表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/55

第24話 〜1年〜


 十一月の雨は、冷たかった。


 月曜日の朝、山下さんが三枚のファイルを机の上に置いた。


「桐島さん、先日お話しした件ですが、三つの物件をご用意させていただきました」


「お、早いですね。ありがとうございます」


 ファイルを開いた。

 一つは六本木。

 一つは麻布十番。

 もう一つは港区。

 三物件とも、タワーマンションだった。


「法人社宅として契約する場合、かなりの節税効果が期待できます」


 山下さんがペンで資料の一箇所を指した。

 港区の物件。

 五十階。

 三LDK。

 月額百二十万円。


「法人が半額を負担しますので、実質的な個人負担は六十万円となります。現在の南青山の五十五万円との差は、わずか五万円でございます」


「五万円の差で五十階か。景色が桁違いだろうな」


「左様でございます。さらに、将来的な資産価値の上昇も見込めます」


 写真を見た。

 一面のガラス張り。

 東京湾が見える。

 レインボーブリッジ。

 遠くに千葉の街並み。


「山下さん、これ、見に行ってもいいですか」


「もちろんでございます。本日午後二時に案内が可能だと、仲介業者から連絡が来ております」


「仕事早すぎません?」


「桐島さんが即決される性格であることは、もう存じておりますので」


 山下さんが淡々と言った。

 冗談のつもりなのか本気なのかわからない。

 俺は少しだけ笑った。


---


 午後二時。

 吉野さんの運転で港区へ向かった。


 タワーマンションのロビーに足を踏み入れた時、空気が変わった。


 大理石の床。

 天井まで届く白い柱が両側に立っている。

 奥にはコンシェルジュのカウンターがあり、制服を着た女性が深々と頭を下げた。


「本日のご来館、ありがとうございます」


 エレベーターはカードキー方式だった。

 案内人の不動産仲介業者の女性が、カードを読み取り機にかざす。

 エレベーターが動き出した。

 上昇の感覚がほとんどない。

 無音。

 数字だけが上がっていく。

 十階。

 二十階。

 三十階。

 四十階。


「今回の物件は、非常に人気の高いユニットでございます。先日も同じフロアを見に来られた方がいらっしゃいまして、IT企業の代表の方でした」


「ヘえ、そういう方々が多いんですか」


「ええ。経営者の方が中心のフロアになっております」


 *(ああ。俺はこの世界に入ろうとしてるんだ。IT企業の社長と同じフロア。九ヶ月前は三万二千円の男が)*


 五十階。

 扉が開いた。

 廊下は静かだった。

 足音が響かない。

 カーペットが厚い。


 案内人が鍵を開けた。

 室内に入る。


 玄関を抜けると、広いリビングが目の前に広がった。


 息が止まった。


 ガラス張りの窓。

 床から天井まで。

 その向こうに、東京全体が見えた。


 レインボーブリッジが光っている。

 東京湾が広がっている。

 品川のビル群。

 六本木ヒルズ。

 東京タワー。

 スカイツリー。

 全部が、この窓の向こうにあった。

 全部が、俺の足元にあった。


「……すごいですね、これ」


 思わず声に出た。

 案内人が微笑んだ。


「皆さん、この窓の前で足が止まられます」


「止まりますよ、これは」


 俺は窓の前から動けなかった。


 *(これは、景色が違うんじゃなくて。俺の見える世界の高さが変わるってことなんだ)*


 南青山の二LDKからは、表参道の街並みが見えた。

 それは悪くない景色だった。

 だが、ここから見える東京は、別の世界だった。

 街全体が模型のように小さく見える。

 人も、車も、ビルも。

 全部が、この窓の下にある。


 一つ一つの部屋を見て回った。

 リビング。

 ダイニングキッチン。

 主寝室。

 ゲストルーム。

 バスルーム。

 どの部屋も広い。

 天井が高い。

 窓が大きい。


 バスルームには窓がついていた。

 湯船に浸かりながら、東京の夜景が見える。


 *(風呂から夜景って。ドラマかよ。いや、ドラマよりすごいかもしれない)*


「これ、バスルームに窓あるんですね。入浴しながら夜景見るんですか」


「はい。贅沢な時間の使い方として、人気の設備でございます」


「贅沢ですね、さすがに」


 案内人が各設備の説明をしている。

 二十四時間コンシェルジュ。

 フィットネスジム。

 ゲストルーム。

 宅配ボックス。

 ゴミは各階のダストシュートに入れるだけ。

 ゴミ出しの曜日を気にする必要がない。


 南青山の生活とは、何もかもが違う。


 案内は一時間で終わった。

 契約はまだだ。

 「検討中」という体で、俺と吉野さんはビルを後にした。


 エントランスを出ると、夕方の空気が肌に触れた。

 十一月の風。

 冷たい。

 だが清々しい。


 吉野さんがドアを開けてくれた。

 車に乗り込む。


「吉野さん」


「はい」


「……いい場所でしたね」


「はい。立派な物件でした」


「吉野さん、あそこ、どう思いました?」


「私がお答えする立場ではないかもしれませんが」


「いや、聞きたいんで」


 吉野さんはバックミラー越しに一瞬こちらを見て、少しだけ間を置いた。


「……桐島さんには、ふさわしいと思います」


「それはお世辞?」


「私はお世辞を言いません」


「ですよね。ありがとうございます」


 バックミラーの中で、吉野さんの目が少しだけ柔らかくなったように見えた。


 俺の中では、もう決まっていた。


 ——決まっていた、はずだ。


 *(でも。月百二十万の家賃。法人負担とはいえ、この金額を毎月払い続けるってことだ。アプリの収益が伸びてる今はいい。でも、もし時計がまた止まったら? 八月のあの四日間みたいに、ビジョンが消えたら? ギャンブルの収入はゼロになる。アプリだって、俺の予測精度が落ちれば会員は離れる。その時、月百二十万の家賃が、首に巻きつく)*


