第24話 〜1年〜
十一月の雨は、冷たかった。
月曜日の朝、山下さんが三枚のファイルを机の上に置いた。
「桐島さん、先日お話しした件ですが、三つの物件をご用意させていただきました」
「お、早いですね。ありがとうございます」
ファイルを開いた。
一つは六本木。
一つは麻布十番。
もう一つは港区。
三物件とも、タワーマンションだった。
「法人社宅として契約する場合、かなりの節税効果が期待できます」
山下さんがペンで資料の一箇所を指した。
港区の物件。
五十階。
三LDK。
月額百二十万円。
「法人が半額を負担しますので、実質的な個人負担は六十万円となります。現在の南青山の五十五万円との差は、わずか五万円でございます」
「五万円の差で五十階か。景色が桁違いだろうな」
「左様でございます。さらに、将来的な資産価値の上昇も見込めます」
写真を見た。
一面のガラス張り。
東京湾が見える。
レインボーブリッジ。
遠くに千葉の街並み。
「山下さん、これ、見に行ってもいいですか」
「もちろんでございます。本日午後二時に案内が可能だと、仲介業者から連絡が来ております」
「仕事早すぎません?」
「桐島さんが即決される性格であることは、もう存じておりますので」
山下さんが淡々と言った。
冗談のつもりなのか本気なのかわからない。
俺は少しだけ笑った。
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午後二時。
吉野さんの運転で港区へ向かった。
タワーマンションのロビーに足を踏み入れた時、空気が変わった。
大理石の床。
天井まで届く白い柱が両側に立っている。
奥にはコンシェルジュのカウンターがあり、制服を着た女性が深々と頭を下げた。
「本日のご来館、ありがとうございます」
エレベーターはカードキー方式だった。
案内人の不動産仲介業者の女性が、カードを読み取り機にかざす。
エレベーターが動き出した。
上昇の感覚がほとんどない。
無音。
数字だけが上がっていく。
十階。
二十階。
三十階。
四十階。
「今回の物件は、非常に人気の高いユニットでございます。先日も同じフロアを見に来られた方がいらっしゃいまして、IT企業の代表の方でした」
「ヘえ、そういう方々が多いんですか」
「ええ。経営者の方が中心のフロアになっております」
*(ああ。俺はこの世界に入ろうとしてるんだ。IT企業の社長と同じフロア。九ヶ月前は三万二千円の男が)*
五十階。
扉が開いた。
廊下は静かだった。
足音が響かない。
カーペットが厚い。
案内人が鍵を開けた。
室内に入る。
玄関を抜けると、広いリビングが目の前に広がった。
息が止まった。
ガラス張りの窓。
床から天井まで。
その向こうに、東京全体が見えた。
レインボーブリッジが光っている。
東京湾が広がっている。
品川のビル群。
六本木ヒルズ。
東京タワー。
スカイツリー。
全部が、この窓の向こうにあった。
全部が、俺の足元にあった。
「……すごいですね、これ」
思わず声に出た。
案内人が微笑んだ。
「皆さん、この窓の前で足が止まられます」
「止まりますよ、これは」
俺は窓の前から動けなかった。
*(これは、景色が違うんじゃなくて。俺の見える世界の高さが変わるってことなんだ)*
南青山の二LDKからは、表参道の街並みが見えた。
それは悪くない景色だった。
だが、ここから見える東京は、別の世界だった。
街全体が模型のように小さく見える。
人も、車も、ビルも。
全部が、この窓の下にある。
一つ一つの部屋を見て回った。
リビング。
ダイニングキッチン。
主寝室。
ゲストルーム。
バスルーム。
どの部屋も広い。
天井が高い。
窓が大きい。
バスルームには窓がついていた。
湯船に浸かりながら、東京の夜景が見える。
*(風呂から夜景って。ドラマかよ。いや、ドラマよりすごいかもしれない)*
「これ、バスルームに窓あるんですね。入浴しながら夜景見るんですか」
「はい。贅沢な時間の使い方として、人気の設備でございます」
「贅沢ですね、さすがに」
