第21話 〜転換点〜
七月の第二週。
土曜日。
再び新千歳空港。
今回は山下さんも一緒ではない。
俺一人で降り立った。
吉野さんは東京で待機。
向こうでは樋口さんが迎えに来てくれる手筈になっている。
到着ロビーを抜けると、樋口さんの姿があった。
前回と同じジャケット。
落ち着いた表情。
隣に、前に運転してくれた男性も立っていた。
「桐島さん、お疲れ様です」
「樋口さん、ありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ。今日は一日、セリ会場でご一緒させてください」
車に乗り込むと、樋口さんが助手席から振り向いた。
「今日は一歳馬の日です。来年の春にデビューする可能性のある馬たちが、次々に上場されます。午前十時開始で、夕方五時頃まで続きます」
「まる一日、ずっとですか」
「ええ。上場馬は二百頭近くいます。短いと一頭一分で決まりますが、長いと三分、四分かかることもあります」
「想像以上の長丁場ですね」
「体力勝負です。でも、面白いですよ。馬主たちのドラマが、一日に凝縮されてますから」
車が走り出した。
日高方面へ。
空が広い。
風が涼しい。
七月の北海道は、東京とは比べ物にならないくらい過ごしやすかった。
---
セリ会場に到着した。
大きなドーム状の建物。
入口に「日高軽種馬農業協同組合」と書かれた看板。
駐車場には高級車が並んでいる。
BMW、ベンツ、ポルシェ、ベントレー。
これは地方の風景ではなかった。
馬主たちの世界だった。
建物に入ると、空気が一変した。
広いロビー。
天井が高い。
壁に歴代の名馬の写真が飾られている。
ディープインパクト、オルフェーヴル、アーモンドアイ、エフフォーリア。
俺でも知っている名前が並んでいる。
みんな、このセリ会場から巣立った馬たちだ。
*(……これが、競走馬が生まれる場所か)*
ロビーには既に多くの人がいた。
スーツ姿の男たち。
カタログを抱えた女性たち。
年配の紳士。
若い調教助手。
業界の人間と、馬主と、関係者が入り混じっている。
空気に独特の緊張感があった。
樋口さんが俺にカタログを手渡した。
分厚い冊子。
重い。
「今日の上場馬全頭の血統表です。一歳馬。父系、母系、兄弟の成績、全部載ってます」
「全部見るんですか」
「全部は無理ですね。狙いを絞って、数頭の実物を見に行くのが普通です。今日の私の本命は、十四番と三十二番の二頭です」
「本気で買うつもりなんですか」
「ええ。サクラノホマレが引退したので、次の一頭を探しに来ました」
樋口さんが自然に口にした言葉に、俺は少しだけ足を止めた。
「そうか。樋口さんも、探してるんですね」
「これが馬主の仕事ですから」
樋口さんが少し笑った。
「桐島さん、今日は見学だけで構いませんから、気楽にしてください。面白いと思ったら、その馬にマークをつけておいてくださいね」
「わかりました」
樋口さんの後について、パドック——セリ前の馬を見せる場所——に向かった。
屋外の広いスペースに、次々と若い馬が引かれてくる。
牧場のスタッフが馬を歩かせる。
馬主予定者たちが、柵の外からじっと観察する。
樋口さんが一頭の馬の前で立ち止まった。
「この子が十四番。父は社台系の種牡馬。母は重賞二勝馬。血統はまあまあ良い方です」
馬は若かった。
体がまだ引き締まっていない。
毛並みも競走馬のそれではなく、子どもの毛並みに近い。
だが、目に力がある。
歩き方に無駄がない。
「顔つきが良いですね」
「そう思われますか」
「素人目ですけど、なんか、ふてぶてしい感じ?」
樋口さんが笑った。
「その感覚、大事ですよ。馬主は最後は感覚なんです」
「感覚、ですか」
「血統や成績は、あくまで参考です。最後に決めるのは、その馬を見た時の自分の心なんです」
*(心か。……時計とは、逆だな)*
俺は時計のことを考えた。
ビジョンが見える。
だから勝てる。
確実に。
だけど、それは俺の心で選んだものじゃない。
