第29話 〜テーブル〜
三月十二日。
ラスベガス三日目。
朝、時計を握った。
温かかった。
映像が来た。
今日のテーブル。
ブラインド五百ドル−千ドル。
大きなポット。
ナッツフラッシュを引く展開。
*(いけるな)*
ルームサービスで朝食を取りながら、昨日のメモを見直した。
昨夜、眠る前にノートに書き留めた。
昨日の気づき。
一つ。
時計のビジョンは、最大で五手先まで。
プリフロップからリバーまで。
それ以降の展開——つまり、相手がショーダウンで見せるカード以外のことは、ビジョンに含まれない。
二つ。
ビジョンはテーブルでの自分の動きを示す。
ただし、それに従わなくても、現実はビジョンから分岐しない。
ビジョンは「この通りに動いたらこうなる」ではなく、「このハンドはこう動くのがベスト」という結論を示している。
三つ。
小さなハンドのビジョンは来ない。
五千ドル以下のポットは、時計が反応しない。
大きな山場だけ、映像が来る。
この三つの特性を活かせば、ブラインドを上げても怖くない。
むしろ、ステークスが高いほど一回の勝ちが大きくなる。
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午前十一時。
ベラージオの高額テーブル。
ブラインドは五百ドル−千ドル。
最低バイインは二十万ドル。
俺は二十五万ドルで参加した。
顔ぶれは昨日とは違った。
左隣にサングラスの白人男性。
四十代。
ロレックスのサブマリーナ。
ベットの仕方が速い。
経験者。
正面にはアジア系の中年男性。
おそらく中国か香港。
葉巻の匂いを漂わせている。
チップを指でいじる癖がある。
典型的なアクション・プレイヤー。
そして斜め向かいに、一人だけ異質な存在がいた。
日本人。
三十前後の男。
黒い髪を短く刈り込んでいる。
細身のセーター。
チップの積み方がきれいに揃っている。
カメラを持っている連れが後ろに一人。
いや、カメラではない。
スマートフォン用のジンバル。
*(……撮影してる? 配信か何かか)*
男がこちらを見た。
一瞬、目が合った。
男が軽く会釈した。
「日本の方ですか?」
日本語で話しかけてきた。
低めの、落ち着いた声。
「はい。ラスベガスには観光で?」
「いや、仕事です。ポーカー配信やってて。今回はベラージオの高レートを収録しに来た」
「配信。すごいですね」
「石橋マサトと言います。YouTubeで『マサトのポーカーライフ』ってチャンネルやってるんで、よかったら」
「桐島です。ポーカーはまだ初心者ですけど、今回は勉強しに来ました」
「桐島さん、昨日のプレイ見てました。ジャックのセット取ったハンド。綺麗なコールでしたね」
「え、見てたんですか」
「ポーカールームは狭いんで。大きなポットが動くと、みんなチラ見するんですよ」
石橋さんが笑った。
悪意のない笑顔。
この業界で生きている人間の、人懐っこさのようなものが滲んでいた。
「今日のブラインドもきつそうですね、初心者だと」
「いや、勉強のためと思って」
「勉強代、高すぎません?」
「まあ、勉強ってそういうもんだと思ってます」
「桐島さん、面白い人ですね」
石橋さんは自分の席に戻って、チップを整えた。
後ろのカメラマンが何か指示を受けている。
どうやら、石橋さん自身が配信の主役らしい。
*(日本人のポーカー配信者。今後の事業に関わりそうな相手だ。今は深入りしないが、覚えておこう)*
ディーラーがカードを配り始めた。
一日目と同じように、最初の一時間は軽く流した。
プレミアムハンドだけ参加。
小さな負けは気にしない。
時計がポケットで熱くなった。
席を立って、トイレに向かった。
個室で握った。
映像。
自分のホールカード、エースとキングのスーテッド(AKs)のハート。
フロップはエース、ハート、ハート。
フラッシュドローとトップペア。
相手は正面の中国系男性。
彼はトップペアの持ち方(AQ)。
ターンがハート。
俺のナッツフラッシュが完成する。
リバーまで進んで、相手がオールイン。
俺がコール。
ポットは約十八万ドル。
*(十八万ドル。二千五百万弱)*
席に戻った。
カードが配られた。
AKs、ハートのコンビ。
完璧。
UTGがリンプ、千ドル。
俺がレイズ、四千ドル。
中国系の男がコール。
UTGは降りた。
フロップ。
エース、ハート、ハート。
トップペア、ナッツフラッシュドロー。
中国系男がチェック。
俺がベット、八千ドル。
彼はコール。
ターン、ハート。
ナッツフラッシュ完成。
ここからが本番だ。
彼を追い込むための正しいベッティング。
ビジョンでは、俺が二万ドルのベットをする。
彼がコールする。
リバーで俺がベット四万ドル、彼がオールイン、俺がコール。
俺はビジョン通りにベットした。
二万ドル。
彼はしばらく考えて——コール。