案内人が各設備の説明をしている。
二十四時間コンシェルジュ。
フィットネスジム。
ゲストルーム。
宅配ボックス。
ゴミは各階のダストシュートに入れるだけ。
ゴミ出しの曜日を気にする必要がない。
南青山の生活とは、何もかもが違う。
案内は一時間で終わった。
契約はまだだ。
「検討中」という体で、俺と吉野さんはビルを後にした。
エントランスを出ると、夕方の空気が肌に触れた。
十一月の風。
冷たい。
だが清々しい。
吉野さんがドアを開けてくれた。
車に乗り込む。
「吉野さん」
「はい」
「……いい場所でしたね」
「はい。立派な物件でした」
「吉野さん、あそこ、どう思いました?」
「私がお答えする立場ではないかもしれませんが」
「いや、聞きたいんで」
吉野さんはバックミラー越しに一瞬こちらを見て、少しだけ間を置いた。
「……桐島さんには、ふさわしいと思います」
「それはお世辞?」
「私はお世辞を言いません」
「ですよね。ありがとうございます」
バックミラーの中で、吉野さんの目が少しだけ柔らかくなったように見えた。
俺の中では、もう決まっていた。
——決まっていた、はずだ。
*(でも。月百二十万の家賃。法人負担とはいえ、この金額を毎月払い続けるってことだ。アプリの収益が伸びてる今はいい。でも、もし時計がまた止まったら? 八月のあの四日間みたいに、ビジョンが消えたら? ギャンブルの収入はゼロになる。アプリだって、俺の予測精度が落ちれば会員は離れる。その時、月百二十万の家賃が、首に巻きつく)*
胸の奥に、冷たいものが触れた。
恐怖ではない。
もっと静かなもの。
足元がふわふわするような、地面のない場所に立っている感覚。
*(九ヶ月前まで三万二千円で暮らしてた人間が、月百二十万の部屋に住む。これは成功なのか。それとも、落ちた時の高さを自分で積み上げてるだけなのか)*
窓の外の東京が、一瞬だけ遠く見えた。
---
その夜、アンちゃんが南青山に来た。
最近は週に三、四回、こうして夜に来るようになっていた。
仕事を終えて、化粧を落として、素の状態で来る。
ルーナの「アンちゃん」ではなく、水沢アンとして、ここにいる。
俺はスマートフォンでタワーマンションの写真を見せた。
「え?」
アンちゃんの目が画面に釘付けになった。
次々とスライドさせる。
ロビー。
エレベーター。
廊下。
リビング。
そして、あの窓からの景色。
「ここに引っ越すの?」
「うん、ほぼ決めてる」
アンちゃんはスマートフォンを持ったまま、しばらく黙っていた。
画面の中の東京湾の夜景を見つめている。
「……すごい景色だね」
その声は、いつもの調子ではなかった。
底に冷たいものが混じっていた。
感嘆ではない。
何か別の感情。
「ねえ、遊馬くん」
「ん、どうした」
「私さ、最近思うんだけど」
アンちゃんが俺の横に座った。
膝はくっつけていない。
少しだけ距離がある。
「遊馬くんってどんどん遠くに行く感じがする」
「遠くって?」
「なんか……追いつけないなって」
その言葉は、突然だった。
だが、唐突ではなかった。
アンちゃんの中で、ずっと溜まっていたものが、今、言葉になったのだ。
彼女の手がほんの少し震えていた。
膝の上で丸めている。
俺はその手に気づいて、黙って握った。
「追いつくとか追いつかないとか、そういうのじゃないと思うけどな」
「でも、場所がさ。もう別の世界じゃん」
「場所な」
俺は少し考えた。
正解はわからない。
でも、適当な言葉で流していいシーンでもない。
「場所は変わるかもしれないけど。俺がアンちゃんに会いに来るのは変わんないよ。来ていいって言ってくれる限り」
「……遠くまで?」
「タクシーで十分だろ」
少しだけ笑いが欲しかった。
アンちゃんは一瞬だけ息を漏らすように笑った。
でも、目はまだ笑っていなかった。
「ほんとは怖いんだ、私」
「何が」
「ついてけなくなる自分が怖い。遊馬くんが悪いんじゃなくて、私が、勝手に」
俺はアンちゃんの頭を一度だけ、ぽんと軽く撫でた。
「ついてこなくていいって。並んで歩けばいいだろ」
