれた。
里中さんが、一口、飲んだ。
少しだけ、目を、細めた。
「美味しい」
「よかった」
「桐島さん」
「はい」
「少し、踏み込んだこと、聞いていいですか」
「どうぞ」
「桐島さん、彼女、いますか?」
俺は、少し、考えた。
「彼女」という言葉で、説明できる関係の人は、いなかった。
そういう関係ではない、別の距離感で、会う人は、いる。
でも、それは、ここで、話す話じゃ、なかった。
「彼女というほどの関係の人は、いないです」
「というほどの、ね」
「気になる人は、います」
「正直ですね」
「嘘は、面倒なので」
「私も、彼氏、いないです。最後に彼氏がいたの、三年前。そこからは、ずっと、一人」
「忙しいから、ですか」
「忙しさも、あります。でも、一番は、合う人がいないから」
「合う人」
「面倒くさいことを言わない人が、少ないんですよね」
里中さんが、ギムレットを、もう一口飲んだ。
目が、少し、俺を試しているように、見えた。
「桐島さんは、面倒くさい人ですか?」
「うーん」
俺は、少し考えた。
「面倒くさくない方だと、思います。たぶん」
「『たぶん』」
「自分のことは、自分が一番わからないので」
「それは、一番、面倒くさくない人の言い方ですね」
里中さんが、また笑った。
今度の笑いは、さっきより、少し、柔らかかった。
---
十時半。
里中さんが、二杯目のギムレットを、空にした。
店主が、新しい水を、さりげなくカウンターに置いた。
気の利く店だった。
「桐島さん」
「はい」
「このあと、何か予定、ありますか」
「特には」
「じゃあ、もう少し、一緒にいていいですか」
里中さんの目は、真っ直ぐだった。
遠回しな言い方ではない。
でも、押し付けがましくもない。
大人の提案だった。
「いいですよ」
答えた。
里中さんが、少しだけ、微笑んだ。
「どこか、行きます?」
「近くのバーで、もう一杯、飲みましょうか」
「どこのですか」
「ホテルの最上階にあります」
「ストレートですね」
「飲み直すだけですよ」
里中さんが、笑った。
しっかりと、声を出して、笑った。
「桐島さん、やっぱり、面倒くさくない人ですね」
俺は、会計を済ませた。
店主が、小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」という声は、いつもと、同じだった。
どんな客の、どんな夜にも、同じ温度で挨拶をする人だった。
店を出た。
銀座の夜気が、顔にあたった。
里中さんが、少しだけ、俺の腕に、手を添えた。
---
銀座四丁目の、大きなホテル。
最上階のバー。
カウンターの窓の向こうに、東京の夜景が広がっていた。
里中さんが、窓辺を見て、息を吐いた。
「綺麗」
「はい」
「こういうバー、久しぶりです。デートで来るような場所って、最近、全然来てなくて」
「今日は、デートですか」
「デートというより、気分転換、かな」
「気分転換」
「でも、桐島さんといて、気分、転換しました」
里中さんが、俺を見た。
目が、少し、潤んでいた。
酔いではなかった。
酔うには、まだ早かった。
ただ、目の奥で、何かが、少しだけ、解けていた。
「桐島さん」
「はい」
「私、今夜、誰かに、抱きしめてほしいだけなのかもしれない」
「……そうですか」
「こういう言い方、重いですか」
「いえ」
「よかった」
俺は、里中さんの肩に、軽く、手を置いた。
薄い黒のワンピースの、肩の骨が、手のひらの下で、少しだけ固かった。
里中さんは、動かなかった。
俺の手を、受け入れて、そのまま、窓の方を見ていた。
「東京タワー、見えますね」
「はい」
「私、東京タワー、好きなんです。上京した時から、ずっと」
「綺麗ですよね」
「はい」
しばらく、二人で、窓の外を見ていた。
東京タワーが、赤く、光っていた。
その周りに、小さなビルの灯りが、いくつもあった。
---
その夜は、ホテルの、最上階の部屋を、取った。
チェックインして、ルームサービスで、ワインを頼んだ。
部屋に入ってからの里中さんは、さっきまでと、少しだけ、違った。
静かになった。
バーでの軽快な笑いが、消えていた。
疲れている人の、素の姿が、少しずつ、出てきていた。
「桐島さん」
「はい」
「今日、なんで私に声かけてくれたんですか」
「里中さんの方から、先に声かけてくれた気がしますけど」
「あ、そうでした」
里中さんが、少しだけ、笑った。
でも、すぐに、目を下に向けた。
「すいません、私、普段、こういうこと、しないんです」
「じゃあ、今日は、特別ですね」
「特別、なのかな」
里中さんが、ベッドの端に、座った。
俺も、同じベッドの、少し離れた場所に、座った。
「桐島さん」
