第23話 〜引渡し〜
十月上旬。
再び新千歳空港。
今回は山下さんが隣にいた。
吉野さんは東京で待機。
向こうでは樋口さんが迎えに来てくれる手筈になっている。
到着ロビーを抜けると、前回と同じジャケット姿の樋口さんが立っていた。
隣に、あの運転手も。
「桐島さん、山下さん。お疲れ様です」
「樋口さん、今日もよろしくお願いします」
「いよいよですね」
樋口さんの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
車に乗り込んだ。
日高方面へ。
十月の北海道は、もう秋の入口にいた。
東京の空気とは明らかに違う。
乾いていて、冷たい。
木々が少しずつ色づき始めている。
「八十七番は、この一ヶ月で体つきがずいぶんしっかりしてきました。担当の方が写真を送ってくれたので、後で見てください」
樋口さんが助手席から振り向いて説明してくれた。
「今日は、書類のやり取りと、それから本人——いや、本馬との対面です。引渡し後は、しばらくあの牧場で育成を続けていただく予定です」
「手続きは私の方で一式お持ちしております」
山下さんが静かに言った。
膝の上のブリーフケース。
中には引渡し関連の書類一式が入っているのだろう。
*(……あの鹿毛の子が、いよいよ俺のものになる。セリで札を上げたあの日から、もう三ヶ月近く経ったんだな)*
窓の外、牧草地が流れていく。
白い柵。
遠くに山並み。
七月に来た時と同じ景色のはずなのに、少しだけ違って見えた。
俺の方の見え方が、変わったのかもしれない。
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生産牧場に到着した。
前回と同じ事務所。
前回と同じ柵。
だが、空気が違う。
七月の北海道は緑が深く、湿気を帯びていた。
十月の北海道は乾いていて、どこかピンと張り詰めている。
遠くの山は、紅葉が始まっていた。
樋口さんと牧場の担当者が、放牧場の一角に俺たちを案内してくれた。
柵の向こうに、若い馬が数頭いた。
そのうちの一頭が、俺の馬だった。
鹿毛。
あの日のパドックで見た毛並みのまま。
三ヶ月分だけ体が大きくなっていた。
少しだけ脚が伸びていた。
肩の幅も、以前より広く見える。
成長している。
柵に近づいた。
八十七番はこちらに気づいた。
耳を立てた。
ゆっくりと、こちらに向かって歩いてくる。
怯えていない。
警戒していない。
*(覚えてるのか? ……いや、まさか。でも、来てくれた)*
首筋に手を伸ばした。
七月にそうしたように。
今度は、躊躇がなかった。
毛並みは前より少しだけ硬くなっていた。
筋肉が育っている証拠だ。
鼻先が俺の手の甲に触れた。
息が温かい。
「……お前が、俺の馬か」
声に出して言った。
八十七番が、一度だけ頭を振った。
まるで「そうだ」と言っているように。
*(阿呆か、俺は。馬が返事するわけないだろ。……でも、そう見えたんだから、仕方ない)*
樋口さんが柵の外から、微笑んでこちらを見ていた。
山下さんも、いつもより三ミリほど口元が上がっている。
珍しい顔だ。
「いい関係になりそうですね」
樋口さんが言った。
「そう見えますか」
「ええ。馬は賢いですよ。誰が自分の時間を握っているか、わかる子はわかります」
*(馬の時間を握ってる立場か。……重いな、それは)*
八十七番の首筋を、もう一度撫でた。
馬は目を細めて、俺にされるがままだった。
隣の馬が近寄ってきて、こちらの様子を覗き込んでいる。
兄弟のような距離感。
山下さんは柵の外で、じっと二人——いや、一人と一頭の姿を見ていた。
眼鏡の奥の目が、珍しく、ほんの少しだけ緩んでいる気がした。
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事務所に戻って、書類の手続きが始まった。
生産者の代表、樋口さん、山下さん、俺。
四人がテーブルを囲んだ。
引渡し契約書。
馬主名義変更届。
育成預託契約書。
調教厩舎への引合い予定表。
JRAへの馬名登録用書類。
山下さんが一枚一枚、内容を読み上げて説明してくれた。
俺はそれぞれに署名し、印を押した。
最後の書類に印を押した時、生産者の代表が深々と頭を下げた。
「八十七番を、どうぞよろしくお願いいたします」
俺も頭を下げた。
「お預かりします。大切にします」
短い言葉だった。
だが、それが今、俺が言える全てだった。
*(お預かりします。……なんだろうな、この言葉。買ったはずなのに、預かっている気がする。馬は物じゃないからかもしれない)*
樋口さんが静かにうなずいた。
山下さんは、いつも通り、表情を変えなかった。
だが、膝の上でブリーフケースを閉じる手つきが、いつもよりほんの少しだけ、丁寧だった。
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事務所の奥の小さな応接間に、樋口さんと三人で移った。
コーヒーが出された。
樋口さんの分と、俺と、山下さんの分。
山下さんは一口だけ口をつけて、残りはそのままにしていた。
「桐島さん、一つだけ、口出しさせてください」
