第30話 〜帰還〜
三月二十一日。
羽田空港。
到着ゲートを出ると、吉野さんと山下さんが並んで立っていた。
「お帰りなさいませ」
山下さんが深く一礼した。
吉野さんも同時に頭を下げた。
「ただいま、山下さん。吉野さんも」
スーツケースを吉野さんが受け取ろうとしたので、片方だけ渡した。
重い方を吉野さんに持たせるのは気が引ける。
車に乗り込んだ。
吉野さんが運転席。
山下さんが助手席。
俺は後部座席。
車がゆっくりと走り出した。
三月の東京。
桜がまだ咲いていない。
街路樹の蕾が膨らみかけている。
「山下さん、収支の詳細、まとめてあります」
「拝見します」
タブレットを渡した。
十日間の収支メモ。
各日のバイイン、バイアウト、主要ハンドのポット額。
山下さんは車の中でそれを読んだ。
十五分ほどかけて、全部に目を通した。
「承知いたしました。一時所得として確定申告いたします。控除を差し引いた後の税額は、およそ八千五百万から九千万円と見込みます。手取りは一億二千万円前後」
「予定通り、ですね」
「はい。工場買収の初期費用、一億二千万に合致します」
「ありがとうございます」
山下さんはタブレットを返した。
車は首都高を走っている。
窓の外にレインボーブリッジが見えた。
「桐島さん」
「はい」
「ご不在の間に、いくつかご報告すべき事項がございます」
「はい」
「橘様の件でございます」
山下さんの声のトーンが、少しだけ下がった。
車の走行音が、妙に大きく感じた。
「何かありましたか」
「先週、橘様の法人カードの利用限度額を五十万円に引き下げておりました。結果、橘様から経費精算の申請が複数回上がってまいりました。現金払いの領収書でございます」
「現金払い?」
「はい。インターネットカフェ、コンビニでの電子マネーチャージ、そしてタクシー代。過去三ヶ月分を遡って精算依頼がございました。総額で、おおよそ百八十万円」
「百八十万? 三ヶ月で?」
「はい。業務と直接の関連性がないものも多数含まれております」
俺は黙った。
車が銀座の出口を下りて、都心に入った。
「それと、もう一つ」
「はい」
「先週末、橘様がインターネットカフェで倒れたと、店舗から連絡がございました」
「倒れた?」
「長時間の連続利用による、体調不良かと思われます。救急搬送はされませんでしたが、店員が介抱して帰宅されたそうです」
「……」
*(倒れた。三ヶ月で百八十万の経費。ネカフェ、電子マネーチャージ。これは、もう……)*
「山下さん、調査を本格化してください。法人カードだけじゃなくて、橘さんの業務用PC、社内のアクセス履歴、経理システムの取引ログ。全部」
「すでに着手しております」
「早いですね」
「桐島さんが次にご指示される内容は、およそ予想がつきましたので」
山下さんが微かに頭を下げた。
その仕草に、何の気負いもなかった。
ただ、仕事をしている人の顔。
「調査結果が出るのはいつ頃ですか」
「三日以内にはお出しできます」
「お願いします」
車がタワーマンションの前に着いた。
吉野さんがスーツケースを運んでくれた。
「山下さん、時間があったら、明日の夕方、事務所で打ち合わせお願いします」
「承知いたしました」
---
部屋に戻った。
五十階の窓から、東京の午後が広がっている。
ラスベガスの乾いた光とは違う、春前の柔らかい光。
スーツケースをリビングに置いて、ソファに座った。
疲れていた。
時差と、緊張と、長時間の集中。
全部が一気に来た。
スマートフォンを見た。
LINEの通知。
アンちゃんから二件。
西村から一件。
桑原さんから一件。
アンちゃん:*「もう着いた? 無事?」*
アンちゃん:*「明日ならあたし暇だよ」*
西村:*「おかえり。工場の親父さんに、お前が帰ってきたら改めて挨拶しに行くって伝えといた」*
桑原さん:*「おかえりなさい。お疲れ様でした」*
桑原さんのLINEは短かった。
でも、届くタイミングが絶妙だった。
飛行機が着いてから三時間後。
どこから情報を得ているのかと思ったら、そういえば石橋さんの配信で俺のプレイが切り抜かれていると聞いた。
ひょっとして、桑原さんはそれを見たのかもしれない。
それぞれに返信した。
アンちゃんへ:*「ただいま。明日の夜、タワマンにおいで。お土産渡す」*
西村へ:*「おう。工場の件、近々動こう。山下さんにも打診済み」*
桑原さんへ:*「ただいま戻りました。お土産あります。ふくろうで」*
送信して、ソファに沈み込んだ。
目を閉じた。
五分だけ眠るつもりだった。
気づいたら、夜の八時になっていた。