時計が選んでくれたものだ。
セリが始まった。
館内のホールに移動した。
階段状の客席。
中央のステージに、馬が一頭ずつ引かれてくる。
正面の電光掲示板に、現在の入札額が表示される。
競り上がっていく。
「千八百万」「千九百万」「二千万」。
札が上がるたび、数字が変わる。
会場の空気が張りつめる。
競り上げが止まった瞬間、木槌が鳴る。
ガン、という音。
その瞬間に、馬の人生が決まる。
「樋口さん、これ、一頭ごとに数分で決まるんですね」
「ええ。でも、この数分の間に、馬の未来が決まります。誰に買われるか。どの調教師のもとに行くか。それによって、その馬のその後のすべてが変わる」
「すごい世界ですね」
「ええ。そして、買う側にとっても同じです。この一頭が当たれば、数億の配当金が戻ってくる。外れれば、数千万を失う。ハイリスク、ハイリターン」
*(金額だけ聞くと、ギャンブルだな。でも、たぶん違う。これはギャンブルじゃない。もっと違う何かだ)*
十四番の順番が来た。
ステージにあの馬が引かれてきた。
照明の下で、さっきより大きく見えた。
若い馬だが、堂々としている。
入札が始まった。
「千八百万」「千九百万」「二千万」「二千百万」。
手が上がる。
数字が上がっていく。
樋口さんが、静かに手を上げた。
「二千二百万」。
競り合いが続く。
「二千三百万」「二千四百万」。
樋口さんがまた手を上げた。
「二千五百万」。
しばらく沈黙。
競りが止まった。
木槌が鳴った。
「売却」
十四番が落ちた。
競り落とし人、樋口和彦。
樋口さんがふうと息を吐いた。
「買えました」
「おめでとうございます、樋口さん」
「ありがとうございます。良い出会いでした」
樋口さんが静かに微笑んだ。
喜ぶでもなく、興奮するでもなく、ただ静かに。
その表情に、俺は何かを見た気がした。
金を払ったから所有者になる、という単純な話じゃない。
馬主になる、というのは、その馬の人生を引き受ける、ということなんだ。
---
昼休み。
会場の食堂。
樋口さんと二人で席についた。
北海道の海鮮丼。
脂が乗った魚の切り身が、米の上に山盛りになっている。
「桐島さん。午前の部、いかがでしたか」
「すごかったです。一頭ごとに、空気が変わるんですね。人の気持ちが。馬の表情が」
「そうなんです。だから、私はこの場所が好きなんですよ」
樋口さんが箸を止めて、俺をまっすぐ見た。
「桐島さん。率直に伺ってもよろしいですか」
「はい」
「桐島さんには、馬主に向いている素質があります」
「……いや、そんな」
「いえ、本当です。朝から見ていて、桐島さんの目の動きを見てました。馬を見る目が、素人ではないんです。パドックで馬を見た時の反応の仕方が、長年のファンのそれとは違う。何か、直感的なものを感じ取っていらっしゃる」
*(この人、見てるな。俺のことを)*
「桐島さん、ご自分で一頭、いかがですか」
「……え」
「今日の午後、もう一度ご一緒にパドックに出ませんか。そこで、桐島さんが『この馬がいい』と思ったら、落札してみるのはどうでしょう。もちろん、無理にとは言いません。ただ、今日のこの場を、見学だけで終わらせるのは、もったいない気がするんです」
俺は黙った。
海鮮丼をかき込む箸が止まった。
*(考えろ。俺は今、何を考えてる? 馬主になる——七年前の俺には絶対にありえなかった選択肢。でも、今、俺の目の前にそれがある。樋口さんが勧めている。山下さんが東京で待っている。サクラノホマレに会った。十四番の競り落としを見た。……これ、行くべきなのか?)*
長い沈黙があった。
樋口さんは急かさなかった。
ただ、俺の決断を待っていた。
「樋口さん」
「はい」
「俺、馬主になりたいです」
「……本気で、ですか」
「本気です。午後、パドックに一緒に出てください。俺、自分で選んでみたいです」
樋口さんの顔が、ゆっくりと緩んだ。
穏やかな笑み。
だけど、その奥に確かな熱があった。
「わかりました。ご一緒しましょう」
---
午後の部。
