第13話 〜ポーカー〜
羽田から直行便でマカオ国際空港まで、フライト時間は約4時間半だった。
山下さんが手配したビジネスクラスのシートは、フルフラットになった。
アンちゃんが座席を倒した瞬間、
「え、これベッドじゃん」
と小声で言った。
「ビジネスって初めて?」
「初めて。てか、こんな広い席に座っていいの? なんか罪悪感ある」
「罪悪感持たなくていいよ。せっかくだし、寝るなら寝たほうが楽だよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて寝る」
CAにブランケットを受け取って、機内食に手をつけて、30分もしないうちに眠っていた。
*(順応性が異常だ)*
遊馬はシートを倒したまま、眠れなかった。
窓の外は雲だった。高度1万メートルの雲で、下に何があるかは見えない。
時計はスーツケースの中にある。今は握れない。
8年間ギャンブルをやってきた。
競馬で外れ続けて、金を溶かし続けた。
時計を手に入れてから、国内では映像が途絶えたことがない。
でも時計がどういう仕組みで機能しているのか、俺にはわからない。
競馬も競輪も競艇も、日本の公営競技だ。
海外のカジノが同じかどうかの根拠は、何もない。
隣でアンちゃんが毛布を顎の下まで引き上げて、静かに眠っている。
子どものように眠っている。
窓の外で雲が流れた。
---
マカオ国際空港に降り立ったのは夕方の5時を少し回ったところだった。
タラップを下りると、空気が違った。
湿度が高い。
4月でもそれなりに暑い。
生ぬるい空気が体に貼りついた。
「うわ、蒸し暑い」
アンちゃんがトートバッグの肩紐を持ち直しながら言った。
「もっとカラッとしてると思ってた」
「南国だからね。4月でもこんなもんらしいよ」
「遊馬くんって来たことあるの、マカオ」
「ない。アンちゃんは?」
「私もない! じゃあ一緒だ」
アンちゃんが少し嬉しそうな顔になった。
「なんか、そういうのが多い気がする。遊馬くんと初めてのこと」
「そんなにあったか」
「あるよ。数えてないけど」
アンちゃんが笑った。
「てか、なんか実感わいてきた。遊馬くんと旅行に来てるんだ、って」
「俺もそんな感じだよ。こんな展開になると思わなかった」
「でしょ!」
アンちゃんが少し前のめりになった。
「まさかマカオに来るとは思わなかったし」
「まあ、アンちゃんが可愛いから仕方ない」
アンちゃんが一瞬止まった。
「……え、今なんて言った」
「聞こえたろ」
「聞こえたけど、もう一回言ってほしい」
「やだ」
「もう!」
アンちゃんが笑った。
「でも、まあ、楽しもうね。せっかくだし」
「そうだね。せっかく来たんだから、楽しもう」
山下さんの手配通り、ホテルの送迎車が来ていた。
コタイエリアまでは20分ほどだった。
途中で海の上の橋を渡った。夕日が水面に広がっていた。
「きれい」
アンちゃんが窓に顔を近づけた。
「ねえ遊馬くん見て、オレンジ色」
「きれいだね。ほんとに」
「わあ、素直に言った」
「なんだそれ」
「いつも『そうだな』とか『まあな』とかじゃん」
アンちゃんが笑った。
「旅行テンションだ、遊馬くんも」
*(旅行テンション、というものが俺にあるのかどうかは自信がないが、否定するほどでもない)*
「アンちゃんと一緒だと、少しは口数増えるのかもな」
「そうなの? じゃあずっと一緒にいようよ」
「はいはい」
「はいはいって言いながら嬉しそうな顔してる」
*(見透かされてる)*
---
ホテルに入ると、天井が遠かった。
大理石の床。吹き抜けのアトリウムに巨大なシャンデリア。
左右にブランドショップが並んでいる。カジノへの入口は正面奥に見えた。
エレベーターで35階まで上がって、ドアを開けた。
「……すごい」
アンちゃんが声を出した。
正面が一面ガラスだった。
コタイのリゾートエリアが眼下に広がっている。
「広い。なんでこんなに広いの。バスタブが2個ある、2個。なんで2個あるの」
「山下さんの好みなんじゃない」
「山下さんのための部屋じゃないじゃん」
アンちゃんが笑った。
「最高。今度会ったらお礼言う」
「山下さんも困るだろうな、それ」
