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第18話 〜リリース〜


 5月7日、火曜日。朝8時。


 枕元の時計を握った。


 冷たかった。


 映像は来なかった。今日はFORECASTのリリース日だ。


 *(今日は映像なしか。まあ、むしろちょうどいい。今日は会社の日だ)*


---


 9時半に吉野さんが迎えに来た。


 「おはようございます。今日はリリースの日ですね」


 「そうなんですよ。なんか朝からそわそわしてます」


 「皆さん、お待ちかと思います」


 「でしょうね。俺より先に着いてそうだ」


 事務所に着くと、すでに全員が揃っていた。

 いつもより空気が硬い。


 小林さんがモニターに向かっていた。サーバーのダッシュボードが表示されている。緑色のゲージが並んでいた。


 「準備できてます」

 小林さんが振り返らずに言った。


 「ありがとうございます。任せます」


 橘さんがXの管理画面を開いていた。告知のツイートが下書きに入っている。


 「橘さん、文面これでいいですか」


 橘さんが画面を見ていた。

 「……はい、これでいいと思います」


 「緊張してます?」


 「少し」


 「俺もですよ」


 西村が立ったまま、スマートフォンを握りしめていた。

 「いつ出す?」


 「10時です」

 小林さんが答えた。


 「あと20分か……長いな」


 「そわそわすんなよ、西村」


 「だってこれ俺の人生で一番緊張してるかもしれないんだぞ」


 「大げさだな」


 「大げさじゃないって。会社の運命がかかってんだから」


 「大げさだっての」


 山下さんがいつもの席に座っていた。帳簿は閉じていた。

 「桐島さん、コーヒーでも淹れましょうか」


 「あ、お願いします。山下さんも飲んでください」


 「そうします」


 全員が画面を見ていた。


 9時58分。


 小林さんがキーボードに手を置いた。


 9時59分。


 「行きます」


 10時00分。


 小林さんがエンターキーを押した。


 FORECAST β版が、世に出た。


---


 最初の1分は何も起きなかった。


 ダッシュボードの数字がゼロのまま動かない。


 西村が立ったまま画面を凝視していた。

 「来ないな」


 「まだ1分です」

 小林さんが冷静に言った。


 「西村、落ち着け。始まったばっかだろ」


 「だって……」


 「大丈夫だって」


 橘さんがXの画面を見つめていた。指が少し震えているのが見えた。

 8年間データを溜めてきた人間にとって、この1分は長いはずだ。


 *(橘さんにとっては、8年分の答え合わせの瞬間か)*


 山下さんだけがいつもの姿勢で座っていた。腕を組んで、モニターをじっと見ている。何を考えているのかわからない。


 2分後、ダッシュボードの数字が「3」に変わった。


 「来た」

 橘さんが小さく言った。


 「来ましたね」


 5分後、「27」。

 10分後、「83」。


 橘さんがXの告知を投稿した。


 「競馬予想アプリ FORECAST β版、本日リリース。8年分のデータをベースにした独自アルゴリズムで高精度予想を提供します。無料です」


 リポストの通知が鳴り始めた。


 30分後、ダウンロード数は400を超えた。


 1時間後、500を超えた。


 橘さんのXに返信が並び始めた。


 「的中率がおかしい」

 「マジで無料でいいの?」

 「橘さんのブログ読んでたからDLした。期待通り」

 「UIがシンプルで使いやすい」


 小林さんが言った。

 「想定の1.5倍のペースです。サーバーは問題ありません」


 「さすがですね、小林さん」


 「問題ないように組んだので」


 西村がソファから跳ね起きた。

 「やばい、すごい反応」


 「だから落ち着けって」


 「落ち着けるかよこれ。見ろよこのリプライの数」


 「見てるよ」


 山下さんが静かにダッシュボードの数字を確認していた。

 何も言わなかった。でもペンを回す手が少し速かった。


 *(山下さん、嬉しそうだな。普段は顔に出ないから、こういう小さな動きでわかる)*


 俺はソファに座って、コーヒーを飲んでいた。

 この空気の中にいられることが嬉しかった。


---


 夕方になった。


 ダウンロード数は2,000を超えた。


 橘さんのXのインプレッションは15万を超えていた。

 フォロワーも一日で800人以上増えていた。


 橘さんがモニターを見ていた。

