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第20話 〜サクラノホマレ②〜


 六月の第一週。赤坂のホテルのラウンジ。


 南青山の自宅から吉野さんの運転で十分ほど。

 山下さんが指定した場所だった。

 落ち着いた内装のラウンジ。

 ソファ席の間隔が広い。

 天井が高い。

 話し声が壁に吸い込まれていく。

 客はまばらだった。


 山下さんは既に着いていた。

 黒いスーツ。

 いつもの姿。

 テーブルに資料を広げている。


「桐島さん。こちらでございます」


「お待たせしました。樋口さんは?」


「五分ほど前にお電話をいただきました。少し遅れるとのことでございます。十分ほどで到着される予定です」


「わかりました」


 俺はソファに腰を下ろした。

 水のグラスが運ばれてくる。

 薄いレモンのスライスが浮いている。

 手に取ると、グラスの冷たさが指先に伝わった。


 *(緊張してる。初対面の相手に、金の話をしに来てる。しかも、俺は何の見返りも求めないって立場で)*


「山下さん。今日の俺の役目、どこまでですか」


「基本的には、聞き役でよろしいかと。樋口様のサクラノホマレに対するお気持ちを伺って、桐島さんが共感された部分を素直にお伝えいただければ。具体的な金額や契約の話は、本日は不要でございます」


「つまり、今日は顔合わせだけですか」


「はい。寄付の話を本日いきなり詰めますと、かえって先方に警戒感を与えかねません。まずは人と人として、お会いいただく方が自然かと」


「なるほど」


 *(山下さんが慎重に段取ってくれてる。こういうところ、本当に頭が下がる)*


 十二時五分。ラウンジの入口から、グレーのスーツを着た男が現れた。


 四十代後半くらい。

 背丈は中背。

 体格はがっしりしている。

 建設業の社長と聞いていたが、確かに現場を知っている体つきだった。

 日焼けした顔。

 短く刈り込んだ白髪交じりの髪。

 穏やかそうな目。

 だが、目の奥にしっかりした芯が見える。


 *(この人が樋口さんか。……誠実な雰囲気だな)*


 山下さんが立ち上がった。

 俺もそれに続いた。


「樋口様、ようこそいらっしゃいました。山下でございます」


「山下さん。先日はお手紙をいただきまして、ありがとうございました」


「こちらが、お話し申し上げました桐島遊馬でございます」


「桐島と申します。本日は急なお願いにもかかわらず、お時間をいただきまして、ありがとうございます」


「樋口和彦と申します。こちらこそ、あんなお手紙をいただいて、本当に驚きました。そして、嬉しかったです」


 樋口さんは軽く頭を下げて、向かいのソファに腰を下ろした。


 ウェイターがメニューを運んできた。

 コーヒーとサンドイッチを三人分。

 会話はしばらく雑談から始まった。

 天気の話。

 六月の東京は湿気が辛い、という話。

 樋口さんは話し方も穏やかだった。

 声に余裕がある。


 やがて、樋口さんが自分から話題を切り替えた。


「桐島さんのお手紙を、何度も読み返しました。お恥ずかしい話、私、最初に読んだ時、少し涙が出まして」


「涙、ですか」


「ええ。見ず知らずの方が、うちの馬のことをそこまで見てくださっていたなんて、思いもしませんでしたから」


 樋口さんはテーブルの上のコーヒーカップを両手で包んだ。

 その手つきが丁寧だった。


「サクラノホマレは、私がデビュー前から持っていた馬です。

 正直、大した成績は残せませんでした。

 重賞で勝てたこともない。春墨田賞の勝利が、この子の最高成績です」


「春墨田賞、観てました。あの日、俺は人生で初めて馬券で大きく勝った日で。サクラノホマレに勝たせてもらったんです」


「そうでしたか……。あの日、パドックで見送ってから、スタンドで見守っていました。直線で前に出た時は、思わず立ち上がりましたよ」


 樋口さんは少し笑った。

 懐かしむ笑い方だった。


「先月の立夏ステークスも、お手紙に書いてくださっていましたね。二着のゴールを見届けた、と」


「はい。一馬身の四分の一、届かなかったんですよね。でも、最後まで脚が残ってたのは、本当にすごかったです。俺、あの時、胸が熱くなってしまって。それで、思わず山下さんにあんな電話をしてしまって」


