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第19話 〜サクラノホマレ〜


 五月下旬のとある土曜日。


 目が覚めたのは、いつもより少しだけ遅かった。

 カーテンの隙間から、既に朝の光が差し込んでいた。

 五月の朝だ。

 空気が柔らかい。


 枕元の懐中時計に手を伸ばした。指先が金属に触れる。


 冷たい。


 *(今日はビジョンなしか。……あれ、今日って)*


 寝ぼけた頭が、何かを思い出そうとしていた。

 数秒の間、天井を見つめる。

 それから、ゆっくり上体を起こした。


 *(今日だ。サクラノホマレの引退レース)*


 三月の末に、ニュースで読んだ。

 「今春限りで引退へ」。

 最終戦は五月下旬の東京競馬場、「立夏ステークス」。

 あれから約二か月。

 気がつけば、もうその日が来ていた。


 *(時計、冷たいんだな。今日は来ないのか、お前。

 ……まあ、そう都合よくいくものでもないか)*


 ベッドから出て、窓の外を見た。

 南青山の五月の朝。空が高い。

 雲が薄く、日差しがまっすぐに降りてきている。

 絶好の競馬日和だった。


 スマートフォンを手に取って、吉野さんに電話した。


「おはようございます、吉野さん。すみません、土曜なんですけど、府中まで出してもらえますか。東京競馬場です」


「おはようございます。何時頃の出発でございましょう」


「十時半くらいに自宅エントランス、で大丈夫ですか」


「承知いたしました。お迎えに上がります」


「助かります。休みの日に申し訳ないです」


「いえ、とんでもございません」


 電話が切れた。

 俺はスマートフォンをベッドに放り投げて、バスルームに向かった。


---


 シャワーを浴びて、ラフなジャケットを羽織った。

 競馬場に行くだけだから、かしこまる必要はない。

 でも、なんとなく、だらしない格好では行きたくなかった。


 *(送りに行くんだ。それくらいの気持ちは見せてもいいだろ)*


 玄関で靴を履く。

 黒いスニーカー。

 履き慣らしたやつ。

 ポケットに時計を入れる。

 相変わらず冷たい。

 ビジョンはない。

 だが、今日はそれでいい。


 エントランスを出ると、アルファードが既に停まっていた。

 吉野さんが後部ドアを開けて待っている。

 黒いスーツ。

 いつもと同じ佇まい。


「おはようございます。お待ちしておりました」


「吉野さん、おはようございます。今日は休日出勤、本当に申し訳ないです」


「いえ。お気になさらず」


 後部座席に乗り込んだ。

 シートベルトを締める。

 車が静かに動き出した。


「吉野さん、東京競馬場って、行ったことあります?」


「はい。以前、前職の仕事で一度だけ」


「へえ、そうでしたか。今日は、一頭の馬の引退レースを見に行くんです。サクラノホマレっていう馬」


「ごひいきの馬でございますか」


「ひいきっていうか……縁のある馬なんですよ。去年の秋に初めて馬券を当てさせてもらって、今年の三月にも中山で勝たせてもらった。俺にとっては、ちょっと特別な馬です」


「さようでございますか」


 吉野さんの声は静かだった。

 感想を挟まない。

 でも、聞いている。

 それが吉野さんの聞き方だ。


 *(こういう相手に話すと、なんか素直に言葉が出るんだよな。気を遣わなくていい、っていうか。聞いてくれるだけで、十分)*


 環状八号線から甲州街道に入った。

 窓の外に街並みが流れる。

 五月の土曜日の昼前。

 車は少ないわけじゃないが、渋滞というほどでもない。

 吉野さんのハンドル捌きは相変わらず滑らかで、車体の揺れがほとんどない。


---


 東京競馬場、府中本町駅側の駐車場。

 吉野さんは車を所定の場所に停めた。


「俺、数時間で戻ります。終わったら連絡します」


「承知いたしました。ここでお待ちしております」


「吉野さんも、よかったら場内で過ごしてください。ずっと車の中だと退屈でしょうし」


「では、少しだけお言葉に甘えさせていただきます」


「そうしてください」


 車を降りた。

 五月の風が頬に当たる。

 土曜日の東京競馬場。

 入場ゲートに向かう人の流れに混じった。


---


 指定席は取らなかった。

 自由席で十分だった。

 どうせパドックと馬場の間を動き回ることになる。

 荷物は軽くしておきたい。


 まずパドックに向かった。

 まだ第十レースの前。

 第十一レースが「立夏ステークス」。

 サクラノホマレの最終戦だ。

 時間にはまだ余裕がある。


 第十レースのパドックを眺めた後、コンコースで缶コーヒーを買って、ベンチで時間を潰した。

 土曜日の東京競馬場の音。

 場内アナウンス。歓声。

 足音。

 売店の呼び込み。

 どれもが五月の空気に溶けている。


 *(懐中時計がなかったら、俺はたぶん、こういう場所にまだ毎週通ってた男だったんだろうな。負け続けて、それでも来てた。もうそれは戻らない景色だけど、今日一日だけは、そういう人間の気持ちで見てみたい)*