 胸の奥に、冷たいものが触れた。

 恐怖ではない。

 もっと静かなもの。

 足元がふわふわするような、地面のない場所に立っている感覚。


 *(九ヶ月前まで三万二千円で暮らしてた人間が、月百二十万の部屋に住む。これは成功なのか。それとも、落ちた時の高さを自分で積み上げてるだけなのか)*


 窓の外の東京が、一瞬だけ遠く見えた。


---


 その夜、アンちゃんが南青山に来た。


 最近は週に三、四回、こうして夜に来るようになっていた。

 仕事を終えて、化粧を落として、素の状態で来る。

 ルーナの「アンちゃん」ではなく、水沢アンとして、ここにいる。


 俺はスマートフォンでタワーマンションの写真を見せた。


「え?」


 アンちゃんの目が画面に釘付けになった。

 次々とスライドさせる。

 ロビー。

 エレベーター。

 廊下。

 リビング。

 そして、あの窓からの景色。


「ここに引っ越すの?」


「うん、ほぼ決めてる」


 アンちゃんはスマートフォンを持ったまま、しばらく黙っていた。

 画面の中の東京湾の夜景を見つめている。


「……すごい景色だね」


 その声は、いつもの調子ではなかった。

 底に冷たいものが混じっていた。

 感嘆ではない。

 何か別の感情。


「ねえ、遊馬くん」


「ん、どうした」


「私さ、最近思うんだけど」


 アンちゃんが俺の横に座った。

 膝はくっつけていない。

 少しだけ距離がある。


「遊馬くんってどんどん遠くに行く感じがする」


「遠くって?」


「なんか……追いつけないなって」


 その言葉は、突然だった。

 だが、唐突ではなかった。

 アンちゃんの中で、ずっと溜まっていたものが、今、言葉になったのだ。


 彼女の手がほんの少し震えていた。

 膝の上で丸めている。

 俺はその手に気づいて、黙って握った。


「追いつくとか追いつかないとか、そういうのじゃないと思うけどな」


「でも、場所がさ。もう別の世界じゃん」


「場所な」


 俺は少し考えた。

 正解はわからない。

 でも、適当な言葉で流していいシーンでもない。


「場所は変わるかもしれないけど。俺がアンちゃんに会いに来るのは変わんないよ。来ていいって言ってくれる限り」


「……遠くまで?」


「タクシーで十分だろ」


 少しだけ笑いが欲しかった。

 アンちゃんは一瞬だけ息を漏らすように笑った。

 でも、目はまだ笑っていなかった。


「ほんとは怖いんだ、私」


「何が」


「ついてけなくなる自分が怖い。遊馬くんが悪いんじゃなくて、私が、勝手に」


 俺はアンちゃんの頭を一度だけ、ぽんと軽く撫でた。


「ついてこなくていいって。並んで歩けばいいだろ」


 アンちゃんは顔を上げた。

 笑った。

 いつもの笑顔。

 だが、その奥に違う感情が隠れていた。

 寂しさか。

 不安か。

 あるいは、予感か。


「うん。そうだね」


 その夜、アンちゃんは朝まで俺のそばにいた。

 翌朝、卵焼きと味噌汁を作ってくれた。

 甘い卵焼きと、わかめの味噌汁。

 いつもと同じメニュー。

 いつもと同じ朝。


 だが、何かが確実に変わり始めていた。

