第31話 〜告白〜
三月二十四日。
月曜日。
午後六時。
事務所の会議室。
俺と山下さんが並んで座っていた。
向かいの椅子は、まだ空いている。
橘さんは、定時の六時に会議室に来るように伝えてあった。
「ちょっと相談したいことがある」とだけ、前日にSlackで送っていた。
六時二分前。
ドアがノックされた。
「失礼します」
橘さんが入ってきた。
いつもと同じグレーのスーツ。
だが、顔色は悪かった。
目の下に隈があった。
痩せたようにも見える。
二週間会っていなかった間に、変わっていた。
「橘さん、座ってください」
「はい」
橘さんが俺の正面に座った。
山下さんは俺の隣で、メモ帳を開いて、ペンを持った。
沈黙が数秒、続いた。
窓の外、三月の夕方の光が会議室の壁に斜めに差している。
橘さんは膝の上に両手を置いて、俺を見ていた。
「橘さん」
「はい」
「単刀直入に聞きます。経費と会社の資金のことで、聞きたいことがあります」
橘さんの目が、一瞬揺れた。
それだけで、わかった。
本人は、気づかれていないと思っていた。
だが、指摘された瞬間、覚悟を決めた顔になった。
「……桐島さん。気づいてらっしゃったんですね」
「山下さんが調べました」
「そうですよね。山下さんに、隠し通せるわけないですよね」
橘さんが苦笑した。
悲しい笑みだった。
「橘さん。一つずつ、聞かせてください」
「はい」
「法人カードの業務外利用。三ヶ月で約百八十万円。業務と関係ないインターネットカフェ、電子マネーチャージ、深夜のコンビニ。事実ですか」
「事実です」
「経費精算の二重申請。過去三ヶ月で七件、約四十六万円」
「事実です」
「外部委託費の名目で計上された、架空の個人事業主への振込。過去四ヶ月で二百三十万円。振込先はご家族の口座」
「事実です。弟の口座です」
橘さんは、全てを認めた。
言い訳もしなかった。
山下さんがメモを取る音だけが、会議室に響いていた。
「合計で、判明している分だけで四百五十万円以上です。橘さん、これは、どこに消えましたか」
橘さんは唇を噛んだ。
十秒ほど黙った。
「……ライブ配信アプリに、使いました」
「ライブ配信。配信者への投げ銭ですか」
「はい。一人の配信者に、ほぼ全額を」
橘さんは目を閉じた。
息を深く吸って、吐いた。
「説明させてください。桐島さん」
「聞かせてください」
橘さんは両手を膝の上で握った。
指先が白くなっていた。
「去年の十月頃からです。一人の配信者を、たまたま見かけました。最初は、なんとなく流していた配信でした。でも、声が綺麗で、話題が面白くて、毎日配信を見るようになりました」
橘さんの声は、静かだった。
数字の分析をする時と、同じトーン。
でも、内容はまったく違うものだった。
「ある日、配信者が、体調を崩して休みました。復帰した時に、私は初めて投げ銭をしました。五千円でした。配信者が私のアイコンの名前を呼んで、『ありがとうございます』と言いました。その瞬間、胸が熱くなりました」
「熱くなった」
「自分の存在が、誰かに認識された感じがしたんです。今まで、私は数字しか見てませんでした。人間関係も、数字で測れるものしか信じていませんでした。桐島さんや山下さん、西村さん、小林さんとの関係は、仕事の中で成立するもので、ちゃんと機能していました。でも、私生活で、名前を呼ばれる関係は、ずっとなかった」
橘さんの目が、少しだけ潤んだ。
泣いてはいなかった。
泣き方を忘れた人の目だった。
「それから、投げ銭の金額が上がっていきました。一万、五万、十万、五十万。配信者が、私の名前を何度も呼ぶようになりました。プレミアム会員になると、個別にDMも来るようになりました。『今日も応援してくれてありがとう』って。私はそのDMが来るたびに、心臓が跳ねるようになっていました」
「依存してたんですね」
「はい。完全に」
「橘さんの給料で、賄える範囲じゃなかったんですか」
「一ヶ月目は、給料の範囲で賄えていました。でも、配信者の『トップサポーター』のランキングに入ると、他の人も投げ銭を増やしてきて、競争になっていったんです。月に五十万、八十万、百万。私の給料では追いつかなくなって」
「それで、会社の金に手をつけた」
「……はい」
橘さんが頭を下げた。
深く、長く、下げた。
「最初は、経費の二重申請だけでした。『これなら気づかれない』と思って。でも、金額が足りなくなって、架空の外注費を作るようになって、法人カードでネカフェとコンビニの買い物もするようになって、止まらなくなりました」
「自覚は、どの段階でありましたか」
「全部、自覚してました」
橘さんが顔を上げた。
目が、赤かった。
「自分が悪いことをしてる自覚は、最初からありました。でも、止められなかった。毎日、配信者の名前を呼ばれたかった。それだけのために、やってました」
会議室が静かになった。
山下さんはペンを持ったまま、何も書かずに聞いていた。
山下さんが手を止めるのは、珍しかった。
事実関係の把握が終わったあとは、感情の重みを受け止める側に回る。