 樋口さんが、わずかに目を細めた。


「桐島さん。失礼ながら、おいくつでいらっしゃいますか」


「二十八です」


「若いですね。私より二十も下だ」


「……お若く見えます」


「世辞はいりません。私は四十八ですよ」


 樋口さんが少しだけ笑った。

 場の空気が和らいだ。


「桐島さん。お手紙に書いてくださった寄付のお話ですが」


「はい」


「正直に申し上げますと、最初は警戒しました。こういうお申し出は、時に裏があるものですから」


「当然だと思います」


「ですが、お手紙の中身が、あまりにも誠実でした。サクラノホマレに対する思い入れが、本物だとわかりました。それで、お会いしてお話ししようと思ったんです」


「ありがとうございます」


「ただ、お金だけを頂戴するのは、私の流儀ではありません」


 樋口さんが姿勢を少しだけ正した。


「ですので、一つ、ご提案がございます」


「はい」


「来週、私、日高の牧場に行きます。サクラノホマレが今、そちらにおりますので。よろしければ、ご一緒しませんか。あの子に会っていただいて、それから改めて、ご寄付のお話も伺えればと」


 *(来週。日高の牧場。……サクラノホマレに会える)*


 俺は思わず、山下さんの方を見た。

 山下さんは小さく頷いた。

 行くべきだという意味の頷きだった。


「ぜひ、お願いします」


「では、週末に調整しましょう。私の専属運転手がおりますので、新千歳から現地までの移動はこちらで手配します」


「お気遣いありがとうございます」


「いえ。桐島さんにあの子を見ていただけるなら、こちらこそ光栄です」


 樋口さんが微笑んだ。

 穏やかな笑い方だった。

 この人は、金じゃない。

 サクラノホマレのことが、本当に大事なんだ。

 それがわかった。


---


 週末。新千歳空港。


 土曜日の朝一番の便で、俺は山下さんと二人、北海道に降り立った。

 空港を出た瞬間、肺の中の空気が入れ替わるような感覚があった。

 東京とは違う。

 湿度が低い。風が冷たい。

 六月だというのに、長袖が欲しいくらいだった。


「山下さん、北海道って初めてですか」


「若い頃に、一度だけ。札幌でございました」


「じゃあ日高は初めてですか」


「はい」


「俺もです。楽しみですね」


「さようでございますね」


 到着ロビーで、樋口さんが迎えてくれた。

 カジュアルなジャケット姿。

 都会のスーツとは違って、少しだけラフな空気を纏っている。

 運転手の男性が荷物を受け取ってくれた。

 黒いSUVに乗り込んだ。


 車が南に向かって走り出した。

 苫小牧を抜けて、太平洋沿いの道を進む。

 窓の外に、北海道の広大な景色が広がった。

 牧草地。白い柵。

 遠くに山並み。

 空が東京の三倍はある。


 樋口さんが助手席から振り向いて、俺と山下さんに話しかけた。


「もうすぐですよ。牧場までは空港から二時間半くらいですかね」


「二時間半、あっという間に感じそうです」


「ええ。北海道の景色は、見てるだけで時間を忘れますから」


 樋口さんは窓の外を指さしながら、地元の話を少しずつしてくれた。

 日高の地名の由来。

 牧場の歴史。

 この一帯がどれだけ多くの名馬を生み出してきたか。


「サクラノホマレも、この日高で生まれました。私が所有したのは、セリで一歳の時です。もう七年前ですね」


「七年、ですか」


「ええ。長いですよ、馬との付き合いは。人と同じくらい長い」


 *(七年。俺がパチンコ屋に入り浸ってた頃に、樋口さんはもう馬主になってこの馬を持ってたんだな)*


---


 牧場に到着した。


 広さは想像を超えていた。

 緑の草原が丘の向こうまで続いている。

 白い柵が、くねくねと曲がりながら土地を区切っている。

 二十頭以上の馬が、のんびりと草を食んでいた。

 首を下げて、口を動かしている。

 時折、尾が揺れる。

 蠅を払っているのだろう。


 樋口さんが一頭の馬を指差した。


