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第21話 〜転換点〜


 七月の第二週。

 土曜日。

 再び新千歳空港。


 今回は山下さんも一緒ではない。

 俺一人で降り立った。

 吉野さんは東京で待機。

 向こうでは樋口さんが迎えに来てくれる手筈になっている。


 到着ロビーを抜けると、樋口さんの姿があった。

 前回と同じジャケット。

 落ち着いた表情。

 隣に、前に運転してくれた男性も立っていた。


「桐島さん、お疲れ様です」


「樋口さん、ありがとうございます。今日はよろしくお願いします」


「いえ、こちらこそ。今日は一日、セリ会場でご一緒させてください」


 車に乗り込むと、樋口さんが助手席から振り向いた。


「今日は一歳馬の日です。来年の春にデビューする可能性のある馬たちが、次々に上場されます。午前十時開始で、夕方五時頃まで続きます」


「まる一日、ずっとですか」


「ええ。上場馬は二百頭近くいます。短いと一頭一分で決まりますが、長いと三分、四分かかることもあります」


「想像以上の長丁場ですね」


「体力勝負です。でも、面白いですよ。馬主たちのドラマが、一日に凝縮されてますから」


 車が走り出した。

 日高方面へ。

 空が広い。

 風が涼しい。

 七月の北海道は、東京とは比べ物にならないくらい過ごしやすかった。


---


 セリ会場に到着した。


 大きなドーム状の建物。

 入口に「日高軽種馬農業協同組合」と書かれた看板。

 駐車場には高級車が並んでいる。

 BMW、ベンツ、ポルシェ、ベントレー。

 これは地方の風景ではなかった。

 馬主たちの世界だった。


 建物に入ると、空気が一変した。


 広いロビー。

 天井が高い。

 壁に歴代の名馬の写真が飾られている。

 ディープインパクト、オルフェーヴル、アーモンドアイ、エフフォーリア。

 俺でも知っている名前が並んでいる。

 みんな、このセリ会場から巣立った馬たちだ。


 *(……これが、競走馬が生まれる場所か)*


 ロビーには既に多くの人がいた。

 スーツ姿の男たち。

 カタログを抱えた女性たち。

 年配の紳士。

 若い調教助手。

 業界の人間と、馬主と、関係者が入り混じっている。

 空気に独特の緊張感があった。


 樋口さんが俺にカタログを手渡した。

 分厚い冊子。

 重い。


「今日の上場馬全頭の血統表です。一歳馬。父系、母系、兄弟の成績、全部載ってます」


「全部見るんですか」


「全部は無理ですね。狙いを絞って、数頭の実物を見に行くのが普通です。今日の私の本命は、十四番と三十二番の二頭です」


「本気で買うつもりなんですか」


「ええ。サクラノホマレが引退したので、次の一頭を探しに来ました」


 樋口さんが自然に口にした言葉に、俺は少しだけ足を止めた。


「そうか。樋口さんも、探してるんですね」


「これが馬主の仕事ですから」


 樋口さんが少し笑った。


「桐島さん、今日は見学だけで構いませんから、気楽にしてください。面白いと思ったら、その馬にマークをつけておいてくださいね」


「わかりました」


 樋口さんの後について、パドック——セリ前の馬を見せる場所——に向かった。

 屋外の広いスペースに、次々と若い馬が引かれてくる。

 牧場のスタッフが馬を歩かせる。

 馬主予定者たちが、柵の外からじっと観察する。


 樋口さんが一頭の馬の前で立ち止まった。


「この子が十四番。父は社台系の種牡馬。母は重賞二勝馬。血統はまあまあ良い方です」


 馬は若かった。

 体がまだ引き締まっていない。

 毛並みも競走馬のそれではなく、子どもの毛並みに近い。

 だが、目に力がある。

 歩き方に無駄がない。


「顔つきが良いですね」


「そう思われますか」


「素人目ですけど、なんか、ふてぶてしい感じ?」


 樋口さんが笑った。


「その感覚、大事ですよ。馬主は最後は感覚なんです」


「感覚、ですか」