アンちゃんは顔を上げた。
笑った。
いつもの笑顔。
だが、その奥に違う感情が隠れていた。
寂しさか。
不安か。
あるいは、予感か。
「うん。そうだね」
その夜、アンちゃんは朝まで俺のそばにいた。
翌朝、卵焼きと味噌汁を作ってくれた。
甘い卵焼きと、わかめの味噌汁。
いつもと同じメニュー。
いつもと同じ朝。
だが、何かが確実に変わり始めていた。
変わっているのは景色だけではなかった。
俺とアンちゃんの間にある空気が、少しずつ温度を失っている。
それに気づいていないふりをしている自分がいた。
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十一月に入ってから、事業は順調だった。
アプリの有料会員は着実に増えている。
小林さんが新機能を実装した。
レースのリアルタイム速報機能。
橘さんのデータ分析と連動して、レース中にも予測が更新される仕組みだ。
ユーザーの反応は良好だった。
西村はマーケティング施策を次々と打ち出していた。
SNSの広告運用。
プレスリリース。
競馬系YouTuberとのコラボレーション。
フォロワー数もダウンロード数も、右肩上がりのグラフを描いていた。
山下さんは、相変わらず数字を追っていた。
月次のレポート。
経費の管理。
税務の対応。
表に出ることは少ないが、山下さんがいなければ会社は一週間で混乱する。
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十一月中旬。
時計がぼやけた。
二日連続。
八月のあの四日間ほどの激しさではなかった。
完全に消えたわけではない。
ぼやけているだけだ。
だが、八月の記憶が蘇った。
あの四日間の恐怖。
時計が応えてくれず、手が震え、眠れなかった夜。
ギャンブルは控えた。
確度が不安定な時に大きな勝負はしない。
その代わり、仕事に集中した。
アプリの有料会員が四千五百人を超えた。
月額の収入は約四百万に達していた。
橘さんのXフォロワーは四万人。
小林さんの開発チームには外部のフリーランスが一人加わった。
事業は確実に成長していた。
橘さんの行動は、相変わらず不規則だった。
早退が続いている。
インターネットカフェのレシートが経費に上がってくる。
何が起きているのか、俺にはまだわからなかった。
だが、深追いはしなかった。
十一月の末。
タワーマンションの契約書にサインした。
ペンを置いた瞬間、指先が震えた。
*(サインした。月百二十万。年間千四百四十万。ビジョンがぼやけてる今、この契約書にサインする自分は、正気なのか)*
山下さんが隣で書類を確認している。
落ち着いた表情。
数字の裏付けがある人間の顔だ。
山下さんの計算では問題ない。
アプリの収益だけで十分にカバーできる。
*(でも、山下さんは知らない。俺の収入源の根幹が、ポケットの中の時計一つに依存していることを。その時計が、今まさに不安定になっていることを)*
仲介業者が「おめでとうございます」と言った。
俺は笑って頷いた。
喉の奥に、何か硬いものがつかえていた。
引っ越しは十二月。
南青山の最後の夜。
アンちゃんが来た。
何も言わなかった。
いつもと同じように横に座って、テレビを見て、一緒に寝た。
だが、抱きしめる腕がいつもより少し長く、少し強かった。
*(また、景色が変わる。この半年で何度、景色が変わっただろう。アパートから南青山へ。南青山からタワーマンションへ。上がり続けている。高くなり続けている。その先に、この子がいるのか。それとも、ここに取り残されるのか)*
答えは出なかった。
出さないようにした。
時計は未来のレース結果は見せてくれるが、人の心の行方は教えてくれない。
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十二月二十八日。
忘年会。
赤坂の居酒屋。
西村の知り合いが経営している店だった。
個室を借り切った。
KY Holdingsの全員が揃うのは、設立以来初めてだった。