 変わっているのは景色だけではなかった。

 俺とアンちゃんの間にある空気が、少しずつ温度を失っている。

 それに気づいていないふりをしている自分がいた。


---


 十一月に入ってから、事業は順調だった。


 アプリの有料会員は着実に増えている。

 小林さんが新機能を実装した。

 レースのリアルタイム速報機能。

 橘さんのデータ分析と連動して、レース中にも予測が更新される仕組みだ。

 ユーザーの反応は良好だった。


 西村はマーケティング施策を次々と打ち出していた。

 SNSの広告運用。

 プレスリリース。

 競馬系YouTuberとのコラボレーション。

 フォロワー数もダウンロード数も、右肩上がりのグラフを描いていた。


 山下さんは、相変わらず数字を追っていた。

 月次のレポート。

 経費の管理。

 税務の対応。

 表に出ることは少ないが、山下さんがいなければ会社は一週間で混乱する。


---


 十一月中旬。

 時計がぼやけた。

 二日連続。


 八月のあの四日間ほどの激しさではなかった。

 完全に消えたわけではない。

 ぼやけているだけだ。

 だが、八月の記憶が蘇った。

 あの四日間の恐怖。

 時計が応えてくれず、手が震え、眠れなかった夜。


 ギャンブルは控えた。

 確度が不安定な時に大きな勝負はしない。

 その代わり、仕事に集中した。


 アプリの有料会員が四千五百人を超えた。

 月額の収入は約四百万に達していた。

 橘さんのXフォロワーは四万人。

 小林さんの開発チームには外部のフリーランスが一人加わった。

 事業は確実に成長していた。


 橘さんの行動は、相変わらず不規則だった。

 早退が続いている。

 インターネットカフェのレシートが経費に上がってくる。

 何が起きているのか、俺にはまだわからなかった。

 だが、深追いはしなかった。


 十一月の末。

 タワーマンションの契約書にサインした。


 ペンを置いた瞬間、指先が震えた。


 *(サインした。月百二十万。年間千四百四十万。ビジョンがぼやけてる今、この契約書にサインする自分は、正気なのか)*


 山下さんが隣で書類を確認している。

 落ち着いた表情。

 数字の裏付けがある人間の顔だ。

 山下さんの計算では問題ない。

 アプリの収益だけで十分にカバーできる。


 *(でも、山下さんは知らない。俺の収入源の根幹が、ポケットの中の時計一つに依存していることを。その時計が、今まさに不安定になっていることを)*


 仲介業者が「おめでとうございます」と言った。

 俺は笑って頷いた。

 喉の奥に、何か硬いものがつかえていた。


 引っ越しは十二月。


 南青山の最後の夜。

 アンちゃんが来た。

 何も言わなかった。

 いつもと同じように横に座って、テレビを見て、一緒に寝た。

 だが、抱きしめる腕がいつもより少し長く、少し強かった。


 *(また、景色が変わる。この半年で何度、景色が変わっただろう。アパートから南青山へ。南青山からタワーマンションへ。上がり続けている。高くなり続けている。その先に、この子がいるのか。それとも、ここに取り残されるのか)*


