第34話 〜距離〜
四月五日。
土曜日。
夜七時。
銀座。
三丁目の裏通り。
暖簾の小さな、古い日本料理店。
俺が、スマートフォンで探した店だった。
席は、カウンター八席のみ。
店主が、黙々と料理を作る店だった。
桑原さんは、先に来ていた。
白のシンプルなブラウスに、紺のロングスカート。
髪を一つにまとめていた。
普段のふくろうで見る桑原さんより、少しだけ、フォーマルな格好。
でも、気負った感じはなかった。
「遊馬さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです。お待たせしましたか」
「いえ、私も今来たばかりです」
隣の席に座った。
カウンターの向こうで、店主が鰹出汁の入った鍋を弱火にかけていた。
香りが、静かに、店内に漂っていた。
「ここ、山下さんに聞いたんですか」
「いや、自分で探しました」
「遊馬さんが、お店を自分で探すの、珍しいですね」
「俺、普段そんなに外食しないから、店の選び方、よくわからないんですけど、桑原さんに和食を食べてもらいたかったので、頑張りました」
「ありがとうございます」
桑原さんが、少し笑った。
カウンター越しに、店主が、軽く会釈をしてくれた。
コースは、先付から八品。
お飲み物を聞かれた。
「日本酒、合わせますか」
「はい、お任せで」
「桑原さんは?」
「私も同じもので」
店主が、冷やの純米吟醸を、グラスに注いでくれた。
淡いグレーの陶器のグラス。
透明な酒が、光を吸い込んでいる。
グラスを軽く合わせた。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
一口、飲んだ。
お米の香りが、口の中で広がった。
甘すぎず、辛すぎず、飲みやすい酒だった。
---
「遊馬さん、少し、痩せました?」
「そうですか」
「目の下、少し、濃くなってます」
「バレてしまいましたか」
「何かありました?」
桑原さんの聞き方は、詰めるような感じじゃなかった。
ただ、心配してくれている。
でも、話したくないなら話さなくていいよ、という含みもある。
そういう聞き方だった。
「まあ、色々ありました」
「色々?」
「会社で、一人、事情があって辞めてもらうことになりました」
「そうですか」
「俺が好きだった人だったので、少し、応えてます」
「……」
「桑原さん、ごめんなさい。デートの席で、こんな話」
「いいえ」
桑原さんが、首を振った。
「遊馬さん、話したいことがあったら、話してください。私、聞くのは得意なんですよ」
「得意、ですか」
「翻訳の仕事って、人の言葉に、ずっと耳を澄ませる仕事でもあるので」
桑原さんが、グラスに軽く口をつけた。
その仕草が、静かで、綺麗だった。
「遊馬さん。会社の人のこと、もし話せる範囲で、話したら、少し楽になるかもしれません」
「……そうですね」
先付けの、蛤の真薯が出てきた。
湯気が立っている。
春の香りがした。
俺は、一口食べた。
蛤の旨味と、出汁の優しさが、身体に沁みていった。
「うちの会社に、一人、天才的な分析ができる人がいました」
「はい」
「でも、依存症になってしまって、会社の金に手をつけた。四百五十万」
「そうですか」
「告訴はしなかった。返還と、退職と、治療を条件に、別れました。でも、俺の中では、辞めさせたというより、手放した、という感覚です」
「『手放した』」
「本当は、もっと早く、気づいてあげられたかもしれない。あの人が追い詰められていくのを、俺は数字の成果しか見てなかった。経営者としては、当たり前のことだけど、人間として、何かが足りなかった気がしてます」
桑原さんは、黙って聞いていた。
何か意見を挟んだりしない。
ただ、聞いていた。
目が、俺を見ていた。
「遊馬さん」
「はい」
「早く気づけなかったこと、悔やむお気持ち、わかります」
「桑原さんも、似たような経験、あるんですか」
「ええ」
桑原さんが、少しだけ、グラスに目を落とした。
「翻訳の仕事を始めたばかりの頃、ずっとお世話になっていた編集者さんが、ある日、突然、出版社を辞められました。あとから聞くと、心を病んでいらしたと。私は月に何度もメールをやり取りしていたのに、気づけなかった。最後のやり取りまで、いつも通りの方だと思っていました」
「……」
「後になって、奥様から話を聞いて、知りました。家庭のこと、お身体のこと、色々重なっていたと。私、何ヶ月も、自分を責めました。毎日一緒にいたのに、なぜ気づかなかったんだろう、って」
「その人、今は」
「今は、実家の方で、別の仕事をされています。時々、葉書が届きます。お元気です」