樋口さんと二人で、もう一度パドックに立った。
次々と馬が引かれてくる。
俺はカタログに印をつけながら、一頭一頭を見た。
血統。
成績。
見た目。
歩き方。
樋口さんが時々、解説してくれる。
「この子は、脚がまっすぐすぎますね。長距離には向きません」
「この子は、胴が長い。スタミナ型でしょう」
「この子は、瞳が強い。気性が強いタイプです。うまく乗せれば伸びますが、扱いが難しい」
どの馬にも、何かしらの個性があった。
完璧な馬はいない。
だが、完璧じゃない馬にこそ、馬主が入り込む余地がある——気がした。
やがて、一頭の馬の前で、俺の足が止まった。
八十七番。
鹿毛。
中背。
派手な馬ではない。
だが、歩き方に癖がなかった。
前肢の運びが美しい。
顎を引いて歩く。
視線が落ち着いている。
「樋口さん」
「はい」
「この子、どうですか」
樋口さんは八十七番をじっくり見た。
それから、カタログを確認した。
「父系は中堅どころの種牡馬。母は未勝利馬ですが、兄が地方重賞で勝っています。血統は派手じゃないですね。ただ、体の使い方が、悪くない」
「悪くない、ですか」
「正直、私の目から見ても、悪くないです。ただ、派手さがないので、そこまで高くは競り上がらないと思います。買うなら、千五百万から二千万くらいの想定でどうでしょう」
「千五百から二千万」
「ええ。桐島さんの初の一頭として、ちょうど良い価格帯かと」
俺はもう一度、八十七番を見た。
馬がこちらを向いた。
耳を動かした。
じっとこちらを見た。
その目が、何かを訴えかけているような気がした。
*(この馬にしよう。時計じゃない。ビジョンじゃない。俺の心で選ぶ)*
「お願いします。この馬、買いたいです」
「かしこまりました。ただ、桐島さん。一つだけ現実的な話をさせてください」
「はい」
「セリで正式に入札するには、購買者登録が必要です。馬主番号がないと、札を上げることができません。桐島さんはまだJRAの馬主登録をされていませんので、今日は私の名義で代理購買という形を取らせてください。馬主登録が完了した後、正式に名義変更いたします」
*(そうか。そこまで考えが回っていなかった。セリに来て、自分で手を上げて買えると思っていた。でも、制度はそう簡単じゃない)*
「樋口さん、ご迷惑じゃないですか」
「いいえ。むしろ、光栄ですよ。桐島さんの最初の一頭に関われるんですから」
樋口さんが立ち上がって、運営スタッフのもとへ歩いていった。
代理購買の手続きをしてくれるのだろう。
---
八十七番の順番が来た。
ステージにあの馬が引かれてきた。
照明の下で、鹿毛の毛並みが鈍く光っていた。
派手さはない。
だけど、確かにそこに立っていた。
入札開始。
「千二百万」「千三百万」「千四百万」「千五百万」。
手が上がっていく。
樋口さんが俺の方を見た。
俺は頷いた。
樋口さんが静かに手を上げた。
心臓の音が、自分でも聞こえるくらい大きかった。
「千六百万」「千七百万」。
もう一人、別の馬主が対抗してきた。
俺はもう一度頷いた。
樋口さんが上げた。
「千八百万」。
「千九百万」。
相手が上げた。
*(どこまで行くか。二千万超えたら、やめるか。いや、もう少し行ってみるか)*
樋口さんが隣で、俺の判断を待っていた。
「行ってください」
小さく言った。
樋口さんが頷いて、手を上げた。
「二千万」。
相手が動かなかった。
数秒の沈黙。
「他にありませんか」と司会者の声。
「二千百万」。
別の誰かが上げた。
違う方向から。
俺は振り返った。
若い男だった。
初めて見る顔だ。
*(負けるか)*
「まだ行けます」
樋口さんが迷わず手を上げた。
「二千二百万」。
相手が一瞬止まった。
迷っている。
「二千三百万」。
相手が上げた。
さらに上げてくる。
「二千四百万まで」
俺は樋口さんに小さく告げた。
樋口さんがすぐに手を上げた。
会場がざわついた。
相手が顔を下げた。
諦めた顔だった。
司会者が「二千四百万、他にありませんか」と繰り返した。
