第22話 〜納税準備〜
九月中旬。
会議室のエアコンが低い音を立てていた。
山下さんがプロジェクターの前に立っている。
スクリーンにはスライドが映し出されていた。
グラフ。
数字。
文字。
この半年間の成果が、一枚のスライドに凝縮されている。
「それでは、会社設立から九ヶ月時点での経営状況をご報告させていただきます」
山下さんの声は平坦だった。
感情の起伏がない。
いつも通りだ。
「まず、アプリ事業です。有料会員数は現在三千二百人。月額収入は約三百十四万円でございます。β版リリースから五ヶ月で、着実な成長を見せております」
スクリーンのグラフが右肩上がりの曲線を描いている。
山下さんがレーザーポインターで線をなぞった。
「次に、不動産賃貸事業。高輪の2LDKと港区の1LDK、計二件が稼働中でございます。月額合計で約四十二万八千円の安定収入がございます」
橘さんがノートにメモを取っている。
ペンの先が紙の上を滑る音が、エアコンの音に混じる。
西村はスマートフォンの画面を見ていた。
おそらくプレスリリースの草案を確認しているのだろう。
「そして現在、馬主登録の審査が進行中でございます。八十七番の引渡しは、登録承認後の予定でございます」
山下さんがスライドを切り替えた。
一枚のまとめスライド。
数字が並んでいる。
アプリ収入、賃料収入、月次経費、社員数、フォロワー数。
九ヶ月分の軌跡。
「全体として——順調です」
その一言で、報告は終わった。
山下さんはプロジェクターの電源を落とした。
部屋が少しだけ暗くなり、蛍光灯の明かりが戻ってきた。
*(順調、か。山下さんがそう言うなら、本当に順調なんだろう。山下さんが「順調です」と言う時は、数字の裏付けがある時だけだ)*
「山下さん、ありがとうございます。いつもながら、ここまでよく整理してもらって」
俺は素直に頭を下げた。
山下さんは軽く会釈を返した。
「いえ。桐島さんの判断が的確だったからこその数字です」
西村が椅子の背もたれに体を預けた。
「いやー、いいじゃん。九ヶ月でここまで来たんだ。来年は億超えの売上目指そうぜ」
「気が早いって」
「何言ってんの、遊馬。走れる時に走らないと」
「まあな。でも、足元も固めないと転ぶぞ」
西村はニヤッと笑った。
「そこを山下さんに固めてもらえばいいじゃん」
「おいおい、丸投げかよ」
橘さんがペンを止めた。
「Xのフォロワーが三万一千人になりました。有料版リリースからの流入が多いです」
「三万か。橘さん、もうインフルエンサーだな」
俺が言うと、橘さんは小さく首を振った。
「……私じゃなくて、データがバズっているだけです」
「そのデータを出してるのは橘さんだろ。自分の成果はちゃんと受け取っていいって」
橘さんはわずかに目を伏せた。
何か言いたげにして、結局「……はい」とだけ呟いた。
会議が終わった後、俺は事務所の中を見渡した。
西村がデスクに戻って、プレスリリースの草案を仕上げている。
画面に向かいながら、時折小さく声に出して文章を読んでいる。
楽しそうだ。
西村は文章を書くのが好きなのかもしれない。
営業とマーケティングの両方をこなす西村にとって、プレスリリースは自分の言葉で会社を世に出す作業だ。
橘さんはXの投稿を準備していた。
パソコンの画面にはグラフが並んでいる。
今週のレースデータの分析だろう。
フォロワー三万人。
この数字を橘さん自身が一番驚いている。
投稿の文面を何度も書き直している。
データの人間は、言葉の選び方にも正確さを求める。
小林さんは開発室にいた。
会議には参加していない。
こちらの声が聞こえているはずだが、反応はない。
モニターに向かって、黒い画面に白い文字が流れている。
コードの世界に没入している。
小林さんにとって、会議よりもコードの方が大切だ。
それでいい。
吉野さんは駐車場にいた。
午前中からアルファードを洗車していた。
ホースから水が流れる音が、窓の向こうから聞こえていた。