そういう使い分けができる人だった。
俺は深く息を吸った。
「橘さん」
「はい」
「俺は、橘さんのこと、クビにしたくないです」
橘さんが、目を見開いた。
「桐島さん、それは——」
「最後まで聞いてください」
「……」
「でも、このまま続けることもできません。会社には他の社員もいるし、俺には経営者としての責任がある。一人だけ特別扱いはできません」
「はい」
「横領した金額は、全額返還してください。これは、絶対条件です」
「はい」
「それと、橘さんは、今のポジションから降りてもらいます。一度、KY Holdingsを退職してください」
橘さんの顔が、また少し青ざめた。
けれど、驚きはしなかった。
覚悟していた答えだった。
「退職金、退職手当は、支給しません。返還に充ててください。不足分は、個人で弁済してもらいます。分割でも構いません」
「はい」
「それと、もう一つ。治療を受けてほしいです」
「治療?」
「依存症の治療です。保健所や、依存症専門のクリニックがあります。ギャンブル依存と同じで、投げ銭依存も、意志の力だけでは止まりません。専門家の助けが必要です」
橘さんは、しばらく何も言わなかった。
目が何度か瞬きをした。
考えているのか、感情を整理しているのか、わからなかった。
「桐島さん。……告訴は、しないんですか」
「しません。ただし、条件があります。今話した条件を、全部守ってください。返還、退職、治療。この三つが守られる限り、会社は告訴しません」
「……ありがとうございます」
橘さんが、また頭を下げた。
今度は、長かった。
「それと、橘さん」
「はい」
「治療が進んで、橘さんが自分で『もう大丈夫だ』と思えた時。その時に、もう一度会社に戻ってきたいと思うなら、その時は話を聞きます」
橘さんが顔を上げた。
目が大きく開いていた。
「桐島さん……」
「約束はできません。その時の会社の状況次第です。でも、門は完全には閉じないでおきます」
山下さんが、隣で静かに頷いた。
何も言わなかったが、その頷きが、俺の判断を支持していた。
「橘さん。最後に、一つだけ聞いていいですか」
「はい」
「橘さんは、うちの会社の数字を支えてくれていました。データ分析、予想精度、Xでの発信。全部、橘さんの力でした。それは、嘘じゃないですよね」
「……嘘じゃないです。仕事は、ちゃんとやってました」
「なら、それで十分です」
橘さんの目から、一粒だけ、涙が落ちた。
すぐにハンカチで拭った。
泣き慣れていない人の涙の拭い方だった。
「桐島さん」
「はい」
「私、桐島さんに拾っていただいて、本当に幸運でした。ダメな人間だったので、どこかの大手で働いていたら、もっと大きな問題を起こしていたと思います。小さな会社で、みんなが顔の見える場所で、気づいてもらえたのは、幸運でした」
「俺もです、橘さん」
「……」
「俺も、橘さんと一緒に仕事できて、幸運でした。データと直感の噛み合い方が、俺は気に入ってました。それは、これからも変わりません」
橘さんがもう一度、深く頭を下げた。
山下さんに対しても、同じように頭を下げた。
「山下さん。気づいていただいて、ありがとうございました。たぶん、誰にも気づかれなかったら、私は本当にどこまでも落ちていきました」
「恐縮でございます」
「山下さんに、指摘されて、ホッとしている自分もいます。矛盾していますけど」
「そのご心情、理解いたします」
山下さんが、初めて口を開いた。
短い言葉だった。
でも、その中に、橘さんを責めない何かがあった。
「それでは、橘様」
「はい」
「退職手続きと、返還計画のドラフトを、明日中にお渡しします。ご確認の上、ご署名いただく形で」
「わかりました」
橘さんが立ち上がった。
一度、俺の方を見た。
もう一度、頭を下げた。
「……お世話になりました」
「橘さん」
「はい」
「治療、頑張ってください。それと、生きててください」
橘さんが、少しだけ、笑った。
弱々しい笑みだった。
でも、確かな笑みだった。
「はい」
橘さんが会議室を出た。
ドアが、静かに閉まった。
会議室に、俺と山下さんだけが残った。
数秒、沈黙。
山下さんが、ペンを置いた。
「桐島さん」
「はい」
「ご判断、お見事でございました」
「そうかな」
「告訴せず、退職と返還と治療を求める。感情で判断すれば、もっと厳しい処分も可能でした。ただ、桐島さんのご判断は、最もバランスが取れたものだったと存じます」
「山下さん」
「はい」
「俺、橘さんのこと、好きだったんですよ」
「存じ上げております」
「友達として、仲間として、ずっと一緒にやりたかった」
「左様でございますか」
「でも、会社の金を横領したのは、事実だから。経営者として、けじめはつけないと」
「お立場、お察しします」
山下さんが、ペンをしまった。
ファイルを閉じた。
立ち上がった。
「桐島さん」
「はい」
「帰られる前に、一杯、飲みに行かれませんか」
山下さんからの誘いは、珍しかった。
いや、初めてだった。