「血統や成績は、あくまで参考です。最後に決めるのは、その馬を見た時の自分の心なんです」


 *(心か。……時計とは、逆だな)*


 俺は時計のことを考えた。

 ビジョンが見える。

 だから勝てる。

 確実に。

 だけど、それは俺の心で選んだものじゃない。

 時計が選んでくれたものだ。


 セリが始まった。

 館内のホールに移動した。


 階段状の客席。

 中央のステージに、馬が一頭ずつ引かれてくる。

 正面の電光掲示板に、現在の入札額が表示される。

 競り上がっていく。

 「千八百万」「千九百万」「二千万」。

 札が上がるたび、数字が変わる。

 会場の空気が張りつめる。

 競り上げが止まった瞬間、木槌が鳴る。

 ガン、という音。

 その瞬間に、馬の人生が決まる。


「樋口さん、これ、一頭ごとに数分で決まるんですね」


「ええ。でも、この数分の間に、馬の未来が決まります。誰に買われるか。どの調教師のもとに行くか。それによって、その馬のその後のすべてが変わる」


「すごい世界ですね」


「ええ。そして、買う側にとっても同じです。この一頭が当たれば、数億の配当金が戻ってくる。外れれば、数千万を失う。ハイリスク、ハイリターン」


 *(金額だけ聞くと、ギャンブルだな。でも、たぶん違う。これはギャンブルじゃない。もっと違う何かだ)*


 十四番の順番が来た。


 ステージにあの馬が引かれてきた。

 照明の下で、さっきより大きく見えた。

 若い馬だが、堂々としている。


 入札が始まった。

 「千八百万」「千九百万」「二千万」「二千百万」。

 手が上がる。

 数字が上がっていく。

 樋口さんが、静かに手を上げた。

 「二千二百万」。

 競り合いが続く。

 「二千三百万」「二千四百万」。

 樋口さんがまた手を上げた。

 「二千五百万」。


 しばらく沈黙。

 競りが止まった。

 木槌が鳴った。


「売却」


 十四番が落ちた。

 競り落とし人、樋口和彦。


 樋口さんがふうと息を吐いた。


「買えました」


「おめでとうございます、樋口さん」


「ありがとうございます。良い出会いでした」


 樋口さんが静かに微笑んだ。

 喜ぶでもなく、興奮するでもなく、ただ静かに。

 その表情に、俺は何かを見た気がした。

 金を払ったから所有者になる、という単純な話じゃない。

 馬主になる、というのは、その馬の人生を引き受ける、ということなんだ。


---


 昼休み。

 会場の食堂。


 樋口さんと二人で席についた。

 北海道の海鮮丼。

 脂が乗った魚の切り身が、米の上に山盛りになっている。


「桐島さん。午前の部、いかがでしたか」


「すごかったです。一頭ごとに、空気が変わるんですね。人の気持ちが。馬の表情が」


「そうなんです。だから、私はこの場所が好きなんですよ」


 樋口さんが箸を止めて、俺をまっすぐ見た。


「桐島さん。率直に伺ってもよろしいですか」


「はい」


「桐島さんには、馬主に向いている素質があります」


「……いや、そんな」


「いえ、本当です。朝から見ていて、桐島さんの目の動きを見てました。馬を見る目が、素人ではないんです。パドックで馬を見た時の反応の仕方が、長年のファンのそれとは違う。何か、直感的なものを感じ取っていらっしゃる」


 *(この人、見てるな。俺のことを)*


「桐島さん、ご自分で一頭、いかがですか」


「……え」


「今日の午後、もう一度ご一緒にパドックに出ませんか。そこで、桐島さんが『この馬がいい』と思ったら、落札してみるのはどうでしょう。もちろん、無理にとは言いません。ただ、今日のこの場を、見学だけで終わらせるのは、もったいない気がするんです」


 俺は黙った。

 海鮮丼をかき込む箸が止まった。


 *(考えろ。俺は今、何を考えてる? 馬主になる——七年前の俺には絶対にありえなかった選択肢。でも、今、俺の目の前にそれがある。樋口さんが勧めている。山下さんが東京で待っている。サクラノホマレに会った。十四番の競り落としを見た。……これ、行くべきなのか?)*