丁寧に。
いつも丁寧に。
ボディの一面一面を、布で拭いている。
車を大切にする男は、仕事も大切にする。
吉野さんはそういう男だ。
*(九ヶ月前、この事務所には誰もいなかった。俺一人だった。それが今は、五人いる。六人だ、俺も入れれば。それぞれが自分の仕事をしている。それぞれが自分の居場所を持っている)*
その風景を見て、俺は少しだけ安堵した。
時計のことも、ビジョンのことも、税金のことも、一瞬だけ忘れられた。
---
会議の翌日、西村が資料を持ってきた。
A4の紙が五枚ほど。
写真も印刷されている。
古い町工場の外観。
錆の浮いた看板。
内部の機械。
「例の金属加工の工場な。親父さんに会ってきた」
「早いな」
「遊馬が興味あるって言ったから、動かないわけにいかねえじゃん」
西村は椅子を引いて、俺の向かいに座った。
「場所は大田区。従業員十四人。旋盤とマシニングセンタ中心。親父さんは七十二歳、息子は別業界で働いてて戻る気ゼロ。二十年前は医療機器メーカーの試作を請けてて、シャフト系の精度は業界でも指折りだったらしい」
「二十年前、な。今は?」
「今は下請けの下請け。薄利多売で食いつないでる。ただ、親父さん、技術者としての誇りはまだ残ってる。会ってみりゃわかるけど、手の感覚がすげえ人だよ」
「値段は?」
「親父さんはまだ売値を口にしてない。でも、後継ぎ不在で精神的に限界に近い。本音では、技術を潰したくないんだと思う。金じゃなくて、続けてくれる相手を探してる感じ」
*(金じゃなく、続けてくれる相手。……妙な話だな。でも、悪くない響きだ)*
「遊馬、俺は買いだと思ってる。ただ、アプリとも馬主ともシナジーがねえ。完全に別事業だ。ここで手を広げるのは、会社としてリスクがあるのも事実」
「山下さんは何て?」
「まだ話してない。遊馬が『会う』って言ったから、遊馬に先に見せた」
「……わかった。親父さんに会ってみる。話はそれからだ」
「了解」
西村はそれだけ言って、自分のデスクに戻った。
資料は俺のデスクの引き出しに入れた。
閉じる音が、思ったより重く響いた気がした。
*(金属加工。医療機器の試作。……なぜこんなに引っかかるんだろうな。時計が反応してるわけでもないのに)*
---
その日の夕方、ふくろうに寄った。
カウンターに座ると、福田さんがグラスを置いてくれた。
ハイボール。
頼んでいないのに、出てくる。
もう注文しなくても出てくるようになった。
いつからだろう。
「さすがですね、福田さん。頼む前に出てくる」
「何年来てると思ってんだ、遊馬くん」
「そう言われると、もう半年以上ですかね」
福田さんはグラスを磨きながら言った。
「遊馬くん、最近忙しそうだな」
「まあ、そうですね。ありがたいことに」
「忙しいのはいいことだ。でも、たまには何もしない日も作りなよ」
「考えときます。……本当に考えます」
福田さんは小さく笑った。
俺も笑い返した。
奥のカウンターに、桑原さんがいた。
いつものコーナー席。
いつものように本を読んでいる。
分厚い洋書。
ページをめくる指が細い。
目が合った。
桑原さんが小さくうなずいた。
俺も小さくうなずき返した。
言葉は必要なかった。
このやり取りだけで、何かが通じている。
安心するような、落ち着くような、そういう感覚。
*(こういう場所がある。こういう人がいる。それだけで、たぶん大丈夫だ)*
ハイボールの氷が鳴った。
窓の外は九月の夕暮れ。
日が落ちるのが少しずつ早くなってきている。
夏の終わりの空気。
---
八月後半と九月は、控えめにギャンブルをしていた。
ビジョンは戻ったまま、毎朝温かい。
だが、あのクリスタルのような鮮明さは、もう戻っていなかった。
焦点が甘い。
輪郭がぼやける。
文字が霞む。
見えるけれど、以前ほどはっきりとは見えない。
だから、勝負は絞った。
確度が高いレースだけを選んだ。
八月末は平和島競艇場。
単勝で的中。