「え、なんで?」
「あの人、礼を言われるのが一番苦手なタイプだから」
「あー、なんとなくわかる」
アンちゃんが笑った。
夕食はホテル1階のレストランで軽く食べて、夜はバーで1杯だけ飲んで終わりにした。
カジノへの入口は、ホテルの中にある。
歩いて30秒の距離だ。
通り過ぎるたびに、チップの音と冷えた空気が漏れてきた。
足は止めなかった。
*(まず朝だ。朝になるまでは何もしない)*
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4月16日、朝。
目が覚めた。
いつも通りの動作で時計を取り出した。
翠色の金属が、南国の朝の光の中でくすんだ光を返している。
握った。
冷たかった。
映像は来なかった。
*(……来なかった)*
しばらく握り続けた。
温度が上がることはなかった。
*(今日は休みか。それとも、海外では根本的に使えないのか)*
判断できない。1日だけではわからない。
*(でも今日は冷たい。それは変わらない。ルールは変わらない)*
時計をしまった。
コーヒーを淹れた。
カップを持って窓の前に立った。
コタイの街がだんだん明るくなっていく。
*(映像がない日にテーブルに座ってはいけない。これは能力を手に入れてから変えていないルールだ)*
わかっている。
でも、カジノが30秒先にある状態で一日過ごすことになる。
3月に場外馬券売り場の前で1秒足が止まったことを、まだ覚えている。
カジノはそれより何倍も近い場所に、何十台もテーブルを並べて待っている。
映像が来なくても、手元の現金でいくらでも賭けられる。
コーヒーを一口飲んだ。
苦かった。
*(今日は今日のことを考えよう。楽しむために来ているんだから)*
---
「おはよう」
とアンちゃんが起き出してきたのは、9時を少し過ぎたころだった。
「おはよう。コーヒー飲む?」
「飲む」
アンちゃんが目を細めながらソファに座った。
「なんか窓がぴかぴかしてる。眩しい」
「南向きだからね。カーテン閉める?」
「いいよ、なんかこれも旅行っぽくて好きだし」
カップを渡した。
アンちゃんが両手で持って、窓の方に目を向けた。
「夜と全然雰囲気違う。朝のコタイって感じがする」
「夜はネオンで派手だったからね。昼はまた変わるんじゃない?」
「昼のプール行きたい。絶対行こ」
「行こう。せっかくだし」
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朝食は2人でビュッフェに行った。
種類が多かった。
エッグベネディクトにフォーやら広東粥やら、アジアの料理と洋食が混在している。
アンちゃんが皿にいろいろ載せながら
「朝からこんな豪華なの食べていいの」
と言った。
「いいよ、好きなだけ取りな。今日くらいは気にしないで」
「太りそう」
「太っていいよ。嫌いになったりしないから」
「えー、やだよ」
アンちゃんが少し頬を膨らませた。
「太って遊馬くんに嫌われたくないし」
「嫌わないって。アンちゃんが太っても嫌いになるわけないじゃん」
「……本当に?」
「本当に」
「なんか、さらっとそういうこと言うよね」
アンちゃんが照れ笑いしながら広東粥をよそった。
「ずるいんだよね、それ」
「事実言っただけだよ」
*(事実だ。別に格好をつけているわけじゃない)*
席に着いて食べた。
旨かった。
スマートフォンに事務所のLINEグループの通知が来ていた。
西村から
「物件の内見問い合わせが2件来ました」。
山下さんから
「承知しました。対応します」。
橘さんからは既読のみだった。
*(向こうは向こうで普通に動いてるな。安心するわ)*
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午前中はプールに行った。
コタイのリゾートのプールは大きかった。
インフィニティプールで、縁の向こうに街が広がって見える。
アンちゃんが
「ここは絶対来たかったんだよ」
と言って、端まで泳いで戻ってきた。
*(水着姿も素晴らしな)*
デッキチェアに並んで寝転んだ。
空が青い。
「カジノ、今日行く?」
アンちゃんが聞いた。