遊馬、西村、山下さん、橘さん、小林さん、吉野さん。
六人がテーブルを囲んでいる。
一年前、この光景は存在しなかった。
一年前の今頃、俺は一人でカップ麺を食べていた。
唐揚げ。
枝豆。
冷奴。
刺身の盛り合わせ。
焼き鳥。
テーブルの上に料理が並んでいる。
「いやー、やばかったなこの一年」
西村が三杯目のビールを傾けながら言った。
声が大きい。
西村は酒が入ると声が大きくなる。
「会社作って、アプリ出して、馬まで買ってさ。普通に考えたら狂ってるよな」
「狂ってるかもな、確かに」
「だろ?」
「でも、狂ってる方が面白いだろ、人生」
「おっ、遊馬が哲学者みたいなこと言ってるぞ」
「うるせえよ」
西村は笑った。
「来年はもっとやばいぞ。俺、来年の目標もう考えてあるんだ」
「何だよ、言ってみろ」
「海外展開。アプリの英語版。橘さんのデータは海外でもウケるって」
「海外か。大きく出たな」
「あとさ、大田区の方の話も、年明けに本格的に動くだろ」
西村がさらっと付け加えた。
俺は一瞬、グラスを持つ手を止めた。
金属加工工場のことだ。
あの話、夏から何度か親父さんと顔を合わせて、だいぶ空気が温まってきていた。
「あっちも年明けには結論出す時期だな」
「アプリと馬と工場って、完全に脈絡ねえけど。でも、遊馬が興味持った話って大体当たってるからなあ」
「まだ当たるとは限らねえぞ」
「いや、当たるって。俺、そっち方面の勘だけは自信ある」
「何で西村の勘になるんだよ」
会話の横で、山下さんが静かに一度だけ頷いた。
来年の事業計画の資料に、あの工場の件もすでに仕込んである、という合図だ。
「橘さんどうですか、英語版。勝負できると思います?」
橘さんがグラスを持ったまま、微かに頷いた。
だが目はスマートフォンに向いていた。
画面を確認するたびに、表情がわずかにこわばる。
「……データは、国境関係ないので。理屈の上では、いけると思います」
「理屈の上では、な。橘さんらしい言い方だ」
俺が言うと、橘さんはかすかに笑った。
だがすぐにまたスマホを確認した。
小林さんは静かに唐揚げを食べていた。
黙々と。
時々、小さくビールを口に運ぶ。
会話には加わらないが、聞いてはいる。
「小林さん、今日は食ってますね」
「ええ。唐揚げ、好きなんです」
「覚えとく。次の慰労会、唐揚げ屋で予約する」
「ありがたいです」
小林さんは短く答えて、また唐揚げに手を伸ばした。
山下さんはグラスをゆっくり回していた。
氷がカラカラと鳴っている。
吉野さんはウーロン茶だった。
運転手だ。
帰りも運転する。
「吉野さん、食ってください。遠慮しないで」
「頂いております」
「もっと食ってください。今日は会社の金で飲み食いする日なんで」
「承知しました」
吉野さんが静かに刺身に手を伸ばした。
二時間が過ぎた頃だった。
「あ、すみません」
橘さんが立ち上がった。
「今日は先に失礼させていただきます。少し、用事がありまして」
「お疲れ様です、橘さん。気をつけて」
「お疲れ様です」
西村が手を振った。
橘さんは全員に会釈して、部屋を出た。
その背中を、山下さんが見ていた。
数秒の沈黙。
山下さんがポケットから小さなノートを取り出した。
ペンで一行、何かを書いた。
そしてノートをポケットに戻した。
「山下さん、何書いてんすか」
西村が聞いた。
「メモです」
「何のメモ?」
「後で確認するための」
「なんか秘密めいてますね」
「秘密ではございません」
西村はそれ以上聞かなかった。
山下さんの「メモ」が何を意味するのか、西村にはわからなかっただろう。
だが俺にはわかった。
山下さんはずっと橘さんを見ていた。
橘さんの変化を記録していた。
*(山下さんが動く時は、動く理由がある。今はまだ動かない。でも、いつか動く。その時が来たら、俺は知ることになる。橘さんに何が起きていたのかを)*
ビールを飲んだ。
泡が消えかけていた。
ぬるくなっている。
忘年会は十一時過ぎに終わった。
西村は最後まで騒いでいた。
小林さんは静かに片付けを手伝った。