 スマートフォンで出走表を確認した。

 第十一レース、立夏ステークス。

 芝二千メートル。十六頭立て。

 サクラノホマレは八番。

 人気は五番人気。

 単勝オッズ九・八倍。

 引退レースということでファンの期待票が入って、それでもこのオッズ。

 鞍上は古豪の藤本騎手。最後まで同じ鞍上でいくことにしたらしい。


 *(九・八倍か。微妙だな。勝ちを期待されてるわけじゃない。でも諦められてるわけでもない)*


 俺は缶コーヒーを飲み干して、立ち上がった。パドックへ向かった。


---


 パドック。


 柵の最前列は既に人で埋まっていた。

 俺は二列目、人と人の隙間から覗き込めるポジションを取った。

 立夏ステークスの出走馬が、ゆっくりと周回を始めている。


 八番、サクラノホマレ。


 栗毛の馬体。

 均整が取れている。

 歩様は落ち着いていた。

 今日で最後だと知っているのか、知らないのか、それは人間にはわからない。

 だが、その歩みには、慌てたところが何一つなかった。


 三月に中山で見た時と同じだった。

 いや、あの時より少し、馬体が細くなった気がする。

 七歳という年齢。

 競走生活の最終盤。

 筋肉の張りは若い馬ほどではない。

 だが、骨格の均整と、歩幅の一定さは変わらない。


 *(お前、最後までずっとお前だな)*


 サクラノホマレが俺のいる側の柵に近づいてきた。

 二メートル。

 一メートル半。

 俺は柵の縁に手を置いた。

 木肌が少しざらついている。

 三月の中山でも、同じ感触があった。


 一瞬。


 サクラノホマレの目が、俺のいる方を向いた。

 本当に、一瞬だけ。

 気のせいかもしれない。

 馬の視線なんて、見る側の思い込みで変わる。

 前と同じだ。

 でも、前と同じように、俺は確かに目が合ったと感じた。


 *(今日で最後なんだよな、お前の走る姿を見るのは)*


 言葉は出さなかった。

 でも、柵を握る手に力が入った。


 サクラノホマレは、俺の前を通り過ぎて、また馬場の反対側に歩いていった。

 尻尾がゆっくりと揺れた。


 パドックを後にする時、足が少しだけ重かった。

 前に進みたくない、みたいな、そういう重さ。

 理由はわからない。

 ただ、そう感じた。


---


 パドックから馬券売り場に向かった。

 足取りは速くなっていた。


 窓口の前で少しだけ迷った。

 どのくらい賭けるか。

 そこで俺は立ち止まった。


 *(懐中時計は冷たい。ビジョンはない。今日は勝負にならない。たぶん、負ける。それでもいい。いや、むしろ、今日は「勝つため」に賭けるんじゃない)*


 紙袋を開けた。

 個人口座から引き出しておいた現金。

 五百万円。

 高額窓口へ向かった。


 *(俺はこの馬の背中に、金を預ける。五百万円。最後のレースに、ありったけ)*


 窓口の女性が顔を上げた。


「八番、単勝、五百万円」


 少しだけ、声が上ずった。

 自分でも気づいた。

 高額窓口のスタッフは、表情を変えなかった。

 手慣れた動きで用紙を出してくる。

 本人確認の書類を提示する。

 記入する。彼女が電卓のような端末を叩く。

 小さな音が連続する。


「八番、単勝、五百万円、確認いたしました」


 馬券が出てきた。

 薄い紙。

 指の腹で触れると、まだ機械の熱が残っているような気がした。


 俺はそれをジャケットの内ポケットに入れた。

