第17話 〜β版〜
5月6日、月曜日。
連休が終わった。
枕元の時計を握った。温かかった。
映像が来た。
水面。エンジン音。ターンマークの白い水しぶき。競艇だった。
1号艇がインコースからスタートを切る。1マークを綺麗にターンして、そのまま後続を引き離す。イン逃げ。
番号は「1」。2着が「3」、3着が「5」。
起き上がって、スマートフォンで出走表を確認した。
戸田競艇場。第7レース。発走は14時40分。
1号艇のA1級選手がインコースに入る構成。データ的にも逃げが決まりやすい番組だった。
*(午後からか。朝っぱらから急かされて、ありがたい話だ。午前中は事務所に行ける。みんな、何やってるかな)*
シャワーを浴びて、近所のカフェに歩いた。
5月の朝は空気がいい。南青山の通りは連休明けの静けさがまだ残っていた。
エスプレッソを頼んで、窓際の席に座った。
ここ2週間のルーティンが少しずつ固まってきている。
帰国して10日ほどが経った。
マカオの7日間が遠い昔のように感じる。あの滞在中、海外でも時計が動くことがはっきりした。ポーカー、バカラ、ブラックジャック、スロット。場所が変わっても映像は来た。
帰ってきてからも、映像は安定していた。
4月の最終週から5月頭にかけて、冷たかったのは2日だけ。残りは全部温かかった。
週5〜6日のペース。以前と変わらない。
*(ありがたい話だ。毎日温かい。冷たい日は月に数回。この能力、安定している)*
エスプレッソを飲み干した。
吉野さんに連絡を入れた。「9時半にお願いします」
1分後に返信が来た。「承知しました」
いつもこれだけだ。余計なことは何も言わない。
---
9時35分、アルファードが南青山の通りに停まった。
吉野さんが運転席から降りて、後部座席のドアを開けた。
「おはようございます」
「おはようございます。今日はまず事務所までお願いします」
「承知しました」
車内はいつも通り静かだった。
吉野さんが運転を始めてまだ2週間。車線変更のタイミング、ブレーキの踏み方、交差点での減速。どれも滑らかだった。
後部座席のモニターを点けるかと一瞬思ったが、やめた。窓の外を見ていた。
五月の東京は緑が増えていた。街路樹の若葉が朝日に透けていた。
---
事務所に着いたのは10時前だった。
入ると、すでに全員がいた。
橘さんがデスクでノートパソコンに向かっていた。画面には Xの管理画面が開いている。
小林さんが隣のデスクでコードを書いている。キーボードの音だけが静かに響いている。
西村がソファに座って、何かの書類を広げていた。
山下さんがいつもの席で帳簿を確認している。
「おはようございます」
全員が顔を上げた。
「おう」
西村がソファから手を振った。
「おはようございます」
橘さんが軽く頭を下げた。
山下さんがペンを置いた。
「桐島さん、少しよろしいですか」
「はい、なんでしょう」
「明日のβ版リリースの件で、最終確認をしておきたいことがあります」
「了解です。お願いします」
---
山下さんが用意した資料は、いつも通り簡潔だった。
A4一枚。箇条書きで6項目。
1. サーバー負荷の許容ラインは確認済みか
2. 橘さんのX告知のタイミング
3. ダウンロード数の初動目標
4. 初期不具合への対応フロー
5. メディア露出の予定(西村担当)
6. フリーミアム設計の詳細(有料化は2ヶ月後を想定)
「小林さん」
山下さんが名前を呼んだ。
小林さんが椅子ごと振り返った。
「サーバーは」
「問題ありません。想定の3倍までは耐えられるように設計してあります。初日に2,000ダウンロードが来ても大丈夫です」
「初日に2,000も来るかな」
西村が首を傾げた。
橘さんが答えた。
「……Xのフォロワーが1万2千人を超えました。ブログのPVも安定して日3万前後です。告知を出せば初日500〜1,000は見込めると思います」
「500から1,000って、すごくない?」
西村が身を乗り出した。
「数字としては悪くないと思います」
橘さんが淡々と言った。
「悪くないどころじゃないでしょ」
「……まあ」
橘さんが少し困った顔をした。
「橘さんの8年のデータがあってこそですね。これはデカいですよ」
橘さんがわずかに目を伏せた。
「……ありがとうございます」
山下さんが続けた。
「西村さん、プレスリリースの件は」
「できてる」
西村がソファの上の書類を持ち上げた。
「競馬予想アプリ『FORECAST』、5月7日よりβ版を無料公開。データアナリスト橘修による独自アルゴリズムで、過去3年の的中率トップクラスの予想を提供——って感じ」
「名前、いつ決まったんですか」
「昨日の夜。小林と橘さんとLINEで決めた。FORECASTって、予想って意味だから」
*(俺に相談はなかったのか。まあ、みんなで決めちゃった後だからな。ツッコむのも大人げない)*