「あれです。サクラノホマレ」


 栗毛の馬が、柵の向こうで草を食んでいた。

 他の馬とは少し離れた場所で、一頭で立っている。

 体はまだ引き締まっている。

 引退してまだ三週間。

 競走馬時代の名残がある。


 俺は柵の近くまで歩いた。

 草を踏む音がする。

 足元に露が残っている。


「サクラ」


 樋口さんが声をかけた。


 馬がゆっくりこちらを向いた。

 耳を動かす。

 鼻孔が開く。

 樋口さんの声を認識している。

 そのまま、ゆっくりと歩いて近づいてくる。

 首を伸ばして、樋口さんの手の匂いを嗅いだ。

 樋口さんが首筋を撫でる。

 馬が気持ち良さそうに目を細めた。


「触ってみますか」


「いいんですか」


「もちろんです。この子、人懐っこいですから」


 俺は柵の内側に入って、ゆっくり馬に近づいた。

 手を差し出した。

 鼻先を伸ばしてくる。

 温かい息が指先にかかった。


 馬の匂い。

 干し草と土の匂い。

 それに、微かな汗の匂い。

 近くで見ると、栗毛の毛並みに光が反射していた。

 額の流星がくっきり見える。


 *(こいつがサクラノホマレか。こんなに大きい。こんなに近い。立夏ステークスの直線で、俺が双眼鏡の中で見ていた馬が、今、目の前にいる)*


 俺は首筋をそっと撫でた。

 馬は抵抗しなかった。

 むしろ、少し首を下げて、撫でやすくしてくれた。


「……お前、ほんとおとなしいな」


 小さく呟いた。

 馬が、鼻を一度、短く鳴らした。


 *(この馬、本当にいい性格をしてる。人を怖がらない。警戒もしない。七年間、樋口さんが大事に育ててきたから、こうなんだろうな)*


 樋口さんが横で微笑んでいた。


「ちゃんと挨拶しましたね、この子」


「挨拶、ですか」


「鼻を鳴らすのは、挨拶みたいなもんです。うちの子にとっては」


 俺はもう一度、首筋を撫でた。

 馬の体温が手のひらに伝わってくる。

 生きている温度。

 温かい。


---


 牧場の事務所で、お茶を出してもらった。

 温かい緑茶。

 素焼きの湯呑み。

 壁には歴代の馬の写真が飾られていた。その中に、若い頃のサクラノホマレの写真もあった。

 デビュー戦のパドック。

 少し緊張した顔。


 樋口さんがゆっくりと話し始めた。


「桐島さん。さきほどお話しした寄付の件ですが」


「はい」


「ご提案をいただいて、お断りするつもりはありません。ただ、私の気持ちとしては、桐島さんからいただくお金は、サクラノホマレの繋養費として、この牧場に直接お支払いする形にさせていただきたいんです。私個人ではなく、牧場へ。そうすれば、この子のために使われることが確実ですから」


「かしこまりました。ありがとうございます。

 どれくらいお預けする形が良いでしょうか。目安とかありますか」


「そうですね。年間三百万円程度が、繋養費の目安になります」


「三年分、一千万を先にお預けするのはどうでしょうか。途中で俺に何かあっても、この子の面倒は見てもらえるように」


「……三年分、ですか」


「はい」


 樋口さんは少し沈黙した。

 それから、ゆっくり頷いた。


「ありがたくお受けします」


「お願いします」


 山下さんがノートに何か書き込んでいる。


 その時、樋口さんがふと顔を上げた。


「桐島さん、一つ伺ってもよろしいですか」


「はい」


「桐島さんご自身は、馬主になられるお考えはないんですか」


 一瞬、言葉が出なかった。


「いえ、まだ……」


「失礼な質問でしたね。ただ、ここまで馬を愛してくださる方でしたら、いつかそういう道もあるのかと思いまして」


「馬主、ですか」


 樋口さんが少し笑った。


「大変ですよ、馬主は。金がかかる。気苦労も多い。だけど、それ以上に面白い世界です。来月、日高でセレクションセールがあるんですが、もしよろしければ、見学にいらっしゃいませんか。買う買わないは関係なく。セリ会場の空気だけでも感じていただければ」


