表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/55

第23話 〜引渡し〜


 十月上旬。

 再び新千歳空港。


 今回は山下さんが隣にいた。

 吉野さんは東京で待機。

 向こうでは樋口さんが迎えに来てくれる手筈になっている。


 到着ロビーを抜けると、前回と同じジャケット姿の樋口さんが立っていた。

 隣に、あの運転手も。


「桐島さん、山下さん。お疲れ様です」


「樋口さん、今日もよろしくお願いします」


「いよいよですね」


 樋口さんの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


 車に乗り込んだ。

 日高方面へ。

 十月の北海道は、もう秋の入口にいた。

 東京の空気とは明らかに違う。

 乾いていて、冷たい。

 木々が少しずつ色づき始めている。


「八十七番は、この一ヶ月で体つきがずいぶんしっかりしてきました。担当の方が写真を送ってくれたので、後で見てください」


 樋口さんが助手席から振り向いて説明してくれた。


「今日は、書類のやり取りと、それから本人——いや、本馬との対面です。引渡し後は、しばらくあの牧場で育成を続けていただく予定です」


「手続きは私の方で一式お持ちしております」


 山下さんが静かに言った。

 膝の上のブリーフケース。

 中には引渡し関連の書類一式が入っているのだろう。


 *(……あの鹿毛の子が、いよいよ俺のものになる。セリで札を上げたあの日から、もう三ヶ月近く経ったんだな)*


 窓の外、牧草地が流れていく。

 白い柵。

 遠くに山並み。

 七月に来た時と同じ景色のはずなのに、少しだけ違って見えた。

 俺の方の見え方が、変わったのかもしれない。


---


 生産牧場に到着した。


 前回と同じ事務所。

 前回と同じ柵。

 だが、空気が違う。

 七月の北海道は緑が深く、湿気を帯びていた。

 十月の北海道は乾いていて、どこかピンと張り詰めている。

 遠くの山は、紅葉が始まっていた。


 樋口さんと牧場の担当者が、放牧場の一角に俺たちを案内してくれた。


 柵の向こうに、若い馬が数頭いた。

 そのうちの一頭が、俺の馬だった。


 鹿毛。

 あの日のパドックで見た毛並みのまま。

 三ヶ月分だけ体が大きくなっていた。

 少しだけ脚が伸びていた。

 肩の幅も、以前より広く見える。

 成長している。


 柵に近づいた。


 八十七番はこちらに気づいた。

 耳を立てた。

 ゆっくりと、こちらに向かって歩いてくる。

 怯えていない。

 警戒していない。


 *(覚えてるのか? ……いや、まさか。でも、来てくれた)*


 首筋に手を伸ばした。

 七月にそうしたように。

 今度は、躊躇がなかった。

 毛並みは前より少しだけ硬くなっていた。

 筋肉が育っている証拠だ。


 鼻先が俺の手の甲に触れた。

 息が温かい。


「……お前が、俺の馬か」


 声に出して言った。

 八十七番が、一度だけ頭を振った。

 まるで「そうだ」と言っているように。


 *(阿呆か、俺は。馬が返事するわけないだろ。……でも、そう見えたんだから、仕方ない)*


 樋口さんが柵の外から、微笑んでこちらを見ていた。

 山下さんも、いつもより三ミリほど口元が上がっている。

 珍しい顔だ。


「いい関係になりそうですね」


 樋口さんが言った。


「そう見えますか」


「ええ。馬は賢いですよ。誰が自分の時間を握っているか、わかる子はわかります」


 *(馬の時間を握ってる立場か。……重いな、それは)*


 八十七番の首筋を、もう一度撫でた。

 馬は目を細めて、俺にされるがままだった。

 隣の馬が近寄ってきて、こちらの様子を覗き込んでいる。

 兄弟のような距離感。


 山下さんは柵の外で、じっと二人——いや、一人と一頭の姿を見ていた。

 眼鏡の奥の目が、珍しく、ほんの少しだけ緩んでいる気がした。


---


 事務所に戻って、書類の手続きが始まった。


 生産者の代表、樋口さん、山下さん、俺。

 四人がテーブルを囲んだ。


 引渡し契約書。

 馬主名義変更届。

 育成預託契約書。

 調教厩舎への引合い予定表。

 JRAへの馬名登録用書類。


 山下さんが一枚一枚、内容を読み上げて説明してくれた。

 俺はそれぞれに署名し、印を押した。

 最後の書類に印を押した時、生産者の代表が深々と頭を下げた。


「八十七番を、どうぞよろしくお願いいたします」


 俺も頭を下げた。


「お預かりします。大切にします」


 短い言葉だった。

 だが、それが今、俺が言える全てだった。


 *(お預かりします。……なんだろうな、この言葉。買ったはずなのに、預かっている気がする。馬は物じゃないからかもしれない)*


 樋口さんが静かにうなずいた。

 山下さんは、いつも通り、表情を変えなかった。

 だが、膝の上でブリーフケースを閉じる手つきが、いつもよりほんの少しだけ、丁寧だった。


---


 事務所の奥の小さな応接間に、樋口さんと三人で移った。

 コーヒーが出された。

 樋口さんの分と、俺と、山下さんの分。

 山下さんは一口だけ口をつけて、残りはそのままにしていた。


「桐島さん、一つだけ、口出しさせてください」


 樋口さんが切り出した。

 声は柔らかかったが、目は真剣だった。


「どうぞ」


「馬名は、焦らずに決めてください。九文字以内というルールはありますが、半年ほど猶予がございます。実馬の性格を見てから決める馬主の方も多いです」


「なるほど」


「それから——もう一つ。馬主になると、良い日も、悪い日もあります。走らない時期もある。脚を痛める時もある。その時に慌てないでください。馬は、人間の期待に応えるためだけに走る生き物ではありません」


