第15話 〜管理する男〜
桐島会長がマカオに発って、4日が経つ。
事務所の朝は静かだった。
橘修が定刻通りに出社して、コートを掛け、モニターを立ち上げ、コーヒーを淹れ、デスクに着く。
その一連の動作に無駄がない。
小林賢司は少し遅れて来て、すぐにノートパソコンを開いて作業に入る。
2人とも、挨拶以外の言葉をほとんど発しない。
山下さんはそれより30分早く来て、今日の業務の確認をしていた。
*(桐島会長がいない事務所は、こんなに静かなのか)*
静か、というのは語弊がある。
会長は派手に喋るタイプではない。
でも、人と話すのは上手い。相手の懐にすっと入る話し方をする。
それでも、あの人がいるときといないときでは、事務所の空気の密度が違う。
何かが足りない感じがする。
うまく言葉にできないが、確かにそう感じる。
机の上に今日の処理案件を並べた。
港区の1LDKの内見問い合わせへの対応。
橘さんのXアカウント運用に関わる広告費の経費処理。
西村から上がってきた運転手候補の雇用条件の確認。
細かい積み重ねが、この会社を支えている。
*(この仕事が好きだ、と最近ようやく認めることができた)*
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西村公輝が来たのは10時を少し回ったころだった。
「山下さん、おはようございます」
「おはようございます」
西村がコーヒーメーカーの前に立ちながら言った。
「会長から何か連絡ありましたか」
「昨日、港区の1LDKの内見問い合わせの件をご報告しました。
了解の返信がありました。それ以外は特にありません」
「そうですか」
西村がカップを手に取った。
「マカオ、楽しんでるといいですね。今度は絶対俺も連れていってもらおう」
「そうですね」
西村がソファに腰を下ろして、スマートフォンを眺め始めた。
しばらくして
「山下さん、ちょっと聞いてもいいですか」
と顔を上げた。
「はい」
「アルファードの運転手の件なんですけど、候補が2人いて。
1人は元タクシードライバーで接客も問題なし。
もう1人は若いけどセキュリティの経験がある。
どっちが会長向きだと思います?」
「セキュリティの経験がある方かと思います。
移動の安全面を考えると、そちらの方が長期的には向いているでしょう」
「そっか。俺もそっちかなと思ってました」
西村がメモを取った。
「じゃあそっちで進めます」
*(山下さんは答えを持っていて、確認のために聞いてくる。そういうタイプだ)*
西村公輝という人間を、山下さんは最初、軽く見ていた。
正直に言えば。
居酒屋の副店長から代表取締役、という経歴の落差が大きすぎて、どれほどの人間かが測れなかった。
だが数ヶ月経って、考えが変わった。
山下さんは場を作るのが天才的に上手い。
人と人を繋いで、雰囲気を作って、ものごとを前に進める力がある。
しかも自分でそれを意識していない。
意識していないから、自然にできる。
それが強みだ。
会長が西村さんを代表取締役に選んだ理由が、最近になってようやくわかってきた気がする。
そしてもう一つ。
西村は桐島会長のことを、今も少し心配し続けている。
「投資で稼いでいる」
という認識に引っかかりを覚えている。
第三者から見てもそれはわかる。
山下さんの直感は鋭い。
いつか全部わかる日が来るかもしれない。
そのとき、どう受け止めるかはわからないが——きっと、受け止められる人間だと思う。
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午前中、山下さんは帳簿の確認をした。
今月の数字を洗いながら、頭の中で整理した。
競馬、競輪、競艇の払い戻し。
これを法人の事業収益として計上する設計を、自分は組んでいる。
本来、公営競技の払い戻しは個人の一時所得だ。
それを法人の枠に乗せる処理は、税務署が細かく見れば問いを立てられる余地がある。
租税回避とまでは言えないが、クリーンとも言い切れない。
山下さんはそれをわかった上でやっている。
*(年長者の役回りだ)*
リスクを理解して、引き受けて、管理する。
それが自分にできる最大の貢献だと思っている。
桐島会長は金の動きに対して驚くほど無頓着だ。
2,560万の社用車を
「全部で」
の一言で決め、不動産2億を
「わかりました」
で終わらせる。
その無頓着さの裏に、絶対的な確信がある。
映像が来れば、外れない。それだけのことだ。
だからこそ、金を守る側が必要だ。
桐島会長は稼ぐことに集中している。
そしてその稼ぎを、法的に、税務的に、できる限り安全な形で積み上げていくのが自分の仕事だ。
グレーな設計を使っているという自覚はある。
そしてそれは自分が選んでやっていることだ。
ペンを置いた。
窓の外に、港区の昼の空気が広がっていた。
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昼過ぎ、橘さんがデスクから顔を上げた。
「山下さん、少しよろしいですか」
「はい」
「先月のXのインプレッションデータを、経費申請の参考資料としてまとめました。
確認をお願いできますか」
橘さんが薄いファイルを持ってきた。
データが整然と並んでいる。
数字の出し方が正確で、余計な装飾がない。
フォロワー数の推移、インプレッションの週次変化、ブログへの流入数との相関。
8年分のデータを1人で管理してきた人間の仕事の仕方は、こういうものか、と思う。
資料をひと通り確認して返した。
