表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/55

第36話 〜別の顔〜


 五月上旬。

 連休が明けた、週の水曜日。


 夜七時。

 銀座六丁目の、地下のバー。

 山下さんが新しく紹介してくれた、医療機器分野の法規制に強い弁護士。

 その人と顔合わせの、会食の席だった。


 弁護士は女性だった。

 四十代前半。

 名前は、三宅由香里さん。

 大手法律事務所を経てから独立して、医療機器のスタートアップを中心に、薬機法や医療機器認証の法務顧問を複数社務めている人だった。

 山下さんの、昔の同僚の、さらに後輩筋という繋がりで、今回の顔合わせになっていた。


 その場には、俺と山下さん、三宅さん、そしてもう一人、三宅さんの事務所のパートナーが参加していた。

 話は一時間半ほどで終わり、契約の話は大筋で合意した。

 三宅さんは、月額五十万円の顧問料で、ナカジマ精工 医療機器研究所の法務顧問を引き受けてくれることになった。


 会食が終わって、店を出た。

 銀座の夜は、平日でも、それなりに人が歩いていた。

 山下さんが、三宅さんと事務所のパートナーを、タクシーまで送った。

 俺と山下さんだけになった。


「山下さん、今日はありがとうございました。いい弁護士さん、紹介していただいて」


「こちらこそ、ご契約まで進んで、何よりでございます」


「もう一軒、どうですか」


「申し訳ございません。今夜は、家内と約束がございまして」


「失礼しました」


「桐島さんは、どうぞ、ごゆっくり」


 山下さんも、タクシーに乗って帰っていった。

 吉野さんは、今日は先に帰してあった。

 俺は、一人で、銀座の通りを歩いた。


 *(時間、まだ早いな)*


 スマートフォンで時計を見た。

 九時半。

 タワーマンションに帰って、一人で飲み直しても、悪くはなかった。

 でも、今夜は、なぜか、もう少しだけ、外にいたい気分だった。


---


 八丁目の路地。

 看板の出ていない、古いビルの二階。

 以前、山下さんが一度だけ連れてきてくれた、静かなバー。

 扉を押して、入った。


 カウンター七席と、奥にテーブル席が二つ。

 照明は薄暗い。

 店主は、白髪の、六十代の男性。

 山下さんに連れてきてもらった時から、何度か一人で通ったことがある。


「いらっしゃいませ、桐島様」


「こんばんは」


 カウンターの端の席に座った。

 オールドファッションド。

 店主が、グラスに砂糖を入れて、ビターズを振って、オレンジを絞って、バーボンを注いだ。

 氷を、丸く、手で削って入れた。


 一口、飲んだ。

 甘さと、ビターの苦みと、バーボンの温かさ。

 良い順番で、舌に乗った。


 奥のテーブル席に、女性が二人いた。

 会話の声が、時々、聞こえてくる。

 仕事の話だった。

 PR関係の、イベントの打ち合わせ。

 片方の女性が、もう片方に、進行表を見せている。


 しばらく、俺は、ただ、グラスを傾けていた。

 誰かと話したい気分でもなかった。

 でも、一人の空間でもなかった。

 どちらつかずの、緩い時間が欲しかった。


 十分ほど経った頃、奥のテーブル席の打ち合わせが終わったらしく、年上の方の女性が先に店を出て行った。

 残された女性が、テーブル席から、カウンターに移ってきた。

 俺の二つ隣の席に座った。


「マスター、シャンパン。飲みかけのボトル、残ってましたよね」


「はい、あずかっております」


 グラスが、置かれた。

 細い、フルート型のグラス。

 店主が、奥から半分ほど残っているボトルを持ってきて、注いだ。


 女性が、グラスを軽く持ち上げて、一口、飲んだ。

 それから、ふっと、息を吐いた。


「疲れた」


 独り言のような声だった。

 でも、カウンターの中の店主にも、俺にも、聞こえる音量。

 誰に言ったわけでもない、でも、誰かに聞いてほしそうな、そういう言い方。


 俺は、オールドファッションドを、一口飲んだ。

 それから、少しだけ、視線を横に向けた。

 女性と、目が合った。


 二十代後半に見えた。

 黒いワンピース。

 髪は、肩より少し長い。

 化粧は派手ではないが、目元がはっきりしている。

 少し、疲れた顔をしていた。

 でも、それが、不思議と、魅力的だった。


 女性が、先に口を開いた。


「一人ですか?」


「はい」


「私も一人です。今」


「今、ですか」


「さっきまでは、仕事の人と。でも、帰っちゃったんで、一人」


「そうですか」


 女性が、少し笑った。

