第35話 〜予兆〜
四月下旬。
金曜日の夜。
事務所に、残っていたのは俺と山下さんだけだった。
他の社員は帰宅していた。
西村は、小林さんを連れて、今日から大阪出張。
アプリのユーザーイベントに、登壇してくる予定だった。
俺は、自分のデスクで、今月の経営レポートに、目を通していた。
山下さんが、時々、背後を通り過ぎて、資料を整理していた。
「山下さん」
「はい」
「今月、ちょっと、怒涛でしたね」
「左様でございました」
「橘さんの件、工場の買収、松田さんとの面談、東大との共同研究の立ち上げ、桑原さんとの……いや、これは関係ないか」
山下さんが、静かに、微笑んだ。
「桐島さんの私生活まで、承知しております」
「え、知ってるんですか」
「吉野がタクシーの手配を承っておりますので、週末のご行動は、大まかには存じ上げております」
「……バレてるなあ」
「ご安心ください。他言はいたしません」
「山下さん、一つ、聞いていいですか」
「はい」
「山下さんから見て、今月の一連の出来事は、経営者としての俺の判断、どうでしたか」
山下さんが、手を止めた。
椅子を引いて、俺の向かいに座った。
「桐島さん」
「はい」
「率直に申し上げてよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「今月の桐島さんのご判断は、三月までの桐島さんとは、明らかに違っておりました」
「違ってた」
「三月までの桐島さんは、勘と、時計と、経験で判断されていました。速さと、鋭さ。それが桐島さんの強みでした。ですが今月は、その強みに加えて、周囲の人の感情や、事業の長期的な意義まで、射程に入れて判断されておりました」
「そう、ですか」
「橘様の処遇、ナカジマ精工の買収、松田様の処遇。どれも、短期的な損得だけでは、あのご判断にはならなかったはずです」
「……」
「桐島さん、経営者として、一段、深くなられました」
山下さんの言葉は、短かった。
でも、重かった。
俺は、椅子に、少しだけ、もたれた。
「山下さん」
「はい」
「それ、褒めてますよね」
「はい。心底、敬意を込めて」
「照れますね」
「恐縮でございます」
山下さんが、少しだけ笑った。
珍しい表情。
でも、今月は、俺と山下さんの距離も、少し、縮まった気がしていた。
橘さんの一件が、妙な形で、俺たちの間の信頼を、濃くしていた。
---
「山下さん」
「はい」
「これから、何に気をつけるべきだと思います?」
山下さんが、少し、考えた。
「三点、ございます」
「どうぞ」
「一点目。工場の事業は、アプリや競馬と違い、短期での成果が出ない領域です。桐島さん、短期の数字に一喜一憂しない覚悟が、必要となります」
「はい」
「二点目。人材の充実です。ナカジマ精工、KY Holdings本体、両方で、今後、採用を加速せざるを得ません。採用は、事業の成否を左右する最も重い意思決定ですので、ご慎重に」
「はい」
「三点目」
山下さんが、少し、言葉を選んでいた。
「三点目は、なんですか」
「桐島さんのお身体と、心の健康でございます」
「あ……」
「今月、桐島さんは、非常に多くの感情労働を、ご負担されました。橘様の件、中島様・松田様との信頼構築、そして、桑原様とのご関係。どれも、消耗を伴います」
「確かに」
「経営者の意思決定の質は、心身の状態に、正直に連動いたします。倒れる前に、休む。これが、桐島さんに、最も難しい課題かと存じます」
「……ですね」
「さしあたり、ゴールデンウィークは、完全にお休みされることをお勧めいたします」
「ですね。考えます」
山下さんが、頷いた。
アドバイスを受け止めることが、最近の俺には、できるようになっていた。
一年前の俺だったら、「大丈夫です、俺は」と強がっていたかもしれない。
---
夜十時。
山下さんが、先に帰った。
事務所は、俺一人になった。
デスクの、端の方。
橘さんが使っていた席。
小林さんが、今でも、毎日、サボテンに水をあげていた。
小さな、鉢。
去年の冬、あの人が、風邪で休んだ日の翌週に、「気分転換に」と買ってきた鉢だった。
俺は、立ち上がって、その席の前に立った。
サボテンが、小さく、緑色をしていた。
棘の一本一本が、蛍光灯の光を、受けていた。
*(橘さんは、今、どうしてるんだろう)*
山下さんから聞いた話では、新宿のクリニックで、週一の治療を続けているらしい。
分割返済も、月二十万、遅れずに、振り込まれている。
LINEは、先週、山下さんに一度、短いメッセージが届いたきり。
*(「治療、続けてます。会社に迷惑をかけました」)*
*(それだけ)*
俺は、その椅子を、軽く撫でた。
冷たい、プラスチックの感触。
*(いつか、戻ってこいよ)*
---
土曜日の朝。
東京競馬場。
春のGIシーズンに入り、東京開催がメインになり始めた時期。
雨が降りそうだったが、まだ、降ってはいなかった。
厩舎に、一頭の馬がいた。
八十七番。
俺が育成預託をしている、牝馬の二歳。
もう少しで、デビュー。
馬主名義はKY Holdingsに移した。
馬は、俺の顔を、覚えていた。
柵越しに、俺の手の匂いを嗅ぎに来る。
水野先生が、横で、軽く笑っていた。