 答えは出なかった。

 出さないようにした。

 時計は未来のレース結果は見せてくれるが、人の心の行方は教えてくれない。


---


 十二月二十八日。

 忘年会。


 赤坂の居酒屋。

 西村の知り合いが経営している店だった。

 個室を借り切った。


 KY Holdingsの全員が揃うのは、設立以来初めてだった。


 遊馬、西村、山下さん、橘さん、小林さん、吉野さん。

 六人がテーブルを囲んでいる。

 一年前、この光景は存在しなかった。

 一年前の今頃、俺は一人でカップ麺を食べていた。


 唐揚げ。

 枝豆。

 冷奴。

 刺身の盛り合わせ。

 焼き鳥。

 テーブルの上に料理が並んでいる。


「いやー、やばかったなこの一年」


 西村が三杯目のビールを傾けながら言った。

 声が大きい。

 西村は酒が入ると声が大きくなる。


「会社作って、アプリ出して、馬まで買ってさ。普通に考えたら狂ってるよな」


「狂ってるかもな、確かに」


「だろ?」


「でも、狂ってる方が面白いだろ、人生」


「おっ、遊馬が哲学者みたいなこと言ってるぞ」


「うるせえよ」


 西村は笑った。


「来年はもっとやばいぞ。俺、来年の目標もう考えてあるんだ」


「何だよ、言ってみろ」


「海外展開。アプリの英語版。橘さんのデータは海外でもウケるって」


「海外か。大きく出たな」


「あとさ、大田区の方の話も、年明けに本格的に動くだろ」


 西村がさらっと付け加えた。

 俺は一瞬、グラスを持つ手を止めた。

 金属加工工場のことだ。

 あの話、夏から何度か親父さんと顔を合わせて、だいぶ空気が温まってきていた。


「あっちも年明けには結論出す時期だな」


「アプリと馬と工場って、完全に脈絡ねえけど。でも、遊馬が興味持った話って大体当たってるからなあ」


「まだ当たるとは限らねえぞ」


「いや、当たるって。俺、そっち方面の勘だけは自信ある」


「何で西村の勘になるんだよ」


 会話の横で、山下さんが静かに一度だけ頷いた。

 来年の事業計画の資料に、あの工場の件もすでに仕込んである、という合図だ。


「橘さんどうですか、英語版。勝負できると思います?」


 橘さんがグラスを持ったまま、微かに頷いた。

 だが目はスマートフォンに向いていた。

 画面を確認するたびに、表情がわずかにこわばる。


「……データは、国境関係ないので。理屈の上では、いけると思います」


「理屈の上では、な。橘さんらしい言い方だ」


 俺が言うと、橘さんはかすかに笑った。

 だがすぐにまたスマホを確認した。


 小林さんは静かに唐揚げを食べていた。

 黙々と。

 時々、小さくビールを口に運ぶ。

 会話には加わらないが、聞いてはいる。


「小林さん、今日は食ってますね」


「ええ。唐揚げ、好きなんです」


「覚えとく。次の慰労会、唐揚げ屋で予約する」


「ありがたいです」


 小林さんは短く答えて、また唐揚げに手を伸ばした。


 山下さんはグラスをゆっくり回していた。

 氷がカラカラと鳴っている。


 吉野さんはウーロン茶だった。

 運転手だ。

 帰りも運転する。


「吉野さん、食ってください。遠慮しないで」


「頂いております」


「もっと食ってください。今日は会社の金で飲み食いする日なんで」


「承知しました」


 吉野さんが静かに刺身に手を伸ばした。


 二時間が過ぎた頃だった。


「あ、すみません」


 橘さんが立ち上がった。


「今日は先に失礼させていただきます。少し、用事がありまして」


「お疲れ様です、橘さん。気をつけて」


「お疲れ様です」


 西村が手を振った。

 橘さんは全員に会釈して、部屋を出た。


 その背中を、山下さんが見ていた。


 数秒の沈黙。


 山下さんがポケットから小さなノートを取り出した。

 ペンで一行、何かを書いた。

 そしてノートをポケットに戻した。


「山下さん、何書いてんすか」


 西村が聞いた。


「メモです」


「何のメモ?」


「後で確認するための」


「なんか秘密めいてますね」


「秘密ではございません」