 笑うと、目元の印象が、柔らかくなった。


「すいません、急に声かけて」


「いえ、いいですよ」


「バーで知らない人に声かけるって、あんまりしないんですけど、今日はちょっと、愚痴りたい気分で」


「愚痴、聞きますよ」


「本当ですか」


「バーの隣の席って、そういう機能があるものだと思ってます」


 女性が、また笑った。


「仕事、PRの仕事してるんですけど、クライアントがめちゃくちゃなスケジュール変更してきて、来週のイベントが飛びそうなんです」


「それは、きつい」


「そう。きついんです」


「何のイベントだったんですか」


「新しくできたレストランのレセプション。料理長がフランス帰りの有名な人で、それをお披露目する予定だったのに、クライアントが『やっぱり六月にずらして』って」


「お店側にも、食材の手配とかあるでしょうに」


「そうなんですよ。私、さっきまで、その調整の打ち合わせしてて、胃が痛くて」


 女性が、シャンパンを、また一口飲んだ。


「すいません、初対面で、いきなりお仕事の愚痴を」


「いいんですよ。聞いてて、面白かったです」


「面白かった?」


「PRの現場って、スピード感、すごいんですね」


「スピード感というか、全部、土壇場ですね。綺麗な計画通りに進むことなんて、一回もない」


 女性が、カウンターにグラスを置いた。

 俺の方に、少し、体を向けた。


「あなたは、お仕事、何されてるんですか?」


「いろいろです。小さな会社、いくつか経営してます」


「経営者さん?」


「経営者と言うと格好いいですけど、色々雑多にやってるだけです」


「謙遜ですね」


「本当です」


「……お名前、聞いていいですか」


「桐島です。桐島遊馬」


「里中彩です。呼び方は、お好きに」


 里中さんが、手を、少しだけ、差し出した。

 軽い握手をした。

 手が、冷たかった。

 シャンパンのグラスを、ずっと持っていたからだろう。


---


 そこから、一時間ほど、話した。


 里中さんは、二十九歳。

 PR会社勤務、今年で六年目。

 中目黒に住んでいる。

 実家は福岡。

 仕事の休みは不定期。

 今日も、本当は十一時までにイベント準備の資料を作る予定だったが、クライアントのせいで全部ひっくり返って、やる気が消えて、バーに来た。


 そういう話を、里中さんは、軽快に話した。

 俺は、聞いていた。

 時々、相槌を入れた。

 俺自身のことは、深くは話さなかった。

 会社を経営していること、馬主をやっていること、最近、大田区の町工場を買ったこと。

 それくらい、さらっと話した。


「大田区の町工場?」


「はい」


「何を作ってる工場ですか?」


「金属加工です。精密部品」


「桐島さんって、面白い人ですね」


「面白いですか」


「二十代で、バラバラな事業を、いくつもやってる」


「二十八なんで、もう二十代ぎりぎりです」


「私と、一つしか違わない。しかも年下」


 里中さんが、少し笑った。

 シャンパンのグラスが、空になった。

 店主が、新しいボトルを出そうとしたが、里中さんが、首を振った。


「もう一杯、違うのを」


「何になさいますか」


「桐島さんが、お勧めなら、何でも」


「おいおい」


 俺は、少し、笑った。

 それから、店主の方を見た。


「じゃあ、ギムレット、ベースはタンカレーで。ライムを、少し多めに」


「かしこまりました」


 店主が、シェイカーを振り始めた。

 里中さんが、俺を見ていた。


「桐島さん、詳しいんですね」


「最近、覚えたんです。この店の店主に、教えてもらって」


「じゃあ、最近なんですね」


「はい。一年前までは、缶チューハイと、ハイボールくらいしか飲まなかったので」


「変わりましたね」


「変わりました」


 ギムレットが、置かれた。

 里中さんが、一口、飲んだ。

 少しだけ、目を、細めた。


「美味しい」


「よかった」


「桐島さん」


「はい」


「少し、踏み込んだこと、聞いていいですか」


「どうぞ」


「桐島さん、彼女、いますか?」


 俺は、少し、考えた。

 「彼女」という言葉で、説明できる関係の人は、いなかった。

 そういう関係ではない、別の距離感で、会う人は、いる。

 でも、それは、ここで、話す話じゃ、なかった。


「彼女というほどの関係の人は、いないです」


「というほどの、ね」


「気になる人は、います」


「正直ですね」


「嘘は、面倒なので」


「私も、彼氏、いないです。最後に彼氏がいたの、三年前。そこからは、ずっと、一人」