 Xのリプライを一つ一つ読んでいるようだった。スクロールする手が止まらない。


 「橘さん」


 橘さんが振り向いた。

 目が少し赤かった。


 「……すみません。少し見入ってしまいました」


 「いや、いいですよ。ゆっくり読んでください」


 「大丈夫ですか」


 「はい。……ただ、8年間ブログを書いてきて、今日初めて……多くの人に届いた、という実感があります」


 橘さんが画面に視線を戻した。

 「『橘さんのデータのおかげで初めて3連単が当たりました』というリプライが来ています。こういうのは……初めてです」


 「良かったですね、本当に」


 「……はい」


 小林さんがサーバーの状態を最終確認した。

 「想定の3倍のアクセスですが、持っています。明日以降も問題ないと思います」


 「助かります。小林さんがいてくれて本当に良かった」


 「……どうも」


 西村がプレスリリースの反応を確認していた。

 「競馬系のメディア2社から取材依頼が来てる。どうする?」


 「橘さんが受けるのがいいんじゃないですか」


 橘さんが少し困った顔をした。

 「……僕は、データの話しかできないですが」


 「それでいいですよ。橘さんのデータの話を聞きたくて取材してくるんだから」


 「……はい」


 「無理しないで、自分のペースで話してください」


 「わかりました」


 山下さんが口を開いた。

 「初日としては十分な結果です。有料化のタイミングを前倒しすることも検討していいかもしれません」


 「まだ早くないですか」


 「数字次第です。2週間様子を見ましょう」


 「わかりました。山下さんの判断にお任せします」


 時計は17時を回っていた。


 全員に言った。

 「みんな、本当にお疲れ様でした。今日は助かりました」


 西村が即座に反応した。

 「打ち上げ行こう」


 「明日にしろ」


 「えー」


 「明日でいいだろ。今日はみんな疲れてる。いい店、西村が探しといてくれよ」


 「お、任せろ。六本木で探しとく」


 西村がしぶしぶ、でも嬉しそうに頷いた。


 帰り際、橘さんがエレベーターの前で立ち止まった。


 「桐島さん」


 「はい」


 「……ありがとうございます。この仕事を作ってもらって」


 「俺は何もしてないですよ。橘さんの8年間があっての今日ですから」


 「いいえ。桐島さんが声をかけてくれなかったら、僕はずっと一人でデータを弄っているだけでした」


 橘さんが頭を下げた。深く。


 「ありがとうございます」


 「頭上げてください、橘さん」


 橘さんがゆっくり顔を上げた。


 「声をかけたのは俺ですけど、届くデータを作ったのは橘さんです。今日のリプライが全部証明してますよ」


 「……はい」


 「明日の打ち上げ、来てくださいね」


 「……?」


 「西村がうるさいから」


 橘さんが小さく笑った。


 「……はい。伺います」


 エレベーターのドアが閉まった。


 *(橘さんが笑うの、久しぶりに見たな)*


---


 翌日の打ち上げは六本木の居酒屋だった。

 西村が「せっかくだから」と探してきた少しいい店だ。


 5人で乾杯した。


 「お疲れ様でした」


 「お疲れ様です」


 小林さんがビールを飲んで「美味しいです」と言った。小林さんが感想を口にするのは珍しい。

 橘さんはウーロン茶だった。「お酒は弱いので」と言って、でも楽しそうだった。

 山下さんはハイボールを一杯だけ。いつも通り静かだったが、西村の話に時々うなずいていた。

 西村はビールを3杯飲んで、ほとんど一人で喋っていた。


 「初日2,000DLだぜ。やばくない?」


 「西村さん、3回目です。その話」

 小林さんが言った。


 「3回言ったくらいで怒るなよ。すごいことなんだから」


 「怒ってないですよ。事実を言っただけです」


 「小林、地味にきついこと言うよな」


 「そうですか」


 その返しに、俺も橘さんも吹き出した。


 「橘さん、ウーロン茶お代わりしますか」


 「あ、はい。お願いします」


 「今日のリリース、ほんと橘さんのおかげですよ。みんなで祝いましょう」


 「……ありがとうございます」


 橘さんが少しだけ照れた顔をした。こういう顔をするのは珍しい。


 店を出たとき、夜の空気が心地よかった。

 5人で並んで歩いた。


 *(半年前、みんなは全員バラバラだった。橘さんはデータを弄ってただけ。小林さんはどこかでコード書いてた。西村は営業で。山下さんは税理士で。みんな別々の人生を送ってた。今は同じ方向を向いて歩いてる。同じ目標のために。……これが、経営?これが、会長の仕事?)*