「そうですか」
「時間が経ってから気づくことって、あります。でも、その時にわかっていなかったのは、仕方ないこともあります。全部は、見えないんです」
桑原さんが、俺を見た。
「遊馬さんが、告訴しないで、返還と治療を求めた選択は、その人にとって、最も良い選択だったと思います。それは、遊馬さんが、その人を、人として見ていた証拠です」
「……」
「経営者としての責任と、人としての優しさを、両方成立させる選択は、簡単じゃないです。でも、遊馬さんは、それをやりました」
胸の奥が、少し、温かくなった。
誰かから、今回の判断を、こうやって受け止めてもらったのは、初めてだった。
山下さんは、「お見事でした」と言ってくれた。
でも、それは、ビジネスの評価だった。
桑原さんの言葉は、俺の感情の部分を、ちゃんと受け止めてくれていた。
「桑原さん」
「はい」
「ありがとうございます」
「いえ」
蛤を、最後の一口、食べた。
出汁の塩味が、舌に残った。
---
お椀が出てきた。
桜鯛の、桜蒸し。
淡い桜色のすり身に、桜の葉が一枚。
春の景色そのものだった。
桑原さんが、静かに、匙を口に運んだ。
目を閉じた。
何かを味わっている、という顔だった。
「遊馬さん」
「はい」
「このお店、素敵です」
「よかったです」
「お一人で、よく来られるんですか」
「いや、今日が初めてです。桑原さんと会うために、探しました」
「そうですか」
桑原さんが、少しだけ、頬を赤くした。
赤さに気付いた桑原さんが、下を向いた。
カウンターの木目を、しばらく見ていた。
「遊馬さん」
「はい」
「変なこと、聞いていいですか」
「どうぞ」
「私と、どうして、会いたいと思ってくださったんでしょうか」
「どうして、って」
「遊馬さん、お忙しいじゃないですか。工場の買収とか、会社のこととか、色々。そんな中で、私と食事をする時間を作ってくださっている理由が、気になって」
俺は、少し、考えた。
桑原さんは、曖昧な答えは受け入れない気がした。
ちゃんと、正直に言わなきゃいけない。
「桑原さんと一緒にいると、他のことで疲れた頭が、静かになります」
「静かに」
「桑原さんは、何も要求してこない。でも、ちゃんと、俺のことを見てくれてる。そういう距離感が、俺には、心地いいんです」
「……」
「それと、桑原さんの、翻訳の話を聞くのが、好きです。原文の一行を訳すのに三日悩んだ話とか、辞書に載っていない言葉の手触りを探す話とか、そういう話」
「細かい話ですよ」
「その細かさが、好きなんです。桑原さんの、世界の見方」
桑原さんが、目を上げて、俺を見た。
目が、少し、揺れていた。
でも、逸らさなかった。
「遊馬さん」
「はい」
「私も、遊馬さんと会うと、安心します」
「安心」
「翻訳家って、色々、背負うものがあって、ずっと気を張っています。原著者の意図、出版社、編集者、読んでくださる方、納期。どれも大事で、でも、重くて」
「……」
「遊馬さんといる時だけ、それを全部、脇に置けるんです。何かを背負ってない、私自身のままで、いられる」
グラスに残った酒を、桑原さんが、ゆっくり飲み干した。
店主が、すぐに、次の冷やを注いでくれた。
桑原さんの目が、少しだけ、潤んでいた。
泣いているわけじゃない。
感情が、静かに、溢れている、そういう目だった。
「桑原さん」
「はい」
「もし、ご迷惑じゃなければ」
「はい」
「これからも、こうして、会っていただけませんか」
桑原さんが、少し、微笑んだ。
「迷惑なんて、ありません」
「じゃあ、定期的に」
「はい」
それだけの、約束だった。
言葉は少なかった。
でも、桑原さんの表情で、充分だった。
---
八品のコースが、ゆっくりと進んでいった。
お造り。
焼き物の、鰆の木の芽焼き。
煮物の、筍と若布の炊き合わせ。
揚げ物の、稚鮎の天ぷら。
強肴の、鰻と胡瓜の酢の物。
食事は、鯛めしと、赤出汁。
水菓子に、苺のミルフィーユ仕立て。
途中、桑原さんが、料理名にまつわる言葉の話を、ぽつぽつと教えてくれた。
「強肴」という言葉の由来。
「稚鮎」を「ちあゆ」ではなく「わかあゆ」と読ませる店があるという話。
「赤出汁」を英語に訳す時、一番近い言葉を見つけるのに苦労したという昔の仕事の思い出。
俺には分からない世界の話。
でも、聞いていると、料理の一皿が、言葉の重なりとして、別の意味を持って見えてくるようになった。
「桑原さんと食事すると、食べ物の見え方が変わりますね」
「うるさくないですか」
「むしろ、楽しい」
「翻訳家の癖で、つい、言葉の端っこを気にしてしまうんです」
「いい習慣だと思います」
桑原さんが、少し、笑った。
---