 長い沈黙があった。

 樋口さんは急かさなかった。

 ただ、俺の決断を待っていた。


「樋口さん」


「はい」


「俺、馬主になりたいです」


「……本気で、ですか」


「本気です。午後、パドックに一緒に出てください。俺、自分で選んでみたいです」


 樋口さんの顔が、ゆっくりと緩んだ。

 穏やかな笑み。

 だけど、その奥に確かな熱があった。


「わかりました。ご一緒しましょう」


---


 午後の部。


 樋口さんと二人で、もう一度パドックに立った。

 次々と馬が引かれてくる。

 俺はカタログに印をつけながら、一頭一頭を見た。

 血統。

 成績。

 見た目。

 歩き方。

 樋口さんが時々、解説してくれる。


「この子は、脚がまっすぐすぎますね。長距離には向きません」


「この子は、胴が長い。スタミナ型でしょう」


「この子は、瞳が強い。気性が強いタイプです。うまく乗せれば伸びますが、扱いが難しい」


 どの馬にも、何かしらの個性があった。

 完璧な馬はいない。

 だが、完璧じゃない馬にこそ、馬主が入り込む余地がある——気がした。


 やがて、一頭の馬の前で、俺の足が止まった。


 八十七番。

 鹿毛。

 中背。

 派手な馬ではない。

 だが、歩き方に癖がなかった。

 前肢の運びが美しい。

 顎を引いて歩く。

 視線が落ち着いている。


「樋口さん」


「はい」


「この子、どうですか」


 樋口さんは八十七番をじっくり見た。

 それから、カタログを確認した。


「父系は中堅どころの種牡馬。母は未勝利馬ですが、兄が地方重賞で勝っています。血統は派手じゃないですね。ただ、体の使い方が、悪くない」


「悪くない、ですか」


「正直、私の目から見ても、悪くないです。ただ、派手さがないので、そこまで高くは競り上がらないと思います。買うなら、千五百万から二千万くらいの想定でどうでしょう」


「千五百から二千万」


「ええ。桐島さんの初の一頭として、ちょうど良い価格帯かと」


 俺はもう一度、八十七番を見た。

 馬がこちらを向いた。

 耳を動かした。

 じっとこちらを見た。

 その目が、何かを訴えかけているような気がした。


 *(この馬にしよう。時計じゃない。ビジョンじゃない。俺の心で選ぶ)*


「お願いします。この馬、買いたいです」


「かしこまりました。ただ、桐島さん。一つだけ現実的な話をさせてください」


「はい」


「セリで正式に入札するには、購買者登録が必要です。馬主番号がないと、札を上げることができません。桐島さんはまだJRAの馬主登録をされていませんので、今日は私の名義で代理購買という形を取らせてください。馬主登録が完了した後、正式に名義変更いたします」