樋口さんが切り出した。
声は柔らかかったが、目は真剣だった。
「どうぞ」
「馬名は、焦らずに決めてください。九文字以内というルールはありますが、半年ほど猶予がございます。実馬の性格を見てから決める馬主の方も多いです」
「なるほど」
「それから——もう一つ。馬主になると、良い日も、悪い日もあります。走らない時期もある。脚を痛める時もある。その時に慌てないでください。馬は、人間の期待に応えるためだけに走る生き物ではありません」
樋口さんの言葉が、胸に静かに落ちた。
*(良い日も、悪い日もある。……ビジョンが来る日と、来ない日と似てるな)*
「肝に銘じておきます」
「いえ、堅く受け取らないでください。あくまで、先輩からの余計な一言です」
樋口さんが小さく笑った。
山下さんも、ほんの一瞬だけ、口元を動かした。
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帰りの飛行機の中で、山下さんに聞いた。
「山下さん、今日、ありがとうございます。書類、全部お任せして」
「私の仕事でございます」
「いや。俺、書類だけじゃなくて——同席してくれたことが、助かりました」
山下さんは窓の外に目を向けたまま、しばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「……光栄でございます」
それだけだった。
だが、山下さんがそういう言葉を口にするのは珍しい。
ポケットウォッチを取り出した。
裏蓋を開ける。
景色が流れた。
だが、やはりぼやけている。
九月の頭から、もう一ヶ月以上。
鮮明さは戻らないままだ。
霧越しに何かを見ているような感覚。
蓋を閉じた。
*(時計が教えてくれる景色は、今もぼやけてる。でも、さっき触れた八十七番の毛並みは、はっきりと手の中に残ってる。時計に頼らない世界の手触りが、今、ここにある)*
窓の外、夕陽に染まる雲海が広がっていた。
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十月中旬。
三軒茶屋の書店に立ち寄った。
ふくろうに行く前に、少し時間を潰したかった。
店内をぶらぶらと歩き、ビジネス書のコーナーに辿り着いた。
棚を眺めていると、黒い表紙の一冊に目が引き寄せられた。
『国際金融と通商——グローバル時代の資本流動』
何とも硬そうなタイトルだ。
翻訳本らしい。
何気なく手に取った。
奥付を確認する。
訳者のクレジット。
桑原彩花。
*(……桑原さん?)*
手が止まった。
同じ苗字。
この界隈に住んでいて、この手の本を手掛けている人間。
偶然とは思えない。
もう一度、表紙を確認した。
英語の原著についての記述がある。
そして、ふくろうで何度も目撃した、彼女の読書習慣。
いつもカウンターの端で、分厚い英語の本を開いていた。
あれは趣味だと思っていた。
本を購入した。
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ふくろうに着いた。
桑原さんはまだ来ていなかった。
カウンターに座り、ハイボールを頼んだ。
買ったばかりの本をカウンターに置いた。
しばらくして、扉が開いた。
桑原さんが入ってきた。
紺色のニットを着ている。
いつもの落ち着いた足取り。
俺を見て、少し驚いた顔をした。
俺が本を持っているのが珍しかったのだろう。
「桑原さん、ちょうどよかった」
「遊馬さん、本なんて珍しいですね」
「ええ、今日は特別です」
俺は本を桑原さんに見せた。
訳者名の欄を、彼女に向けて開いた。
「これ、桑原さんですよね」
数秒の沈黙。
そして、桑原さんがくすりと笑った。
頬がほんのり赤くなっている。
「……ええ。私です」
照れている。
こんな表情を見たのは初めてだった。
「いや、さっき書店でたまたま見つけて。表紙が気になって手に取ったら、奥付に桑原彩花って書いてあって。まさかと思って」
「バレてしまいましたね」
「バレるも何も、隠してたんですか」
「隠していたわけではないんですけど……自分から言うのもなんだか、ちょっと気恥ずかしくて」
桑原さんは本を手に取って、表紙をそっと撫でた。
「五年前から、やっています」
桑原さんが話し始めた。
声はいつもより少し低い。
「英語から日本語への翻訳です。主に経済とビジネスの分野。フリーランスで」
*(だから、あんなに分厚い英語の本を読んでたのか。趣味じゃなくて、仕事だったんだ)*
「なるほど。だから、いつも分厚い洋書を読んでたんですね」
「はい。原著を何度も読み込まないと、訳せないので」
「カッコいい仕事ですね、純粋に」
「カッコよくはないですよ。地味で、孤独で、締切に追われるだけです」
桑原さんはそう言って小さく笑った。
「翻訳というのは、誰かの言葉を別の言葉に変える仕事です。でも、完全には変えられない。原著者の思いや、言葉の揺らぎが残る。それを日本語の枠の中に、できるだけ近い形で落とし込む。それが私たちの仕事です」
*(言葉の揺らぎ、か。俺にはそういう感覚がない。数字と直感の世界にいる人間には、言葉のニュアンスは遠い世界だ。だから、この人の仕事が眩しく見えるのかもしれない)*