夜九時半。
コースが終わって、お会計を済ませた。
店主に、丁寧にお礼を言った。
店主が、小さく頭を下げてくれた。
言葉は少ないけれど、気持ちの伝わる挨拶だった。
店を出た。
銀座の裏通り。
石畳が、街灯の光を反射している。
四月の夜の、少し冷たい風。
桑原さんが、軽く、ショールを肩にかけた。
「桑原さん、次、お茶でもいかがですか」
「はい」
二人で、ゆっくりと、銀座の通りを歩いた。
日本料理店から、少し歩いたところにある、静かなバー。
桑原さんを連れて行ったのは、以前、山下さんに教えてもらった店だった。
カウンターと、個室のような小さなテーブル席が、三つだけ。
個室の席に、案内された。
シングルモルトと、コーヒーをブレンドした、アイリッシュコーヒーのような飲み物を、頼んだ。
桑原さんは、ノンアルコールの、ハーブティーを頼んだ。
「私、お酒、結構いただいてしまったので」
「水分、大事ですからね」
「遊馬さんも、飲みすぎないでくださいね」
「はい」
グラスを合わせた。
軽く、控えめに。
---
「遊馬さん」
「はい」
「一つだけ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「遊馬さんって、週末は、普段、どんな風に過ごされているんですか」
桑原さんの問い方は、詮索する感じじゃなかった。
ただ、俺という人間の普段の生活を、もう少し、知りたいという感じだった。
「週末はまちまちですね。仕事が入ることもあるし、家で、何もしない日もある。最近は、工場の件で、動いていることが多かったですけど」
「お忙しいですね」
「でも、休める時は、ちゃんと休んでます」
「ふくろうで見る遊馬さん、いつも静かに本を読まれてるから、普段もそんな感じなのかなって」
「ふくろうは、特別な場所なんです。あそこで見ている俺と、普段の俺は、たぶん、少しだけ違います」
「どう違うんですか」
「普段は、もっと、喋ります。会議だったり、打ち合わせだったり。ふくろうでは、それを全部、脇に置きたくて、本を読んでます」
「そうなんですね」
「桑原さんも、ふくろうで見る時と、今と、少し違って見えます」
「違いますか」
「今の方が、少しだけ、近い」
桑原さんが、カウンターに視線を落とした。
少しだけ、頬が赤くなっていた。
しばらく、沈黙が、二人の間にあった。
でも、気まずい沈黙じゃなかった。
桑原さんが、自分の中で、何かを整えている。
その時間を、俺は、静かに待っていた。
「遊馬さん」
「はい」
「私のことも、少しずつ、私のこと知っていただけると、嬉しいです」
「します」
桑原さんが、少し、笑った。
微かに、照れていた。
「図々しいこと、言いました」
「図々しくないですよ。嬉しいです」
グラスに、少しだけ、残っていた飲み物を、飲み干した。
アイリッシュコーヒーの、ウィスキーの甘い香りと、コーヒーの苦味が、口の中で混ざった。
---
夜十一時前。
バーを出て、桑原さんの自宅近くまで、タクシーで送ることにした。
吉野さんは今夜は休みで、タクシーを拾った。
桑原さんは、麻布の古いマンションに住んでいた。
ふくろうの家賃とは別に、個人で借りている部屋。
静かな場所だと、前に聞いていた。
タクシーの中、二人の会話は、少なかった。
でも、沈黙が心地よかった。
桑原さんは、窓の外の夜景を眺めていた。
俺も、同じ方向を、見ていた。
麻布のマンションの前で、タクシーが停まった。
「遊馬さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそです」
「あの……」
桑原さんが、一瞬、言葉を探した。
「はい」
「もし、よかったら、少しだけ、部屋に寄っていきませんか」
桑原さんの声は、小さかった。
でも、はっきりと、言葉にしていた。
俺は、少し、考えた。
桑原さんの目を、見た。
目は、逸らさなかった。
酔っていて、勢いで言っているわけじゃなかった。
ちゃんと、自分の意思で、言っていた。
「お邪魔します」
「……はい」
タクシーを降りた。
桑原さんが、マンションのエントランスの鍵を開けた。
エレベーターに、二人で乗った。
エレベーターの中、桑原さんが、俺の手を、そっと握った。
俺も、握り返した。
それ以上、何も言わなかった。
言葉は、必要なかった。
七階。
ドアを開けた。
桑原さんの部屋。
1LDK。
玄関から少し歩くと、窓の大きなリビングがあった。
東京タワーが、ちょうど、窓の正面に見える位置だった。
「綺麗な部屋ですね」
「ありがとうございます」
「飾りが、少ないですね」
「あまり物を、増やさない性分で」