 *(そうか。そこまで考えが回っていなかった。セリに来て、自分で手を上げて買えると思っていた。でも、制度はそう簡単じゃない)*


「樋口さん、ご迷惑じゃないですか」


「いいえ。むしろ、光栄ですよ。桐島さんの最初の一頭に関われるんですから」


 樋口さんが立ち上がって、運営スタッフのもとへ歩いていった。

 代理購買の手続きをしてくれるのだろう。


---


 八十七番の順番が来た。


 ステージにあの馬が引かれてきた。

 照明の下で、鹿毛の毛並みが鈍く光っていた。

 派手さはない。

 だけど、確かにそこに立っていた。


 入札開始。

 「千二百万」「千三百万」「千四百万」「千五百万」。

 手が上がっていく。

 樋口さんが俺の方を見た。

 俺は頷いた。

 樋口さんが静かに手を上げた。

 心臓の音が、自分でも聞こえるくらい大きかった。

 「千六百万」「千七百万」。

 もう一人、別の馬主が対抗してきた。

 俺はもう一度頷いた。

 樋口さんが上げた。

 「千八百万」。

 「千九百万」。

 相手が上げた。


 *(どこまで行くか。二千万超えたら、やめるか。いや、もう少し行ってみるか)*


 樋口さんが隣で、俺の判断を待っていた。


「行ってください」


 小さく言った。

 樋口さんが頷いて、手を上げた。

 「二千万」。

 相手が動かなかった。

 数秒の沈黙。

 「他にありませんか」と司会者の声。

 「二千百万」。

 別の誰かが上げた。

 違う方向から。

 俺は振り返った。

 若い男だった。

 初めて見る顔だ。


 *(負けるか)*


「まだ行けます」


 樋口さんが迷わず手を上げた。

 「二千二百万」。

 相手が一瞬止まった。

 迷っている。

 「二千三百万」。

 相手が上げた。

 さらに上げてくる。


「二千四百万まで」


 俺は樋口さんに小さく告げた。

 樋口さんがすぐに手を上げた。


 会場がざわついた。


 相手が顔を下げた。

 諦めた顔だった。

 司会者が「二千四百万、他にありませんか」と繰り返した。

 沈黙。


 木槌が鳴った。

 ガン。


「売却」


 競り落とし人、樋口和彦。

 代理購買、桐島遊馬。


 会場から、まばらな拍手が起こった。

 樋口さんが、隣で静かに手を叩いていた。


「おめでとうございます、桐島さん」


 俺は、しばらく言葉が出なかった。


 *(買えた。俺が選んだ馬が、俺のものになる。二千四百万。自分の金で。自分の心で選んだ馬を。名義は樋口さんだけど、この馬は俺の馬だ)*


 手が震えていた。

 午前中に樋口さんの競り落としを見ていた時に想像した感覚と、全く違った。

 金を払ったから所有者になるんじゃなかった。

 その瞬間から、俺はあの馬の人生を引き受けたんだ。


「樋口さん、本当にありがとうございます」


「いえ。桐島さんがご自分で決断されたことです。私は何も」


「樋口さんがいてくれなかったら、今日、俺は会場に来ることさえなかったです」


 樋口さんが静かに頭を下げた。


---


 セリ会場の事務所で、買い付けの手続きを進めた。


 契約書。

 振込先の確認。

 馬の引渡し時期——十月の予定だ。

 それまでは牧場で馴致が進められる。

 調教師の選定もある。

 樋口さんが「もし良い方を紹介しましょうか」と申し出てくれた。

 感謝を込めて、お願いします、と頭を下げた。


 事務員が書類を差し出してきた。


「代理購買ですので、購買者名は樋口様、実質の取得予定者として桐島様のお名前を併記いたします。桐島様のJRA馬主登録が完了次第、正式に名義を移転する流れになります」


「わかりました」


「それまでの間、馬は生産牧場で馴致を続けますので、管理面でのご心配は不要です」


 樋口さんが補足してくれた。


「桐島さん、東京に戻られたら、すぐに馬主登録の申請手続きを進めてください。実は、山下さんには事前に『桐島さんがいずれ馬主を志すかもしれない』とお伝えしてあります。おそらく、もう準備は始めているはずですよ」


「……樋口さん、見越してたんですか」


「見越したのは山下さんです。私はただ、きっかけを作っただけですよ」


 俺は書類にサインをした。

 桐島遊馬。

 樋口さんの名前の隣に、俺の名前が並んだ。


---


 その日の夜。

 新千歳空港のロビー。


 最終便までまだ時間があった。

 空港の中のカフェで、スマートフォンを取り出した。

 山下さんにLINEで報告した。


 【桐島】山下さん、ご報告があります。今日のセレクションセールで、八十七番の鹿毛の一歳馬を、二千四百万で落札しました。樋口さんの代理購買です。馬主登録の申請、すぐに進めたいのでお時間ください。


 送信。

 十秒もしないうちに、返信が来た。


 【山下】承知いたしました。樋口様から事前にお話を伺っておりましたので、馬主登録の申請書類はすでに大部分を準備しております。ご署名と押印をいただければ、来週中にJRAへ発送可能です。月曜の朝、オフィスでご対応いただければ幸いです。