山下さんは勘定を済ませていた。
吉野さんがアルファードで皆を送った。
一人になった車の中で、窓の外を見た。
年末の東京。
イルミネーションが街を彩っている。
赤坂から港区へ。
街灯とネオンが流れていく。
*(一年が終わる。長かったのか、短かったのか。多分、両方だ)*
---
十二月三十一日。
大晦日。
タワーマンションの五十階から、冬の夜道に出た。
息が白い。
十二月の東京。
空気が乾いている。
ふくろうまでの道のりは変わっていなかった。
住所が変わっても、行く場所は変わらない。
同じ路地。
同じ街灯。
同じ看板。
店に入ると、福田さんと和代さんがカウンターにいた。
常連客が数人。
静かな大晦日だった。
テレビではどこかの年末特番がやっていたが、音は小さく絞ってある。
桑原さんがいつもの席にいた。
本を読んでいる。
翻訳の原著だろうか。
分厚い洋書。
ページをめくる手が、カウンターの灯りに照らされている。
「遊馬くん、今年もお疲れ様」
福田さんが声をかけてきた。
「福田さんも、和代さんもお疲れ様でした。今年一年、本当にお世話になりました」
「改まってどうした」
「いや、節目なんで。ちゃんと言いたくて」
「遊馬くんは真面目だな」
福田さんが笑った。
和代さんも笑った。
カウンターに座った。
桑原さんとは少し離れた席。
でも、声は届く距離。
ハイボールが出てきた。
頼んでいない。
いつもの。
一口飲んだ。
氷が鳴った。
桑原さんが本を閉じた。
栞を挟んで、こちらを見た。
「遊馬さん。この一年で、何が変わりましたか」
唐突な問いだった。
でも、驚かなかった。
この人は、こういう問いかけをする人だ。
少し考えた。
「……全部、ですかね」
「全部?」
「住む場所も、仕事も、会う人も。全部変わりました」
グラスの中の氷が溶けて、カラン、と音を立てた。
「でも、ここには来てくれますね」
桑原さんの声は静かだった。
「ここは変わってほしくないんで。俺が来なくなったら終わりだと思ってます」
「大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃないです、本当に」
桑原さんが微かに笑った。
その笑みの中に、安堵のようなものが見えた。
「お前ら、年越しそばでも食うか」
福田さんがカウンターの向こうから声をかけた。
「お願いします」
桑原さんが答えた。
「俺も」
しばらくして、温かい蕎麦がカウンターに置かれた。
湯気が立ち上っている。
出汁の香りが鼻をくすぐった。
二人で、静かに食べた。
話す必要はなかった。
蕎麦を啜る音。
箸が器に当たる音。
カウンターの向こうで福田さんがグラスを磨いている音。
常連客の低い笑い声。
外から微かに聞こえる除夜の鐘。
年越しの空気が、店の中に満ちていた。
蕎麦を食べ終えた。
出汁が温かかった。
胃の中に染み渡る。
「ごちそうさまでした」
桑原さんが先に言った。
俺も続いた。
「ごちそうさまでした。美味かったです」
「遊馬さん、来年もよろしくお願いします」
桑原さんがそう言った。
声は静かだったが、確かな温度があった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
福田さんが遠くから声をかけた。
「あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます」
時計を見た。
日付が変わっていた。
一月一日。
ふくろうを出た。
冬の夜道。
息が白い。
桑原さんと並んで歩いた。
途中まで同じ方向だった。
「寒いですね」
「そうですね。遊馬さんは薄着ですね」
「体温高いんで、意外と平気です」
「ずるいですね、そういうの」
桑原さんが小さく笑った。
「それでは」
桑原さんが立ち止まった。
角のところで。
「また、ふくろうで」
「はい。また。良いお正月を」
「遊馬さんも」
桑原さんは小さくお辞儀をして、反対方向に歩いて行った。
コートの背中が、街灯の下で小さくなっていく。
俺はしばらく、その背中を見ていた。