「セレクションセール……」


「ええ。若い馬たちが、馬主に買われていく場所です。あそこに行くと、馬を持つということが、どういうことか、少しわかると思いますよ」


 俺は山下さんの方を見た。

 山下さんは静かに頷いた。

 行ってみろ、という意味の頷きだった。


「ぜひ、お願いします」


「では、日程が決まったらご連絡します」


 樋口さんが微笑んだ。

 その時、俺の胸の中で、何かが小さく動いた気がした。

 寄付するために来た牧場で、全く予想していなかった扉が開きかけていた。


---


 六月中旬の夜。


 朝、懐中時計を握った時の温度を覚えている。

 温かかった。ビジョンは大井競馬場。

 ナイター。ライトに照らされた馬場。

 夜の空気の中を走る馬たち。


 吉野さんの運転する車が首都高を南に下る。

 窓を少し開けた。

 梅雨前の夜風が流れ込んでくる。

 湿度は高いが、不快ではない。

 東京湾の方から潮の匂いがかすかに届く。


「吉野さん、大井って初めてですよね」


「はい、初めてでございます」


「ナイターの競馬場、雰囲気違って面白いですよ。よかったら帰りに、一緒に何か軽く食べて帰りましょうか。奢りますよ」


「お気遣いありがとうございます。ですが、お客様のプライベートなお時間でございますので」


「堅いな、吉野さん。まあ、無理にとは言わないですけど」


 吉野さんがわずかにミラー越しに目を細めた。

 笑ったのかもしれない。


 大井競馬場に到着した。


 ナイター競馬。 

 昼間の競馬場とは別の場所だった。

 ライトアップされた馬場が、黄色い光に包まれている。

 走路の芝が人工的な緑に輝いている。

 スタンドの照明が、観客の顔を照らし出す。

 影が長い。声が響く。

 夜の空気が音を遠くまで運ぶ。


 屋台が並んでいた。

 焼きそばの鉄板が焦げる匂い。

 たこ焼きのソースが香る。

 ビールの泡が立つ音。

 それらが混ざり合って、独特の熱気を作り出している。


 *(ナイター競馬か。夜の競馬場って、こんなに雰囲気違うのか。昼間の競馬場は「勝負」って感じだけど、夜は「祭り」に近いな)*


 スタンドに上がった。

 指定席。

 朝のビジョンを思い出す。

 三レース目。

 二番の馬。

 外から差し切る展開。

 七番が二着。

 五番が三着。


 三連単の馬券を買った。

 二―七―五。


 レース開始のファンファーレが響いた。

 十二頭の馬が一気にゲートを飛び出す。

 照明の下で、馬体が汗で光っている。

 第一コーナー。

 先頭は五番。

 内側から八番が追走する。


 第三コーナー。

 第四コーナー。

 直線に入った。


 二番が外から来た。

 長い脚を伸ばしている。

 前の馬を一頭、また一頭と抜いていく。

 残り二百メートル。

 一番手に並んだ。

 残り百メートル。

 前に出た。


 ゴール。


 二番、七番、五番。

 ビジョンの通りだった。


 三連単的中。

 配当は約三百八十万円。


 高額窓口で払い戻しを受けた。

 本人確認。

 書類にサイン。

 現金が出てくる。

 一万円札の束を鞄に入れた。


 帰りの車。

 首都高に上がると、東京の夜景が広がった。

 レインボーブリッジのケーブルが白い光を放っている。

 お台場の観覧車が七色にゆっくりと回転している。

 東京タワーが赤く、暗い空に立ち上がっている。


「吉野さん、この景色、何度見ても飽きないですね」


「さようでございますね」


「半年前の俺には、こんな景色見ながら帰る人生が来るとは思ってもいなかったです」


「……そうでございますか」


 吉野さんはそれ以上何も言わなかった。

 バックミラーの中で、こちらを一度だけ見た。

 それだけ。吉野さんは余計なことを言わない。

 それがありがたい。


 窓に額を預けた。

 首都高のカーブに合わせて、景色がゆっくりと流れていく。

 浜崎橋を過ぎて、汐留の高層ビル群が近づいてくる。

 ビルの窓に灯りが点々と残っている。

 まだ働いている人がいるのだろう。


 *(この景色を見ながら帰路につく人生。半年前にはなかった。パチンコで負けた帰り道、コンビニの蛍光灯が唯一の明かりだった。あの頃の俺が今の俺を見たら、何て言うだろう。……多分、信じないだろうな。「誰だお前」って言うかもしれない)*


---


 翌週の月曜日。

 オフィス。午前十時。


 小林さんがプロジェクターを使って、アプリの進捗を報告した。スクリーンにグラフが映し出されている。


「β版ローンチから一ヶ月で、ダウンロード数が一万を超えました」


 西村が「おお」と声を上げた。

 橘さんがメモを取っている。

 山下さんは腕を組んで、スクリーンを見つめている。


「一万人って、すごい数字じゃないですか。小林さん、橘さん、お疲れさまでした」


 小林さんがわずかに頷いた。

 橘さんも小さく頭を下げる。


 *(一万人。一万人が、俺たちのアプリを入れてくれた。小林さんが作って、橘さんがデータを入れて、西村が宣伝して。それで一万人。すげえな。もっと褒めたいけど、小林さんは褒められるのが苦手そうだから、さらっと言っとくのがいいんだよな)*