 心臓のすぐ横。


 *(…… 最後だ。思いっきり走ってくれ)*


---


 スタンドに上がった。

 三階の自由席エリア。

 馬場がよく見える位置を確保した。

 五月の午後の光が、芝の緑を照らしている。

 遠くに府中のビル群が見える。

 青空。雲がほとんどない。


 ファンファーレが鳴った。


 クラシックの序章みたいな、短い旋律。

 俺は立ち上がった。

 他の観客も立ち上がっている。

 スタンド全体が、少しだけざわついた。


 ゲート入り。


 八番、サクラノホマレ。

 ゲートに収まるのに少しだけ時間がかかった。

 若い頃と比べると、馬も疲れやすいと聞いたことがある。

 七歳の春。

 もう若い馬じゃない。


 全頭入った。


 発走。


 十六頭が一斉に走り出した。

 俺はスタンドの手すりを両手で握った。

 目が離せない。

 サクラノホマレは、中団よりやや後ろ。

 九番手か十番手。

 いつもの位置取りだ。

 派手な先行はしない。

 直線で伸びるタイプ。


 一周目のスタンド前。

 歓声が上がった。

 それから、馬群はバックストレッチに入っていった。

 遠くなる。双眼鏡を取り出した。

 吉野さんに借りた、いや、違う、これは俺が家から持ってきたものだ。

 いつかいつか、と思って買っておいた双眼鏡。

 ようやく使う日が来た。


 三コーナー。

 馬群が動いた。

 先頭は一番人気の五番、ブルーサンライズ。

 外から四番、ゴールデンディザーが上がっていく。

 内からも二頭。


 サクラノホマレは——まだ後方だ。


 *(動け)*


 四コーナー。

 直線入り口。


 サクラノホマレが、動いた。


 外へ、大きく。

 藤本騎手の鞭が入る。

 馬体が伸びる。

 加速。

 長い脚を大きく使って、前を行く馬たちを一頭、また一頭と交わしていく。


 直線、残り四百。


 五番のブルーサンライズが先頭で粘っている。

 外から四番のゴールデンディザーが並ぼうとしている。さらに外から、サクラノホマレ。三番手。


 残り三百。


 サクラノホマレが二番手に上がった。

 ゴールデンディザーを抜いた。

 俺は手すりから手を離さなかった。


 残り二百。


 先頭のブルーサンライズとの差、一馬身半。


 残り百。


 一馬身。


 ハーフ馬身。


 ゴール。


 一着、五番ブルーサンライズ。

 二着、八番サクラノホマレ。


 一馬身の四分の一差だった。


---


 電光掲示板に数字が並んだ。

 確定。

 五、八、四。

 五百万円の単勝は、紙になった。


 だが、俺は動けなかった。


 双眼鏡の中で、サクラノホマレが、ゆっくりと減速していた。

 ゴール板を過ぎて、スタンド前を流していく。

 首を上下に振っている。

 全力で走り切った馬の、深い呼吸。

 鼻が広がっている。

 鞍上の藤本騎手が、馬の首筋を何度も叩いた。


 *(届かなかったな。一馬身の四分の一。……でも、お前、ちゃんと走ったじゃねえか)*


 胸の奥が熱くなった。

 じわじわと広がっていく熱。

 懐中時計の熱さとは違う。

 もっと深い場所から湧いてくる熱。


 *(届かなかったけど、最後まで伸びた。七歳で、引退レースで、最後の直線でちゃんと脚を使った。こいつは、最後まで、こいつだった)*


 スタンドの観客は既に次の動きに移り始めていた。