約百二十万。
九月上旬は浦和競馬場。
三連単。
約百八十万。
合計で三百万。
控えめだが、確実に取れる勝負だけを選んだ。
*(以前なら、もっと攻めてた。でも今はビジョンの精度が落ちてる。だから堅実に行く。……堅実に行くしかない)*
---
九月某日。
朝。
目が覚めて、枕元の時計を握った。
温かい。
いつものように。
蓋を開ける。
景色が流れ込んでくる。
やはり、ぼやけている。
五日目の朝から一ヶ月。
焦点の甘さも、輪郭の揺らぎも、全く戻らない。
毎朝、同じだ。
見えるけれど、はっきりとは見えない。
競馬場の看板が霞み、ゼッケンの番号は目を凝らさなければ読めない。
*(一ヶ月経っても、鮮度は戻らないか)*
八月中旬のあの四日間。
完全に音沙汰のなかった四日間。
あの恐怖の直後に、ぼやけた状態でビジョンが戻ってきた。
その時は、戻っただけで安心した。
だが、一ヶ月経って、この状態が新しい常態なのだと、少しずつ受け入れ始めていた。
大井競馬場。
おそらく三レース目。
馬の番号は……一番か。
配当は読み取れない。
だが、レース場の形と馬の位置関係から、おおよその情報は判別できた。
*(まだ来てる。まだ読める。完全に消えたわけじゃない。それだけで十分だ)*
自分に言い聞かせた。
手のひらの時計を握り直した。
金属の感触。
温度はある。
温度がある、ということは、まだ繋がっている、ということだ。
蓋を閉じた。
ベッドから出た。
シャワーを浴びた。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見た。
目の下にうっすらとクマがある。
最近、眠りが浅い。
夢の中でも時計のことを考えている。
応えてくれない夢。
手を伸ばしても届かない夢。
目が覚めると、枕元の時計を真っ先に握っている。
朝食は取らなかった。
カフェに寄った。
いつもの席。
カウンター。
エスプレッソを注文した。
バリスタの手が動く。
いつもと同じ動作。
安定した手つき。
迷いのない動き。
「おはようございます」
バリスタが笑顔を向けてくれる。
「おはようございます。今日は外、暑そうですね」
「ええ、まだまだ暑いですね。冷たいお水お出ししますね」
俺の手は微かに震えていた。
カップを持つ指先が、わずかに揺れている。
それに気づいてカップを両手で包んだ。
黒い液体の表面が落ち着く。
苦い。
いつもより苦い。
*(気のせいだ。コーヒーの味は変わっていない。変わったのは俺の方だ)*
---
事務所。
午前十時。
山下さんが書類を持ってきた。
いつもより若干、表情が硬い。
山下さんの表情が硬くなるのは、金の話をする時だ。
それも、大きな金の話。
「桐島さん、本日は決算に向けた納税見込みのご報告でございます」
山下さんがノートパソコンの画面をこちらに向けた。
スプレッドシート。
数字が並んでいる。
山下さんが独自に組んだ試算表だった。
「第一期の決算が近づいておりますので、法人税等の納税見込み額を試算いたしました」
山下さんがセルを指差した。
一千二百万円。
*(いち、にひゃく、まん。いっせんにひゃくまん。……マジか)*
「設立から九ヶ月間の当期利益が四千万円を超えておりますので、決算時にはこの程度の納税が見込まれます」
山下さんの説明が続く。
アプリの収益。
賃料収入。
そして、法人側の諸経費との配分調整。
利益に対して、法人税・事業税・住民税を合算すると、概算で三割近い額になる。
*(稼いだ金の三割が消える。ギャンブルで稼いで、税金で持っていかれる。なんだこれは。いや、わかってる。わかってるけど、実際に数字を見せられると、重い)*
「……なるほど。重いですね、やっぱり」
俺は素直に口に出した。
強がる意味もない。
「はい。ただ、健全な数字ではございます」
山下さんは淡々と言った。
理屈は理解していた。
会社設立の時点で、山下さんから税務の仕組みについてはレクチャーを受けていた。