「行くよ。一緒に行こう」
「やった。バカラ、ちょっと練習したし」
「えらいな、ちゃんと予習してきたんだ」
「予習っていうか、YouTubeで見ただけだけどね」
アンちゃんが笑った。
「まあ、楽しんでやろう。結果は二の次で」
「遊馬くんこそだよ。本気になりすぎちゃダメだよ」
アンちゃんが少しこちらを向いた。
「なんかこうギャンブルの話になると、遊馬くんいつも……若干パキってるし」
「誰が薬物中毒だよ」
「ちがう! そういう意味じゃなくて」
アンちゃんが笑いながら言った。
「なんか、スイッチ入る感じ。集中力みたいな」
「まあ、男ってだいたい賭け事になるとスイッチ入るもんだよ」
「ふーん」
と言いながらアンちゃんがドリンクを飲んだ。
「じゃあ今日のカジノも、そういう顔が見れるってこと?」
「そんな大げさなもんでもないけどね」
「楽しみにしてる」
アンちゃんがにこっとした。
*(パキってる、か。自分ではわかってなかったが、そういうふうに見えるのか)*
---
午後3時過ぎ、2人でカジノに入った。
冷気と音が一度に包んだ。
BGMはない。
チップが動く音と、ディーラーの低い声と、何十台も並んだテーブルの気配が混ざって、低い振動として体の底に届く。
「なんかすごい」
アンちゃんが声を少し低くして言った。
「独特の空気がある」
「東京ドームみたいなもんだよ。入った瞬間に別の場所になるね」
「たとえが変だけど、なんかわかる」
アンちゃんが周囲を見渡した。
「なんか夢の中みたい」
バカラのテーブルへ向かった。
今日は映像が来ていない。
それは揺るがない事実だ。
でも、カジノにいる。目の前にテーブルがある。
ディーラーの手が動く。
カードが滑る。
チップが積まれる。
*(高揚感がすごいな...うずうずする)*
8年間、根拠なしに賭けてきた。
その8年間は全部負けだった。
でも今日はアンちゃんと一緒にいる。
金額の上限を決めて、楽しむ。
それだけ守れれば、映像のない日に座っても、大丈夫だ。
*(まあ、久しぶりに本物のギャンブルをするのも一興だろう)*
「やってみようか」
「うん!」
アンちゃんが目を丸くした。
「今日は普通に楽しもう。勝ち負けは気にしないで」
「普通に楽しもう!」
アンちゃんが笑いながら隣の席に座った。
チップを両替した。
2人分。
---
バカラのテーブルに1時間半ほど座った。
*(勘が冴えない)*
映像がない状態というのはこういうことだ。
何も見えない。
「なんとなくプレイヤー」「なんとなくバンカー」
を繰り返す。
当たることもある。
でも積み上がらない。
じわじわと、確実に減っていく。
隣でアンちゃんが
「あ、当たった」
「あ、外れた」
と一喜一憂しながらチップを動かしている。
「遊馬くん、今どっち賭けた?」
「バンカー」
「私プレイヤー。……あ、私当たった」
「……やるじゃん」
*(初心者のくせに当たり方がえぐい)*
2時間後。
アンちゃんが
「ちょっとトイレ行ってくる」
と席を立った。
その隙に計算した。
*(俺、今、300万近く溶けてる)*
*(……いや、本当に時計がないと俺ってセンスのかけらもないな)*
*(300万か。300万て)*
アンちゃんが戻ってきた。
にこにこしている。
「私、今どのくらい?」
「アンちゃんは……100万弱くらい勝ってない?」
「え!」
アンちゃんが自分のチップを数えた。
「本当だ。なんで私が勝って遊馬くんが負けてるの」
「ビギナーズラックというやつだよ」
「本当に?」
「ははは」
「あはは」
アンちゃんが笑った。
「なんか申し訳ないんだけど」
「気にしなくていいよ。俺が勝手に負けただけだから」
*(悔しい。普通に悔しい。でもアンちゃんの前で「悔しいー!」ってなるのはちょっと恥ずかしい。なんで俺こんなとこで見栄を張ってるんだ)*
「遊馬くん、顔が笑ってない」
アンちゃんが言った。
「笑ってるよ」
「笑ってないよ」
アンちゃんがじっと見てきた。
「悔しいんでしょ」
「……まあ、多少は」
「正直に言いなよ」
「……くそー、悔しい。300万溶けた。普通に悔しい」
アンちゃんが吹き出した。
「それが聞きたかった! そういうのが可愛いんだよ」