---


 翌々日の土曜日。


 枕元の時計を握った。

 冷たかった。映像は来ない。


 *(今日は休みだ。競馬場は行くけど、映像はなし。見るだけの日)*


 冷たい日はギャンブルに行かない。

 それが俺のルールだ。


 アンちゃんにLINEを送った。

 『今日迎えに行くよ。何時がいい?』


 『12時! まだ何着てくか迷ってる』


 『動きやすい格好がいいよ。結構歩くから』


 『了解!!』


 吉野さんに連絡を入れた。「今日は12時にアンちゃんを拾ってから府中に向かいます」


 「承知しました」


---


 アンちゃんのマンションの前にアルファードが停まった。


 アンちゃんが出てきた。白いブラウスにデニム。サングラスを頭の上に乗せている。


 吉野さんが降りて、後部座席のドアを開けた。


 アンちゃんの足が止まった。


 「え、何これ。運転手さんいるの?」


 「最近ついたんだよ」


 「え、すごい。遊馬くんどうなってんの」


 アンちゃんが車内に乗り込みながら、きょろきょろと車内を見回している。


 「広い……。このシート、めっちゃふかふかなんだけど」


 「だろ? これ乗るの、俺もまだ慣れないけどな」


 「吉野さん、アンちゃんです。よろしくお願いします」


 吉野さんがバックミラー越しに軽く会釈した。

 「よろしくお願いいたします」


 「よろしくお願いします! すごいなあ、遊馬くん出世したね」


 「出世っていうか。まあ、色々あってな」


 「いいじゃん。かっこいいよ」


 「そう? ありがと」


 アンちゃんがシートに深く座って、窓の外を見た。嬉しそうだった。


 *(喜んでくれてるな。まあ、こういう使い方もたまにはいいか)*


 「今日は気合い入れてメイクしてきたんだよ、私」


 「わかるよ。可愛いよ」


 「え、ほんと? やった」


 アンちゃんがサングラスをかけ直して、少し笑った。


---


 東京競馬場。午後1時。


 5月の陽射しが気持ちよかった。ターフの緑が目に眩しい。空が広い。都心から30分でこの空の広さは、何度来ても驚く。


 アンちゃんが隣を歩いていた。


 「広い……すごい。こんなに広いんだ」


 「だろ? 天気いい日は最高だよ」


 「なんかテーマパークみたい。もっと暗いところかと思ってた」


 「昔はそうだったらしいけどな。今はファミリーも多いよ。子供連れでも来れる」


 「へえ、意外。イメージと全然違う」


 指定席を取った。ガラス越しにコースが一望できる席。


 「わ、この席いい。全部見えるじゃん」


 「いい席だろ? ここで一日ゆっくり見よう」


 アンちゃんがレーシングプログラムを手に取って、首を傾げた。


 「ねえ、これどうやって買うの。馬券って」


 「マークシートに番号を書いて、あそこの機械に入れる。やり方教えるよ」


 「ほんと? お願い」


 「好きな番号で買えばいい。100円からだ」


 アンちゃんがマークシートを睨んでいた。

 「うーん……じゃあ、この5番にする。名前が可愛いから」


 「理由それかよ」


 「いいじゃん。初めてなんだから」


 「いや、全然いい。最初はそれでいいんだよ」


 100円の単勝馬券を1枚。アンちゃんが自動発売機に100円玉を入れた。


 「出てきた! これが馬券かあ」


 「それが馬券。大事にしろよ」


 「宝物にする」


 第9レース。発走時刻は14時30分。


 今日は映像がない。冷たい日だ。


 だから俺は買わない。見るだけ。純粋にレースを楽しむ日だ。


 スタートのファンファーレが鳴った。

 アンちゃんが身を乗り出した。


 「始まった!」


 ゲートが開いた。18頭が一斉に飛び出す。

 芝コースの直線を駆け抜ける蹄の音。歓声。アナウンスの声。


 アンちゃんが5番の馬を目で追っていた。


 「5番どこ! どこにいる!」


 「後ろの方だな」


 「えー、だめじゃん」


 「まだわかんないよ。最後見てみ」


 最終コーナーを回った。直線に入った。

 先行馬がバテ始めた。後方から数頭が伸びてきた。


 「あ、来てる! 5番来てない?」


 「来てるな。伸びてるぞ」


 5番が外から差して、3着に滑り込んだ。


