表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/55

第33話 〜始動〜


 四月二日。

 水曜日。


 朝九時四十分。

 大田区。

 ナカジマ精工の工場の前に、吉野さんの運転する車が停まった。


「桐島さん、ここで待機しております」


「ありがとうございます。たぶん、昼前には終わります」


「承知しました」


 車を降りた。

 空は晴れていた。

 工場の前の道路に、ゴミ収集車が止まっていて、近所の人が軽く挨拶を交わしている。

 生活の音がする町だった。


 工場のシャッターは、今日は上がっていた。

 中から機械の音がしていた。

 プレスの音と、旋盤の回転音。

 昨日までの「停止した工場」の風景とは、まったく違う。

 工場は、動いていた。


 事務所のドアを開けた。


「おはようございます」


「おう、桐島さん。待ってたぞ」


 中島さんが、作業着姿で出迎えてくれた。

 もう元社長ではなく、今日からは技術顧問。

 でも、纏っている空気は、昨日までと何も変わっていなかった。

 工場にいる中島さんは、いつも中島さんだった。


 健太郎さんは今日、川崎のメーカーに出勤している。

 正式な社長就任は六月一日。

 それまでは、週末だけ、親父の横で工場の引き継ぎを受ける予定になっていた。

 五月中は、俺と山下さんが、平日の暫定的な経営の受け皿になる。

 六月から、経営は健太郎さん、現場と研究は中島さんと松田さん、という体制になる。


「松田は、奥の作業場にいる。呼んでくるわ」


「いえ、俺が行きます。松田さんが仕事してる場所を、見ておきたいので」


「そうか。じゃあ、案内する」


 中島さんの後について、事務所の奥から工場のフロアへ出た。

 天井の高い空間。

 蛍光灯の光。

 油の匂い。

 金属を削る時の、独特の音と熱。


 フロアの一番奥。

 他の作業場から少し離れた、仕切られた一画があった。

 そこに、一人の老人が、顕微鏡を覗き込んで作業をしていた。

 白衣のような作業着を羽織っている。

 手元には、小さな部品。

 拡大鏡と、精密ピンセット。

 動きは、とても静かだった。


「松田。桐島さんが来たぞ」


 松田さんが、顔を上げた。

 細身で、背筋が真っ直ぐ。

 眼鏡の奥の目が、鋭かった。

 年齢は六十八歳と聞いていたが、目の力は若い職人と変わらない。


「松田です。はじめまして」


「桐島です。よろしくお願いします」


 握手をした。

 松田さんの手は、細くて、でも、硬かった。

 何十年も精密な金属を触ってきた手。

 職人の手、というより、外科医の手に近かった。


「中島から、話は聞いてます」


「はい」


「うちの工場を、買ってくれたと」


「買ったというか、引き継がせてもらいました」


「中島と、俺の夢をね」


 松田さんが、小さく笑った。

 中島さんとは違う、静かな笑み。

 中島さんが炉の火なら、松田さんは磨かれた鏡のような人だった。


「少し、時間ありますか。話をさせてください」


「はい」


 松田さんが、作業場の隅にある、小さな打ち合わせスペースへ案内してくれた。

 古いパイプ椅子と、折りたたみのテーブル。

 電気ポット。

 粉末のコーヒーが入った瓶。

 工場の休憩所そのものだった。


 中島さんが、三人分のコーヒーを淹れてくれた。

 インスタントのコーヒーの匂いが、油の匂いと混ざった。

 温かいプラスチックのカップが、手のひらに伝わった。


---


「桐島さん」


「はい」


「俺は、もともと大学で金属材料の研究をしてました」


「はい」


「東京工業大学の、金属材料工学の研究室。博士課程まで行きました。でも、研究者としては、二流でした。論文は書けたけど、独創的な発想がなかった。周りに追いつくのがやっとで」


「それで、現場に」


「ええ。三十五歳で大学を辞めて、町工場に入りました。最初の工場は倒産して、二軒目に移って、そこも景気で潰れて、三軒目で中島と出会いました」


 中島さんが、横で頷いていた。


「中島は、俺とは真逆の人間でした。論文なんて一本も読んでない。でも、金属を見る目と、手の感覚は、本物でした。俺が計算で出した寸法を、中島は手の感覚だけで同じ数字に合わせてきた。驚いたもんです」


「それで、一緒に研究を」


「二十年前、ある大学病院の医者に、相談を受けました。『小さな、埋め込める心臓補助装置を作りたい。でも、世界中の合金メーカーを当たっても、要求スペックに合う材料がない』って」