 【桐島】了解です。お願いします。


 山下さんの返信には、「おめでとうございます」の一言もなかった。

 ただ、淡々と実務を進めますという姿勢。

 いつもの山下さんだ。

 だが、その淡々さが、今日の俺には一番必要だった。

 興奮を鎮めてくれる。

 現実に引き戻してくれる。


 *(この人、やっぱり準備してたのか。樋口さんの言った通りだ。俺が馬主になると、先に見越してた。……敵わないな)*


 懐中時計をポケットから出した。

 握った。

 冷たい。

 夜だから当然だ。


 *(時計。お前は今日、何も言わなかった。俺の決断を、俺に任せてくれた。……ありがとうな)*


---


 翌週の月曜日の朝。

 オフィス。


 机の上に、分厚いファイルが置かれていた。

 表紙に「日本中央競馬会」の紋章。

 馬のシルエット。

 その下に「馬主登録申請書類一式」。


 山下さんが静かに説明した。


「個人馬主として登録するための要件は、二つでございます。一つ目、直近二年間の所得が年間一千七百万円以上であること。二つ目、保有資産が七千五百万円以上であること」


「俺のケースだと、どうなりますか」


「正直に申しまして、所得要件は完全にはクリアしておりません。桐島さんの役員報酬は今年一月からですので、昨年分の確定申告では十二ヶ月分の実績がございません。ただし、JRAには資産状況を加味した例外的な承認の仕組みがございます。桐島さんの現在の個人資産は要件を大幅に上回っておりますので、そちらで十分に補えると判断しております」


「つまり、資産の方でカバーできると」


「はい。加えて、今年度の役員報酬は年間六千万円ペースですので、継続的な所得の見込みという点では問題ございません。こうしたケースでは、JRA側に事前相談をするのが通例です。実は先月、馬主登録課に照会済みでございます」


 *(先月。俺がセリに行く前から、もう動いてたのか)*


「審査は年三回、四月、七月、十一月に行われます。今回の申請は、十一月の審査に上程される見込みです。結果が出るのは十一月末から十二月頃かと」


「四ヶ月以上、待つことになりますか」


「はい。その間、八十七番の馬は牧場で馴致が進みます。登録が完了次第、樋口様から正式に名義を移転いたします」


 ファイルを開いた。

 付箋が色分けされている。

 「署名」「押印」「記入不要」。

 赤・青・黄。

 山下さんの几帳面な仕事だ。


 山下さんが万年筆を差し出した。

 黒いボディに金のクリップ。


「事務用でございますが、大事な書類には使うようにしております」


 ペン先を紙に当てた。

 インクが紙に染みていく。

 桐島。

 遊馬。

 この名前が、今日、また意味を持つ。


 次は印鑑。

 朱肉に押し付ける。

 湿った感触。

 それから書類に——カン。

 小さいが鮮烈な音。

 「桐島遊馬」の四文字が、白い紙の上にくっきりと刻まれた。


 *(半年前、俺はパチンコ屋の前を通って帰ってた男だった。それが今、馬主の申請書に署名してる。しかも、自分で選んだ馬を買った後で。人生って、本当にわからないもんだ)*


「お願いします、山下さん。すべて、お任せします」


「承知いたしました」


---


 その日の午後。

 西村と橘さんと小林さんが、オフィスで俺を囲んだ。

 報告はもう済んでいた。

 馬を買った話。

 馬主登録の申請の話。

 三人は、それぞれ違う反応をしていた。


 西村は最初から最後まで大興奮だった。


「いや、ほんっとにすげえよ。遊馬が馬主! もうこれ、人生ドラマじゃん! 俺、馬名だけは遊馬に任せるなって言ったけどさ、やっぱり馬名のセンスは俺の方がある。任せろ」


「お前には絶対に任せない」


「なんでだよ! 俺、めちゃくちゃ良いのがあるんだぞ、ほら、『ユウマノユメ』とか」


「絶対にない」


「じゃあ『ニシムラヒカリ』」


「お前、それ馬の名前じゃなくて自分の名前入ってるだろ」


 西村が笑い転げた。

 いつもの西村だ。


 橘さんは珍しく、少しだけ前のめりになっていた。


「……あの、桐島さん。差し支えなければ、今後、その馬のデータを追わせていただいてもよろしいでしょうか。調教タイム、血統、兄弟馬の成績——全部、データベース化したいんです」