 「入った!」


 アンちゃんが跳び上がった。


 「え、当たった!? 当たったの!?」


 「3着だから、複勝なら当たりだけど、単勝だと外れだ」


 「え、そうなの」


 「単勝は1着じゃないとだめなんだよ」


 「えー……じゃあ外れ?」


 「外れ。でも3着まで来たのは大したもんだよ」


 アンちゃんが100円の馬券を見つめた。そして笑った。


 「でも3着に来たよ。すごくない? 名前で選んだのに」


 「すごいよ。センスあるんじゃない?」


 「ほんと? じゃあ次も行く」


 「いいね。次は複勝で買ってみ。当たりやすいから」


 「ねえ、次は複勝で買う。複勝ってどうやるの」


 「単勝と同じ。マークシートで『複勝』選ぶだけ」


 次のレースでアンちゃんは複勝を買った。今度は8番。「8は末広がりだから」という理由で。


 結果、8番が2着に入った。


 払い戻し:300円。


 「勝った! 300円!」


 アンちゃんが馬券を握りしめて、本気で喜んでいた。100円が300円になっただけだ。200円の利益。


 「やった。すごいじゃん、アンちゃん」


 「遊馬くんは買わないの?」


 「今日はいい。アンちゃんが楽しんでるの見てるだけで十分」


 「何それ。かっこつけてる」


 「かっこつけてねえよ。たまにはこういう日もあるんだよ」


 「ふうん。じゃあ私が稼ぐね。次も複勝で行く」


 「頼もしいな。今日の軍資金はアンちゃん持ちか」


 「まあね。任せといて」


 アンちゃんが自信満々にマークシートを睨み始めた。


 *(楽しそうだな。連れてきて良かったわ)*


---


 レースが終わって、二人で競馬場を歩いた。

 府中の夕方。ターフの匂いが風に乗って流れてくる。


 アンちゃんが腕を組んできた。自然に。何も言わずに。


 「ねえ、あの馬券、記念にとっとく」


 「100円の外れ馬券を?」


 「うん。初めての馬券だもん。5番、頑張ってたし」


 「3着だけどな」


 「3着でもすごいよ。私が選んだんだから」


 「まあ、そうだな」


 *(アンちゃん、ほんと前向きだな。100円の外れ馬券を宝物みたいに財布にしまってる)*


 パドックの横を通りかかった。次のレースの馬たちが歩いている。アンちゃんが足を止めた。


 「ねえ、あの馬かわいい。白いの」


 「芦毛だな。年取るともっと白くなるんだよ」


 「へえ。遊馬くん、詳しいね」


 「まあ、好きだからな」


 「知ってる。見てたらわかるよ。馬見てるとき、すっごい楽しそうだもん」


 「そんな顔してるか?」


 「してるしてる。普段と全然違う」


 「そっか」


 「うん。なんか、いいよそういうの。ギャンブルじゃなくて、ちゃんと馬が好きなんだなって感じする」


 「……バレてるな」


 アンちゃんが笑った。嬉しそうだった。


 「お腹すいたね。ご飯食べよう」


 「何食べたい?」


 「パスタ! イタリアンがいい」


 「いいよ。恵比寿で降りよう。いい店知ってる」


 「やった。遊馬くんセレクト信用してるから」


---


 吉野さんの運転で恵比寿に向かった。駅前のイタリアンに入った。テラス席が空いていた。

 アンちゃんがカルボナーラを頼んで、俺はリゾットにした。


 「今日めっちゃ楽しかった。また行きたい」


 「いいよ。今度は中山とか行ってみるか。また違う雰囲気だぞ」


 「中山って千葉の? 行く行く」


 「中山は府中と違って、ちょっと狭いけど、それがまた味があるんだよ」


 「へえ。遊馬くんの解説つきで聞くと、なんか競馬の世界が広く見える」


 アンちゃんがカルボナーラを巻きながら、ふうふう冷ましている。


 「ねえ、一口ちょうだい」


 「自分の食え」


 「けち。じゃあ私のあげるから、交換」


 「……はいはい」


 フォークでカルボナーラを一口もらった。濃厚で美味い。代わりにリゾットを差し出した。


 「おいしい。遊馬くんのやつも美味しいね」


 「だろ。このリゾット、塩加減がいいんだよ」


 「詳しい。料理もするの?」


 「しない。食うのは好きなだけ」


 「なるほど」


 食後にアンちゃんがティラミスを頼んだ。二人で半分こした。