「はい」
「今夜は、全部忘れて楽しみましょう」
「ですね」
里中さんが、少しだけ、俺の方に、寄った。
キスをした。
バーで、「どこか、行きます?」と聞かれた時から、たぶん、この時間は、約束されていた。
でも、急いでは、いなかった。
ゆっくりと、時間を、使った。
---
朝、六時。
里中さんは、まだ眠っていた。
俺は、先に起きて、窓際のソファに座っていた。
ルームサービスで、コーヒーを頼んだ。
部屋に、コーヒーの香りが広がった。
東京の空は、薄い朝焼けに、染まっていた。
*(里中さんとは、たぶん、今夜限りか、何回か会う程度で、終わる関係だ)*
*(それは、俺も、里中さんも、分かってる)*
コーヒーを、一口飲んだ。
苦くて、温かくて、胃に落ちていった。
ベッドの里中さんが、少し、動いた。
目を擦りながら、体を起こした。
髪が、少し、乱れていた。
化粧は、昨日のまま。
でも、朝の光の中で見る里中さんは、昨日の夜の里中さんとは、少し、違う人のように見えた。
より、素の、彼女だった。
「おはようございます」
「おはよう、桐島さん」
「コーヒー、飲みます?」
「ほしい」
カップを、手渡した。
里中さんは、両手で持って、一口、飲んだ。
目を、閉じた。
「桐島さん」
「はい」
「昨日、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「……変なこと、聞いていいですか」
「どうぞ」
「桐島さん、また、会ってくれますか」
里中さんの目は、昨日のバーの時より、少し、控えめだった。
誘っているというより、確かめているような聞き方だった。
「もちろん」
「やった」
里中さんが、少し、笑った。
昨日の、バーでの笑いとは、別の笑いだった。
朝の、少しだけ寂しい笑い。
「お互い、しんどくなったら、忘れたいことがあったら会いましょう」
「大人の距離感で、ってことですよね」
「そうです」
「桐島さん、やっぱり、面倒くさくない人ですね」
「昨晩も、言われました」
「言いましたっけ」
「バーで」
「覚えてないです」
「酔ってたんでしょう」
「酔ってたんです」
里中さんが、ベッドに、もたれかかった。
コーヒーを、ゆっくり、飲んだ。
朝の光が、窓から、真っ直ぐに入ってきていた。
今日は、晴れるらしかった。
---
チェックアウトは、十時だった。
二人で、ホテルの朝食を、軽く食べた。
里中さんは、九時半の電車で中目黒に戻る、と言った。
俺は、タクシーで、タワーマンションに戻った。
別れ際、里中さんが、LINEのIDを交換しよう、と言った。
交換した。
「おやすみなさい、じゃなくて、いってらっしゃい、ですね」と、里中さんは笑った。
俺も、少し笑った。
「また、連絡します」と、お互いに言った。
タクシーの中で、スマートフォンを見た。
桑原さんから、LINEが来ていた。
*「遊馬さん、おはようございます。今日、もしお時間あれば、夕方からでも、お会いできませんか」*
俺は、少しだけ、止まった。
今朝の、里中さんのコーヒーの香りが、まだ、服に残っている気がした。
シャワーは、ホテルで浴びた。
でも、何かが、残っている感じがした。
*(今日は、会わない方がいいかもしれない)*
*「桑原さん、おはようございます。今日は、夕方から、会社の仕事が立て込んでまして。明日か、週末は、いかがですか」*
送った。
既読が、すぐに付いた。
*「大丈夫です。週末、楽しみにしてますね」*
桑原さんは、それ以上、押してこなかった。
桑原さんのそういう距離感が、俺は、好きだった。
そして、少しだけ、今朝の嘘に、罪悪感を感じた。
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**── 残高メモ(第36話)──**
*ギャンブル収入は片手間ながら継続中。*
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約17,642.8万円 |
| 競馬収入(5月初旬・片手間) | +約180万円 |
| 会食費・バー・ホテル代等 | ▲約15万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約17,807.8万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約5,097.4万円 |
| 三宅法律事務所 顧問契約(初回・着手金込み) | ▲約100万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約4,997.4万円** |