「有料版の設計を始めてもいいですか」


 小林さんの声は淡々としていた。

 エンジニアの声だ。

 感情ではなく、次の工程を聞いている。


「月額八百八十円のフリーミアム方式を提案します。基本機能は無料のまま、詳細データと予想機能を有料にする設計です」


「いいですね、それ。山下さん、どう思います?」


 山下さんが口を開いた。


「収益モデルとしては妥当です。初月の有料会員数をどの程度と見込んでおられますか」


 橘さんがデータを示した。

 パソコンの画面を回して、テーブルの全員に見せた。


「類似アプリの事例を調べました。ダウンロード数一万の場合、有料転換率は五パーセントから十パーセントが標準です。五百人から一千人の有料登録が見込めます」


「五百から千人か。初月としては十分ですね」


 西村が身を乗り出した。


「ていうかさ、橘さん。Xのフォロワー数見た?」


 橘さんが少し戸惑った顔をした。


「……三万人になりました」


「三万人だぜ? インフルエンサーじゃん」


「橘さん、すごいじゃないですか。八年続けてきたものがやっと報われた感じですね」


 橘さんの耳がわずかに赤くなった。

 視線を落として、小さく「……ありがとうございます」と呟いた。


 山下さんが静かに結論を出した。


「では、月額八百八十円のフリーミアムモデルで設計を進めましょう。小林さん、開発スケジュールをお願いいたします」


---


 二週間後。

 有料版がリリースされた。

 月額八百八十円。


 初月の有料会員は八百人。

 月額収入、約七十八万円。


 *(七十八万。ギャンブルじゃなく、自分たちで作ったもので稼いだ七十八万。数字の大きさじゃない。この金の意味が違う)*


 西村が立ち上がった。


「いや、もっといけるって。マーケティング任せてくれたら、俺が仕掛ける。インフルエンサーマーケティング、SNS広告、あの辺り全部やる」


「いいよ、西村に任せる。予算は山下さんと相談して、無理のない範囲で組んでくれ」


「おう、任せろ」


 山下さんが静かに頷いた。承認の意味だ。


 オフィスの空気がわずかに変わった。

 祝いの空気だ。

 初めての法人収益が確定した瞬間。

 ギャンブルじゃない。

 不動産収入でもない。 

 自分たちで作ったプロダクトが生み出した金。

 それが口座に入った。


 その日の午後。西村が俺のところに来た。

 声が低い。


「遊馬。前に話した例の工場の件、ちょっと進展あってさ」


「ああ、親父さんが後継者で困ってるっていう」


「そうそう。金属加工の町工場。先輩が繋いでくれて、来月、向こうの親父さんと会えることになった」


「早いな、動きが」


「向こうも切羽詰まってるんだよ。後継ぎ不在、今年中に結論出さないと従業員が離れるって」


 *(金属加工工場か。先月、西村が口にした時から、妙に頭に残ってる話だ。アプリや不動産とはまったく毛色が違う。でも……だからこそ、気になる)*


「規模は?」


「従業員十五人前後。売上は一億ちょい。利益はトントンから赤字の年もあるらしい。ただ、技術がすげえって先輩が言ってた。昔は医療機器メーカーの試作品も作ってたって」


「医療機器の試作品な」


 その言葉が引っかかった。

 単なる町工場ではない。

 下請けの下請けではない技術を持っている可能性がある。


「遊馬、どう思う? 今のうちの事業とは全然関係ねえ話だからさ、無理だったら忘れてくれていい」


「いや、会う。会ってから判断する」


「マジで?」


「マジで。西村のアンテナは信用してる」


「……お前、そういうとこだぞ、心の友よ」


 西村がニヤッと笑った。


 山下さんを見た。

 彼は自分のデスクで帳簿を開いていたが、耳はこちらに向いている。

 聞いている。俺と目が合うと、小さく頷いた。

 承認ではなく、「記録しています」の頷きだ。


 会議が終わった後、西村がこっそり耳打ちしてきた。


「なあ、遊馬。橘さん、最近帰り早くない?」


「そうか? 気づかなかった」


「この前、十八時ちょうどで帰ってたぜ。いつもは十九時半くらいまでいるのに。しかも最近、昼休みにスマホずっと見てる。何か気になることでもあるんかな」


「プライベートの用事でもあるんじゃないか。恋人でもできたのかも」


「あー、それはそれでいいな。橘さんに彼女できたら、俺らで祝わねえと」


 西村が笑った。


 *(橘さんが早退。あの仕事人間の橘さんが。……まあ、恋人ならそれでいい話だ。深追いする話じゃない。いや、考えすぎか)*


 だが、小さな違和感は、頭の隅に残ったままだった。


---


 夜。スマートフォンが鳴った。


 【アン】ご飯食べたい!


 【桐島】いいよ。どこにする?