リバー、カードが伏せて置かれた。
カードがめくられる。
映像と同じ、スペードのフォー。
俺はベット、四万ドル。
彼が葉巻を一度置いて、チップを見つめた。
十秒、二十秒。
そして、オールイン。
残りの全チップ、約十三万ドル。
俺はコールした。
ショーダウン。
彼のカード、エースとクイーン(AQ)。
トップペア、二番目キッカー。
俺のカード、AKsハート。
ナッツフラッシュ。
ディーラーが俺の前にチップを押し出した。
十八万四千ドル。
約二千五百万円。
テーブル全体が一瞬沈黙した。
それから小さなどよめきが起きた。
石橋さんがカメラに向かって、小さく何か喋っていた。
日本語で。
きっと「今のハンド、やばいですね」みたいなことを言っている。
中国系男は、葉巻をくわえ直して、「Good hand」と呟いた。
怒りの様子は見せなかった。
高レートのプレイヤーは、負けても顔に出さない。
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午後四時。
セッションを切り上げた。
今日の収支。
+二十四万ドル。
約三千二百万円。
二日間の合計で、+三十三万五千ドル。
約四千五百万円。
チップをカウンターに持っていく途中、石橋さんが声をかけてきた。
「桐島さん、今日は早上がりですか」
「はい。ちょっと疲れたんで」
「休息も大事ですよね。……あの、よかったら夕食ご一緒しませんか」
「夕食?」
「ベラージオのレストラン予約してるんですけど、一人で食うの寂しくて。桐島さん、ポーカーの勉強したいって言ってたんで、よかったら話でも」
石橋さんの誘い方は自然だった。
押しつけがましくなかった。
*(この人、興味深い。今後のビジネスの中で、いずれ関わる可能性がある。話してみる価値はある)*
「じゃあ、ぜひ」
「八時に『ピカソ』でどうですか」
「了解です」
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午後八時。
ベラージオ内のレストラン「ピカソ」。
名前の通り、店内に本物のピカソの絵が掛かっている店だった。
ドレスコードがあるようで、石橋さんはジャケットに着替えていた。
俺もシャツにジャケットで来た。
ワインを頼んだ。
石橋さんは赤、俺は白。
「桐島さんって、何やってる方なんですか」
「普通に会社やってます。ITの」
「ITか。最近、日本のポーカープレイヤーにもIT系多いですよ」
「そうなんですね」
「桐島さん、プレイ見てて思ったんですけど、読みが正確すぎる」
「運ですよ」
「運じゃ説明つかないハンドがあった。今日のフラッシュもそうだし、昨日のジャックのセットも。相手の動きを完全に予測してベッティングを組み立ててた」
石橋さんが俺を見た。
探るような目ではない。
同業者が同業者を観察する目。
純粋な興味の目だった。
「勉強だって言ったじゃないですか」
「勉強して、あのレベルで打てるんですか」
「まあ、周りにいろいろ教えてくれる人がいるんで」
「プロのコーチ付けてます?」
「まあ、似たようなもんで」
「さすがだな」
石橋さんは深追いしなかった。
話題を変えてくれた。
石橋さんの話を聞いた。
もともとプロの麻雀プレイヤーだったらしい。
競技麻雀でタイトルを三つ取った後、ポーカーに転向。
今はYouTubeの配信をメインに、世界中のカジノを回っている。
登録者数は十八万人。
日本のポーカー界では知名度が高い方だという。
「ラスベガスに住んでるんですか」
「半年はこっち、半年は日本。今年から、こっちの滞在増やしてるんですよ」
「日本でもポーカー広まってきてますよね」
「広まってますよ。でも、日本でやれる場所が少ないんですよね。アミューズメントポーカー、つまり賭けないポーカーの施設はあるけど、ちゃんとした練習環境が限られてる」
「ほう」
「桐島さん、もしポーカー業界に興味あるなら、日本の現状、面白いですよ。需要は伸びてるのに、プレイヤーが育つ場所が足りてない」
*(需要はある。場所が足りない。典型的な事業機会の構図だ)*
興味はあった。
でも、今はそれを言わない。
まずはラスベガスで稼ぐことに集中する。
「石橋さん、連絡先交換しませんか」
「喜んで」
LINEの交換をした。
石橋さんのアイコンは、ポーカーチップの写真だった。
「桐島さん、今回の滞在どのくらいです?」
「あと七日」
「じゃあ、また同じテーブルに座るかもですね」
「お手柔らかにお願いします」
「こっちのセリフですよ」
石橋さんが笑った。
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ホテルに戻った。
時差のせいで、体内時計が変だった。
ラスベガスの夜は、東京の昼。
眠くないけど、眠る必要がある。
バスタブにお湯を張った。