「橘さん、データ取っても、俺、そこまで頭使わないですけど」


「いえ、桐島さんが判断に使うわけではなく——私が個人的に勉強したいんです」


 橘さんの頬がかすかに紅潮していた。


 *(あれ。橘さんが、こんなに前のめりなの初めて見るな)*


「いいですよ、橘さん。好きにしてください」


「ありがとうございます」


 橘さんの目が、わずかに輝いて見えた。


 小林さんは、いつも通りだった。


「馬主、ということは、法人収入ではなく個人所得の管理が複雑になります。税務処理について、山下さんと確認したほうがいいです」


「そういうとこは、任せます」


「問題ない」


 それが小林さんの反応だった。

 いつも通りの小林さんだ。


---


 七月下旬。

 八月上旬。


 申請書類が受理されたという通知が届いた。

 審査開始。

 ここからは、二ヶ月から三ヶ月、待つだけだった。


 八月は、少しずつ暑くなっていた。

 梅雨が明けて、本格的な夏が始まった。

 オフィスのエアコンがフル稼働している。


 俺は毎朝、時計を握って、ビジョンを確認した。

 温かい日もあれば、冷たい日もあった。

 温かい日は行く。

 冷たい日は行かない。

 それだけのルール。

 ルール通りに動けば、金は入る。

 入った金は、法人と個人に分けて管理する。

 山下さんがやってくれる。


 そんな平穏な毎日が、お盆明けに崩れた。


 四日間、何も見えなかった。


 八月中旬。

 初めての経験だった。


 ビジョンが途絶えた。

 完全に。

 映画館の電源が落ちたように。


 一日目。

 朝起きた時、枕元の時計を握った。

 冷たい。

 蓋を開けた。

 何も見えない。

 暗い。

 ビジョンが来ない。

 時間は六時三十分。

 いつもの時間だ。


 *(たまたまだ。こういう日もある。前にも何回かあった。一日くらいビジョンがなくても、大丈夫だ)*


 カフェに行った。

 エスプレッソを飲んだ。

 バリスタの手は相変わらず安定していた。

 俺の手は、カップを握る時にわずかに揺れた。


 二日目。

 朝。

 時計を握った。

 冷たい。

 ビジョンなし。

 オフィスに行った。

 普通に仕事をした。

 だが、頭の片隅でずっと時計のことを考えていた。

 今日の夜、握ったら温かいかもしれない。

 でもダメだった。

 夜も冷たかった。


 三日目。

 同じ。

 冷たい金属の感触だけ。

 ビジョンの欠片もない。

 食事の味がしなくなった。

 カフェのエスプレッソが、ただの苦い液体に感じた。


 四日目。


 手が震えた。

 朝の八時。

 オフィスの自分の机。

 書類に印鑑を押す。

 一度目——ずれた。

 二度目——また、ずれた。

 三度目で、ようやく字が揃った。

 山下さんが気づいたかもしれない。

 だが、何も言わなかった。


 夜、ベッドの中で天井を見つめた。

 エアコンの音だけが響いている。


 *(大丈夫。五日目には戻る。きっと戻る。今まで一日、二日空くことはあった。でも四日は初めてだ。これが、終わりの始まりなのか? ……考えるな。考えても答えは出ない。眠れ。寝て、朝が来て、時計が温かければ、全部元に戻る)*


 だが、眠れなかった。

 三時間おきに目が覚めた。

 その度に時計を握った。

 冷たい。

 また冷たい。

 夜は冷たいのが普通だ。

 それはわかっている。

 わかっているのに、確認せずにはいられなかった。


---


「遊馬、ちょっと来てくれ」


 四日目の午後。

 西村が会議室に呼んだ。

 ドアを閉めた。

 二人きり。


 西村の顔が真面目だった。

 西村が真面目な顔をする時は、本当に真剣な時だけだ。


「どうした、改まって」


「投資ってこんなに安定して儲かるもんなの?」


 俺は息を止めた。


「いや、おかしくね?」


 西村は机の上に、いくつかの通帳のコピーを並べた。

 会社の通帳だ。

 法人口座の入出金記録。

 個人口座の動きも、一部把握しているのだろう。


「損した話を一回もしてないじゃん。損失ゼロ。ずっと利益。毎月、ずっと。ここまで安定した投資家、いるか? 株だって、FXだって、仮想通貨だって、必ず波がある。でも、お前には波がない。完全な右肩上がり」