沈黙。
木槌が鳴った。
ガン。
「売却」
競り落とし人、樋口和彦。
代理購買、桐島遊馬。
会場から、まばらな拍手が起こった。
樋口さんが、隣で静かに手を叩いていた。
「おめでとうございます、桐島さん」
俺は、しばらく言葉が出なかった。
*(買えた。俺が選んだ馬が、俺のものになる。二千四百万。自分の金で。自分の心で選んだ馬を。名義は樋口さんだけど、この馬は俺の馬だ)*
手が震えていた。
午前中に樋口さんの競り落としを見ていた時に想像した感覚と、全く違った。
金を払ったから所有者になるんじゃなかった。
その瞬間から、俺はあの馬の人生を引き受けたんだ。
「樋口さん、本当にありがとうございます」
「いえ。桐島さんがご自分で決断されたことです。私は何も」
「樋口さんがいてくれなかったら、今日、俺は会場に来ることさえなかったです」
樋口さんが静かに頭を下げた。
---
セリ会場の事務所で、買い付けの手続きを進めた。
契約書。
振込先の確認。
馬の引渡し時期——十月の予定だ。
それまでは牧場で馴致が進められる。
調教師の選定もある。
樋口さんが「もし良い方を紹介しましょうか」と申し出てくれた。
感謝を込めて、お願いします、と頭を下げた。
事務員が書類を差し出してきた。
「代理購買ですので、購買者名は樋口様、実質の取得予定者として桐島様のお名前を併記いたします。桐島様のJRA馬主登録が完了次第、正式に名義を移転する流れになります」
「わかりました」
「それまでの間、馬は生産牧場で馴致を続けますので、管理面でのご心配は不要です」
樋口さんが補足してくれた。
「桐島さん、東京に戻られたら、すぐに馬主登録の申請手続きを進めてください。実は、山下さんには事前に『桐島さんがいずれ馬主を志すかもしれない』とお伝えしてあります。おそらく、もう準備は始めているはずですよ」
「……樋口さん、見越してたんですか」
「見越したのは山下さんです。私はただ、きっかけを作っただけですよ」
俺は書類にサインをした。
桐島遊馬。
樋口さんの名前の隣に、俺の名前が並んだ。
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その日の夜。
新千歳空港のロビー。
最終便までまだ時間があった。
空港の中のカフェで、スマートフォンを取り出した。
山下さんにLINEで報告した。
【桐島】山下さん、ご報告があります。今日のセレクションセールで、八十七番の鹿毛の一歳馬を、二千四百万で落札しました。樋口さんの代理購買です。馬主登録の申請、すぐに進めたいのでお時間ください。
送信。
十秒もしないうちに、返信が来た。
【山下】承知いたしました。樋口様から事前にお話を伺っておりましたので、馬主登録の申請書類はすでに大部分を準備しております。ご署名と押印をいただければ、来週中にJRAへ発送可能です。月曜の朝、オフィスでご対応いただければ幸いです。
【桐島】了解です。お願いします。
山下さんの返信には、「おめでとうございます」の一言もなかった。
ただ、淡々と実務を進めますという姿勢。
いつもの山下さんだ。
だが、その淡々さが、今日の俺には一番必要だった。
興奮を鎮めてくれる。
現実に引き戻してくれる。
*(この人、やっぱり準備してたのか。樋口さんの言った通りだ。俺が馬主になると、先に見越してた。……敵わないな)*
懐中時計をポケットから出した。
握った。
冷たい。
夜だから当然だ。
*(時計。お前は今日、何も言わなかった。俺の決断を、俺に任せてくれた。……ありがとうな)*
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翌週の月曜日の朝。
オフィス。
机の上に、分厚いファイルが置かれていた。
表紙に「日本中央競馬会」の紋章。
馬のシルエット。
その下に「馬主登録申請書類一式」。
山下さんが静かに説明した。