「可愛くないよ」
「可愛いよ」アンちゃんがまだ笑っていた。
*(可愛いと言われても全然嬉しくない。悔しさで相殺されてる)*
*(でも、まあ。本当に楽しんでる。なんか久しぶりだ、こういう感覚。結果がわからないまま賭けるやつ。ヒリつく感じがある)*
---
「ルーレットもやってみたい」
アンちゃんが言った。
「ルーレットってどうやるの」
「好きな数字か色に賭けるだけだよ。シンプル」
「じゃあ誕生日の数字で賭ける。17」
「ロマン派だな」
「ロマン派で悪かったね」
アンちゃんが笑った。
ルーレットのテーブルに移った。
アンちゃんが「17番」に小さくチップを置いた。
玉が転がった。止まった。
「……17!」
アンちゃんが小声で叫んだ。
「当たった!!」
「……マジか」
*(36倍だぞ今の)*
アンちゃんがぱたぱたと足踏みしながら笑っていた。
周囲のプレイヤーがちらちらとこちらを見た。
*(すごい人間がいる。初来店でルーレットの誕生日賭けを直撃させる人間が)*
「遊馬くん遊馬くん、今のやばくなかった?」
「やばかった。36倍だよ」
「36倍!? 私天才かも」
「まあ、落ち着いてな。天才は一発じゃ名乗れないから」
「厳しー」
アンちゃんがまた笑った。
結局ルーレットでも50万ほど溶かした。
アンちゃんはそこでも小さく勝ち越した。
*(俺、今日のトータルで350万負けた。アンちゃんは150万くらい勝ってる。なんだこれ)*
*(なんだこれ、じゃないんだよ。映像のない日に来たんだから当然なんだよ。わかってた。全部わかってたんだよ俺は)*
*(でも350万は普通に痛い。笑えない。いや、笑えるか。笑えるな? わからん)*
カジノを出た。
コタイの夕暮れが広がっていた。
「遊馬くん、大丈夫?けっこう負けてたよね」
アンちゃんが少し心配そうに言った。
「大丈夫じゃないよ」
「え」
アンちゃんが目を丸くした。
「普通に悔しいよ。なんでアンちゃんが勝って俺が負けてるの」
「あはは!」
アンちゃんが笑った。
「さっきも言ってたじゃん」
「言っても言い足りないんだよ。ビギナーズラックにも程がある。ルーレットで17番直撃とか意味わからないし」
「えへへ、ごめんね」
アンちゃんが全然申し訳なさそうじゃない顔で笑っていた。
「でも、なんか楽しかったよね?」
「楽しかった。悔しかったけど楽しかった」
「悔しかったけど楽しかった、って顔してたよ」アンちゃんが少しこちらを見た。「なんか、ヒリヒリしてる感じ」
「それだよ。そのヒリつく感じが、ギャンブルの本来の楽しさなんだよね。結果がわからないから面白い」
「遊馬くんが長年やってきた理由、なんかわかった気がする」
アンちゃんが少し真面目な顔になった。
「勝ちたいだけじゃないんだね」
「まあね。でも、やっぱり勝ちたいけど」
「あはは」
*(明日、時計が温かくなってくれよ。俺の尊厳が。頼む。本当に頼む)*
---
夜はホテル内のレストランで食べた。アンちゃんが「今日のお代は私が出す」と言い張った。
「さすがに払わなくていいよ」
「でも私だけ勝ったのに遊馬くんに払ってもらうの変じゃん」
「気にしなくていいって」
「じゃあ割り勘」
「……まあ、そうしようか」
*(なんか不思議な感じだな。キャバ嬢と割り勘でメシ食ってる。普通に楽しい。350万負けてるけど)*
*(350万。350万か。やっぱり普通に悔しい)*
「まだ引きずってる?」アンちゃんが聞いた。
「引きずってるよ。当然でしょ」
「あはは。素直だ」
「アンちゃんだって俺の前だから笑って話してるけど、150万勝ったら普通にすごいよね」
「すごい! 自分でもびっくりしてる」
アンちゃんが少し胸を張った。
「ビギナーズラックって本当にあるんだね」
「あるんだよ。悔しいけど」
「悔しいって言い続けてる」
アンちゃんが笑った。
「でもなんかそれが可愛くて好き。負けても笑ってるじゃん」
「笑えるか笑えないかの瀬戸際だよ。今日はなんとか笑えてる」
*(本当に瀬戸際だ。あと100万多かったら笑えてなかったかもしれない)*
食事を終えて部屋に戻った。
アンちゃんがベランダの夜景を眺めながら
「今日楽しかったね」