 *(終わった。バレた。いや、まだだ。まだ全部はバレていない。西村は疑っているだけだ。確信には至っていない)*


「投資のプロみたいな成績。いや、プロ以上だ。お前が何かヤバいことしてんじゃないかって心配になるんだよ。本気で」


「心配してくれてありがとな。でも、ヤバいことはしてない。それだけは信じてほしい」


「本当に?」


「本当だ。ヤバくはない。ただ、運がいいだけだ」


 西村の目を見た。

 彼は笑っていた。

 だが、目は笑っていなかった。

 真剣な目だ。

 友人を心配している目だ。


「運がいいだけで半年以上ずっと勝ち続けるかよ」


「そこはな、俺もたまに不思議に思ってる。でも、事実だからしょうがない」


 三秒。

 西村は俺の目を見つめた。

 探るように。

 測るように。

 三秒が長く感じた。


 そして、西村の顔が崩れた。

 いつもの笑顔に戻った。


「わかった。ごめんな。聞いちゃいけなかったな。お前は信頼できる男だ。それはわかってる」


「聞いてくれてよかったよ、西村。気になってるなら、溜めないで言ってくれた方がいい」


「……ありがとな、遊馬」


 短い言葉だった。

 だが、その中に全てが詰まっていた。

 信頼。

 不安。

 友情。

 疑い。

 許し。

 そのすべてが。


 *(西村。お前に嘘をつくのが、一番つらい。ヤバいことはしてないってのは本当だ。でも、全部を話してるわけじゃない。それがいつか、俺とお前の間の壁になるかもしれない)*


 会議室を出た。

 西村は何事もなかったかのように、自分のデスクに戻っていった。

 プレスリリースの続きを書き始めている。

 もう笑顔に戻っている。


 だが、俺の胸の中には重いものが残ったままだった。


---


 午後五時を過ぎると、橘さんが席を立った。


「今日は少し早めに失礼します」


「お疲れさまです、橘さん。気をつけて」


「はい、ありがとうございます」


 四日間で四回目だった。

 毎日、五時か五時半に帰っている。

 以前は七時半まで残っていた橘さんが。


 山下さんの目が、橘さんの背中を追った。

 仕事の進捗を確認する目ではなかった。

 心配する目だった。


 小林さんのキーボードの音だけが、静かなオフィスに響いていた。


 俺は自分のデスクに戻った。

 パソコンの画面を見つめた。

 メールの受信箱。

 未読が十二件。

 だが、一つも開く気力がなかった。


 ビジョンのない四日間。

 その間も会社は回っている。

 山下さんが経理を見て、西村がマーケティングを回して、橘さんがデータを分析して、小林さんがコードを書いて、吉野さんが車を走らせている。

 俺がいなくても、この会社は動く。


 *(それは良いことなのか。悪いことなのか。俺がいなくても回る会社。それは健全だ。だが、俺の存在意義は何だ。ビジョンが消えたら、俺はこの会社に何を提供できる?)*


---


 五日目の朝。


 目が覚めて、枕元の時計を握った。


 温かい。


 *(戻った! ビジョンが戻った!)*


 蓋を開けた。

 ビジョンが流れ込んでくる。

 競馬場。

 馬の影。

 レースの展開——


 だが。


 違う。

 以前のビジョンとは、何かが違う。


 ぼやけている。

 焦点が合わない。

 映画のスクリーンにすりガラスをかぶせたような感覚。

 見える。

 確かに見える。

 だが、以前の4Kビジョンのような鮮明さはない。

 文字が霞む。

 番号が読みにくい。

 看板の文字が、霧の中に沈んでいる。


 *(何だこれは。ビジョンの……鮮度が落ちてる?)*


 俺は立ち上がった。

 窓を見た。

 東京の朝。

 ビルの谷間に朝日が差し込んでいる。

 行き交う人々。

 それら全てが、昨日より少しだけ遠く見えた。


 朝食を取りに出た。

 いつものカフェ。

 エスプレッソ。

 バリスタの手が動く。

 迷いのない動き。

 その手を見つめながら、自分の手を見た。

 震えはない。

 だが、全てが少しだけ、靄がかかっている。


 *(弱くなったのか。それとも、四日間の空白で感覚がずれてるだけなのか。……時間が経てば、戻るのか)*


 オフィスに着いた。

 いつもの仕事をこなした。

 山下さんに報告書を出した。

 西村と打ち合わせをした。

 メールに返信した。

 全てが、いつも通り。


 だが、俺の中で何かが、音を立てて崩れ始めていた。


 帰宅して、窓の前に立った。

 南青山の夜景。

 ビルの灯り。

 街灯の光。

 車のヘッドライト。

 すべてが少しだけぼやけて見える。

 目が悪くなったのか。

 いや、違う。

 ビジョンの鮮度が落ちたことと連動しているのか。

 それとも、ただの疲れか。


 ナイトテーブルの時計を握った。

 まだ温かい。

 朝よりは冷めているが、温度は残っている。


 *(大丈夫だ。ビジョンは戻った。ぼやけてはいるけど、戻った。これが一時的なものなのか、永続的なものなのか、今はわからない。わからないけど、今日はもう寝よう。明日の朝、また握れば、温かいはずだ)*