「桐島会長、この仔、人によく懐いてますよ」
「性格、穏やかですね」
「ええ。穏やかで、でも、走る時は、集中が深い。いい仔です」
「デビュー戦、いつ頃の予定ですか」
「六月の東京、芝1400mを狙ってます」
「楽しみですね」
「馬自身も、楽しみにしてると思いますよ」
水野先生が、馬の鼻先を撫でた。
馬が、少し、目を細めた。
俺も、鼻先を撫でた。
硬くて、でも、温かい。
馬の呼吸が、手のひらに、伝わってきた。
*(この仔を、育成預託として受け入れたのは、一年前だった。まさか、競馬の世界にまで入り込むとは、想像していなかった)*
*(でも、関わりが深くなるほど、愛着が湧く。金の世界じゃなくて、命の世界)*
「水野先生、この仔、名前、決まりました?」
「まだ仮登録です。桐島さん、何か希望ありますか」
「そうですね……」
少し、考えた。
「『ツグミナク』、はどうでしょうか」
「ツグミナク?」
「鶫が鳴く、という意味です。冬に、鳥の鳴き声を聞いて、元気になる感覚が、この仔の走りに、似てる気がして」
「詩的ですね」
「変ですか」
「いえ。馬の名前は、詩的な方が、走ると言われてます」
水野先生が、メモを取った。
ツグミナク。
俺が、初めて名付ける、馬の名前だった。
---
午後。
水野先生と、厩舎の応接室で、コーヒーを飲んだ。
「桐島会長、本当にお忙しそうですね」
「ええ、そうですけど。水野先生、誰から聞いてるんですか」
「西村くんから、時々、話を聞いてるんですよ」
「あいつ、口軽いな」
水野先生が、笑った。
「西村くんから時々話を聞いてると、桐島会長、この一年で、ずいぶん色んな方と仕事を広げていらっしゃいますね」
「気づいたら、そうなってました」
「不思議なもので、人と関わる幅が広がっていく方は、馬との距離も、自然に近くなるんですよ」
「そうなんですか」
「一人で抱え込む方は、馬にも、どこかで壁を作ります。桐島会長は、今日、この仔の首に手を当てた時、壁、なかったです。馬も、それ、ちゃんと、分かってました」
水野先生の言葉は、いつも、静かで、でも、芯がある。
競馬の世界で、五十年以上やってきた人の、重みだった。
「水野先生」
「はい」
「この仔、強くなりますか」
「なります」
「根拠は」
「勘です」
水野先生が、コーヒーを、一口飲んだ。
さらっと、言った。
でも、その勘は、何千頭の馬を見てきた上での勘だった。
俺は、頷いた。
勘というのは、何もない場所から、出てくるものじゃない。
積み重ねの上に、しか、出てこないものだ。
---
その日の夜。
タワーマンションに戻った。
シャワーを浴びて、リビングのソファに座った。
外は、雨になっていた。
窓に、細かい雨粒が、斜めに流れていた。
テーブルの上に、ある時計に、触れた。
冷たい。
金属の、ただ、冷たい感触。
その時、一瞬、映像が、頭に浮かんだ。
暗い部屋。
古い木のテーブル。
テーブルの上に、誰かの手。
紙を、ゆっくりと、めくっていた。
誰かの、低い、かすれた声。
*「——勝ちすぎると、世界は、平衡を取り戻そうとする」*
*「——気をつけろ」*
*「——時計は、ただの道具だ。お前自身を、試す、道具だ」*
声は、誰のものか、わからなかった。
男とも、女ともつかない。
若いのか、老いているのか、わからない。
顔は、見えない。
光が足りない。
テーブルの端に、何か、銀色の、細い針のようなものが、置いてある。
時計と同じ、緑色を帯びた銀色。
*(俺の時計の、元の持ち主?)*
*(それとも、俺の時計を作った誰か?)*
*(あるいは、俺の時計を欲しがっている、誰か?)*
映像は、数秒で、消えた。
目を開けた。
リビングは、普通だった。
雨の音だけが、聞こえていた。
時計が、テーブルの上で、少しだけ、熱を持っていた。
翠色の表面が、微かに、光を反射していた。
いつもの「勝負の時の熱さ」とは、違う、ぬるい熱だった。
*(何かを、伝えようとしてるのか)*
時計は、答えなかった。
ただ、ぬるく、温かく、テーブルの上にあった。
---
**── 残高メモ(第35話)──**
*ギャンブル収入は片手間ながら継続中。*
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約17,280万円 |
| 4月給与(役員報酬・税引後手取り) | +約180万円 |
| 不動産賃料収入(個人・工場賃貸) | +約42.8万円 |
| 競艇・競馬収入(4月下旬・片手間) | +約200万円 |
| 生活費・私的支出(4月全般) | ▲約60万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約17,642.8万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約5,087.4万円 |
| 4月アプリ残額精算 | +約10万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約5,097.4万円** |
### ナカジマ精工
*4月は大型執行なし。東大医工研との打ち合わせ開始予定は5月。*