桑原さんが、キッチンでお茶を淹れてくれた。
二人で、ソファに座った。
東京タワーが、窓の向こうで、赤く光っていた。
しばらく、二人で、夜景を見ていた。
「桑原さん」
「はい」
桑原さんが、俺の方を、向いた。
俺も、桑原さんの方を、向いた。
キスをした。
静かな、ゆっくりしたキスだった。
桑原さんの唇が、温かかった。
ハーブティーの、少し甘い香りがした。
桑原さんが、俺の腕に、軽く、手を添えた。
震えてはいなかった。
でも、緊張はしていた。
俺も、緊張していた。
「遊馬さん」
「はい」
桑原さんが、微笑んだ。
---
何時間か、後。
桑原さんは、俺の腕の中で、眠っていた。
呼吸が、静かで、規則的だった。
髪が、少し、俺の肩にかかっていた。
俺は、天井を見ていた。
*(三月に、初めて食事をした時、こんな関係になるなんて、想像もしていなかった)*
*(でも、今、こうしていて、違和感は、ない)*
*(恋愛、というほど、熱い感情があるわけじゃない)*
*(ただ、この人と過ごす時間は、悪くない。それ以上でも、それ以下でもない)*
*(たぶん俺は、こういうところが、良くないんだろうな)*
窓の外、東京タワーが、消えていた。
深夜零時を過ぎていた。
街の灯りが、少しずつ、減っていく時間帯だった。
ポケットに触れた。
時計は、仕事用の鞄の中に入れてあった。
今日は、持ち歩いていなかった。
初めてかもしれない。
時計を、身体から離していたのは。
桑原さんが、小さく寝息を立てていた。
俺は、そっと、彼女の髪に、口づけをした。
桑原さんは、気づかなかった。
それでよかった。
---
朝、六時。
桑原さんが、先に起きていた。
キッチンで、何かを作っていた。
俺も起きて、リビングに行った。
「遊馬さん、おはようございます」
「おはようございます」
「朝食、作ってます」
「いいんですか」
「週末は、自分で朝ごはん作るのが、私の楽しみなんです」
桑原さんが、少し、はにかんだ。
寝起きの、無防備な表情だった。
昨日までは見たことのない、桑原さんだった。
テーブルには、簡単な朝食が並んだ。
ご飯、味噌汁、焼き鮭、玉子焼き、漬物。
和朝食。
でも、一つ一つが、丁寧だった。
玉子焼きの、火の入り方。
味噌汁の、出汁の香り。
「いただきます」
「どうぞ」
一口食べた。
味噌汁の出汁が、体に沁みた。
前の日の、日本料理店の出汁とは、違う味だった。
家庭の、落ち着く味だった。
「美味しいです」
「よかった」
二人で、黙って、朝ごはんを食べた。
静かな朝。
外から、日曜日の、鳥の声がしていた。
*(この時間が、とても、良い)*
*(こういう時間のために、俺は、仕事をしている気がする)*
桑原さんが、急須でお茶を淹れてくれた。
煎茶の、青い香りが、リビングに広がった。
---
午前中、少しだけ、桑原さんの部屋で、ゆっくり過ごした。
昼前に、俺は、部屋を出た。
桑原さんが、玄関まで、見送ってくれた。
「遊馬さん」
「はい」
「今度、私の作ったご飯、また、食べていただけますか」
「はい。喜んで」
「じゃあ、また、連絡しますね」
桑原さんが、笑った。
俺も、笑った。
ドアが、静かに、閉まった。
---
マンションの前で、タクシーを拾った。
東京の、四月の、日曜日の午前。
空は晴れていた。
桜が、まだ少しだけ、散り残っていた。
タクシーの窓の外を見ながら、ポケットの時計を、指で、軽く撫でた。
鞄の底に、冷たく、眠っていた。
*(お前は、賭け事の世界の相棒だ)*
*(でも、俺には、お前以外の世界も、できた)*
*(それで、いいよな)*
時計は、答えなかった。
いつも通り、静かだった。
でも、その静けさは、今日は、なぜか、優しく感じた。
---
**── 残高メモ(第34話)──**
*ギャンブル収入は片手間ながら継続中。*
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
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| 競馬収入(4月中旬・片手間) | +約130万円 |
| 日本料理+バー+タクシー等 | ▲約6万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約17,280万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末時点 | 約5,087.4万円 |
| 今話変動 | なし |
| **KY Holdings 法人口座** | **約5,087.4万円** |