法人税。
事業税。
住民税。
消費税。
所得税。
社会保険料。
あらゆる方向から金が抜かれていく。
知識としては知っていた。
だが、一千二百万という数字を目の前に置かれると、知識と実感は別物だと思い知らされた。
「決算月に向けて、納税資金を確保しておく必要がございます。口座の残高管理にご留意ください」
山下さんが顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、こちらを見ている。
確認を取っている。
「わかりました。口座はしっかり管理しておきます」
「承知いたしました」
山下さんは一礼した。
だが、立ち上がる前に、もう一度口を開いた。
「なお、ご参考までに申し上げますと、来年度は更に増加が見込まれます。現在のペースで収益が推移した場合、来期は千五百万から二千万の納税額になる可能性がございます。さらに来期からは、今期の実績に基づいた予定納税——いわゆる中間申告も発生いたします」
*(今期で一千二百万。来期は二千万。その上に中間申告まで。……考えたくない)*
「……覚悟しときます」
「法人格を保持していることで、個人での納税よりは有利な税率が適用されております。この点、法人化のメリットが発揮されている状況でございます」
「それがなかったら、もっと地獄ってことですよね」
「端的に申し上げれば、そうでございます」
山下さんの補足は、いつもながら的確だった。
個人で同じだけ稼いでいれば、税率はもっと高い。
法人の器があるからこそ、まだマシな数字に収まっている。
だが、その「マシ」が一千二百万なのだ。
---
その日の午後。
橘さんが珍しく、仕事に関係のない話をしてきた。
開発室。
小林さんはコードを書いている。
西村は外出中。
橘さんと俺、二人きりの空間。
「桐島さん」
「はい、橘さん」
「一つ、聞いてもいいですか」
橘さんの声はいつもの冷静なトーンだった。
だが、微かに何かが違う。
声のトーンの奥に、好奇心とは異なる何かが含まれている。
「どうぞ。答えられる範囲でなら」
「……なんで競馬なんですか」
心臓が止まった。
一瞬だけ。
「他にもっと効率のいい投資があると思うんですが。株とか、仮想通貨とか、FXとか。データで見れば、リターンの期待値は別の手段の方が——」
*(気づかれてる? いや……まだだ。推測だ)*
橘さんはデータの人間だ。
数字の整合性には異常に敏感だ。
アプリの収益と賃料収入だけで、本当に四千万の利益が出るのか。
そんな計算を、橘さんはとっくに頭の中で走らせているに違いない。
そして、答えが合わなかったのだ。
数字が合わない。
説明できない差額がある。
だから聞いてきた。
「理由ですか」
「はい」
息を吸った。
静かに吐いた。
「……好きだから、ですね」
短く答えた。
嘘ではない。
「株は、画面の中で数字が動いてるだけじゃないですか。でも競馬場は、音があって、空気があって、馬がいる。俺は、その場にいたい人間なんですよ」
「……」
「効率って言われたら、橘さんの言う通りなんだろうけど。効率だけで選んでないんです、俺は」
橘さんは三秒ほど沈黙した。
そして、小さく頷いた。
だが、完全には納得していない顔だった。
眉間にわずかなしわが寄っている。
データの人間は、「好きだから」という答えでは満足しない。
「……わかりました。変な質問をしてしまいました」
「いえ。気になったら聞いてください。橘さんに隠したいことは、そんなにないので」
最後の言葉は、半分は本当で、半分は嘘だった。
橘さんはそう言って、自分の席に戻った。
パソコンの画面に向き直る。
キーボードを打ち始める。
いつもの橘さんの背中。
*(橘さんが疑い始めた。数字で追ってる。あと何ヶ月で、全部バレるんだろう)*
その思いが、胸の奥に重く沈んでいった。
---
九月下旬。
大井競馬場。
朝の景色を元に、レースを特定していた。
