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第28話 〜渡航〜


 三月十日。

 月曜日。


 羽田空港国際線ターミナル。


 チェックインカウンターでビジネスクラスの搭乗券を受け取った。

 ラスベガスへの直行便はない。

 ロサンゼルスで乗り継ぐ。

 合計十六時間ほどの旅程だった。


 今回は一人旅だった。

 西村もマカオの時のように同行を打診してきたが、断った。

 「大金が動く場面だから、動きやすい方がいい」と言ったら、西村は渋々納得した。

 実際には、時計の動きに集中したいという理由もあった。

 誰かが隣にいると、時計の熱さに反応する動作を見られてしまう。


 山下さんは空港まで送ってくれた。

 吉野さんの運転で、山下さんが助手席。

 珍しい組み合わせだった。


 ターミナルの前で車を降りた。

 山下さんも降りて、俺の前に立った。


「桐島さん」


「はい」


「現地での連絡は、LINEとメールで。時差は十六時間ございます。日本の夜が、ラスベガスの朝になります」


「了解です」


「カジノのVIPホストの連絡先は、手元の封筒に入れておきました。ジョン・マクラフリン氏です。ベラージオのポーカールーム担当。日本語は話せませんが、通訳が付きます」


「助かります」


「それと、税務処理の観点から、勝ち金は現地のカジノ口座に一度プールして、定期的に日本の口座に送金する形が望ましいです。一回の送金額は百万ドル未満に抑えてください。それ以上ですと、別途申告が必要になります」