 【アン】恵比寿のイタリアン。ずっと行きたかったとこ


 【桐島】わかった。七時で予約入れとく


 恵比寿のイタリアン。

 落ち着いた雰囲気の店だった。

 テーブルに小さなキャンドルが灯っている。

 壁にはワインボトルが並んでいる。

 パスタを茹でる湯気が、厨房の奥から漂ってきた。


 アンちゃんは白いドレスを着ていた。

 黒髪が肩にかかっている。

 耳にはシンプルな銀のピアス。


 *(ほんと綺麗だな。なんでこんな女が、俺みたいな男と飯食ってるんだろう)*


「そのピアス、新しいやつ?」


「え、気づいた? 昨日買ったんだ」


「似合ってる」


「……ちょっと遊馬くん、今日やけに褒めてくるじゃん」


「たまにはな」


 アンちゃんがワインを一口飲む。

 唇が少し濡れる。


「最近、仕事どうなの?」


「まあ、ぼちぼちっていうか、ちょっと慌ただしい。でも悪くない」


「ふーん」


「今日は気分いいかも」


 アンちゃんが笑った。


「顔見ればわかるよ。うまくいってる時の顔してる」


「そういうの、わかるのか」


「プロだから」


「キャバ嬢のプロが言うと、説得力あるな」


「でしょ?」


 アンちゃんがメニューを開いた。デザートのページを指でなぞっている。


「ティラミス食べたい。遊馬くんも何か頼んだら?」


「じゃあ俺はエスプレッソで」


「えー、つまんない。じゃあティラミス半分あげる」


 ティラミスが来た。

 アンちゃんがスプーンですくって、こちらに差し出す。


「はい。あーん」


「……自分で食えるって」


「いいから。あーん」


「わかったよ」


 周囲の客の視線を感じたが、アンちゃんが楽しそうだからいいかと思った。

 口を開けた。甘い。

 マスカルポーネの濃厚な味。

 エスプレッソの苦味。


「おいしいでしょ」


「ああ、うまい。正直、思ったよりうまい」


「でしょでしょ」


 アンちゃんが嬉しそうに笑った。こういう何でもない瞬間が、妙に胸に残る。


 食事を終えて、アンちゃんをルーナに送った。

 店の前で手を振って、タクシーを拾って帰った。


 深夜。

 勤務を終えたアンちゃんが、合鍵で部屋に入ってきた。

 靴を脱ぐ音。洗面所の水の音。

 それから、ベッドに滑り込んでくる気配。


「遊馬くん、起きてる?」


「起きてる」


「お疲れ」


「お疲れ」


 翌朝。


 キッチンからいい匂いがした。

 卵焼きだ。

 フライパンの上で卵が焼ける、じゅうという音。


 アンちゃんが立っていた。エプロンをつけて。


「甘いのと出汁巻き、どっち?」


「どっちも好きだけど、今日は出汁巻きの気分かな」


「じゃあ出汁巻きね」


「いや、やっぱ両方で」


「注文多いよ、遊馬くん」


「アンちゃんが作ってくれるなら、欲張っていいかなって」


「あー、はいはい。調子いいね」


 アンちゃんが笑いながら、もう一度フライパンを温めた。


 *(こういう朝が普通になりつつある。朝起きたら、彼女がいて、朝食を作ってくれる。それが少し怖くて、少し嬉しい。……でも、この関係に名前をつけるのは、まだ早い気がする。アンちゃんもそれを望んでないはずだ)*