「個人馬主として登録するための要件は、二つでございます。一つ目、直近二年間の所得が年間一千七百万円以上であること。二つ目、保有資産が七千五百万円以上であること」
「俺のケースだと、どうなりますか」
「正直に申しまして、所得要件は完全にはクリアしておりません。桐島さんの役員報酬は今年一月からですので、昨年分の確定申告では十二ヶ月分の実績がございません。ただし、JRAには資産状況を加味した例外的な承認の仕組みがございます。桐島さんの現在の個人資産は要件を大幅に上回っておりますので、そちらで十分に補えると判断しております」
「つまり、資産の方でカバーできると」
「はい。加えて、今年度の役員報酬は年間六千万円ペースですので、継続的な所得の見込みという点では問題ございません。こうしたケースでは、JRA側に事前相談をするのが通例です。実は先月、馬主登録課に照会済みでございます」
*(先月。俺がセリに行く前から、もう動いてたのか)*
「審査は年三回、四月、七月、十一月に行われます。今回の申請は、十一月の審査に上程される見込みです。結果が出るのは十一月末から十二月頃かと」
「四ヶ月以上、待つことになりますか」
「はい。その間、八十七番の馬は牧場で馴致が進みます。登録が完了次第、樋口様から正式に名義を移転いたします」
ファイルを開いた。
付箋が色分けされている。
「署名」「押印」「記入不要」。
赤・青・黄。
山下さんの几帳面な仕事だ。
山下さんが万年筆を差し出した。
黒いボディに金のクリップ。
「事務用でございますが、大事な書類には使うようにしております」
ペン先を紙に当てた。
インクが紙に染みていく。
桐島。
遊馬。
この名前が、今日、また意味を持つ。
次は印鑑。
朱肉に押し付ける。
湿った感触。
それから書類に——カン。
小さいが鮮烈な音。
「桐島遊馬」の四文字が、白い紙の上にくっきりと刻まれた。
*(半年前、俺はパチンコ屋の前を通って帰ってた男だった。それが今、馬主の申請書に署名してる。しかも、自分で選んだ馬を買った後で。人生って、本当にわからないもんだ)*
「お願いします、山下さん。すべて、お任せします」
「承知いたしました」
---
その日の午後。
西村と橘さんと小林さんが、オフィスで俺を囲んだ。
報告はもう済んでいた。
馬を買った話。
馬主登録の申請の話。
三人は、それぞれ違う反応をしていた。
西村は最初から最後まで大興奮だった。
「いや、ほんっとにすげえよ。遊馬が馬主! もうこれ、人生ドラマじゃん! 俺、馬名だけは遊馬に任せるなって言ったけどさ、やっぱり馬名のセンスは俺の方がある。任せろ」
「お前には絶対に任せない」
「なんでだよ! 俺、めちゃくちゃ良いのがあるんだぞ、ほら、『ユウマノユメ』とか」
「絶対にない」
「じゃあ『ニシムラヒカリ』」
「お前、それ馬の名前じゃなくて自分の名前入ってるだろ」
西村が笑い転げた。
いつもの西村だ。
橘さんは珍しく、少しだけ前のめりになっていた。
「……あの、桐島さん。差し支えなければ、今後、その馬のデータを追わせていただいてもよろしいでしょうか。調教タイム、血統、兄弟馬の成績——全部、データベース化したいんです」
「橘さん、データ取っても、俺、そこまで頭使わないですけど」
「いえ、桐島さんが判断に使うわけではなく——私が個人的に勉強したいんです」
橘さんの頬がかすかに紅潮していた。
*(あれ。橘さんが、こんなに前のめりなの初めて見るな)*
「いいですよ、橘さん。好きにしてください」
「ありがとうございます」
橘さんの目が、わずかに輝いて見えた。
小林さんは、いつも通りだった。
「馬主、ということは、法人収入ではなく個人所得の管理が複雑になります。税務処理について、山下さんと確認したほうがいいです」
「そういうとこは、任せます」
「問題ない」
それが小林さんの反応だった。
いつも通りの小林さんだ。
---
七月下旬。
八月上旬。
申請書類が受理されたという通知が届いた。
審査開始。
ここからは、二ヶ月から三ヶ月、待つだけだった。