 樋口さんの言葉が、胸に静かに落ちた。


 *(良い日も、悪い日もある。……ビジョンが来る日と、来ない日と似てるな)*


「肝に銘じておきます」


「いえ、堅く受け取らないでください。あくまで、先輩からの余計な一言です」


 樋口さんが小さく笑った。

 山下さんも、ほんの一瞬だけ、口元を動かした。


---


 帰りの飛行機の中で、山下さんに聞いた。


「山下さん、今日、ありがとうございます。書類、全部お任せして」


「私の仕事でございます」


「いや。俺、書類だけじゃなくて——同席してくれたことが、助かりました」


 山下さんは窓の外に目を向けたまま、しばらく黙っていた。

 そして、小さく言った。


「……光栄でございます」


 それだけだった。

 だが、山下さんがそういう言葉を口にするのは珍しい。


 ポケットウォッチを取り出した。

 裏蓋を開ける。


 景色が流れた。

 だが、やはりぼやけている。

 九月の頭から、もう一ヶ月以上。

 鮮明さは戻らないままだ。

 霧越しに何かを見ているような感覚。


 蓋を閉じた。


 *(時計が教えてくれる景色は、今もぼやけてる。でも、さっき触れた八十七番の毛並みは、はっきりと手の中に残ってる。時計に頼らない世界の手触りが、今、ここにある)*


 窓の外、夕陽に染まる雲海が広がっていた。


---


 十月中旬。

 三軒茶屋の書店に立ち寄った。


 ふくろうに行く前に、少し時間を潰したかった。

 店内をぶらぶらと歩き、ビジネス書のコーナーに辿り着いた。


 棚を眺めていると、黒い表紙の一冊に目が引き寄せられた。


 『国際金融と通商——グローバル時代の資本流動』


 何とも硬そうなタイトルだ。

 翻訳本らしい。

 何気なく手に取った。

 奥付を確認する。

 訳者のクレジット。


 桑原彩花。


 *(……桑原さん?)*


 手が止まった。

 同じ苗字。

 この界隈に住んでいて、この手の本を手掛けている人間。

 偶然とは思えない。


 もう一度、表紙を確認した。

 英語の原著についての記述がある。

 そして、ふくろうで何度も目撃した、彼女の読書習慣。

 いつもカウンターの端で、分厚い英語の本を開いていた。

 あれは趣味だと思っていた。


 本を購入した。


---


 ふくろうに着いた。


 桑原さんはまだ来ていなかった。

 カウンターに座り、ハイボールを頼んだ。

 買ったばかりの本をカウンターに置いた。


 しばらくして、扉が開いた。

 桑原さんが入ってきた。

 紺色のニットを着ている。

 いつもの落ち着いた足取り。


 俺を見て、少し驚いた顔をした。

 俺が本を持っているのが珍しかったのだろう。


「桑原さん、ちょうどよかった」


「遊馬さん、本なんて珍しいですね」


「ええ、今日は特別です」


 俺は本を桑原さんに見せた。

 訳者名の欄を、彼女に向けて開いた。


「これ、桑原さんですよね」


 数秒の沈黙。


 そして、桑原さんがくすりと笑った。

 頬がほんのり赤くなっている。


「……ええ。私です」


 照れている。

 こんな表情を見たのは初めてだった。


「いや、さっき書店でたまたま見つけて。表紙が気になって手に取ったら、奥付に桑原彩花って書いてあって。まさかと思って」


「バレてしまいましたね」


「バレるも何も、隠してたんですか」


「隠していたわけではないんですけど……自分から言うのもなんだか、ちょっと気恥ずかしくて」


 桑原さんは本を手に取って、表紙をそっと撫でた。


「五年前から、やっています」


 桑原さんが話し始めた。

 声はいつもより少し低い。


「英語から日本語への翻訳です。主に経済とビジネスの分野。フリーランスで」


 *(だから、あんなに分厚い英語の本を読んでたのか。趣味じゃなくて、仕事だったんだ)*


「なるほど。だから、いつも分厚い洋書を読んでたんですね」


「はい。原著を何度も読み込まないと、訳せないので」


「カッコいい仕事ですね、純粋に」


「カッコよくはないですよ。地味で、孤独で、締切に追われるだけです」


 桑原さんはそう言って小さく笑った。


「翻訳というのは、誰かの言葉を別の言葉に変える仕事です。でも、完全には変えられない。原著者の思いや、言葉の揺らぎが残る。それを日本語の枠の中に、できるだけ近い形で落とし込む。それが私たちの仕事です」