 朝日が南青山の窓から差し込んでいた。

 六月の光。

 眩しい。


---


 六月下旬。

 懐中時計が今日も温かい。


 ビジョンは東京競馬場。

 重賞レース。

 十八頭フルゲート。

 三連単。四―十二―七。


 *(四番が来るのか。今日のビジョンはクリアだ。文字も読める。配当板の数字も見える。……でかい配当になりそうだ)*


 吉野さんの運転で東京競馬場に向かった。

 府中の緑が深い。

 六月の府中。

 ケヤキ並木が風に揺れている。


 パドック。

 十八頭の馬が次々と姿を現す。

 どの馬も一流だった。

 筋肉の張り。毛並みの輝き。

 目の鋭さ。重賞レースに出る馬は、普段のレースの馬とは格が違う。


 四番の馬を見た。

 鹿毛。

 均整の取れた馬体。

 パドックを歩く足取りに力がある。

 尾が高い位置で揺れている。


 *(この馬だ。ビジョンで見た馬だ。間違いない)*


 三連単。四―十二―七。腹を決めて買った。


 レース開始。

 十八頭が一気にスタートを切った。

 第一コーナー。

 第二コーナー。

 バックストレッチ。

 先頭は三番。

 四番は中団の五番手あたり。


 第三コーナーを過ぎたあたりで、四番が外に持ち出した。

 加速する。

 一頭抜いた。

 もう一頭。

 直線に入る時には三番手まで上がっていた。


 直線。

 残り四百メートル。

 三百メートル。

 四番の脚色が衰えない。

 先頭の馬に並んだ。

 残り百メートル。

 抜いた。


 ゴール。


 四番、十二番、七番。ビジョンの通り。


 三連単的中。配当は約一千二百万円。


 *(千二百万。……千二百万円だ。半年間で最大の配当。いや、人生で最大の配当だ)*


 手が震えた。

 鞄の中に馬券を握りしめた。

 周囲の歓声が遠くに聞こえる。

 目の前の電光掲示板の数字だけが、やけに鮮明に見えていた。


 高額窓口。

 山下さんが同行した。

 本人確認。書類記入。

 一千万を超える払い戻しは、手続きが慎重になる。

 窓口の担当者が二人がかりで現金を数えた。


 帰りの車。

 助手席に山下さんがいた。


「桐島さん。大きな金額の現金を何度もお持ち帰りになるのは、目立ちます。税務上の観点からも、対策を検討すべきかと存じます」


「ですよね。俺もさすがにちょっと気になってました。山下さん、次回以降の対策、お任せしてもいいですか」


「承知いたしました。いくつか案を練っておきます」


「助かります」


 山下さんは前を向いたまま、静かに言った。


「会社を設立して、半年が経ちました」


「もう半年ですか。早いですね」


 俺は窓の外を見つめた。

 首都高から見える東京の夜景。

 ビルの灯りが連なっている。


「最初にお会いした時には、こうなるとは想像しておりませんでした」


 山下さんの声にかすかな感慨が含まれていた。


「俺もです。山下さんがいなかったら、ここまで来られてないですよ。面接に来てくれた日のこと、今でも覚えてます」


 山下さんが一瞬だけ、こちらを見た。

 眼鏡の奥の目が、かすかに和らいでいる。


「もったいないお言葉でございます」


「本気で言ってます」


 バックミラー越しに山下さんの横顔を見た。

 街灯の光が、山下さんの白髪交じりの髪に反射した。


 *(山下さん。この人がいなかったら、今の俺はない。会社もない。樋口さんとの出会いもなかった。この人の存在が、全部を支えている。半年前に面接に来てくれた時のことを覚えている。あの時、俺は何もわかっていなかった。経営のことも、税金のことも、書類の作り方も。全部、この人が教えてくれた)*