と言った。
「楽しかったよ。負けたけど」
「負けたけど楽しかったって、なんかいい話だよね」
アンちゃんが笑った。
「なんか、遊馬くんってギャンブルのこと本当に好きなんだね。そういうのが伝わってくる」
「8年間やってきたからね。負けても来てしまう理由が今日改めてわかった気がする」
アンちゃんがしばらく黙って夜景を見ていた。
「明日は勝てるよ」
「勝つよ。たぶん。そう信じたい」
「たぶんって」
アンちゃんが笑った。
「まあ、朝次第だよ」
コタイの夜景が静かに輝いていた。
---
4月17日、朝。
目が覚めたとき、空がまだ薄い青だった。
手を伸ばして、時計を手に取った。翠色の金属が手のひらに収まる。
握った。
温かかった。
*(来た)*
映像が来た。
*(……ポーカー?)*
国内では見たことのない映像だった。
バカラでも競馬でもない。
2枚のカードが脳裏に焼きついた。
スペードの2。
スペードの7。
続けて、5枚のカードが順番に浮かんだ。
クラブのA。
スペードのK。
ハートの2。
ダイヤの7。
クラブの2。
それだけだった。
映像はそこで終わった。
*(……この2枚が来たとき。このボードが、来る)*
*(スペードの2と7。ポーカーで最弱のハンドと言われているやつだ。27オフスート。ポーカーをかじったことのある人間なら、絶対に折るハンドだ)*
*(でも、このボードが来る。そうなれば——フルハウスだ)*
時計が温かかった。
熱さは強い。
*(今日だ。海外でも、使える)*
しばらく握ったままでいた。
朝の光がガラス越しに入ってくる。
コタイの街が明けていく。
*(国内と変わらない。見え方も、時計の感触も、まったく同じだ。半年以上かけて積み上げてきたものが、今ここにある)*
感動は静かだった。
騒ぎ立てる気持ちはない。
ただ、問題ない、という感覚が体の中心に落ち着いた。
*(今日だ)*
「……目覚ましないのになんで起きれるの、遊馬くん」
アンちゃんが寝ぼけまなこで起き上がっていた。
「体内時計みたいなもんだよ」
「便利すぎる。今何時?」
「7時ちょっと前」
「コーヒー飲みたい」
「淹れるよ。ちょっと待って」
「ありがとう」
アンちゃんが窓の方を向いた。
「あ、今日晴れてる。昨日より空が青くない?」
「気のせいじゃない?」
「気のせいじゃない。明らかに青い」
アンちゃんが毛布をはね除けた。
「なんかいい日になりそう。なんとなく」
*(いい日になる。間違いなく)*
「そうかもね。アンちゃんの勘、当たるかもよ」
「ふふ、当たるといいな」
---
朝食を済ませてから、遊馬は言った。
「今日、ポーカーやってみようと思ってる」
「ポーカー? バカラじゃないの?」
「調子のいい日はポーカーがいい気がして」
「遊馬くんってポーカーできるの?」
「まあ、一応ね。本でかじった程度だけど」
「かっこいいじゃん」
アンちゃんが少し目を輝かせた。
「私も見ていていい?」
「一緒に座ってていいよ。ただ、今日は少し時間かかるかもしれない」
「全然待てる。私もゆっくり参加するね」
「助かる」
---
ポーカールームはカジノフロアの奥にあった。
テキサスホールデムのテーブルが並んでいる。
アジア系・欧米系のプレイヤーが混在していた。
遊馬は高レートのテーブルの空席に座った。
アンちゃんがチップを持って隣の席に座った。
「負けたら即退場だよ」
とアンちゃんが小声で言った。
「わかってる」
最初の1時間は手探りだった。
映像の2と7はまだ来ない。
それまでは普通にプレイする。
折り畳めるハンドは折り畳んで、強いハンドだけ戦う。
じわじわとスタックが積み上がっていく。
アンちゃんも手堅くプレイして、小さく勝ち越していた。
2時間が過ぎた。
*(まだだ。まだ来ない)*
3時間が過ぎたころ、アンちゃんが
「ちょっと飽きてきた」
と小声で言った。
「もう少し待って。ここからだよ」
「何を待ってるの」
「いい手が来るまで」
アンちゃんが
「遊馬くんって本当に律儀だよね」
と苦笑いしながら、ドリンクを注文した。
そして。
ディーラーがカードを配った。
2枚が手元に来た。
スペードの2。
スペードの7。