「忙しいから、ですか」


「忙しさも、あります。でも、一番は、合う人がいないから」


「合う人」


「面倒くさいことを言わない人が、少ないんですよね」


 里中さんが、ギムレットを、もう一口飲んだ。

 目が、少し、俺を試しているように、見えた。


「桐島さんは、面倒くさい人ですか?」


「うーん」


 俺は、少し考えた。


「面倒くさくない方だと、思います。たぶん」


「『たぶん』」


「自分のことは、自分が一番わからないので」


「それは、一番、面倒くさくない人の言い方ですね」


 里中さんが、また笑った。

 今度の笑いは、さっきより、少し、柔らかかった。


---


 十時半。


 里中さんが、二杯目のギムレットを、空にした。

 店主が、新しい水を、さりげなくカウンターに置いた。

 気の利く店だった。


「桐島さん」


「はい」


「このあと、何か予定、ありますか」


「特には」


「じゃあ、もう少し、一緒にいていいですか」


 里中さんの目は、真っ直ぐだった。

 遠回しな言い方ではない。

 でも、押し付けがましくもない。

 大人の提案だった。


「いいですよ」


 答えた。


 里中さんが、少しだけ、微笑んだ。


「どこか、行きます?」


「近くのバーで、もう一杯、飲みましょうか」


「どこのですか」


「ホテルの最上階にあります」


「ストレートですね」


「飲み直すだけですよ」


 里中さんが、笑った。

 しっかりと、声を出して、笑った。


「桐島さん、やっぱり、面倒くさくない人ですね」


 俺は、会計を済ませた。

 店主が、小さく頭を下げた。

 「ありがとうございました」という声は、いつもと、同じだった。

 どんな客の、どんな夜にも、同じ温度で挨拶をする人だった。


 店を出た。

 銀座の夜気が、顔にあたった。

 里中さんが、少しだけ、俺の腕に、手を添えた。


---


 銀座四丁目の、大きなホテル。

 最上階のバー。

 カウンターの窓の向こうに、東京の夜景が広がっていた。


 里中さんが、窓辺を見て、息を吐いた。


「綺麗」


「はい」


「こういうバー、久しぶりです。デートで来るような場所って、最近、全然来てなくて」


「今日は、デートですか」


「デートというより、気分転換、かな」


「気分転換」


「でも、桐島さんといて、気分、転換しました」


 里中さんが、俺を見た。

 目が、少し、潤んでいた。

 酔いではなかった。

 酔うには、まだ早かった。

 ただ、目の奥で、何かが、少しだけ、解けていた。


「桐島さん」


「はい」


「私、今夜、誰かに、抱きしめてほしいだけなのかもしれない」


「……そうですか」


「こういう言い方、重いですか」


「いえ」


「よかった」


 俺は、里中さんの肩に、軽く、手を置いた。

 薄い黒のワンピースの、肩の骨が、手のひらの下で、少しだけ固かった。

 里中さんは、動かなかった。

 俺の手を、受け入れて、そのまま、窓の方を見ていた。


「東京タワー、見えますね」


「はい」


「私、東京タワー、好きなんです。上京した時から、ずっと」


「綺麗ですよね」


「はい」


 しばらく、二人で、窓の外を見ていた。

 東京タワーが、赤く、光っていた。

 その周りに、小さなビルの灯りが、いくつもあった。


---


 その夜は、ホテルの、最上階の部屋を、取った。

 チェックインして、ルームサービスで、ワインを頼んだ。


 部屋に入ってからの里中さんは、さっきまでと、少しだけ、違った。

 静かになった。

 バーでの軽快な笑いが、消えていた。

 疲れている人の、素の姿が、少しずつ、出てきていた。


「桐島さん」


「はい」


「今日、なんで私に声かけてくれたんですか」


「里中さんの方から、先に声かけてくれた気がしますけど」


「あ、そうでした」


 里中さんが、少しだけ、笑った。

 でも、すぐに、目を下に向けた。


「すいません、私、普段、こういうこと、しないんです」


「じゃあ、今日は、特別ですね」


「特別、なのかな」


 里中さんが、ベッドの端に、座った。

 俺も、同じベッドの、少し離れた場所に、座った。


「桐島さん」


「はい」


「今夜は、全部忘れて楽しみましょう」


「ですね」


 里中さんが、少しだけ、俺の方に、寄った。

 キスをした。

 バーで、「どこか、行きます?」と聞かれた時から、たぶん、この時間は、約束されていた。

 でも、急いでは、いなかった。

 ゆっくりと、時間を、使った。


---


 朝、六時。