---


 翌朝。

 スマートフォンに一通のメールが届いていた。


 差出人は「樋口和彦」。


 件名は「セレクションセールのご案内」。


 文面は丁寧だった。

 来月七月の第二週、北海道日高でセレクションセールが開催されること。

 二日間の開催で、一日目に当歳馬、二日目に一歳馬が上場されること。

 樋口さん自身も見学に行く予定であり、もし桐島さんさえよろしければご一緒したい、という内容だった。

 最後に、「決して無理はなさらず、お時間のある時にご返信いただければ幸いです」という一文が添えられていた。


 *(セリか。……行ってみたいな)*


 しばらく画面を見つめた。

 それから、返信を打った。


 【桐島】樋口様、お誘いいただきありがとうございます。ぜひご一緒させてください。七月の第二週、予定を空けておきます。詳細が決まりましたら、改めてご連絡いただければ幸いです。


 送信ボタンを押した。


 窓の外を見た。

 六月の空は曇っていた。

 梅雨に入ったのだろう。

 低い雲が街を覆っている。

 だが、雲の向こうに太陽がある。

 見えなくても、ある。


 懐中時計をポケットから出した。握った。温かかった。


 *(樋口さんに会って、サクラノホマレに会って、セリに誘われた。俺は、寄付しに行っただけだったはずなんだ。……でも、なんか、妙なことになってきてる気がする)*


 ナイトテーブルの上に、牧場でもらった一枚の写真があった。

 樋口さんが撮ってくれたものだ。

 俺とサクラノホマレが、柵越しに並んで写っている。

 馬はカメラの方を見ていない。

 草を食んでいる最中に、たまたま撮られた一枚。

 俺は少しだけ、笑っていた。


 *(セリに行ってみるか。買うわけじゃない。見るだけだ。でも、何かを見に行くんだ、多分。俺はまだ、自分が何を見に行くのか、わかってないけど)*


---


**残高メモ**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 大井競馬 3連単 | +約380万円(個人) |

| 東京競馬場 3連単 | +約1,200万円(個人) |

| サクラノホマレ繋養費(3年分・日高の牧場へ直接送金) | ▲1,000万円(個人) |

| 個人費用(北海道往復・宿泊・食事・交通費等) | ▲約32万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約7,463万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約8,011万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| アプリ有料会員収入(初月800人) | +約78万円(法人) |

| 賃料収入(6月分) | +約42.8万円(法人) |

| 法人経費(6月分) | ▲約850万円 |

| 前話繰り越し(法人) | 約1億1,456万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約1億727万円** |


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【第21話へ続く】


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