「問題ありません。ありがとうございます」
橘さんがうなずいて戻っていく。
その背中を、山下さんは少しの間だけ見た。
真面目で優秀な人間だ。
誠実さも、データへの向き合い方も、申し分ない。
ただ最近、橘さんのスマートフォンに視線が行く時間が、以前より少し増えている気がする。
業務中にちらりと画面を確認する動作。
それ自体は誰でもすることだが、頻度と、画面を見るときの表情が少し引っかかった。
仕事以外の何かを、熱心に見ているときの顔だった。
*(気にしすぎかもしれない。今は真面目で誠実な人物だ。それは間違いない)*
山下さんは思考を止めた。
根拠のない懸念を膨らませるのは、今の自分の仕事ではない。
数字に異変が出たときに動けばいい。
夕方、小林さんと一言二言交わした。
「予想アプリのβ版、来月に間に合いそうですか」
「ギリギリですが、なんとかなると思います」
小林さんが静かに言った。
「橘さんのデータが整理されていたので、想定より精度が出ています」
「わかりました。何かあれば早めに教えてください」
「はい」
寡黙だが誠実な男だ、と山下さんは思う。
こういう人間がいると、組織が安定する。
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夕方、橘さんと小林さんが帰った。
西村も
「山下さん、俺も上がりますね。お疲れ様です」
と言ってコートを取った。
「お疲れ様です」
「山下さんはまだいますか」
「少し残ります」
「毎度ありがとうございます」
西村が笑いながら出ていった。
事務所に一人になった。
山下さんは窓の外を見た。
港区の夜景が広がっている。
この事務所に来るたびに、少し驚く。
前職の事務所は雑居ビルの4階だった。
窓から見えるのは向かいのビルの壁だった。
*(前職か)*
税務・法務の事務所に20年いた。
年収は1,200万円あった。
安定していた。同僚もいた。
退屈だったが、それが普通だと思っていた。
そういう場所で20年過ごして、慣れ切っていた。
桐島遊馬と出会ったのは去年の秋だった。
初回の面談で、現状を聞いた。
競馬・競輪・競艇の払い戻しで1億円近い現金を持っている個人。
法人化と税務処理の相談。
ここまでは珍しくない相談だった。
額が大きかったが、それだけのことだった。
問題はその後だった。
「私が、ギャンブルに百パーセントの確率で勝てると言ったら、信じてもらえますか」
*(なぜあんな荒唐無稽な話を、自分は信じてしまったのか)*
今でも少し不思議に思う。
「毎朝映像が見える」
「時計が温かくなる日だけ賭ける」
——その内容は、どう考えても荒唐無稽だ。
20年この仕事をしていれば、変な話を持ち込む人間には慣れている。
普通なら笑って流す場面だった。
それでも笑わなかった。
長年の仕事で、嘘をつく人間の顔と、そうでない人間の顔は見分けがつく。
桐島遊馬の顔は、嘘をついていなかった。
妄想を語る人間の目とも違った。
本人が本当にそう信じていて、そしてそれが事実だと確信している人間の目だった。
「確認してから判断します」
と言った。
自分でも少し驚いた。
川崎競輪場で確認した。
立川競輪場でも確認した。
映像通りの番号が2日続けて来た。
その瞬間に、山下さんの中で何かが決まった。
「信じます」
あの言葉は、自分が思っていた以上に本心だった。
翌月、前職の事務所に辞表を出した。
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デスクに戻って、月次の収支表を閉じた。
法人口座の残高を正確に把握しているのは自分だけだ。
事業計画を立てられるのも自分だけだ。
桐島会長の能力がどれほど続くかはわからない。
だがそれを考え始めると、きりがない。
今の状態が続く限り、この会社は確実に大きくなる。
そう信じてやっていくしかない。
不動産はまだ2件だ。
いずれ一棟物件の融資交渉に入る。
予想アプリがβ版を超えれば、有料化で安定収益が生まれる。
やることはいくらでもある。
*(もっと大きくできる)*
その確信がある。
根拠がある。
月収は前職から大幅に変わった。
ただ不思議と後悔していない。
毎月何かが動いている。退屈しない。
この仕事を楽しいと感じている。
桐島会長への恩返し——という言葉は、自分には少し似合わない気がする。
だからこう言い換える。
山下さんの持っているものを、最大限に生かす環境を作ること。
そのために自分がいる。それだけだ。
スマートフォンを取り出した。
遊馬に短いメッセージを送った。
「港区の1LDKの内見が2件入りました。帰国後にご確認ください。
マカオ、お気をつけてお過ごしください」
30秒ほどして、既読がついた。
しばらく間があってから、返信が来た。
「了解です。いつもありがとうございます、助かってます。
山下さんのおかげでマカオを楽しめてます。帰ったらまたよろしくお願いします」
山下さんは画面を見たまま、少し間を置いた。
*(あの人がこういうことを書くのは、珍しい)*
口元が、わずかに緩んだ。
山下さんは上着を取った。
港区の夜の空気が、窓の外で静かに動いていた。
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**── 物件状況メモ(第15話時点)──**
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*【第16話へ続く】*