 西村はそれ以上聞かなかった。

 山下さんの「メモ」が何を意味するのか、西村にはわからなかっただろう。

 だが俺にはわかった。

 山下さんはずっと橘さんを見ていた。

 橘さんの変化を記録していた。


 *(山下さんが動く時は、動く理由がある。今はまだ動かない。でも、いつか動く。その時が来たら、俺は知ることになる。橘さんに何が起きていたのかを)*


 ビールを飲んだ。

 泡が消えかけていた。

 ぬるくなっている。


 忘年会は十一時過ぎに終わった。

 西村は最後まで騒いでいた。

 小林さんは静かに片付けを手伝った。

 山下さんは勘定を済ませていた。

 吉野さんがアルファードで皆を送った。


 一人になった車の中で、窓の外を見た。

 年末の東京。

 イルミネーションが街を彩っている。

 赤坂から港区へ。

 街灯とネオンが流れていく。


 *(一年が終わる。長かったのか、短かったのか。多分、両方だ)*


---


 十二月三十一日。

 大晦日。


 タワーマンションの五十階から、冬の夜道に出た。

 息が白い。

 十二月の東京。

 空気が乾いている。


 ふくろうまでの道のりは変わっていなかった。

 住所が変わっても、行く場所は変わらない。

 同じ路地。

 同じ街灯。

 同じ看板。


 店に入ると、福田さんと和代さんがカウンターにいた。

 常連客が数人。

 静かな大晦日だった。

 テレビではどこかの年末特番がやっていたが、音は小さく絞ってある。


 桑原さんがいつもの席にいた。

 本を読んでいる。

 翻訳の原著だろうか。

 分厚い洋書。

 ページをめくる手が、カウンターの灯りに照らされている。


「遊馬くん、今年もお疲れ様」


 福田さんが声をかけてきた。


「福田さんも、和代さんもお疲れ様でした。今年一年、本当にお世話になりました」


「改まってどうした」


「いや、節目なんで。ちゃんと言いたくて」


「遊馬くんは真面目だな」


 福田さんが笑った。

 和代さんも笑った。


 カウンターに座った。

 桑原さんとは少し離れた席。

 でも、声は届く距離。


 ハイボールが出てきた。

 頼んでいない。

 いつもの。


 一口飲んだ。

 氷が鳴った。


 桑原さんが本を閉じた。

 栞を挟んで、こちらを見た。


「遊馬さん。この一年で、何が変わりましたか」


 唐突な問いだった。

 でも、驚かなかった。

 この人は、こういう問いかけをする人だ。


 少し考えた。


「……全部、ですかね」


「全部?」


「住む場所も、仕事も、会う人も。全部変わりました」


 グラスの中の氷が溶けて、カラン、と音を立てた。


「でも、ここには来てくれますね」


 桑原さんの声は静かだった。


「ここは変わってほしくないんで。俺が来なくなったら終わりだと思ってます」


「大袈裟ですよ」


「大袈裟じゃないです、本当に」


 桑原さんが微かに笑った。

 その笑みの中に、安堵のようなものが見えた。


「お前ら、年越しそばでも食うか」


 福田さんがカウンターの向こうから声をかけた。


「お願いします」


 桑原さんが答えた。


「俺も」


 しばらくして、温かい蕎麦がカウンターに置かれた。

 湯気が立ち上っている。

 出汁の香りが鼻をくすぐった。


 二人で、静かに食べた。


 話す必要はなかった。

 蕎麦を啜る音。

 箸が器に当たる音。

 カウンターの向こうで福田さんがグラスを磨いている音。

 常連客の低い笑い声。

 外から微かに聞こえる除夜の鐘。

 年越しの空気が、店の中に満ちていた。


 蕎麦を食べ終えた。

 出汁が温かかった。

 胃の中に染み渡る。


「ごちそうさまでした」


 桑原さんが先に言った。

 俺も続いた。


「ごちそうさまでした。美味かったです」


「遊馬さん、来年もよろしくお願いします」


 桑原さんがそう言った。

 声は静かだったが、確かな温度があった。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 福田さんが遠くから声をかけた。