 松田さんが、コーヒーを一口飲んだ。

 ゆっくりと、喉を通る音がした。


「要求は、三つでした。一つ、生体に対する不活性。二つ、超微細加工に耐える粘り強さ。三つ、長期間の体内使用で劣化しない耐腐食性」


「チタン合金で?」


「純チタンでは駄目でした。硬度が足りない。普通のチタン合金だと、微細加工すると脆くなる。色々試して、十五年かけて、ようやくレシピができました。十年前に、中島と俺と、あともう一人、今は亡くなった先輩職人で、特許を取りました」


「その特許が、今もナカジマ精工の資産」


「そうです。持ち分は、中島が半分、俺が四分の一、残り四分の一は先輩の遺族に渡ってます」


 松田さんが、特許の証書のコピーを見せてくれた。

 専門用語だらけで、俺にはほとんど読めなかった。

 でも、その紙の重さは、わかった。

 二十年の研究が、凝縮されている紙だった。


「桐島さん。俺は、この特許を、眠らせたくない」


「はい」


「医療機器として、商品化したい。でも、町工場だけでは無理でした。医療機器の認証、臨床試験、製薬企業との連携、膨大な資金。中島の工場の体力では、出荷前に潰れる」


「だから、売却話が出た時に、引退の覚悟もあった」


「ええ。もう、この夢は終わった、と思ってました」


 松田さんが、コーヒーを、もう一口飲んだ。

 目の奥が、少しだけ、遠くを見ていた。


「でも、中島から聞きました。桐島さんが、夢を買うと」


「買いました」


「正直、信じられなかった」


 松田さんが、眼鏡を外して、少し目頭を押さえた。

 それ以外、何の感情も見せなかった。

 でも、その仕草だけで、充分だった。


「桐島さん。一つだけ、確認させてください」


「はい」


「この研究を、本気で前に進める気はありますか」


「あります」


「半端な気持ちで引き継ぐなら、俺は今日で引退します。それでも、契約上は問題ないはずだ」


「半端じゃないです」


「……」


「松田さん。正直言って、俺は医療の世界のことは、ほとんどわかりません。金属の知識もありません。でも、二つだけ、できることがあります」


「なんですか」


「金と、時間を、出すことです」


 松田さんが、少し目を見開いた。


「研究開発の初期費用として、まず五千万円を準備しました。ただ、これは初期費用です。必要に応じて、追加で出します。俺の個人資産も、会社の資産も、研究のために使います」


「……」


「それと、時間。医療機器の商品化は、五年、十年の話だと聞いてます。俺は、その間、工場を潰しません。売上が出なくても、潰しません。松田さんと中島さんが、研究に集中できる時間を、俺が守ります」


 松田さんが、しばらく、黙っていた。

 コーヒーのカップを両手で持って、ゆっくりと、温度を確かめるように握っていた。


「中島」


「ん」


「お前、大したやつを連れてきたな」


「だろう」


 中島さんが、ニヤリとした。


「桐島さん」


「はい」


「俺、明日から、全力で研究を再開します」


「お願いします」


「ただ、一つ、お願いがあります」


「なんですか」


「大学との共同研究を、復活させたい。東京大学の医工学の研究室に、昔の知り合いがいます。十年前、一緒に特許を取る時に動いてもらった先生で、今も現役です。臨床試験の橋渡しをしてくれる可能性があります」