八月は、少しずつ暑くなっていた。
梅雨が明けて、本格的な夏が始まった。
オフィスのエアコンがフル稼働している。
俺は毎朝、時計を握って、ビジョンを確認した。
温かい日もあれば、冷たい日もあった。
温かい日は行く。
冷たい日は行かない。
それだけのルール。
ルール通りに動けば、金は入る。
入った金は、法人と個人に分けて管理する。
山下さんがやってくれる。
そんな平穏な毎日が、お盆明けに崩れた。
四日間、何も見えなかった。
八月中旬。
初めての経験だった。
ビジョンが途絶えた。
完全に。
映画館の電源が落ちたように。
一日目。
朝起きた時、枕元の時計を握った。
冷たい。
蓋を開けた。
何も見えない。
暗い。
ビジョンが来ない。
時間は六時三十分。
いつもの時間だ。
*(たまたまだ。こういう日もある。前にも何回かあった。一日くらいビジョンがなくても、大丈夫だ)*
カフェに行った。
エスプレッソを飲んだ。
バリスタの手は相変わらず安定していた。
俺の手は、カップを握る時にわずかに揺れた。
二日目。
朝。
時計を握った。
冷たい。
ビジョンなし。
オフィスに行った。
普通に仕事をした。
だが、頭の片隅でずっと時計のことを考えていた。
今日の夜、握ったら温かいかもしれない。
でもダメだった。
夜も冷たかった。
三日目。
同じ。
冷たい金属の感触だけ。
ビジョンの欠片もない。
食事の味がしなくなった。
カフェのエスプレッソが、ただの苦い液体に感じた。
四日目。
手が震えた。
朝の八時。
オフィスの自分の机。
書類に印鑑を押す。
一度目——ずれた。
二度目——また、ずれた。
三度目で、ようやく字が揃った。
山下さんが気づいたかもしれない。
だが、何も言わなかった。
夜、ベッドの中で天井を見つめた。
エアコンの音だけが響いている。
*(大丈夫。五日目には戻る。きっと戻る。今まで一日、二日空くことはあった。でも四日は初めてだ。これが、終わりの始まりなのか? ……考えるな。考えても答えは出ない。眠れ。寝て、朝が来て、時計が温かければ、全部元に戻る)*
だが、眠れなかった。
三時間おきに目が覚めた。
その度に時計を握った。
冷たい。
また冷たい。
夜は冷たいのが普通だ。
それはわかっている。
わかっているのに、確認せずにはいられなかった。
---
「遊馬、ちょっと来てくれ」
四日目の午後。
西村が会議室に呼んだ。
ドアを閉めた。
二人きり。
西村の顔が真面目だった。
西村が真面目な顔をする時は、本当に真剣な時だけだ。
「どうした、改まって」
「投資ってこんなに安定して儲かるもんなの?」
俺は息を止めた。
「いや、おかしくね?」
西村は机の上に、いくつかの通帳のコピーを並べた。
会社の通帳だ。
法人口座の入出金記録。
個人口座の動きも、一部把握しているのだろう。
「損した話を一回もしてないじゃん。損失ゼロ。ずっと利益。毎月、ずっと。ここまで安定した投資家、いるか? 株だって、FXだって、仮想通貨だって、必ず波がある。でも、お前には波がない。完全な右肩上がり」
*(終わった。バレた。いや、まだだ。まだ全部はバレていない。西村は疑っているだけだ。確信には至っていない)*
「投資のプロみたいな成績。いや、プロ以上だ。お前が何かヤバいことしてんじゃないかって心配になるんだよ。本気で」
「心配してくれてありがとな。でも、ヤバいことはしてない。それだけは信じてほしい」
「本当に?」
「本当だ。ヤバくはない。ただ、運がいいだけだ」
西村の目を見た。
彼は笑っていた。
だが、目は笑っていなかった。
真剣な目だ。
友人を心配している目だ。
「運がいいだけで半年以上ずっと勝ち続けるかよ」
「そこはな、俺もたまに不思議に思ってる。でも、事実だからしょうがない」
三秒。
西村は俺の目を見つめた。
探るように。
測るように。
三秒が長く感じた。
そして、西村の顔が崩れた。
いつもの笑顔に戻った。
「わかった。ごめんな。聞いちゃいけなかったな。お前は信頼できる男だ。それはわかってる」