シャワーを浴びた後、ゆっくり湯船に浸かった。
窓から見えるストリップのネオンを眺めながら。
*(石橋マサト。今後の事業構想の中で、いずれ関わる可能性がある人物。アミューズメントポーカーの日本展開。まだ具体的な絵は描けないが、覚えておこう)*
*(今は、工場買収の資金が最優先。残り七日で、あと一億五千万分勝てば目標達成。一日平均で二千万。……今日のペースなら十分いける)*
時計をバスルームの棚に置いた。
翠色の金属が、バスタブの湯気の中で微かに光っている。
*(お前、ラスベガスに来てから、絶好調だな)*
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三日目。
+十八万ドル。
四日目。
+二十二万ドル。
五日目。
+八万ドル。
五日目は、時計の反応が少なかった。
映像は一度しか来なかった。
でも、無理をせず、守りに徹した。
勝ち額は少なかったが、負けなかった。
六日目。
休息日にした。
ポーカーはしない。
ストリップを歩いて、ベガス観光をした。
シーザーズ・パレス。
ヴェネツィアン。
ベラージオの噴水ショー。
石橋さんから「撮影に使う映像の素材、一緒に撮りませんか」と連絡があったが、断った。
自分が映像に映るのは、避けたい事情がある。
七日目。
+三十五万ドル。
この日は特に調子が良かった。
時計が四回発動し、全て的中。
ビッグハンドを四つ取った。
最大のポットは二十三万ドル。
中東から来ていた富豪のプレイヤーが、相手だった。
彼はクイーンのセットを確信して突っ込んできた。
俺はストレートでひっくり返した。
八日目。
+二十一万ドル。
九日目。
+十五万ドル。
そして、最終日——十日目。
時計が一度も熱くならなかった。
朝、握ってみた。
冷たい。
昼、待ってみた。
変化なし。
夕方、また握った。
冷たいまま。
*(今日は休め、ってことかな)*
プレイはしなかった。
チップを全て現金に換金し、カジノ口座に入れた。
合計の勝ち額を計算した。
一日目:+九万五千ドル
二日目:+二十四万ドル
三日目:+十八万ドル
四日目:+二十二万ドル
五日目:+八万ドル
六日目:休息
七日目:+三十五万ドル
八日目:+二十一万ドル
九日目:+十五万ドル
十日目:休息
合計:+百五十二万五千ドル。
約二億二千八百万円。
税引き前。
山下さんにLINEを送った。
*「最終収支、+百五十二万五千ドル。約二億二千八百万円」*
返信は一分後に来た。
*「お疲れ様でございます。税引き後の手取りは、一億三千万円前後と見込まれます。工場買収の資金には十分です」*
*「了解。明日の便で帰ります」*
*「空港までお迎えに上がります」*
窓の外を見た。
ラスベガスの夜。
ストリップのネオンが、相変わらず輝いていた。
ポケットの中の時計に触れた。
冷たい。
でも、十日間の記憶が手に残っている。
あの、不意に訪れる熱さ。
テーブルで感じた、生き物のような脈動。
*(ありがとな、時計。十日間、よく働いてくれた)*
スーツケースに荷物を詰め始めた。
お土産も買った。
アンちゃんへのチョコレート。
カジノのチップ一枚。
山下さんには、ネバダ産のワインを一本。
西村には、ラスベガスのロゴ入りのパーカー。
桑原さんには、英語の洋書を一冊。
店員に「翻訳者の友人への土産」と相談して、選んでもらった。
荷物を詰め終えて、ベッドに入った。
明日は、帰国の朝だ。
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**── 残高メモ(第29話・ラスベガス十日間終了時点)──**
*十日間通算 +$1,525,000(為替概算150円/ドル = 約22,875万円)。うち初日+$95,000は第28話に計上済。明日帰国。税務処理は帰国後。*
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末繰り越し(第28話末) | 約14,916万円 |
| ラスベガス2〜10日目 勝ち金(+$1,430,000 × 150円/ドル) | +約21,450万円 |
| 渡航諸経費(2〜10日目分・ホテル/飲食/移動/両替手数料等) | ▲約120万円 |
| **桐島遊馬 個人資金(税引前・現地ベース)** | **約36,246万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話末繰り越し(第28話末) | 約5,531.8万円 |
| (本話では業務上の資金移動なし) | ― |
| **KY Holdings 法人口座** | **約5,531.8万円** |
*※一時所得に係る所得税・住民税の引当(概算▲10,000万円)は帰国後に山下さんが処理する予定。この時点では税引前の数字。*