「予算は?」


「共同研究費として、年間二千万くらい」


「出します」


「……即答ですね」


「はい」


 松田さんが、少しだけ、笑った。

 笑うのが下手な人の笑い方だった。

 でも、嬉しそうだった。


「中島。俺たち、運がいいな」


「ああ」


「二十年やってきて、ようやく、夢を預けられる相手に出会った」


 中島さんが、コーヒーのカップを、テーブルに置いた。

 小さな音が、工場の機械音に混じって、消えていった。


---


 その後、松田さんと、研究再開の具体的なロードマップを話した。


 まず、四月中に、東京大学の研究室にアポを取る。

 そこで、共同研究の枠組みを協議。

 並行して、松田さんと中島さんで、過去十年分の試作データを再整理。

 特許の更新手続きも、今年度中に進める。


 山下さんには、新たに医療機器関連の専門家を、アドバイザーとして入れてもらうことにした。

 医療機器の認証は、通常の製造業の認証とは違う世界。

 薬機法、GMP、ISO13485。

 俺たちだけでは、手に負えない領域だった。


「山下さんに、医療機器の法規制に強い弁護士を探してもらいます」


「助かります」


「あと、工場の既存の受注を、急に減らすことはしません。日常の売上で、従業員の給料を支える体制は、維持します。中島さんの懇意のお客さんへの納品も、継続します」


「それは本当に、助かる」


「ただ、徐々に、研究用の加工ラインを、工場の中に増やしていきたいです。そのための設備投資は、三千万の枠内で、松田さんと中島さんに選んでもらいます」


「わかりました」


「もう一つ」


「なんですか」


「松田さん、中島さん、役職はどうしましょう」


 松田さんが、中島さんの顔を見た。

 中島さんが、頷いた。


「桐島さん。俺と中島は、肩書きにはこだわりません。現場に立てれば、それでいい」


「でも、外部との契約や、大学との共同研究の場面では、肩書きが必要になります」


「じゃあ、中島が『技術顧問』、俺が『研究所長』でどうですか。健太郎くんが六月から、代表取締役社長」


「研究所長、いいですね。ナカジマ精工 医療機器研究所、所長・松田さん」


「大袈裟ですけど、外向きにはそういう名刺があった方が、大学の先生も話しやすいでしょう」


「それでいきましょう」


 話が纏まった。

 時計を見た。

 十一時半。

 昼前に終わる予定だったが、思ったより時間が経っていた。


「松田さん、中島さん。今日は、ありがとうございました」


「こちらこそです」


「来週、東京大学の件で、また伺います」


「わかった」


 俺が立ち上がった。

 松田さんと中島さんも、立ち上がってくれた。

 事務所まで、三人で一緒に歩いた。


 工場のフロアを横切る時、職人の何人かが、こちらを見た。

 警戒するような目線ではなかった。

 穏やかだった。

 中島さんが、昨日のうちに、従業員全員に俺のことを説明してくれていた。

 「KY Holdingsという会社に、工場を売った。従業員の雇用は、全員継続する。給料も下がらない。逆に、研究に金を回せるようになる」と。


 職人の一人が、軽く頭を下げてくれた。

 俺も、頭を下げた。

 言葉は、交わさなかった。

 これから、少しずつ、お互いを知っていく時間がある。


---


 事務所の前で、中島さんと松田さんと別れた。

 車に戻った。

 吉野さんが、ドアを開けてくれた。


「桐島さん、長くなりましたね」


「すいません、一時間半も遅れました」


「いえ、お昼の予定はありますか」


「会社に戻ります」


「承知しました」


 車が動き出した。

 大田区の工場街から、都心に向かって走り出す。


 窓の外を眺めた。

 鉄工所、塗装工場、メッキ工場。

 どれも、数十年ここでやってきた町工場だった。

 いくつかは、シャッターが下りたままだった。

 昔は動いていたけれど、今は止まってしまった工場。


 *(中島さんの工場も、売却話がなければ、数年後には止まってたかもしれない。俺が買ったから止まらない、わけじゃない。中島さんと松田さんが、まだ夢を持ってたから、止まらなかった)*