 払い戻しの列に並ぶ者、帰り支度を始める者、次のレースに備える者。

 だが、俺はまだ手すりを握ったままだった。


 目の奥が少しだけ熱かった。

 気のせいだと思った。

 いや、気のせいじゃなかった。


 *(俺、今、泣きそうになってるのか? マジで? 五百万負けて、二位の馬に? ……いや、違う。負けたから泣きそうなんじゃない)*


 自分でも理由が説明できなかった。

 でも、胸の奥の熱は収まらなかった。


---


 サクラノホマレが、地下馬道に向かって歩いていく。


 馬場から去っていく後ろ姿を、俺は最後まで見送った。

 双眼鏡越しの、ちぎれそうなほど小さな背中。

 引退レースを終えた馬。七年間、レースのために生きてきた馬。

 今日で、その役割が終わる。


 明日から、この馬はどこで暮らすんだろう。


 種牡馬になるほどの血統ではない、と新聞記事に書いてあった。

 成績は堅実だったが、GI勝ちはない。

 だから、引退後は——引退馬の行き先は、人間が考えてやらなければならない。

 受け入れ先を見つけられなかった馬が、どういう末路をたどるか。


 *(こいつ、どこに行くんだ。明日から)*


 その問いが、頭の中で消えなかった。


 俺はスタンドの階段を降りた。

 パドック脇を通って、地下馬道の入り口に近い場所まで行った。

 関係者以外は入れない場所。

 俺は柵の外に立って、中を見つめた。

 もちろん、サクラノホマレはもうそこから奥に入ってしまった後だった。


 *(俺にできることは何かないだろうか)*


---


 ゲートを出ると、吉野さんのアルファードが駐車場の一番端で静かに停まっていた。

 後部ドアが開いた。乗り込んだ。


「お疲れ様でございました」


「吉野さん。場内、見ました?」


「はい。立夏ステークス、最終レースも」


「どう見えましたか、サクラノホマレ」


 吉野さんは少しだけ考える間を置いてから、答えた。


「恐れ入りますが、競馬に詳しくないものですから、技術的な評価は申し上げられません。

 ただ、最後まで脚が残っていたように見えました」


「ああ、その通りです。脚、残ってましたよね。届かなかったけど、最後まで伸びた」


 自分の声が、少しだけ震えているのに気づいた。


 *(なんで俺、こんな感情的になってるんだ。……いや、いいか、今日は)*


「吉野さん。少し、遠回りでもいいですか。どこでもいいんで、ちょっと走ってもらって。すぐ帰る気分じゃなくて」


「承知いたしました。多摩川の土手沿いに抜けて、環八でお戻りしますか」


「それでお願いします」


 吉野さんは何も言わずにハンドルを切った。

 アルファードはゆっくりと駐車場を出て、府中の街中を抜けていった。

 多摩川の土手道に出た頃、夕方の日差しが水面に反射していた。

 五月の川はきらきらと光っていた。


 俺は窓の外を見つめたまま、山下さんに電話をかけた。


「もしもし、山下さん。桐島です。いま、大丈夫ですか」


「はい、問題ございません。いかがされましたか」


「一つ、相談があります。……サクラノホマレの、元オーナーを特定してもらえませんか」


 一瞬の沈黙があった。


「元オーナー、でございますか」


「はい。今日、東京競馬場で引退レースだったんです。二着でした。……引退した後のこいつの繋養費、俺から寄付したくて。元オーナーの方に直接、お渡ししたいんです。個人的な援助として」