*(これだ)*
ポケットの時計を握った。
熱かった。
今日一番の熱さだった。
左隣のプレイヤーがレイズした。
中年の欧米系の男だった。
表情が緩んでいる。
手元のチップをリズムよく積んでいる。
*(強いな。自分の手を信頼してる動きだ)*
右隣のプレイヤーがコールした。
アジア系の若い男で、静かにチップを入れた。
*(こっちは読めない。でも降りてはいない)*
遊馬もコールした。
他のプレイヤーは全員フォールドした。
3人でフロップへ進んだ。
---
フロップ。
3枚が並んだ。
**クラブのA。スペードのK。ハートの2。**
*(2が来た)*
ワンペア。
まだ弱い。
でも映像の最初の3枚と一致した。
左隣の男がチェックした。
*(チェック。強い手を隠してる可能性がある)*
右隣の男がレイズした。
さっきまで静かだったのに、このボードで動いた。
*(このAとKが並んだボードでレイズか。自分の手に自信がある)*
遊馬はコールした。
ここで動く理由はない。
左隣の男がリレイズした。
静かに、しかし大きく。
チェックから一転して動いた。
*(チェックレイズ。最初から待ち構えていた。このボードで一番強い動きだ)*
右隣の男がコールした。遊馬もコールした。
---
ターン。4枚目が開かれた。
**ダイヤの7。**
*(来た)*
7♠と7♦のツーペア。
さらに2♥との組み合わせで、2-2-7-7のダブルツーペアが完成した。
フルハウスまであと1枚——2か7が来れば終わる。
左隣の男が大きくレイズした。
*(このボードで躊躇なく動く。かなり強い)*
右隣の男がリレイズした。
落ち着いた手つきだった。
*(こっちも強い。2人とも本気だ)*
2人がレイズを重ね合っている。
テーブルのチップが積み上がっていく。
「ちょっと、すごくない?」
アンちゃんが小声で言った。
遊馬は自分のスタックを全部テーブルに押し出した。
「オールイン」
「え!?」
アンちゃんの声が少し上ずった。
テーブルが静まり返った。
周囲の別テーブルのプレイヤーが何人かこちらを見た。
ディーラーがチップの総額を確認する。
左隣の男が遊馬を見た。
数秒、黙っていた。
それからゆっくりとチップを全部押し出した。
「Call.」
右隣の男が腕を組んだ。
視線を手元に落として、少し考えた。
10秒ほど経ってから、無言でスタックを全部入れた。
3人全員のスタックがテーブルの中央に集まった。
*(これだけのポットになった。全員、退路がない)*
オールインが確定した瞬間、ディーラーの合図で3人全員がカードをテーブルに表向きで置いた。
左隣の男: ハートのA、ダイヤのK。
現在のベストハンド → A-A-K-K-7。エースとキングのツーペア。
右隣の男: スペードのQ、クラブのQ。
現在のベストハンド → Q-Q-A-K-7。クイーンのワンペア。
遊馬のカード: 2♠、7♠。
現在のベストハンド → 7-7-2-2-A。セブンとツーのツーペア。
ボード: A♣ K♠ 2♥ 7♦
現時点では左隣の男がリードしている。
遊馬は2番手。
*(残り1枚。俺に必要なのは2か7。AK持ちはこのままでいい。QQ持ちはQが来れば逆転できる)*
アンちゃんが俺の腕をそっと掴んだ。
何も言わなかった。ただ、掴んでいた。
---
リバー。
ディーラーが最後の1枚を伏せたまま、テーブルに置いた。
テーブルの空気が変わった。
誰も動かない。誰も喋らない。
チップの音も止まっている。
3人のカードが全部見えている状態で、最後の1枚だけが伏せられている。
左隣の男はテーブルに両肘をついて前傾みになった。
余裕がある。
このままでも勝てる。
右隣の男は背もたれに深く座り直した。
クイーンが来るのを待っている顔だった。
*(2か7。どちらでもいい。来い)*
カードがめくられた。
**クラブの2。**
*(フルハウス)*
2-2-2-7-7。
ツーズフルオブセブンズ。
映像の通りだった。
完全に、映像の通りだった。
左隣の男が一瞬、ボードを見た。
それから遊馬のカードを見た。
それからもう一度ボードを見た。
「……*Two and seven?*」(……2と7だと?)