 時計をナイトテーブルに置いた。

 ベッドに横になった。

 天井を見つめた。

 エアコンの音が静かに響いている。


 眠りに落ちるまで、長い時間がかかった。


---


 十一月の最終週。

 郵便受けを開けた時、俺の心臓は完全に止まった。


 白い封筒。

 JRAのロゴ。

 消印は三日前。

 東京の消印。


 手が震えている。

 いや、そんなはずはない。

 俺はこの街で勝ち続けた男だ。

 競馬場で莫大な金を稼ぎ、会社を立ち上げ、社員を雇い、事業を回している。

 そんな男の手が震えるわけがない。


 だが、震えていた。


 封筒を開く。

 正式書類が三枚。

 日本中央競馬会会長の印鑑が押されている。

 赤い朱肉。

 大きな丸印。

 その横に、細かい文字が並んでいる。


 **馬主登録承認**


 *(通った。馬主登録。おれが。本当に。本当に通った)*


 手の震えが止まらない。

 封筒を握る指先が白くなっている。

 力が入りすぎている。

 深呼吸をした。

 一回。

 二回。

 三回。


 廊下に立ったまま、俺は書類を三度読み返した。

 間違いない。

 「承認」の二文字が、三枚目の書類の右上に印刷されている。


 山下さんに電話した。

 朝の八時前だった。

 山下さんはすでに起きていた。


「おはようございます、山下さん。たった今、JRAから承認書類が届きました」


「おめでとうございます、桐島さん」


 山下さんの声は静かだった。

 だが、その静かさの奥で、確かに何かが揺れている気がした。


「ありがとうございます。オフィスで改めて、資料を確認させてください」


「承知いたしました。お待ちしております」


 俺は電話を切った。

 手の中で書類の紙の角が、指に食い込んでいた。


 *(俺は馬主になった。八十七番の鹿毛——まだ名前のないあの馬が、正式に俺のものになる。樋口さんから名義を移す手続きが、ようやく始まる)*


 ポケットの懐中時計を握った。

 温かい。

 今朝もビジョンは来ていた。

 ぼやけてはいるが、確かに来ていた。


 *(時計。この一年、お前が俺をここに連れてきてくれた。ギャンブルで勝つ力を、俺に与えてくれた。だが、今日のこの承認書類は、時計のおかげじゃない。俺が、俺自身の決断で掴んだんだ。セリに行って、自分の目で選んで、樋口さんに札を上げてもらった。……でも、選んだのは俺だ。これは、俺のものだ)*


 朝の光が、廊下の窓から差し込んでいた。

 十一月の空。

 澄んだ冬の入口の空気。

 東京の十一月は、朝夕に冷え込みが増す。

 だが、今朝の冷たさは心地よかった。


 書類をもう一度、封筒にしまった。

 そっと。

 大切に。


---


**残高メモ**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 7月〜10月ギャンブル収入(映像あり回収・8回) | +約1,480万円(個人)|

| 8月中旬ギャンブル収入(映像鮮度低下後・2回) | +約210万円(個人)|

| 八十七番 落札代金(セリ・樋口名義代理購買分)| ▲2,400万円(個人)|

| 個人費用(北海道往復・宿泊・食事・交通費等・5ヶ月分生活費)| ▲約280万円 |

| 前話繰り越し(個人)| 約8,011万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約7,021万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| アプリ収入(7月〜11月分・会員1,500→3,500人)| +約1,120万円(法人)|

| 賃料収入(7月〜11月分)| +約214万円 |

| 法人経費(7月〜11月分)| ▲約4,300万円 |

| 前話繰り越し(法人)| 約1億727万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約7,761万円** |


---


【第22話へ続く】


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