「サクラノホマレ、承知しております。桐島さんが以前からご縁のある馬でございますね」


「そうです。引き取るとか、そういうつもりじゃなくて。引退馬の面倒を見るのは、元オーナーの方の仕事ですよね。だから、その負担を少しでも軽くしたい。まとまった額で、援助の形で」


「可能でございます。現役馬主の情報は公開されておりますので、特定自体は難しくございません。失礼ながら——先方にとっては、見ず知らずの方からの寄付のお申し出は、やや戸惑われる可能性もございます。まずは、お気持ちを丁寧にお伝えする形を整えてから、お取次ぎする方がよろしいかと」


「それでお願いします。山下さんに、全部任せます」


「承知いたしました。月曜の朝までに、先方の情報と、お取次ぎの段取りを整えてご報告いたします」


「お願いします。山下さん、本当にお願いします」


 電話が切れた。

 スマートフォンを膝の上に置いた。

 窓の外の夕日が、車のボディに反射している。


 *(言っちゃったな、俺。言っちゃった。でも、後悔はしてない。むしろ、言って楽になった)*


 吉野さんがバックミラー越しに、一瞬だけこちらを見た気がした。

 何も言わなかった。

 ただ、ハンドルを握っている。


「吉野さん。今日、本当にありがとうございました。付き合ってもらって」


「いえ。仕事でございます」


「仕事って言ってくれるの、助かります」


 俺は少しだけ笑った。吉野さんは前を見たままだった。


---


 五月十九日、月曜日の朝。


 目が覚めた瞬間、枕元の懐中時計に手を伸ばした。


 温かい。


 *(お、今日は来てるな。週明けからお疲れ様です)*


 蓋を開ける。

 ビジョンが流れ込んでくる。

 立川競輪場。バンクの木目。

 七番の選手が第三コーナーを過ぎたあたりで仕掛けた。

 四番手のポジションから外側へ大きく膨らむ。

 捲り。脚の回転が加速する。

 前を行く三人を一気に抜き去る。

 一着。

 七―一―四。

 三連単。


 数字を脳に刻み込んで、蓋を閉じた。


 *(立川か。午後だな。まずはオフィスに行って、山下さんの話を聞く)*


---


 オフィスに着くと、山下さんが既に会議室でファイルを広げていた。

 JRAのロゴが入った資料。

 赤いアンダーラインが、山下さんの几帳面な字で引かれていた。


「おはようございます、山下さん。早いですね」


「おはようございます。お待ちしておりました」


「昨日はすみません。いきなりあんな電話して」


「いえ。むしろ、お電話いただけて助かりました。資料の準備が早くに済みましたので」


 山下さんの声はいつも通り静かだった。

 だが、眼鏡の奥の目に、わずかに熱のようなものが宿っている気がした。


「サクラノホマレの元オーナーを特定いたしました」


 山下さんが資料を指さした。


「樋口和彦様、四十八歳。東京都港区赤坂在住。本業は中堅の建設会社の経営者でいらっしゃいます。個人馬主として登録されており、現在の所有頭数は四頭。サクラノホマレはその中で最も古い所有馬で、デビュー前から一貫して所有されている馬でございます」


「四頭……。少ないな」


「はい。個人で、長く、大切に育てるタイプの馬主さんでございます。JRAの登録情報や、業界内の評判から拝察いたしますに、ごく堅実な方かと」


 *(……いい人、っぽいな。なんとなくだけど)*


「引退後の繋養先も既に決まっております。北海道日高の牧場。樋口様が以前から繋がりのある牧場でございまして、サクラノホマレは来月にはそちらに移される予定と伺っております」


「やっぱり、ちゃんと面倒見てもらえるんですね」


「はい。ただ、引退馬の繋養費は、月あたり二十万円から三十万円、年間にして三百万円前後かかるのが通常でございます。五年、十年と続けば、相応の負担になります。桐島さんのお気持ちは、樋口様にとっても、決して軽いものではないかと存じます」