「あけましておめでとう」


「あけましておめでとうございます」


 時計を見た。

 日付が変わっていた。

 一月一日。


 ふくろうを出た。

 冬の夜道。

 息が白い。

 桑原さんと並んで歩いた。

 途中まで同じ方向だった。


「寒いですね」


「そうですね。遊馬さんは薄着ですね」


「体温高いんで、意外と平気です」


「ずるいですね、そういうの」


 桑原さんが小さく笑った。


「それでは」


 桑原さんが立ち止まった。

 角のところで。


「また、ふくろうで」


「はい。また。良いお正月を」


「遊馬さんも」


 桑原さんは小さくお辞儀をして、反対方向に歩いて行った。

 コートの背中が、街灯の下で小さくなっていく。


 俺はしばらく、その背中を見ていた。


---


 一月一日。

 元旦の朝。


 目を覚ました。

 タワーマンション、五十階。


 窓から朝日が差し込んでいた。

 東京が金色に染まっている。

 元旦の朝。

 街が静まり返っている。

 車も人も少ない。

 ビルだけが光を受けて立っている。


 一人だった。


 ナイトテーブルから時計を取った。

 翠色の金属。

 逆向きの針。


 握った。


 温かかった。


 映像が来た。

 鮮明だった。

 ここ数ヶ月で一番、はっきりとしていた。


 *(……来た。ちゃんと鮮明だ。レースが見える。馬の名前も読める。配当も読める。かつてのクリアさが、戻ってる。八月のあの四日間も、その後のぼやけも、全部嘘だったみたいに)*


 安堵した。

 胸の奥が緩んだ。

 体中の力が抜けていくような感覚。

 知らず知らずのうちに、ずっと体に力が入っていたのだと気づいた。

 鮮明さが戻った。

 それだけで、世界が違って見える。

 窓から差し込む朝日が、いつもより明るく感じた。


 だが。


 ほんの一瞬だけ。

 映像が別のものに変わった。


 競馬場ではない。

 レースでもない。

 何か別の場所。

 部屋のようなもの。

 人の影のようなもの。

 見えたのは一瞬で、焦点が合う前に消えた。


 *(……なんだ、今の)*


 時計を見つめた。

 針はいつも通り、逆向きにゆっくり回っている。

 何も異常はない。


 *(気のせいか)*


 時計をポケットに入れた。

 窓に向かった。


 東京が広がっていた。

 東京タワー。

 レインボーブリッジ。

 品川のビル群。

 富士山のシルエットが、遠くに薄く見えた。

 全部が、冬の朝日に照らされていた。


 *(一年前、俺は無職で、貯金が三万二千円で、毎日パチンコ屋の前を通って帰っていた)*


 *(今、法人の口座には数千万ある。馬主になった。仲間がいる。好きな女がいる。行きつけの店がある)*


 *(全部、この時計のおかげだ)*


 *(でも時計がなくなったら、俺に何が残る?)*


 *(……わからない。でも、今はまだ考えなくていい)*


 *(明日の朝、また時計を握る。温かければ仕事に行く。冷たければ、カフェでコーヒーを飲む)*


 *(それだけだ。それだけで、たぶん十分だ)*


 *(──たぶん、な)*


 窓の前に立ったまま、しばらく東京を眺めていた。

 元旦の朝。

 街が目覚め始めている。

 初詣に向かう人たちの姿が、はるか下の道に点々と見える。


 ポケットの中の時計に触れた。

 温かい。

 まだ温かい。


 この温もりが消えるその日まで、俺は走り続ける。


---


 翌朝、時計を握った。

 温かかった。

 映像が来た。


 ——だが、一瞬だけ、針が逆に動いたように見えた。


---


**── 残高メモ(1巻最終)──**


### 個人資金(桐島遊馬)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(個人) | 約8,186万円 |

| 11〜12月ギャンブル収入(ぼやけビジョン・控えめ運用) | +約650万円 |

| 個人費用(11〜12月・引越し含む) | ▲約40万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約8,796万円** |


### 法人資金(KY Holdings)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(法人) | 約7,320.6万円 |

| アプリ収入(11〜12月分・会員増加) | +約890万円 |

| 賃料収入(11〜12月分) | +約85.6万円 |

| 法人経費(11〜12月分・役員報酬/人件費/家賃等) | ▲約1,740万円 |

| 育成預託料(八十七番・11〜12月分) | ▲約30万円 |

| タワマン初期費用・敷金等 | ▲約200万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約6,326.2万円** |


*【2章へ続く】*


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