 *(俺は、その夢を引き継いだだけだ)*


 *(でも、引き継いだ以上は、全力でやる)*


 ポケットの中の時計に触れた。

 やっぱり、冷たい。

 今日は、一度も熱くならなかった。

 工場の話をしている間、時計は完全に黙っていた。


 *(お前は、ギャンブル以外には反応しない。でも、それでいい。お前の仕事はギャンブルで、俺の仕事は、その先だ)*


---


 午後一時。

 事務所に戻った。


 山下さんが会議室で待っていた。

 テーブルの上に、新しい資料が並んでいた。


「桐島さん、お戻りなさいませ」


「ただいまです。松田さんと、いい話ができました」


「お昼は、お済みですか」


「いえ、まだです」


「では、まず召し上がってください」


 山下さんが、俺の席に、コンビニのおにぎりとお茶を置いてくれた。

 山下さんは、こういう気遣いを、さりげなくする。

 予定が押している時、俺が昼を忘れることを、事前に予測して、買ってきてくれている。


「ありがとうございます」


 梅のおにぎりを一つ、食べた。

 冷たい米と、塩気の強い梅干し。

 工場で飲んだインスタントコーヒーの後味を、洗い流してくれた。


「山下さん、松田さんの提案で、東京大学医工学研究室との共同研究を復活させる方針になりました」


「承知しました」


「年間予算、二千万程度を想定してます」


「予算規模、適切と存じます。医療機器の共同研究としては、標準的な金額です」


「あと、医療機器の法規制に詳しい弁護士を、アドバイザーとして入れたいです」


「弁護士のお名前、心当たりが二名ございます。近日中に、ご紹介いたします」


「よろしくお願いします」


 山下さんが、メモを取った。

 いつものように、静かに。

 でも、メモを取る手が、少し速かった。

 新しいプロジェクトが動き出すことに、山下さんも、どこか嬉しさを感じているように、見えた。


「それと、山下さん」


「はい」


「橘さんの件、進捗はいかがですか」


 一瞬、山下さんが間を置いた。

 この話題は、山下さんにとっても、軽くはなかった。


「退職手続きは、先週金曜日に完了いたしました。返還計画書にもご署名いただきました。月額二十万円の分割返済、十八年計画で合意しております」


「依存症の治療は?」


「新宿の専門クリニックに、通院を開始されたと伺っております。週に一度のカウンセリングと、集団療法」


「そうですか」


「橘様ご自身から、先週LINEにて経過報告が参りました。『迷惑をかけた皆さんのためにも、治療を続けます』と」


「……そうか」


 おにぎりをもう一口、食べた。

 急に味がわからなくなった。

 でも、食べ続けた。


「山下さん」


「はい」


「橘さんの席、まだ空けておいてください」


「承知しております」


「そのうち、戻ってくる気がするんです。根拠はないけど」


「私も、そのような気が、いたしております」


 山下さんが、静かに言った。

 珍しく、事務的ではない言い方だった。


---


 夕方。


 オフィスに戻ってきたのは、小林さんと西村だけだった。

 橘さんがいなくなって、事務所は、人の気配が減った。

 小林さんが、少し寂しそうに、デスクを片付けていた。


「桐島さん、お疲れ様です」


「お疲れ様、小林さん」


「橘さんの、X運用の引き継ぎ、今週から私がやることになりました」


「はい、頼みます」


「橘さんのトーン、真似できる自信はないですけど、頑張ります」


「真似しなくていいです。小林さんの文章で、いいです」


 小林さんが、少し驚いた顔をした。


「私の文章で、いいんですか」


「橘さんは橘さんで良かった。小林さんは、小林さんで良いです。フォロワーさんも、中の人が変わったって気づくと思うけど、それでいい。隠す必要はないから」


「……わかりました」


 小林さんが、少し、嬉しそうに、机に向かった。

 前に橘さんが座っていた席の隣。

 橘さんのデスクの上には、まだ、一つだけ、橘さんの観葉植物が置いたままになっていた。

 小さなサボテン。

 小林さんが、毎日、水をあげている。

 誰からの指示でもなく、自然と。


 *(小林さんは、こういう細かいところに、優しさを出す人だな)*


 西村は、俺のデスクの前に座っていた。

 手にはiPadを持っている。


「遊馬、X運用の件、引き継ぎで小林に負担がかかるから、俺も朝の投稿見るぞ。誤字とか、変な表現を、チェックするくらいは」


「助かる」


「お前、工場の方、忙しくなるだろ」


「ああ。当分、毎週、大田区に通う」


「じゃあ、アプリの方は、俺と小林で回すから」


「悪いな、西村」


「あ? 悪いとか言うな。俺、お前の会社の『CEO代行代行』じゃねえぞ」


「じゃあ、何なんだよ」


「『相棒』って言えよ」


 西村が、笑った。

 俺も、少し笑った。


「相棒」


「それでいい」


 くだらないやり取りだった。

 でも、橘さんが抜けた空気の、ちょっとした穴を、埋めてくれる会話だった。


---


 夜九時。

 タワーマンションに戻った。


 リビングのソファに座った。

 今日、工場で松田さんと話した内容を、スマートフォンのメモに整理した。


 医療機器の認証プロセス。

 東京大学との共同研究の流れ。

 薬機法の基礎知識。

 GMP、ISO13485。

 明日以降、少しずつ勉強しないといけない分野。


 俺の知識の空白地帯が、また一つ、増えた。