「いい名前だと思います」
橘さんが言った。
「桐島さんはいかがですか」
山下さんが聞いた。
「いい名前じゃないですか。シンプルで覚えやすいし、アプリの中身そのままで分かりやすいし」
西村が笑った。「珍しいな、会長がちゃんとコメントしてる」
「まあ、みんなが決めてくれたなら、それでいいよ。俺が余計なこと言って引っ掻き回すのも違うし」
西村がさらに笑った。「本当に任せっぱなしだな」
「任せてるんじゃなくて、信頼してるんだよ」
西村が一瞬止まって、それから少しにやりとした。
「……やめろよ、そういうの。照れるじゃん」
*(会長って言われるたびに、まだピンとこないんだが)*
---
午前中は事務所にいた。
小林さんが最終テストを繰り返していた。橘さんがX告知用のテキストとバナー画像を何度も微修正していた。西村がメディアリストを整理して、個別に連絡を入れていた。山下さんが法人口座の動きを確認していた。
全員が明日に向けて動いていた。
俺は何もしていなかった。
*(これでいいのか?いや、いい。俺の仕事は金を作ることだ。みんなの仕事は、その金を意味のあるものに変えることだ。それぞれだ)*
ソファに座って、コーヒーを飲みながらそう思った。
明日がリリース日。この空気はいい。緊張と期待が混ざった空気。
橘さんが昼前に一瞬、スマートフォンを取り出した。
画面にチラッと何かの通知が見えた。ピンク色のアイコンに、二桁のバッジ。
橘さんはすぐにスマートフォンをしまった。
---
昼すぎに事務所を出た。
「午後は戸田に行ってきます」
「戸田って競艇場の?」
西村が聞いた。
「ああ」
「仕事?」
「まあ、そんなもんだ」
西村がニヤリと笑った。
「会長の仕事は謎だな」
「会長言うなよ。なんか落ち着かないんだよ」
「じゃあ何て呼べばいいんだよ」
「遊馬でいいだろ、普通に」
「事務所じゃ無理だって」
西村が笑った。
山下さんが「お気をつけて」とだけ言った。
「ありがとうございます。夕方までには戻れるかもしれません」
---
吉野さんの運転で戸田へ向かった。
高速に乗って30分ほど。車内は静かだった。
吉野さんは必要なこと以外を一切言わない。それが心地よかった。
「吉野さん」
「はい」
「競艇って見たことありますか」
「いいえ。競馬も競輪も、見たことはありません」
「そうですか」
「ですが、会長が行かれる場所ですので、少し調べました」
「律儀ですね。でも、そこまで調べなくていいですよ。待っててもらえるだけで十分です」
「承知しました」
戸田競艇場に着いたのは13時半だった。
---
平日の競艇場は人がまばらだった。
水面のエンジン音が遠くから聞こえてきた。
ターンマークの近くに白い水しぶきが上がるたびに、低い歓声が上がる。
場内に響くアナウンスの声。レース間のBGM。売店から漂う焼きそばの匂い。
自販機でコーヒーを買った。
スタンドの席に座って水面を眺めた。展示航走が始まっていた。6艇が順番にコースを回っている。
旋回のときの水しぶきの量、艇の傾き、エンジンの音色。
映像がなくても、見ているだけで面白い。
コーヒーを飲んだ。
出走表を確認した。
第7レース。1号艇はA1級の選手。イン逃げが決まりやすい番組構成。映像の通りだ。
単勝と2連単を買った。合計で30万円。
14時40分。スタートのブザーが鳴った。
6艇が一斉にピットアウトした。
1号艇がインコースに収まった。助走をつけて大時計の針が12時を指す瞬間にスタートラインを通過する。
フライングなし。スリットの隊形が一瞬で決まった。
1号艇が先頭でターンマークに突入した。
綺麗なターン。水しぶきが上がった。後続との差が一気に開いた。
バックストレッチで差がさらに広がった。
2マークも余裕のターン。
結果は1号艇のイン逃げ。2着に3号艇、3着に5号艇。
映像通りだった。
払い戻し窓口に向かった。
単勝は配当が低い。2連単の方が本命だ。
合計で約180万円。
---
帰りは吉野さんに先に上がってもらった。
「今日はここで大丈夫です。ありがとうございます、助かりました」
「よろしいのですか」
「ええ。電車で帰ります。少し寄りたいところがあるので」
「承知しました。では、失礼いたします」
吉野さんが軽く頭を下げて車に戻った。
戸田から電車を乗り継いで、三軒茶屋で降りた。
ふくろうに行く前に、少しだけ歩きたかった。5月の夕暮れは長い。空にまだ明るさが残っていた。
商店街を抜けたところにある書店の前を通りかかったとき、足が止まった。
書店の入口から出てきた人と目が合った。
桑原さんだった。
洋書のペーパーバックを3冊ほど抱えていた。
「あ」
「こんばんは」
*(桑原さんだ。こんなところで会うとは。偶然か)*
「こんなところで会うなんて」
桑原さんが少し驚いた顔をして、すぐに笑った。