「山下さん、本当に何でも知ってますね」


「これくらいは、経理の基本でございます」


 山下さんが静かに一礼した。


「いってらっしゃいませ」


「いってきます」


 カウンターを抜けて、保安検査場に向かった。

 振り返ると、山下さんと吉野さんがまだ同じ場所に立っていた。

 二人とも、俺が見えなくなるまで立っているつもりらしい。

 俺は軽く手を挙げて、保安検査場のゲートをくぐった。


---


 飛行機の中で、ほとんど眠らなかった。


 ビジネスクラスの座席はフラットになる。

 でも、頭が冴えていた。

 ポケットの中の時計は、離陸後しばらくして一度熱くなった。

 握ったが、映像は来なかった。

 ぼんやりとした光の残像だけ。


 *(海外に出ると反応が鈍るのかもしれない。マカオの時は、最初はうまく発動しなかった。現地の時間に体が慣れると、戻ってくる)*


 マカオの記憶。

 初めて海外でポーカーをした時。

 最初は時計が反応しなかった。

 二日目の昼から、ようやくビジョンが来るようになった。

 あの時と同じパターンになる可能性が高い。


 だから、最初の一日は軽めのプレイにする。

 テーブルの感触を掴む時間に充てる。

 勝負は二日目から。


 LAで乗り継ぎ。

 入国審査では、ESTA事前認証済み。

 「ホリデー」とだけ答えて通された。


 ラスベガス行きの便に乗り換え。

 一時間半ほどで到着。

 マッカラン国際空港——いや、今はハリー・リード国際空港と呼ばれているらしい。


 到着ロビーを出た瞬間、空気が変わった。

 乾いた熱気。

 三月のネバダは、日中はすでに暖かい。

 東京の湿った寒さとは対照的だった。


 迎えの車が来ていた。

 カジノ側が手配したリムジン。

 黒いキャデラック。

 運転手は白人の中年男性。

 寡黙だった。


 車がフリーウェイを走り出した。

 窓の外に、ラスベガス・ストリップが見えてくる。

 巨大なホテルの群れ。

 ルクソールのピラミッド。

 シーザーズ・パレスのローマ建築。

 そして、ベラージオの噴水。


 ベラージオのVIPエントランスに車が停まった。

 スーツを着た男性が近づいてきた。

 胸のバッジに「JOHN」と書いてある。


「ミスター・キリシマ?」


「はい」


「ジョン・マクラフリンです。ようこそベラージオへ」


 流暢な英語だった。

 穏やかで、プロフェッショナルなトーン。

 この人がVIPホストか。


 スイートルームに案内された。

 六十五階。

 窓からストリップが一望できる。

 ベッドルームが二つ。

 リビング。

 バスルームには大理石のジャグジー。

 冷蔵庫にはシャンパンが冷えていた。


「ポーカールームは地下一階にございます。VIPテーブルのブッキングは、いつでもお申し付けください。こちらが専用の呼び出しボタンです」


 ジョンがサイドテーブルのボタンを指した。


「デポジットは五十万ドル、すでにカジノ口座に反映済みです。チップへの交換は、カウンターで本人確認書類を提示いただくだけです」


「ありがとうございます」


「本日はゆっくりお休みください。時差がおつらいでしょう」


 ジョンが一礼して出ていった。

 ドアが閉まった。


 一人になった。


 窓の前に立った。

 ラスベガスの夕方。

 まだ日が残っている。

 ネオンサインが点き始めていた。

 ストリップの道路には、車と人が混ざり合って流れている。


 ポケットから時計を取り出した。

 握った。


 冷たい。


 *(……今日はもう来ないか。まあ、予定通りだ)*


 時計をサイドテーブルに置いた。

 シャワーを浴びて、軽く食事を取って、ベッドに入った。


 十時間近く眠った。

 目が覚めたら、ラスベガスの朝だった。


---


 三月十一日。

 ラスベガス二日目。


 朝八時。

 時計を握った。


 温かかった。


 映像が来た。

 ポーカーテーブル。

 十人掛けのオーバル。

 ディーラーの手元。

 カードが配られる。

 ホールカードが見えた。

 プレイヤーの目線。

 自分の席からの視界。

 五手先までの展開が、コマ送りで流れていく。

 プリフロップ、フロップ、ターン、リバー。

 相手のベット。

 自分のベット。

 勝敗。


 映像が消えた。


 *(来た。完全に馴染んだ)*


 手のひらの感触を確かめた。

 時計の熱さが、いつもよりも強い。

 はっきりしている。


 フロントにブッキングの電話を入れた。

 「ポーカールーム、ブラインド百ドル二百ドルのテーブル、今から二時間後で」

 ジョンが段取りを整えてくれた。


 ルームサービスで朝食を取りながら、昨夜の準備を振り返った。


 ポーカーでの時計の使い方について、マカオから戻ってから何度もシミュレーションしてきた。


 基本戦略は「ほとんどのハンドは普通にプレイする」。

 時計の映像が来た時だけ、その判断を優先する。

 一晩の中で、大きなポットは三、四回。

 それを確実に取れば、小さな負けを何十回しても収支は大きくプラスになる。


 重要なのは「当てすぎない」こと。

 全部のハンドを当てていたら、相手に不自然だとバレる。

 負けるハンドもある。

 小さなポットは、普通に読み合いで勝負する。

 大きな山場だけ、時計の示す答えに従う。


 *(マカオで掴んだ感覚が、ラスベガスでも通用するか。今日の数時間で検証する)*


---


 午前十時。

 ベラージオのVIPポーカールーム。


 テーブルに着いた。

 九人のプレイヤー。

 ディーラーは若い女性。

 チップの色が、マカオとは違う。

 赤が五ドル。

 緑が二十五ドル。

 黒が百ドル。

 紫が五百ドル。

 オレンジが千ドル。


 ブラインドは百ドル、二百ドル。

 バイインの上限なしのノーリミット・ホールデム。

 俺は十万ドル分のチップで参加した。


 他のプレイヤーを観察した。

 左隣は白髪の初老の男性。

 サングラス。

 動きが少ない。

 経験者の匂いがする。


 右隣はアジア系の若い男。

 二十代後半。

 派手なセットアップ。

 袖口から高そうな時計が覗いている。

 SNSで稼いだタイプか、富豪の息子か。


 正面には、金髪の女性プレイヤー。

 プロっぽい気配。

 カードの扱い方が洗練されている。

 目が他のプレイヤーをよく見ている。


 最初の一時間。

 小さく、動いた。


 時計は反応しなかった。

 ならば、普通のプレイに徹する。

 AA、KK、AKsuitedのようなプレミアムハンド以外はほぼ降りる。

 プレミアムハンドでも、相手の動きを見てから判断する。


 最初の一時間で、二千ドルほど負けた。

 想定内。

 準備運動のようなものだ。


 その時、時計がポケットの中で熱くなった。


 胸が一拍、強く打った。


 *(来た)*


 席を立った。