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翌日。
三月二十二日。
土曜日。
事務所に顔を出した。
橘さんは休みだった。
西村と小林さんはいた。
二人とも普通に働いていた。
「遊馬、おかえり」
「おう」
「顔色、悪いぞ」
「時差の分が残ってる。あと二日で戻る」
小林さんが小さく会釈した。
キーボードをタイプする手は止まらない。
英語版アプリの実装が佳境に入っているらしい。
山下さんが会議室に来た。
A4のファイルを三冊、テーブルに置いた。
「桐島さん、橘様の件、調査結果でございます」
ファイルを開いた。
一冊目。
法人カードの利用明細。
過去六ヶ月分。
赤い蛍光ペンで、業務目的として不適切と思われる支出がマークされていた。
インターネットカフェ、電子マネーチャージ、タクシー代、深夜のコンビニでの高額買い物。
二冊目。
業務用PCのアクセス履歴。
社内のファイル操作ログが時系列で並んでいた。
赤くマークされている行がいくつもあった。
「特に重要なのは、こちらのページでございます」
山下さんが二冊目のファイルの中ほどを開いた。
「橘様が過去三ヶ月、月末の経費精算時に、同じ領収書を二重申請しているケースが確認されました。合計七件、約四十六万円」
「二重申請……」
「会計ソフトの仕様上、領収書番号で検索しないと気づきにくい仕組みになっております。橘様がその抜け穴を意図的に利用されていたかは断定できませんが、偶発とは考えにくい頻度と金額です」
「山下さん、それだけじゃないですよね」
「左様でございます。三冊目を」
三冊目のファイル。
経理システムの取引ログ。
プロジェクト経費として計上された外部委託費の明細。
「『データ分析外注費』という名目で、橘様が承認した支出がございます。金額は一件あたり二十万から五十万円。合計で過去四ヶ月、二百三十万円。しかし、この委託先——」
山下さんがページをめくった。
「実在しない個人事業主への振込でございました」
「……架空の外注先ですか」
「はい。口座名義は橘様のご家族のものでした。ご本人の弟様と思われます。振込の後、本人に送金されたのか、弟様に渡ったのかは追跡が必要です」
俺はファイルを閉じた。
テーブルを見つめた。
木目の流れが、目に入ってきた。
*(二重申請で四十六万。架空の外注費で二百三十万。合計で、判明している分だけで二百七十六万円。そこに業務と関係ない法人カードの使用を加えると、三百五十万超)*
*(橘さん)*
「山下さん、もう一つ聞かせてください」
「はい」
「橘さんのお金は、どこに流れてるんですか」
山下さんが少しだけ目を伏せた。
こういう時、山下さんは感情を顔に出さない。
でも、その沈黙の質でわかる。
嫌な答えが来るということが。
「橘様のXの更新頻度が、先月から著しく下がっております。代わりに、別のSNSアカウントでのログイン履歴が会社のWi-Fi経由で確認されました。ライブ配信アプリでございます」
「ライブ配信」
「はい。特定のライバーの配信に、高額の投げ銭を繰り返されております。送金履歴の一部が、法人カード関連の取引と時系列で一致しておりました」
*(ライバーへの投げ銭。ネカフェの長時間利用も、電子マネーチャージも、架空外注費も、全部それに流れてる)*
頭の奥が、冷えていった。
「山下さん。これ、会社として、どう処理するのが正解ですか」
「処理には三つの選択肢がございます」
山下さんが指を三本立てた。
「一つ。刑事告訴。業務上横領罪で警察に届け出る。金額が明確で、証拠も揃っておりますので、立件は可能です」
「二つ」
「二つ。民事での損害賠償請求。横領した金額の返還を求める。刑事告訴はしない」
「三つ」
「三つ。内部処理。本人に通告し、自主的な返還と退職を求める。法的な手続きは取らない」
三つとも、橘さんを「失う」選択肢だった。
どれを選んでも、橘さんはKY Holdingsから去る。
俺は少し考えた。
「山下さん、もう一つ選択肢、追加してもらえますか」
「と、おっしゃいますと」
「本人に話を聞いてから決めたい」
山下さんが少しだけ目を細めた。
「桐島さん」
「はい」
「僭越ながら申し上げます。通常、こうした案件で本人と対話するのは、処分の方針が固まってから行うのが定石でございます。対話を先にすると、本人が証拠を隠滅したり、情緒的な理由で判断が鈍ったりするリスクがございます」
「わかってます。でも、一回、本人の言葉を聞きたい」
「……承知いたしました。私が同席いたします。二人きりの場面で感情的な追及をされても、後で証言の信憑性が問われます」