「難しそうですね。原著者の意図を曲げずに、でも日本語として読ませるって」
「ええ。でも、その難しさが好きです。別の世界の言葉を、この世界に橋渡しする感覚。それは、やりがいがあります」
「……橋渡しか。いい言葉ですね」
桑原さんが微かに笑った。
その笑みには、自分の仕事を誇りに思う人間の光があった。
「これ、サインもらってもいいですか」
俺は本を差し出した。
桑原さんの目がわずかに広がった。
「サインなんて、書いたことないですよ」
「訳者のサイン入り、初物ですね」
「……もう、遊馬さんは」
桑原さんは少しだけ照れた顔をして、ペンを受け取った。
桑原さんはその後、いつもの席に移った。
ジンジーニャを頼んで、新しい本を開いた。
俺は自分のハイボールに口をつけた。
帰り道。
秋の夜気が心地よかった。
手に翻訳本を持っていた。
扉を開いた中の扉、タイトルページに、控えめな筆跡で小さく「桑原彩花」と書かれていた。
*(桑原さんが翻訳家だったのか。何度も通ったこのバーで、何度も見た彼女の背中。あの背中は、ただ本を読んでいたんじゃなくて、言葉と格闘していたんだ。……なるほどな)*
新しい理解が、静かに胸の中に沈み込んでいった。
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十月下旬。
山下さんからの月次レポートが上がった。
アプリの有料会員数は四千人を超えた。
着実に成長している。
賃料収入も安定している。
だが、山下さんの報告には一つ、気になる点が含まれていた。
「橘の経費報告なのですが」
山下さんが資料を示した。
整然と並んだ数字の中に、一項目だけ浮いて見える。
「インターネットカフェでの利用記録が一万二千円ございます」
「……ネカフェ? 橘さんが?」
俺は眉をひそめた。
橘さんには社用スマートフォンを持たせてある。
外出先で作業する必要があれば、スマホで対応できるはずだ。
わざわざインターネットカフェに行く理由が見当たらない。
「それだけではございません」
山下さんが続けた。
声のトーンは変わらない。
淡々としている。
「ここ一ヶ月で早退が計六回ございます。スマートフォンへの通知も増加傾向です。いつもと異なる行動パターンが見られます」
「六回か。確かに多いですね」
橘さん。
データの人間。
アプリの根幹を支えている男。
Xのフォロワー管理も、データ分析も、橘さんがいなければ成り立たない。
だが、最近の橘さんは何かが違う。
早退。
ネットカフェ。
スマホの通知。
何かが起きている。
何が起きているのかはわからない。
先月、西村が金属加工工場の話を持ってきた時も、橘さんはいつも通り静かに同席していた。
あの時は何も感じなかった。
だが、最近の橘さんの揺らぎは、業務とは別の何かが原因だ。
それだけは直感的にわかる。
「山下さん、どう思います。深追いすべきだと思いますか」
「……現時点では証拠もございません。違和感だけで人を問い詰めるのは、組織として健全ではないかと」
「ですよね」
「記録として保存してございます。当面は、様子を見るのが適切かと存じます」
山下さんの提案だった。
深追いはしない。
だが、記録は残す。
山下さんらしい。
「わかりました。継続して目を光らせておいてください。橘さんには、こちらから直接聞くのは、もう少し後にします」
「かしこまりました」
短い会話。
それで件は閉じられた。
*(西村も、桑原さんも、橘さんも。みんな、俺が知らない面を持っている。俺だって、時計のことは誰にも話していない。人間なんて、全部を見せて生きてるやつはいない)*
窓の外を見た。
十月の東京。
街路樹が色づき始めている。
緑から黄色へ。
季節が変わっている。
会社も変わっている。
人も変わっている。
その変化の先に何があるのか、俺にはまだ見えていなかった。
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**── 残高メモ ──**
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(個人) | 約7,806万円 |
| 10月ギャンブル収入(ぼやけビジョン・控えめ運用・2回) | +約400万円 |
| 個人費用(10月分・北海道往復含む) | ▲約20万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約8,186万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(法人) | 約7,770.8万円 |
| アプリ収入(10月分・会員4,000人) | +約392万円 |
| 賃料収入(10月分) | +約42.8万円 |
| 法人経費(10月分・役員報酬/人件費/家賃等) | ▲約870万円 |
| 育成預託料(八十七番・10月分) | ▲約15万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約7,320.6万円** |
*【第24話へ続く】*