 でも、嫌な気分じゃなかった。

 むしろ、ワクワクしていた。


 西村が昔言っていた。

 「お前の人生、情報量が多すぎだろ」と。

 今日、それを、また実感した。

 でも、情報量が多いことが、面白い。

 一つ一つの仕事が、俺に新しい世界を見せてくれる。


 馬の世界。

 アプリの世界。

 金属加工と医療機器の世界。

 そして、桑原さんの、言葉と翻訳の世界。


 *(そろそろ、桑原さんに連絡しようかな)*


 この二週間、連絡が取れていなかった。

 俺がラスベガスに行っていた期間と、橘さんの件で社内が混乱していた期間、重なって、連絡が滞った。

 桑原さんからも、特に連絡はなかった。

 彼女は、そういう距離の取り方をする人だった。

 詰めてこない。

 でも、声をかければ、応えてくれる。


 スマートフォンを開いて、LINEを起動した。

 桑原さんのトーク画面を開いた。

 最後のメッセージは、三月十九日。

 イタリアンのお店で食事をした日の夜に、俺が送った「今日はありがとうございました」のメッセージ。

 それに対する桑原さんの返信「こちらこそです」で止まっている。


 少し、考えた。

 どう切り出すか。


 *「桑原さん、お久しぶりです。今週末、もしお時間あれば、またお食事でもいかがですか」*


 シンプルに送った。

 既読は、すぐに付いた。

 返信は、十分後に来た。


 *「遊馬さん、お久しぶりです。お忙しそうでしたね。週末、大丈夫です。土曜日の夜はいかがでしょうか」*


 *「土曜日、空いてます。お店は、俺が予約します」*


 *「お任せします。楽しみにしております」*


 シンプルな、やり取り。

 でも、画面の向こうから、桑原さんの声が、聞こえる気がした。


 ソファに深くもたれた。

 窓の外の夜景を見た。

 東京タワーが、今日も赤く光っていた。


 *(工場の話、松田さんの話、橘さんの話、全部、重い話だった。でも、桑原さんに会う予定ができただけで、少し、肩が軽くなった)*


 *(これは、なんだろう)*


 *(好きになってる、のかな)*


 自覚したのは、初めてだった。

 三月のイタリアンの時は、「気になる人」くらいの感覚だった。

 でも、今は、もう少し、違う。

 彼女と会える予定があるだけで、日常が明るくなる感覚があった。


 テーブルの上に、時計を置いた。

 いつものように、ただ、静かに、そこにあった。


 *(こいつは、人の気持ちには反応しない。金の勝負にしか、反応しない)*


 *(でも、俺は、こいつがなかった頃の自分も、ちゃんと覚えてる)*


 *(桑原さんに対する気持ちは、こいつとは関係ない、俺自身のものだ)*


 スマートフォンで、土曜日のお店を探し始めた。

 桑原さんの好みを、以前少し聞いていた。

 日本料理も好き、と言っていた。

 前回はイタリアンだったから、今回は和食にしよう。

 銀座の、静かな、カウンターの店。

 山下さんに、おすすめを聞こうか、と一瞬思ったけれど、やめた。

 今回は、自分で探したい。


 スマートフォンを操作しながら、少しだけ、笑ってしまった。

 店選びで悩むなんて、ギャンブラーだった頃の自分からは、想像できなかった。


スマホの画面の上に、アンちゃんからのLINEが、通知で、重なった。


 *『最近、会ってないね』*

 *『今週、どこか、時間、ある?』*


 *(タイミング、良すぎる)*

 *(土曜は、桑原さんと、和食)*

 *(木曜、空いてる)*


 *『木曜の夜、どう?』*

 *『あたし、出勤前でよければ』*

 *『それでいい うちに、来る?』*

 *『行く』*


 *(桑原さんと、アンちゃん)*

 *(桑原さんとアンちゃん——どちらも、居心地のいい時間をくれる人だ)*



---


**── 残高メモ(第33話)──**


*4月上旬。ギャンブル収入は片手間ながら継続中。*


### 個人資金(桐島遊馬)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約17,006万円 |

| 競輪収入(4月上旬・片手間) | +約150万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約17,156万円** |


### 法人資金(KY Holdings)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末時点 | 約5,087.4万円 |

| 今話変動 | なし(医療機器関連予算は未執行) |

| **KY Holdings 法人口座** | **約5,087.4万円** |


### ナカジマ精工


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 研究開発初期費用引当金(未執行) | 5,000万円 |

| 設備投資準備金(未執行) | 3,000万円 |

| 共同研究費 年間予算(東大医工研・予定) | 年2,000万円 |


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
こんにちは。 中々難しい世界の話しですが面白く一気に拝読させていただきました。 橘さんの毎月返済2万ですよね? 微力ながら応援しています。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