---
一月一日。
元旦の朝。
目を覚ました。
タワーマンション、五十階。
窓から朝日が差し込んでいた。
東京が金色に染まっている。
元旦の朝。
街が静まり返っている。
車も人も少ない。
ビルだけが光を受けて立っている。
一人だった。
ナイトテーブルから時計を取った。
翠色の金属。
逆向きの針。
握った。
温かかった。
映像が来た。
鮮明だった。
ここ数ヶ月で一番、はっきりとしていた。
*(……来た。ちゃんと鮮明だ。レースが見える。馬の名前も読める。配当も読める。かつてのクリアさが、戻ってる。八月のあの四日間も、その後のぼやけも、全部嘘だったみたいに)*
安堵した。
胸の奥が緩んだ。
体中の力が抜けていくような感覚。
知らず知らずのうちに、ずっと体に力が入っていたのだと気づいた。
鮮明さが戻った。
それだけで、世界が違って見える。
窓から差し込む朝日が、いつもより明るく感じた。
だが。
ほんの一瞬だけ。
映像が別のものに変わった。
競馬場ではない。
レースでもない。
何か別の場所。
部屋のようなもの。
人の影のようなもの。
見えたのは一瞬で、焦点が合う前に消えた。
*(……なんだ、今の)*
時計を見つめた。
針はいつも通り、逆向きにゆっくり回っている。
何も異常はない。
*(気のせいか)*
時計をポケットに入れた。
窓に向かった。
東京が広がっていた。
東京タワー。
レインボーブリッジ。
品川のビル群。
富士山のシルエットが、遠くに薄く見えた。
全部が、冬の朝日に照らされていた。
*(一年前、俺は無職で、貯金が三万二千円で、毎日パチンコ屋の前を通って帰っていた)*
*(今、法人の口座には数千万ある。馬主になった。仲間がいる。好きな女がいる。行きつけの店がある)*
*(全部、この時計のおかげだ)*
*(でも時計がなくなったら、俺に何が残る?)*
*(……わからない。でも、今はまだ考えなくていい)*
*(明日の朝、また時計を握る。温かければ仕事に行く。冷たければ、カフェでコーヒーを飲む)*
*(それだけだ。それだけで、たぶん十分だ)*
*(──たぶん、な)*
窓の前に立ったまま、しばらく東京を眺めていた。
元旦の朝。
街が目覚め始めている。
初詣に向かう人たちの姿が、はるか下の道に点々と見える。
ポケットの中の時計に触れた。
温かい。
まだ温かい。
この温もりが消えるその日まで、俺は走り続ける。
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翌朝、時計を握った。
温かかった。
映像が来た。
——だが、一瞬だけ、針が逆に動いたように見えた。
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**── 残高メモ(1巻最終)──**
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(個人) | 約8,186万円 |
| 11〜12月ギャンブル収入(ぼやけビジョン・控えめ運用) | +約650万円 |
| 個人費用(11〜12月・引越し含む) | ▲約40万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約8,796万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(法人) | 約7,320.6万円 |
| アプリ収入(11〜12月分・会員増加) | +約890万円 |
| 賃料収入(11〜12月分) | +約85.6万円 |
| 法人経費(11〜12月分・役員報酬/人件費/家賃等) | ▲約1,740万円 |
| 育成預託料(八十七番・11〜12月分) | ▲約30万円 |
| タワマン初期費用・敷金等 | ▲約200万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約6,326.2万円** |
*【2章へ続く】*