 「ねえ、寄ってく?」


 *(アンちゃんの家か。……いいか。今日はいい日だった)*


 「いいよ。行く」


 「やった」


---


 アンちゃんの部屋は、前に来たときと同じだった。

 小さなワンルーム。整理されているが、生活感がある。


 翌朝。


 目が覚めると、コーヒーの匂いがした。


 アンちゃんがキッチンに立っていた。

 マグカップを2つ並べている。


 「おはよう」


 「おはよう。早いな」


 「今日は仕事?」


 「午後から」


 「じゃあ午前中はゆっくりしてなよ」


 コーヒーを受け取った。

 テーブルの上にトーストが2枚あった。


 「ありがと。朝から悪いな」


 「いいよ。トーストくらい」


 アンちゃんが向かいに座った。


 「ねえ、昨日すごい楽しかったんだけど」


 「うん、俺も楽しかった」


 「ほんと?」


 「ほんと。久しぶりにああいうの、良かったわ」


 「また遊ぼうね」


 「ああ、また行こう」


 「やった」


 アンちゃんがコーヒーを飲みながら笑った。


 *(こういう朝が増えてきた。悪くない。なんか……良い)*


 窓の外は五月の日差しだった。

 アンちゃんの部屋のカーテンは薄い水色で、光が柔らかく入ってきていた。

 *(いい部屋だな。この人の部屋だから、か)*


 「ねえ、あのアプリ順調?」


 「ああ。初日で2,000人がダウンロードした」


 「すごいじゃん! 2,000人って」


 「スタッフが頑張ってくれたからな。俺はほんと、見てただけだよ」


 「遊馬くんも頑張ってるでしょ」


 「俺は金出しただけだよ」


 「それだって大事じゃん。あと、人を集めたの遊馬くんでしょ?」


 「まあ、集めたのは集めたけど」


 「でしょ? だから遊馬くんの功績もでかいって」


 アンちゃんがトーストをかじった。バターの匂いがテーブルの上に漂った。


 「ねえ、昨日の競馬場さ。次いつ行ける?」


 「ハマったな」


 「だって楽しかったんだもん。300円しか勝ってないけど」


 「200円の利益だけどな」


 「200円でも勝ちは勝ちだから」


 二人で笑った。アンちゃんがコーヒーを飲み干して、立ち上がった。


 「私、午後から出勤だから。ゆっくりしてていいよ。鍵、テーブルの上に置いて出て」


 「わかった。いってらっしゃい」


 「またね、遊馬くん」


 「ああ。またな」


 アンちゃんが出て行った。


---


 午後、事務所に行った。


 山下さんがいた。


 「桐島さん、少しお話があります」


 「何ですか」


 「馬主登録の件で、調べたいことがあります」


 「馬主」


 「はい。桐島さんの個人資産が一定の水準を超えた段階で、JRAの個人馬主登録の要件を満たす可能性があります」


 「へえ……それはちょっと気になりますね。詳しく教えてください」


 「資料をまとめます。来週の頭にお渡しできます」


 「お願いします」


 山下さんが頷いた。


 「ちなみに、どうして急に馬主の話を?」


 「以前から、競馬に対する桐島さんの姿勢を見ていました。単にギャンブルとしてではなく、馬そのものに興味がある方だと感じていました」


 「鋭いですね、相変わらず」


 「仕事ですので。桐島さんについて知ることが、税理士として必要だと判断しています」


 「助かります。山下さんが先読みしてくれるの、本当にありがたいですよ」


 「いえ」


 山下さんがファイルを閉じた。


 事務所を出た。


 夕方の空気が変わっていた。

 5月の風が頬に当たった。


 *(馬主か……俺が馬を持つのか)*


 空を見上げた。5月の空は高かった。


 *(悪くないな。むしろ、面白そうだ)*


---


**── 残高メモ ──**


| 項目 | 金額 |

|:--|--:|

| 個人費用(恵比寿デート・交通費等) | ▲約5万円 |

| **桐島遊馬 個人資金** | **約6,921万円** |

| 法人口座(変動なし) | **約1億2,246万円** |


---


*【第19話へ続く】*


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