 里中さんは、まだ眠っていた。

 俺は、先に起きて、窓際のソファに座っていた。

 ルームサービスで、コーヒーを頼んだ。

 部屋に、コーヒーの香りが広がった。


 東京の空は、薄い朝焼けに、染まっていた。


 *(里中さんとは、たぶん、今夜限りか、何回か会う程度で、終わる関係だ)*


 *(それは、俺も、里中さんも、分かってる)*



 コーヒーを、一口飲んだ。

 苦くて、温かくて、胃に落ちていった。


 ベッドの里中さんが、少し、動いた。

 目を擦りながら、体を起こした。

 髪が、少し、乱れていた。

 化粧は、昨日のまま。

 でも、朝の光の中で見る里中さんは、昨日の夜の里中さんとは、少し、違う人のように見えた。

 より、素の、彼女だった。


「おはようございます」


「おはよう、桐島さん」


「コーヒー、飲みます?」


「ほしい」


 カップを、手渡した。

 里中さんは、両手で持って、一口、飲んだ。

 目を、閉じた。


「桐島さん」


「はい」


「昨日、ありがとうございました」


「こちらこそ」


「……変なこと、聞いていいですか」


「どうぞ」


「桐島さん、また、会ってくれますか」


 里中さんの目は、昨日のバーの時より、少し、控えめだった。

 誘っているというより、確かめているような聞き方だった。


「もちろん」


「やった」


 里中さんが、少し、笑った。

 昨日の、バーでの笑いとは、別の笑いだった。

 朝の、少しだけ寂しい笑い。

 

「お互い、しんどくなったら、忘れたいことがあったら会いましょう」


「大人の距離感で、ってことですよね」


「そうです」


「桐島さん、やっぱり、面倒くさくない人ですね」


「昨晩も、言われました」


「言いましたっけ」


「バーで」


「覚えてないです」


「酔ってたんでしょう」


「酔ってたんです」


 里中さんが、ベッドに、もたれかかった。

 コーヒーを、ゆっくり、飲んだ。

 朝の光が、窓から、真っ直ぐに入ってきていた。

 今日は、晴れるらしかった。


---


 チェックアウトは、十時だった。

 二人で、ホテルの朝食を、軽く食べた。

 里中さんは、九時半の電車で中目黒に戻る、と言った。

 俺は、タクシーで、タワーマンションに戻った。


 別れ際、里中さんが、LINEのIDを交換しよう、と言った。

 交換した。

 「おやすみなさい、じゃなくて、いってらっしゃい、ですね」と、里中さんは笑った。

 俺も、少し笑った。

 「また、連絡します」と、お互いに言った。


 タクシーの中で、スマートフォンを見た。

 桑原さんから、LINEが来ていた。


 *「遊馬さん、おはようございます。今日、もしお時間あれば、夕方からでも、お会いできませんか」*


 俺は、少しだけ、止まった。


 今朝の、里中さんのコーヒーの香りが、まだ、服に残っている気がした。

 シャワーは、ホテルで浴びた。

 でも、何かが、残っている感じがした。


 *(今日は、会わない方がいいかもしれない)*


 *「桑原さん、おはようございます。今日は、夕方から、会社の仕事が立て込んでまして。明日か、週末は、いかがですか」*


 送った。

 既読が、すぐに付いた。


 *「大丈夫です。週末、楽しみにしてますね」*


 桑原さんは、それ以上、押してこなかった。

 桑原さんのそういう距離感が、俺は、好きだった。

 そして、少しだけ、今朝の嘘に、罪悪感を感じた。



---


**── 残高メモ(第36話)──**


*ギャンブル収入は片手間ながら継続中。*


### 個人資金(桐島遊馬)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約17,642.8万円 |

| 競馬収入(5月初旬・片手間) | +約180万円 |

| 会食費・バー・ホテル代等 | ▲約15万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約17,807.8万円** |


### 法人資金(KY Holdings)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約5,097.4万円 |

| 三宅法律事務所 顧問契約(初回・着手金込み) | ▲約100万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約4,997.4万円** |


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