 「トイレに行く」と小さく告げて、個室トイレに入った。


 時計を握った。


 映像。

 次のハンド。

 俺のホールカード、ポケットジャック(JJ)。

 フロップでクイーン、ジャック、セブンのレインボー。

 セットが完成する。

 俺が二千ドルのコンティニュエーションベットを出す。

 アジア系の若い男がコール。

 ターンはキング。

 俺がチェック。

 若い男が七千ドルベット。

 俺がコール。

 リバーはフォー。

 俺がチェック。

 若い男がオールイン、五万ドル。

 俺がコール。

 若い男のカードはキング・クイーン(KQ)のツーペア。

 俺のセットが勝つ。


 映像が消えた。


 *(完璧なシナリオだ。相手は自分のツーペアを信じて突っ込んでくる。俺のセットが見えない。五万ドル超のポットが取れる)*


 トイレを出て、席に戻った。

 ディーラーがカードを配り始めた。


 ホールカードを覗いた。

 ジャックのペア。

 ビジョン通り。


 ブラインドに二百ドルが入っている。

 UTGがレイズ、六百ドル。

 俺の番。

 コール。

 アジア系の若い男もコール。

 他は全員降りる。


 フロップ。

 クイーン、ジャック、セブン。

 レインボー。


 *(セット)*


 内心の興奮を抑えた。

 UTGがチェック。

 俺がベット、二千ドル。

 若い男がコール。

 UTGは降りた。


 ターン、キング。

 俺がチェック。

 若い男がベット、七千ドル。

 俺がコール。


 リバー、フォー。

 俺がチェック。

 若い男がしばらく考えて——オールイン、五万ドル。


 *(来た)*


 俺はコールした。


 若い男がカードを開いた。

 キング・クイーン。

 ツーペア、キングとクイーン。


 俺がカードを開いた。

 ジャック・ジャック。

 セット、ジャック。


 若い男の顔が、一瞬凍った。

 それからため息をついて、首を振った。


「Nice hand」


 短く、俺が言った。


 若い男が苦笑した。

 「Wow, you read me perfectly」と呟いた。


 ディーラーがポットを俺の前に押し出した。

 五万七千ドル分のチップ。

 一ハンドで、約八百万円。


 心臓がまだ速かった。

 でも、顔には出さなかった。

 カードに興味がないプレイヤーのふりをして、次のハンドが配られるのを待った。


 *(これだ。この呼吸が掴めれば、今日一日で十万ドルはいける)*


---


 その日、四時間のセッションで、時計は三回熱くなった。


 一回目。

 JJのセット。

 +五万七千ドル。


 二回目。

 ビジョンではナッツフラッシュを引く展開。

 実際もその通り。

 +四万二千ドル。


 三回目。

 ビジョンでは降りるべきハンド。

 相手のAA。

 俺のKKは負ける。

 実際、相手がAAでオールインしてきた時、俺はKKを持っていた。

 だが、ビジョンに従って降りた。

 相手は少し驚いていた。

 「Nice fold」と隣のプレイヤーが呟いた。

 トラップを避けた。

 損失を防いだのも、勝ちと同じ価値がある。


 他の細かいハンドでは勝ったり負けたり。

 最終的に、+九万五千ドル。

 約一千三百万円。


 一日目のセッション終了。

 チップをカウンターに持っていった。

 九万五千ドル分を口座に戻した。


 部屋に戻った。

 窓の外は、すでに日が落ちていた。

 ストリップのネオンが輝いている。


 シャワーを浴びながら、頭の中で計算した。


 *(一日で一千三百万。これを十日続ければ、単純計算で一億三千万。税金の前。手取りなら八千万前後。……一億六千万の目標には届かない)*


 *(もう一段、ステークスを上げる必要がある。明日から、五百ドル−千ドルのテーブルに行く。勝ち額が五倍になる。リスクも五倍になるが、時計の精度を信じるなら、十分に取りに行ける)*


 シャワーから出て、バスローブを羽織った。

 リビングのソファに座って、時計をテーブルに置いた。


 翠色の金属。

 アメリカの夜の光が、窓から差し込んで、表面を滑る。


 *(ラスベガスでも、お前はちゃんと働いてくれるみたいだな)*


 ルームサービスでステーキを頼んだ。

 ビールを一本だけ。

 深酒はしない。

 明日の勝負に備える。


 ベッドに入る前、スマートフォンを見た。

 LINEに通知が来ていた。


 アンちゃんから。

 *「どう? ちゃんと着いた? ご飯食べた?」*


 時差を計算した。

 こちらは午後九時。

 日本は昼の一時。


 *「着いた。今日はしっかり勝ったよ。ご飯も食べた」*


 *「おおー! すごい! いくら勝ったの?」*


 *「内緒。帰ったら教える」*


 *「えーケチ! 楽しみにしてるから!」*


 *「チョコとチップのお土産、忘れないように買っとく」*


 *「うん、待ってる。おやすみ(遊馬くんのとこ昼か)」*


 *「こっちも夜だよ。もう寝る。おやすみ」*


 通知を閉じた。


 アンちゃんとのやりとりは、ふわっと温かかった。

 距離が開いているとか、そういうことを一瞬だけ忘れられた。


 山下さんにもメッセージを送った。


 *「一日目終了。+九万五千ドル。明日からステークス上げます」*


 一分後、返信が来た。


 *「承知いたしました。くれぐれもご無理のないよう。損失上限の件、お忘れなきよう」*


 山下さんらしい返信だった。


 明かりを消して、ベッドに入った。

 窓の外で、ラスベガスが眠らない街の夜を続けていた。


---


**── 残高メモ(第28話・ラスベガス1日目終了時点)──**


*現地初日。+$95,000。時計は1日に三度温かくなった。ステークスは明日から上げる予定。*


### 個人資金(桐島遊馬)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末繰り越し(第27話末) | 約13,506万円 |

| ラスベガス初日勝ち金(+$95,000/為替概算150円/ドル) | +約1,425万円 |

| 渡航諸経費(初日分・ホテル/飲食/移動等) | ▲約15万円 |

| **桐島遊馬 個人資金(税引前)** | **約14,916万円** |


### 法人資金(KY Holdings)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話末繰り越し(第27話末) | 約5,531.8万円 |

| (本話では業務上の資金移動なし) | ― |

| **KY Holdings 法人口座** | **約5,531.8万円** |


*※勝ち金は一時所得に該当。帰国後に山下さんが税務処理予定。この時点では税引前の実勢。*


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