「じゃあ、問題ない感じですか。元オーナーに連絡取るの」


「そこが、一つ、申し上げておきたい点でございます」


 山下さんが、少しだけ姿勢を正した。


「先方は、桐島さんのことを全くご存じありません。見ず知らずの方から、突然『お金を寄付したい』とお申し出があった場合、警戒される可能性が高うございます。失礼ながら、詐欺やトラブルを警戒される方もいらっしゃいます」


「ああ。言われてみれば、そうか」


「ですので、お取次ぎの方法を、少しだけ工夫させていただきたく存じます。私の方で、まず書簡の形で、桐島さんのお人柄と、サクラノホマレへの思い入れを綴った文書をお送りします。その上で、先方から『お会いしてもよい』というお返事をいただけた場合に限り、お食事の席などをセッティングいたします」


「お任せします、全部。山下さんの言う通りにします」


「承知いたしました。本日、書簡を作成してお送りいたします。お返事は、早ければ一週間以内に届くかと」


「助かります。本当に」


 山下さんが一礼して、会議室を出た。ドアが静かに閉まった。


 俺は窓の外を見た。

 月曜の五月の空。

 雲が流れている。


 *(寄付の原資は、多い方がいい。月三十万を一年分で三百六十万。それが五年続けば千八百万。まとまった額を最初に渡せるなら、それに越したことはない。……今日、立川だな)*


---


 立川競輪場。

 正門をくぐると、独特の空気が漂ってくる。


 この会場の魅力は、音にある。

 木製バンクが奏でるかすかな振動音。

 タイヤが路面を削る高周波。観客の声援が壁に反射して、会場全体に独特の残響を作り出す。

 競馬場の開放感とは違う。

 競輪場は、音が閉じ込められる空間だ。


 スタンドに上がった。

 五月の風が気持ちいい。

 ビールを買おうかと思ったが、やめた。今日は勝負だ。


 第九レース。

 ファンファーレが鳴った。


 六人の選手がバンクに入る。

 号砲。最初の数周は牽制し合う。

 先頭誘導員が離れた。ここからが本番だ。


 七番の矢崎が動いた。

 第三コーナーから外側に膨らむ。

 脚を回す。

 ペダルを踏む。

 加速。

 四番手から三番手へ。

 二番手へ。

 大きく外に膨らみながら、先頭の選手に並びかけていく。


 直線。


 七番が前に出た。

 一番手。そのまま差を広げていく。

 一車身。二車身。後ろが追いつけない。


 ゴール。


 七―一―四。

 ビジョンの通りだ。


 電光掲示板に数字が出た。

 三連単。

 的中。

 払い戻し金額が表示される。


 約四百二十万円。


 *(これで寄付の原資が乗った。サクラノホマレ、お前のためだ)*


 払い戻しの窓口に並んだ。

 高額窓口。

 本人確認がある。

 身分証明書を提示して、用紙に記入する。

 窓口の女性が現金を数える。

 札束。

 一万円札が積み上がっていく。


 鞄に入れた。

 重い。

 四百二十万円分の重さ。


---


 帰りの車の中で、窓の外を見つめた。

 夕方の中央道。 

 多摩の丘陵地帯が夕日に染まっている。


「吉野さん、競輪、どうでしたか。初見で」


「お客様が楽しんでおられるのは、見ていてわかります」


「ははっ、それはいい答えですね。気を使わせちゃったかな」


「いえ。率直な感想でございます」


 *(吉野さんの答え方、好きだな。聞いてないことは言わない。聞かれたことだけに、過不足なく答える。でも、ちゃんと温度はあるんだよな)*


 車内に沈黙が戻った。

 エンジンの低い音だけが響いている。

 心地いい沈黙だった。


---


 帰宅すると、桑原さんからのLINEが入っていた。


 【桑原さん】この間のジンジーニャ、本当にありがとうございました。あんなに美味しいお酒は初めてでした。今度、何かお返ししたいんですけど、何がいいですか?