「聞いてくれてよかったよ、西村。気になってるなら、溜めないで言ってくれた方がいい」
「……ありがとな、遊馬」
短い言葉だった。
だが、その中に全てが詰まっていた。
信頼。
不安。
友情。
疑い。
許し。
そのすべてが。
*(西村。お前に嘘をつくのが、一番つらい。ヤバいことはしてないってのは本当だ。でも、全部を話してるわけじゃない。それがいつか、俺とお前の間の壁になるかもしれない)*
会議室を出た。
西村は何事もなかったかのように、自分のデスクに戻っていった。
プレスリリースの続きを書き始めている。
もう笑顔に戻っている。
だが、俺の胸の中には重いものが残ったままだった。
---
午後五時を過ぎると、橘さんが席を立った。
「今日は少し早めに失礼します」
「お疲れさまです、橘さん。気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
四日間で四回目だった。
毎日、五時か五時半に帰っている。
以前は七時半まで残っていた橘さんが。
山下さんの目が、橘さんの背中を追った。
仕事の進捗を確認する目ではなかった。
心配する目だった。
小林さんのキーボードの音だけが、静かなオフィスに響いていた。
俺は自分のデスクに戻った。
パソコンの画面を見つめた。
メールの受信箱。
未読が十二件。
だが、一つも開く気力がなかった。
ビジョンのない四日間。
その間も会社は回っている。
山下さんが経理を見て、西村がマーケティングを回して、橘さんがデータを分析して、小林さんがコードを書いて、吉野さんが車を走らせている。
俺がいなくても、この会社は動く。
*(それは良いことなのか。悪いことなのか。俺がいなくても回る会社。それは健全だ。だが、俺の存在意義は何だ。ビジョンが消えたら、俺はこの会社に何を提供できる?)*
---
五日目の朝。
目が覚めて、枕元の時計を握った。
温かい。
*(戻った! ビジョンが戻った!)*
蓋を開けた。
ビジョンが流れ込んでくる。
競馬場。
馬の影。
レースの展開——
だが。
違う。
以前のビジョンとは、何かが違う。
ぼやけている。
焦点が合わない。
映画のスクリーンにすりガラスをかぶせたような感覚。
見える。
確かに見える。
だが、以前の4Kビジョンのような鮮明さはない。
文字が霞む。
番号が読みにくい。
看板の文字が、霧の中に沈んでいる。
*(何だこれは。ビジョンの……鮮度が落ちてる?)*
俺は立ち上がった。
窓を見た。
東京の朝。
ビルの谷間に朝日が差し込んでいる。
行き交う人々。
それら全てが、昨日より少しだけ遠く見えた。
朝食を取りに出た。
いつものカフェ。
エスプレッソ。
バリスタの手が動く。
迷いのない動き。
その手を見つめながら、自分の手を見た。
震えはない。
だが、全てが少しだけ、靄がかかっている。
*(弱くなったのか。それとも、四日間の空白で感覚がずれてるだけなのか。……時間が経てば、戻るのか)*
オフィスに着いた。
いつもの仕事をこなした。
山下さんに報告書を出した。
西村と打ち合わせをした。
メールに返信した。
全てが、いつも通り。
だが、俺の中で何かが、音を立てて崩れ始めていた。
帰宅して、窓の前に立った。
南青山の夜景。
ビルの灯り。
街灯の光。
車のヘッドライト。
すべてが少しだけぼやけて見える。
目が悪くなったのか。
いや、違う。
ビジョンの鮮度が落ちたことと連動しているのか。
それとも、ただの疲れか。
ナイトテーブルの時計を握った。
まだ温かい。
朝よりは冷めているが、温度は残っている。
*(大丈夫だ。ビジョンは戻った。ぼやけてはいるけど、戻った。これが一時的なものなのか、永続的なものなのか、今はわからない。わからないけど、今日はもう寝よう。明日の朝、また握れば、温かいはずだ)*
時計をナイトテーブルに置いた。
ベッドに横になった。
天井を見つめた。
エアコンの音が静かに響いている。