「山下さん、同席お願いします」
「承知いたしました。来週月曜の夕方で設定いたします」
「よろしくお願いします」
会議室のドアが静かに閉まった。
俺は一人、ファイルの山を見つめていた。
---
その夜。
タワーマンションに、アンちゃんが来た。
お土産のチョコを渡した。
ラスベガスの有名チョコレートショップの詰め合わせ。
アンちゃんは目を輝かせて、一つずつ確認していた。
「これ全部種類違うの? すごいね」
「店員のおすすめ全部入れた」
それから、カジノのチップも渡した。
ベラージオのロゴが入った、百ドル分の黒いチップ。
「お、本物だ! すごい重い」
「本物は重いんだよ。プラスチックに金属のコアが入ってるから」
「お守りにする、って言ったよね、あたし」
「覚えてる」
アンちゃんがチップを握って、両手で包んだ。
そのままソファに座った。
「遊馬くん、疲れてる顔してる」
「まあ、時差と、あと色々あって」
「色々?」
「会社のことで、ちょっと」
言ってから、迷った。
橘さんの話は、アンちゃんにするべきではない。
会社の機密事項だ。
でも、アンちゃんは、察する人だ。
「遊馬くん、無理して話さなくていいよ」
「……ありがとな」
「でもさ、抱え込んでるなら、ちょっとだけ肩借りていいよ」
アンちゃんが俺の肩に、頭をくっつけた。
重さが伝わってきた。
軽い。
でも、温かい。
「疲れた時はさ、何にも考えないのが一番だよ。あたしも、接客で疲れた日はそうするから」
「そうだな」
「じゃあ、今夜はチョコ食べながらドラマ見るのはどう? あたし、めちゃくちゃ見たい配信の新エピソード溜まってるんだ」
「何のドラマ?」
「韓国のラブコメ。遊馬くん絶対好きじゃないやつ」
「じゃあ見るか」
「え、見るの?」
「アンちゃんが好きなやつなら、見る」
アンちゃんが笑った。
屈託のない笑顔。
この笑顔を見ていると、頭の中の重いものが、一瞬だけ軽くなった。
テレビをつけて、チョコを開けて、二人で画面を見た。
韓国語のセリフに日本語字幕が流れていく。
アンちゃんは時々「ここ、キュン!」とか言っていた。
俺は半分くらい話を追っていなかった。
でも、それで十分だった。
*(アンちゃん、ありがとな。頭は重いままだけど、体は少し軽くなった)*
ドラマを一話見終わった頃。
アンちゃんがふと、言った。
「遊馬くんさ」
「ん?」
「ラスベガスで、寂しくなかった?」
質問の温度が、少しだけ違った。
「……一瞬はね。でも、忙しかったから」
「そっか」
「アンちゃんは? 俺がいない十日間」
「普通にしてたよ。仕事して、ご飯食べて、寝て」
「寂しくなかった?」
「……少しだけ」
アンちゃんは俺の方を見ずに、テレビを見たまま言った。
「でも、遊馬くんが忙しいのは、わかってるから」
俺は何も返せなかった。
その夜、アンちゃんは泊まって行った。
抱きしめる腕は、いつもと同じ強さだった。
でも、眠る前に、アンちゃんは小さく呟いた。
「遊馬くん。あたしがいなくても、生きていけるよね」
目を閉じていたから、俺は答えなかった。
答えを求められていなかった。
アンちゃんは自分に言い聞かせていた。
それが、わかった。
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**── 残高メモ(第28〜30話)──**
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(個人) | 約13,556万円 |
| ラスベガス勝ち金(十日間・税引前) | +約20,700万円 |
| 3月国内ギャンブル収入(渡航前後) | +約500万円 |
| 個人生活費・渡航経費(3月分) | ▲約150万円 |
| **桐島遊馬 個人資金(税引前)** | **約34,606万円** |
| 一時所得に伴う所得税・住民税の引当(見込) | ▲約9,000万円 |
| **桐島遊馬 個人資金(税引後・実質手取り)** | **約25,606万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(法人) | 約5,531.8万円 |
| アプリ収入(3月分) | +約480万円 |
| 賃料収入(3月分) | +約42.8万円 |
| 法人経費(3月分・役員報酬/人件費/家賃等) | ▲約900万円 |
| 育成預託料(八十七番・3月分) | ▲約15万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約5,139.6万円** |