ぼやけてはいるが、大井の三レース目であることは読み取れた。
単勝。
一番の馬。
着差はわからないが、先頭でゴールする画が見えた。
吉野さんの運転で大井に向かった。
午後の日差しが残っている。
車内のエアコンが効いている。
窓の外、首都高速の上から東京湾が見えた。
水面がきらきらと光っている。
お台場のビル群が遠くに霞んでいた。
「吉野さん、今日は少し長くなるかもしれません」
「承知しました。駐車場でお待ちしております」
「まだ日中は暑いんで、エアコンつけて車の中で休んでてください。ガソリン代は経費で落ちますから」
「お気遣いありがとうございます」
吉野さんはバックミラー越しにこちらを見た。
一瞬だけ。
それ以上は何も聞かない。
どこへ行くのか、何をするのか、いくら賭けるのか。
何も聞かない。
吉野さんの沈黙は、信頼の形だ。
大井競馬場に到着した。
駐車場から歩いてゲートに向かう。
夏の名残の日差しが、まだ強い。
アスファルトから陽炎が立ち上っていた。
大井競馬場。
残暑の匂い。
芝の香り。
馬糞の匂い。
焼きそばの匂い。
屋台の煙が立ち上っている。
スタンドには平日にもかかわらず、そこそこの人がいた。
高額窓口に向かった。
単勝。
一番。
金額は大きめにした。
確度は十分にある。
スタンドに上がった。
風が吹いている。
九月の風。
まだ温かい。
三レース目のファンファーレが鳴った。
ゲートが開く。
馬が飛び出す。
一番の馬。
スタートから先頭に立った。
そのまま直線に入る。
後続が迫るが、差は縮まらない。
ゴール。
一着。
一番。
朝見た通りだった。
払い戻し窓口。
本人確認。
約五百万円の払い戻し。
現金で受け取った。
一万円札の束を鞄に入れた。
重い。
物理的に重い。
*(まだ来てる。だから大丈夫だ。時計が応えてくれる限り、俺は稼げる)*
スタンドを降りながら、ふと思った。
回転木馬。
昔、どこかの遊園地で見た子供向けの乗り物。
上がって、下がって、また上がる。
永遠にぐるぐる回り続ける。
競馬で稼いで、税金で持っていかれて、また競馬で取り戻す。
そしてまた税金が来る。
また稼ぐ。
また持っていかれる。
回転木馬。
終わりのない回転。
*(俺の人生、回転木馬みたいだな。降りたくても降りられない。いや、降りたいのか? ……わからない)*
駐車場に戻ると、吉野さんがアルファードの横に立っていた。
エンジンはかかっていない。
暑い中、外で待っていたのか。
車内でエアコンをつけて待てばいいのに。
「あれ、外で待ってたんですか。中で休んでてくださいって言ったのに」
「車が汚れていましたので、拭いておりました」
「真面目だなあ、本当に。……ありがとうございます」
「いえ」
吉野さんがドアを開けてくれた。
車内に乗り込む。
冷房が効いている。
エンジンは切っていたが、俺が近づいてくるのが見えて、先にエアコンを入れておいたのだろう。
帰りの高速道路。
夕方の渋滞に捕まった。
車の列が続いている。
東京湾の向こうに、夕陽が沈んでいく。
オレンジ色の光が海面に散らばっている。
「吉野さん」
「はい」
「いつも、ありがとうございます。俺、言葉にするの下手なんですけど、助かってます。本当に」
バックミラーの中で、吉野さんの目がわずかに動いた。
「……光栄です」
それだけだった。
でも、ハンドルを握る手が、ほんの少しだけ力を緩めたように見えた。
---
その夜。
ふくろうに寄った。
カウンターに座ると、福田さんがいつものようにグラスを磨いていた。
手の動きに迷いがない。
何十年もそうしてきた手つき。
「遊馬くん」
「はい」
「最近、痩せたか?」
そう言われて、初めて気がついた。
*(え。痩せてる? そんなつもりなかったけど)*
鏡を見たのはいつだったか。
三日前か、四日前か。
その時は普通だと思った。
でも、福田さんが言うなら、そうなのかもしれない。
バーテンダーは人の変化に敏感だ。