眠りに落ちるまで、長い時間がかかった。
---
十一月の最終週。
郵便受けを開けた時、俺の心臓は完全に止まった。
白い封筒。
JRAのロゴ。
消印は三日前。
東京の消印。
手が震えている。
いや、そんなはずはない。
俺はこの街で勝ち続けた男だ。
競馬場で莫大な金を稼ぎ、会社を立ち上げ、社員を雇い、事業を回している。
そんな男の手が震えるわけがない。
だが、震えていた。
封筒を開く。
正式書類が三枚。
日本中央競馬会会長の印鑑が押されている。
赤い朱肉。
大きな丸印。
その横に、細かい文字が並んでいる。
**馬主登録承認**
*(通った。馬主登録。おれが。本当に。本当に通った)*
手の震えが止まらない。
封筒を握る指先が白くなっている。
力が入りすぎている。
深呼吸をした。
一回。
二回。
三回。
廊下に立ったまま、俺は書類を三度読み返した。
間違いない。
「承認」の二文字が、三枚目の書類の右上に印刷されている。
山下さんに電話した。
朝の八時前だった。
山下さんはすでに起きていた。
「おはようございます、山下さん。たった今、JRAから承認書類が届きました」
「おめでとうございます、桐島さん」
山下さんの声は静かだった。
だが、その静かさの奥で、確かに何かが揺れている気がした。
「ありがとうございます。オフィスで改めて、資料を確認させてください」
「承知いたしました。お待ちしております」
俺は電話を切った。
手の中で書類の紙の角が、指に食い込んでいた。
*(俺は馬主になった。八十七番の鹿毛——まだ名前のないあの馬が、正式に俺のものになる。樋口さんから名義を移す手続きが、ようやく始まる)*
ポケットの懐中時計を握った。
温かい。
今朝もビジョンは来ていた。
ぼやけてはいるが、確かに来ていた。
*(時計。この一年、お前が俺をここに連れてきてくれた。ギャンブルで勝つ力を、俺に与えてくれた。だが、今日のこの承認書類は、時計のおかげじゃない。俺が、俺自身の決断で掴んだんだ。セリに行って、自分の目で選んで、樋口さんに札を上げてもらった。……でも、選んだのは俺だ。これは、俺のものだ)*
朝の光が、廊下の窓から差し込んでいた。
十一月の空。
澄んだ冬の入口の空気。
東京の十一月は、朝夕に冷え込みが増す。
だが、今朝の冷たさは心地よかった。
書類をもう一度、封筒にしまった。
そっと。
大切に。
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**残高メモ**
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 7月〜10月ギャンブル収入(映像あり回収・8回) | +約1,480万円(個人)|
| 8月中旬ギャンブル収入(映像鮮度低下後・2回) | +約210万円(個人)|
| 八十七番 落札代金(セリ・樋口名義代理購買分)| ▲2,400万円(個人)|
| 個人費用(北海道往復・宿泊・食事・交通費等・5ヶ月分生活費)| ▲約280万円 |
| 前話繰り越し(個人)| 約8,011万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約7,021万円** |
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| アプリ収入(7月〜11月分・会員1,500→3,500人)| +約1,120万円(法人)|
| 賃料収入(7月〜11月分)| +約214万円 |
| 法人経費(7月〜11月分)| ▲約4,300万円 |
| 前話繰り越し(法人)| 約1億727万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約7,761万円** |
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【第22話へ続く】