「俺もびっくりしました。三軒茶屋、来ることあるんですね」
「私の地元ですから。ここの書店、洋書の品揃えがいいんです」
桑原さんが抱えている本を見た。英語の本だった。表紙に見覚えのないデザインが並んでいる。
「お仕事の本ですか」
「半分は。半分は趣味です」
*(仕事に使う本が英語……翻訳関係か。でも聞かなくていい。この人は自分から話す。その方が自然だ)*
「これからふくろうですか」
「そのつもりです」
「私は今日はこれで帰ります。本が読みたいので」
桑原さんが本を少し持ち上げて見せた。
「そうですか。楽しんでください」
「ありがとうございます。では、また」
「はい。また、ふくろうで」
桑原さんが小さくうなずいて歩き出した。
*(ふくろう以外で会ったのは初めてだ。なんか、新鮮だな。桑原さんの地元で、桑原さんの行きつけの書店で。いつもの場所じゃないから、いつもと違う人に見える)*
桑原さんの後ろ姿を見送った。紺色のコートが夕暮れの商店街に溶けていった。
そこから電車でふくろうに向かった。
---
ふくろうに入ると、カウンターに福田さんがいた。
「遊馬くん、いらっしゃい」
「こんばんは」
「ハイボール?」
「お願いします」
カウンターに座った。和代さんが奥から出てきた。
「あら、遊馬くん。マカオから帰ってきてからよく来るようになったね」
「そうですかね」
「そうだよ。前は週1くらいだったのに、最近は週2で来てる」
*(え、そうか。自分では気づいてなかった。マカオから帰ってから、週に2回?そんな頻繁に来てるのか。なぜだろう)*
「そうですか。気づいてなかったですけど、ここ居心地いいんで、つい足が向いちゃうんですよね」
「あら、お世辞が上手くなったじゃない」
和代さんが笑った。
「お世辞じゃないですよ」
ハイボールが来た。グラスの氷が鳴った。
「明日、仕事でちょっとしたイベントがあるんです」
「イベント?」
「競馬の予想アプリを出すんです。テスト版ですけど」
福田さんが顔を上げた。
「β版って何?」
「テスト版です。まだ完成じゃないけど、使ってもらって感想を聞いて、良くしていくための段階です」
「へえ。遊馬くんもそういうことやるんだ」
「俺がやるというか、スタッフがやるんですけど」
和代さんが串を焼きながら言った。
「会社の社長さんがそういうこと言うのは、謙虚でいいことだよ」
「社長じゃないんですけどね」
「え、違うの?」
「会長です」
「会長!」
和代さんが笑った。
「28歳で会長って。世の中変わったねえ」
福田さんがグラスを磨きながら言った。
「競馬の予想アプリか。遊馬くん、競馬好きだもんな」
「まあ、好きですね。一応これで食ってますし」
「うちの常連さんにも競馬好きが何人かいるよ。教えてあげようか」
「お気持ちだけで。宣伝は西村がやるので、俺は余計なことしないほうがいいんです」
「西村さんって、前に来てた元気のいい子?」
「そうです。あいつです」
「いい子だね。場が明るくなるタイプだ」
「そうなんですよ。あいつがいるだけで空気が変わるんで、助かってます」
*(福田さんにも好印象か。まあ、西村はどこ行ってもああだからな)*
ハイボールを飲んだ。旨かった。
---
帰宅して、シャワーを浴びた。
南青山の部屋の窓から夜景を見た。
明日、FORECAST のβ版がリリースされる。
橘さんのデータと、小林さんの技術と、西村の広報力と、山下さんの管理。
全員がそれぞれの仕事をして、明日ひとつの形になる。
*(俺がやったのは金を出したことだけだ)*
でも、それでいい。
金を作る。金を渡す。あとは信じる。
*(それが俺の仕事だ)*
ベッドに横になった。
スマートフォンの通知が光った。
LINEだった。
アンちゃんからだった。
「明日ひま?」
*(明日はリリースだからなあ。終日バタバタだろうし)*
少し考えて、返した。
「明日はアプリのリリースだから厳しいかも。週末なら空くけど」
「えーそうなんだ。じゃあ週末ね!」
「おう。何したい?」
「競馬場とか行ってみたい。連れてって」
「いいよ。府中行こう」
「やった!! 楽しみ!!」
スマートフォンを枕元に置いた。
*(アンちゃんが競馬場か。意外だな。まあ楽しんでくれたらいいか)*
目を閉じた。
---
**── 残高メモ ──**
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 戸田競艇 払い戻し | +約180万円(個人現金) |
| 個人費用(5月上旬・交通費等) | ▲約15万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約6,926万円** |
| 法人口座(変動なし) | **約1億2,246万円** |
---
*【第18話へ続く】*