 *(言葉の揺らぎ、か。俺にはそういう感覚がない。数字と直感の世界にいる人間には、言葉のニュアンスは遠い世界だ。だから、この人の仕事が眩しく見えるのかもしれない)*


「難しそうですね。原著者の意図を曲げずに、でも日本語として読ませるって」


「ええ。でも、その難しさが好きです。別の世界の言葉を、この世界に橋渡しする感覚。それは、やりがいがあります」


「……橋渡しか。いい言葉ですね」


 桑原さんが微かに笑った。

 その笑みには、自分の仕事を誇りに思う人間の光があった。


「これ、サインもらってもいいですか」


 俺は本を差し出した。

 桑原さんの目がわずかに広がった。


「サインなんて、書いたことないですよ」


「訳者のサイン入り、初物ですね」


「……もう、遊馬さんは」


 桑原さんは少しだけ照れた顔をして、ペンを受け取った。


 桑原さんはその後、いつもの席に移った。

 ジンジーニャを頼んで、新しい本を開いた。

 俺は自分のハイボールに口をつけた。


 帰り道。

 秋の夜気が心地よかった。

 手に翻訳本を持っていた。

 扉を開いた中の扉、タイトルページに、控えめな筆跡で小さく「桑原彩花」と書かれていた。


 *(桑原さんが翻訳家だったのか。何度も通ったこのバーで、何度も見た彼女の背中。あの背中は、ただ本を読んでいたんじゃなくて、言葉と格闘していたんだ。……なるほどな)*


 新しい理解が、静かに胸の中に沈み込んでいった。


---


 十月下旬。

 山下さんからの月次レポートが上がった。


 アプリの有料会員数は四千人を超えた。

 着実に成長している。

 賃料収入も安定している。


 だが、山下さんの報告には一つ、気になる点が含まれていた。


「橘の経費報告なのですが」


 山下さんが資料を示した。

 整然と並んだ数字の中に、一項目だけ浮いて見える。


「インターネットカフェでの利用記録が一万二千円ございます」


「……ネカフェ? 橘さんが?」


 俺は眉をひそめた。

 橘さんには社用スマートフォンを持たせてある。

 外出先で作業する必要があれば、スマホで対応できるはずだ。

 わざわざインターネットカフェに行く理由が見当たらない。


「それだけではございません」


 山下さんが続けた。

 声のトーンは変わらない。

 淡々としている。


「ここ一ヶ月で早退が計六回ございます。スマートフォンへの通知も増加傾向です。いつもと異なる行動パターンが見られます」


「六回か。確かに多いですね」


 橘さん。

 データの人間。

 アプリの根幹を支えている男。

 Xのフォロワー管理も、データ分析も、橘さんがいなければ成り立たない。


 だが、最近の橘さんは何かが違う。

 早退。

 ネットカフェ。

 スマホの通知。

 何かが起きている。

 何が起きているのかはわからない。


 先月、西村が金属加工工場の話を持ってきた時も、橘さんはいつも通り静かに同席していた。

 あの時は何も感じなかった。

 だが、最近の橘さんの揺らぎは、業務とは別の何かが原因だ。

 それだけは直感的にわかる。


「山下さん、どう思います。深追いすべきだと思いますか」


「……現時点では証拠もございません。違和感だけで人を問い詰めるのは、組織として健全ではないかと」


「ですよね」


「記録として保存してございます。当面は、様子を見るのが適切かと存じます」


 山下さんの提案だった。

 深追いはしない。

 だが、記録は残す。

 山下さんらしい。


「わかりました。継続して目を光らせておいてください。橘さんには、こちらから直接聞くのは、もう少し後にします」


「かしこまりました」


 短い会話。

 それで件は閉じられた。


 *(西村も、桑原さんも、橘さんも。みんな、俺が知らない面を持っている。俺だって、時計のことは誰にも話していない。人間なんて、全部を見せて生きてるやつはいない)*


 窓の外を見た。

 十月の東京。

 街路樹が色づき始めている。

 緑から黄色へ。

 季節が変わっている。

 会社も変わっている。

 人も変わっている。


 その変化の先に何があるのか、俺にはまだ見えていなかった。


---


**── 残高メモ ──**


### 個人資金(桐島遊馬)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(個人) | 約7,806万円 |

| 10月ギャンブル収入(ぼやけビジョン・控えめ運用・2回) | +約400万円 |

| 個人費用(10月分・北海道往復含む) | ▲約20万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約8,186万円** |


### 法人資金(KY Holdings)


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 前話繰り越し(法人) | 約7,770.8万円 |

| アプリ収入(10月分・会員4,000人) | +約392万円 |

| 賃料収入(10月分) | +約42.8万円 |

| 法人経費(10月分・役員報酬/人件費/家賃等) | ▲約870万円 |

| 育成預託料(八十七番・10月分) | ▲約15万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約7,320.6万円** |


*【第24話へ続く】*


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