 少し考えてから返信した。


 【桐島】お返しとか全然いらないですよ。

 飲んでもらえただけで嬉しいので。

 でも、せっかくなので、今度ふくろうで一杯ご一緒できるなら、それが一番嬉しいです。


 送信してから、スマートフォンを置いた。


 数分後、返信が来た。


 【桑原さん】では、来週の水曜あたりにふくろうに寄ります。良かったら。


 【桐島】了解です。じゃあ水曜に。


 スマートフォンを充電器に置いて、ベッドに入った。

 天井を見つめた。エアコンの音が静かに響いている。


 懐中時計をポケットから出して、ナイトテーブルに置いた。ランプの明かりを消した。


---


 翌朝。

 まだ暗い時間に、スマートフォンが鳴った。

 画面に「山下」の文字。


 *(五時四十分。山下さんが早朝に電話してくるのは初めてだ)*


「おはようございます、山下さん。早いですね」


「おはようございます。朝早くに失礼いたします。一点、ご報告がございます」


 山下さんの声はいつもの冷静なトーンだった。

 だが、その冷静さの奥に、かすかな何かが含まれている。


「昨日の夜、樋口様宛ての書簡をお送りしたのですが——先ほど、先方から直接お電話がございました」


「……朝五時に?」


「はい。早朝で恐縮ですがと前置きがあり、たまたま早起きなもので、と。三十分ほどお話しいたしました」


 *(いや、早すぎるだろ。山下さんの書簡がよほど響いたのか、それとも、樋口さんもよほど早起きなのか)*


「先方、非常に喜んでくださいました。寄付のお申し出というよりも、サクラノホマレに対する桐島さんのお気持ちに、深く共感してくださったご様子でございます」


「そうですか……」


「『桐島さんとは、ぜひ一度お会いしたい』とのことでございます。時期は、桐島さんのご都合に合わせるとのこと。また、『もしよろしければ、サクラノホマレが牧場に移ったあと、一緒に会いに行きませんか』ともおっしゃっておりました」


 一瞬、言葉が出なかった。


「……本当ですか」


「はい。先方は、サクラノホマレを本当に大切にしておられるご様子でした。私の書簡の中で、中山のパドックで柵越しに見たこと、春墨田賞で勝たせてもらったこと、立夏ステークスの二着のゴールを見届けたこと、その全てを綴っておきましたので、きっとそれが伝わったのかと」


「山下さん、本当に、ありがとうございます」


「恐縮でございます」


「今週中に、お会いする段取り、お願いできますか」


「かしこまりました。先方のご都合を伺って、調整いたします」


 電話が切れた。


 俺は懐中時計を握った。

 枕元にあった。ポケットに入れたまま寝落ちしていたのだ。


 温かかった。


 *(ありがとう。誰に言ってるのかわからないけど、ありがとう。……サクラノホマレ、お前の元オーナーに会いに行くからな)*


 窓の外が明るくなり始めていた。

 五月の夜明け。

 空の端がオレンジ色に染まっている。


 *(半年前、俺はパチンコ屋の前を通って帰ってた男だった。それが今、見ず知らずの馬主さんに会いに行こうとしてる。しかも、好きな馬のために金を出したいっていう理由で。人生って、本当にわからないもんだ。……でも、わからないから面白いのかもしれないな)*


---


**残高メモ**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| サクラノホマレ単勝(立夏ステークス・外れ) | ▲約500万円(個人現金) |

| 立川競輪 3連単的中 | +約420万円(個人現金) |

| 5月下旬〜6月上旬の映像あり回収(競馬・競艇計2回) | +約650万円(個人現金) |

| 個人費用(飲み代・交通費等) | ▲約28万円 |

| 前話繰り越し(個人) | 約6,921万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約7,463万円** |


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 高輪2LDK+港区1LDK賃料(5月分) | +約42.8万円(法人収入) |

| 法人経費(事務所維持費・人件費・サーバー費等) | ▲約850万円 |

| 前話繰り越し(法人) | 約1億2,246万円 |

| **KY Holdings 法人口座** | **約1億1,456万円** |


---


【第20話へ続く】


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