テーブルのディーラーが静かにチップを押した。
全部、遊馬の前に来た。
左隣の男がもう一度、遊馬のカードを見た。
それからボードを見た。
それから、突然、笑った。
「*Two and seven, all-in? You're crazy. You're fucking crazy!*」
(2と7でオールインだと? 頭おかしい。本当に頭おかしいぞ!)
清々しいほどの笑顔だった。
自分が負けたにもかかわらず、右手を差し出してきた。
遊馬はその手を打った。
「*Thank you. Good game.*」
*(いい兄ちゃんだな)*
右隣の男は何も言わなかった。
ただ、静かに手を差し出した。
遊馬はその手をしっかり握った。
男は小さくうなずいて、席を立った。
アンちゃんが俺の腕を両手で掴んだまま、固まっていた。
「……えっ」
小さく言った。
「えっ、えっ」
もう一度言った。
「勝ったの?」
「勝ったよ」
「えっ!!!」
今度は声が漏れた。
周囲のプレイヤーが振り返った。
「遊馬くん!!」
*(でかい声出てる。でも今は許す)*
チップを数えた。
レートが高いテーブルだった。
差し引きで700万程度のプラスになる計算だった。
*(昨日の350万負けが全部返ってきて、350万余った)*
アンちゃんが小声で耳打ちしてきた。
「まだやる?」
「いや、もう終わろう。今日はこれで十分」
「いこっか」
アンちゃんがすぐに立ち上がった。
興奮を全身で抑えているのが伝わった。
チップをキャッシュに換えてカジノを出た。
コタイの午後の光が2人に当たった瞬間、アンちゃんが
「すごかった!!!」
と言った。
「まあね」
「なんであの手でオールインできたの?
2と7だよ? ポーカー弱い私でも、それはやばい手だってわかるよ」
「ヒリつくじゃん、ああいう場面」
「ヒリつく?」
「勝てるかどうかわからない状況で全部突っ込む瞬間。
あのヒリつきが、ギャンブルで一番好きなとこかもしれない」
*(結果はわかってたんだけどね)*
アンちゃんがしばらく黙った。
「やばー」
「やばい?」
「いや、リバーで2が来た瞬間、私も心臓止まるかと思ったから。
あれはやばかった。最後の1枚がめくれるまで、息できてなかったかもしれない」
「横で見てるほうが怖いかもな」
「絶対そう。遊馬くんは涼しい顔してるから余計」
アンちゃんが少し俺を見た。
「でも2が出た瞬間だけ、顔変わってたよ」
「そんな顔してた?」
「してた。一瞬だけ。すごく楽しそうな顔」
*(自分ではわかってなかった。でも、そうだったんだろうな)*
「今日は遊馬くんが勝ったから、もうめちゃくちゃいいご飯連れてってくれるんだよね」
アンちゃんが少し歩幅を広げた。
「もちろん、好きなところ連れていくよ。どこでも」
「やった!」
*(あと5日ある。映像が来た。海外でも使える。それが今日わかった。それだけで、十分だった)*
コタイの空が青く、高かった。
---
**── 残高メモ ──**
| 4/15〜17 マカオ旅費(内訳) | |
|:--|--:|
| ビジネスクラス片道・2名分 | ▲約35万円 |
| スイートルーム2泊(コタイ最高級ホテル) | ▲約60万円 |
| 食事・バー・その他(3日間・2名) | ▲約15万円 |
| **旅費合計(法人経費)** | **▲約110万円** |
| 前話繰り越し(法人) | 約1億2,400万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約1億2,290万円** |
| 4/16 バカラ・ルーレット(映像なし・通常プレイ) | ▲約350万円 |
|:--|--:|
| 4/17 ポーカー(映像あり・フルハウスまくり) | +約700万円 |
| マカオ現地個人費用(4/15〜17) | ▲約5万円 |
| 前話繰り越し(個人) | 約5,586万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約5,931万円** |
---
*【第14話へ続く】*