「いいんですか」
「たまには。こうした日の夜は、一人でおられない方がよいかと」
「……山下さん、ありがとうございます」
「恐縮でございます」
---
ふくろうに行った。
いつものカウンター。
福田さんがグラスを二つ、静かに置いた。
山下さんは日本酒を頼んだ。
俺はハイボール。
グラスを合わせることはしなかった。
乾杯するような夜ではなかった。
ただ、二人で、飲んだ。
「桐島さん」
「はい」
「橘様のご活躍は、桐島さんを支える上で、大きなものでございました」
「ですね」
「穴を埋めるには、時間がかかります。ただ、埋められない穴ではないと存じます」
「山下さん」
「はい」
「橘さんの代わりの人、探すの、急がないでください。じっくり、合う人を探しましょう」
「承知いたしました」
福田さんが、カウンターの向こうから何も言わずに料理を出してくれた。
枝豆と、だし巻き卵。
何も聞かれなかった。
福田さんは、俺たちが何かを抱えてきた夜だと、察してくれていた。
こういう時、福田さんの静かな気遣いが、心に沁みた。
俺は、だし巻き卵を一つ、口に運んだ。
優しい味がした。
三月の冷たい夜に、温かい卵が、胃の中に落ちていった。
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二杯目のハイボールを半分ほど飲んだところで、俺は、ぽつりと、言った。
「山下さん」
「はい」
「橘さんがハマった、ライブ配信のあの世界、ちょっと、気になります」
「と、申しますと」
「四百五十万も投げ銭する人間を、毎月一人の配信者が抱え込んでる。配信者本人は、きっと、橘さんの人生のこと、何も知らない。運営側も、ユーザーのメンタルヘルスに介入する仕組みはない。少し調べて見ましたが、配信者のメンタルを守るマネジメントの仕組みも、大手事務所以外は、ほとんどない」
「業界としての、構造的な問題でございますね」
「はい。配信者側にも、視聴者側にも、守る仕組みが足りてない。配信者は、一人で配信して、一人でメンタルを削って、一人で燃え尽きる人が多い。視聴者の方は、橘さんみたいに、依存して、生活を壊す人がいる」
「桐島さんが、そこに関心を持たれるのは、意外でございます」
「意外ですか」
「ギャンブルや、競馬、工場。これまで桐島さんが関わってこられた領域とは、全く関係性の世界です」
「たぶん、俺自身は、その世界で稼ぎたいわけじゃないです」
「左様でございますか」
「でも、橘さんがあそこまで落ちたのを見て、あの業界に、ちゃんとした事務所があれば、何か変わるんじゃないかって、思ったんです。配信者のメンタルケアと、視聴者のリスク管理を、両方やる事務所。少なくとも、うちで事業としてやっていたら、うちで抱える配信者の周りでは、あんな悲劇を起こさない」
「壮大な構想でございますね」
「まだ構想にもなってないです。思いつきです」
「ただ」
山下さんが、珍しく、箸を置いた。
「橘様が、いつか治療を終えられて、復帰されるとき」
「はい」
「ライブ配信事務所、という事業が、ご本人の回復の受け皿になりうると、存じます。ご本人が、配信の業界の『外』と『内』を、両方知っておられる。視聴者として深く落ちた経験と、経営管理の知識。その両方を持つ人間は、業界の中でも、希有な存在でございます」
「……山下さん」
「はい」
「それ、俺も、今、同じこと考えてました」
山下さんが、少しだけ、笑った。
日本酒の猪口を口に運んで、静かに、飲んだ。
「中期経営計画に、種として残しておきましょう。ライブ配信関連事業」
「はい。種だけで。まだ、動きません」
「承知しております。種は、土の中で、時を待つものでございます」
ハイボールの氷が、小さく、音を立てて溶けた。
福田さんは、また何も聞かずに、次の小鉢をカウンターに置いた。
たらの芽の天ぷらだった。
春の香りが、皿から立ち上がった。
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**── 残高メモ(第31話・3月下旬時点)──**
*ラスベガス帰国後、税務引当を済ませた実質手取りベース。4月1日のナカジマ精工買収契約に向けて、個人資金から段階的に拠出する段取りを山下さんと詰めている最中。*
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末繰り越し(第30話末・税引後) | 約25,606万円 |
| 競馬収入(3月下旬・片手間) | +約180万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約25,786万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末繰り越し(第30話末) | 約5,139.6万円 |
| (本話では資金移動なし) | ― |
| **KY Holdings 法人口座** | **約5,139.6万円** |