毎日のように顔を見ている人間の、微かな変化を読み取る。
「……そうですか。自分じゃ気づかなかったです」
「顔の輪郭が違うよ。忙しいんだろうけど、ちゃんと食ってるか?」
「食ってるつもりなんですけどね。気をつけます」
「無理するなよ」
「はい」
それだけ。
余計なことは聞かない。
余計な言葉もない。
福田さんはそういう人で、ふくろうはそういう場所だ。
無理に励まさない。
無理に理由を聞かない。
ただ、いつもの席があって、いつもの酒があって、いつもの人がいる。
それだけで十分な場所。
ハイボールを飲んだ。
炭酸が喉を刺す。
氷が鳴る。
いつもの味。
桑原さんは今日はいなかった。
カウンターの奥のいつもの席は空いていた。
そこに本が一冊置いてあった。
読みかけだろう。
また来るつもりだ。
二杯目を飲み終えて、店を出た。
九月の夜。
まだ蒸し暑い。
東京の残暑は、夜になっても気温がなかなか下がらない。
---
九月三十日の深夜。
自宅。
スマートフォンの画面を見た。
銀行のアプリを開いた。
法人口座の残高が表示された。
七千万台。
今は、この数字だ。
だが、決算を迎えたら——一千二百万が消える。
山下さんの試算が、頭の中に残っていた。
*(七千万のうち、一千二百万は税金用。実際に使える金は、六千万弱)*
見かけの数字と、使える数字は違う。
山下さんが言いたかったのは、そういうことだ。
*(……また稼げばいい。時計が応えてくれる限り)*
その言葉を、頭の中で繰り返した。
応えてくれる限り。
応えてくれる限り。
応えてくれる限り。
窓の外は九月の夜だった。
暗い。
南青山の街灯が点々と光っている。
車が通り過ぎる音がかすかに聞こえる。
ナイトテーブルの時計を握った。
冷たかった。
もう温かくない。
昼間は温かかった。
朝には応えてくれた。
だが、夜は応えてくれない。
金属の冷たさだけが、手のひらに残った。
その「限り」が、いつまでなのか。
誰にもわからない。
今日あっても、明日もあるという保証はない。
いつ失われるかもしれない。
いつ終わるかもしれない。
俺は誰よりもそれを知っていた。
だから、稼ぐしかないのだ。
時計が応えてくれるうちに。
できることを全部やる。
備えられるだけ備える。
会社があって、仲間がいて、事業がある。
時計が消えても、それだけは残る。
そう信じたかった。
時計をナイトテーブルに戻した。
天井を見つめた。
エアコンの音だけが、部屋に響いていた。
窓の外の街灯が、ぽつぽつと揺れていた。
九月の夜風が、カーテンをわずかに揺らした。
---
**── 残高メモ ──**
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(個人) | 約7,021万円 |
| 8月末ギャンブル収入(平和島競艇・単勝) | +約120万円 |
| 9月上旬ギャンブル収入(浦和競馬・三連単) | +約180万円 |
| 9月下旬ギャンブル収入(大井競馬・単勝) | +約500万円 |
| 個人費用(8月後半〜9月分) | ▲約15万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約7,806万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(法人) | 約7,761万円 |
| アプリ収入(9月分・会員3,200人) | +約314万円 |
| 賃料収入(9月分) | +約42.8万円 |
| 法人経費(9月分・役員報酬/人件費/家賃等) | ▲約870万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約7,247.8万円** |
*注:第一期の決算見込み納税額は約1,200万円。実際の納税は決算確定後(第一期終了後)に行われる。*
*【第23話へ続く】*




