退職日前日の保守権限返納札は、王宮翻訳室正式印だけでは受け取れません
灰色の返納札に押された正式印を見たとき、サラは一瞬だけ息の仕方を忘れた。
王宮翻訳室の印は、本物だった。
けれど、そこに書かれた日付はもっと悪い。
――返納確認日、サラ退職処理日の前日。
「ほら見ろ」
ユリウスが、ようやく勝てる言葉を見つけたように笑った。
「お前はもう、退職前に保守権限を返していた。今さら薬棚だの北門灯だのに口を出す資格はない」
資格。
その一語が、サラの足元を冷やした。
私の名前が、私の手より先に返されたことになっている。
薬棚の温度表も、北門二十七番灯の帰着札も、リリアの本人未読欄も、まだここに残っているのに。
サラは指を握りしめ、それから灰色札を机に置き直した。
「退職処理と、保守権限返納は別の完了語です」
「同じだ。辞めた者に権限はない」
「いいえ。辞めるためには、どの生活手順を誰へ引き継いだかが必要です」
サラは札の三箇所を指した。
「正式印は、王宮翻訳室という部屋が押した印です。返納対象は、私の保守権限です。そして受領確認者名は――空白です」
ノエルが、薬棚の温度表を抱えたまま、小さく読み上げた。
「受領確認者、王宮翻訳室代理。人名欄なし」
「人名欄がないなら、誰が私の保守責任を受け取ったのか読めません」
そのとき、廊下の奥で冷却皿が薄く鳴った。
夜明け薬を入れた棚の霜が、端から消えかけている。黒札の処理済みを有効にすれば、仮保守机も、予備導線も、未読番号の保留もまとめて閉じられる。紙が閉じるだけではない。ミナの薬がぬるくなり、北門から戻る巡回者の灯が一つ減る。
「机を片づけろ」
ユリウスは慈療院の下働きへ命じた。
「退職済みの女の勝手な受付だ」
サラより先に、リリアが机の前へ出た。
花文字の紙ではなく、前話で自分の名を書いた控えを両手で持っている。
「読んでいない代理番号は、読めません」
声は震えていた。けれど、逃げなかった。
「姉様の権限を誰が受け取ったのか、わたしの番号ではありません。わたしの名前でも、閉じません」
マリナも濡れた外套を羽織り直し、北門の帰着札を机に置いた。
「今夜、二十七番灯を消されると、薬師の当番が宿舎まで戻れません。返納済みにされるなら、誰がこの帰り道を受け取ったのか、名前で読みたいです」
サラの胸に、冷えた恐怖とは違う熱が戻った。
自分の名前が奪われた話を、自分だけの痛みにしなくていい。薬棚と、帰る道と、読めない妹の声が、同じ机の上にある。
「仮判断を出します」
サラは青い保留札を一枚、灰色札の下へ差し込んだ。
――旧ヴィント工房保守権限返納札。
――王宮翻訳室正式印あり。ただし受領確認者名空白。
――薬棚冷却、北門二十七番灯、本人未読番号の生活影響確認が未完了。
――正式返納として受領不可。未完了返納として保全。
「未完了返納?」
「私が返していない、と言い張るための札ではありません」
サラは冷却皿に手をかざした。残っていた微かな予備導線を、棚ではなく温度表の時刻へ合わせる。
「誰も受け取っていない権限で生活を閉じないための札です。夜明けまでの薬棚冷却と、北門二十七番灯の帰着確認だけ、仮保守として閉じずに残します」
冷却皿の縁に、白い霜が戻った。
ノエルがほっと息を吐き、温度表に新しい一行を書く。ミナの瓶は、朝まで冷える席を取り戻した。
マリナは予備導線を胸に抱え、北門へ向かう巡回者の名を二人分、帰着札に書き足した。
「これで、帰った人の名前も閉じません」
「ええ。灯が点いたかではなく、誰が帰れたかまで見ます」
廊下の端、小さな標識灯が青白く点いた。
祝灯式の大灯ではない。王都を飾る光でもない。ただ、夜明け前に薬師が宿舎へ戻るための細い灯だ。
その灯を見て、下働きは机から手を離した。
「片づけるな!」
ユリウスの声が荒くなる。
「王宮翻訳室の正式印を疑うつもりか」
「疑っていません。正式印は本物です」
サラは灰色札を封じる。
「だからこそ、部屋の印で人の名前を代わりにしてはいけません」
ちょうどそのとき、慈療院の入口に王宮色の外套を着た使いが現れた。若い写し係らしい。顔色は悪く、手には細い控え筒を持っている。
「王宮翻訳室より、第三保管棚の照合控えです。正式印の照合を求められたため、写しを届けに参りました」
ノエルが受け取り、筒の封を開ける。
中には灰色札と同じ日付、同じ印影、同じ空白の受領欄があった。
ただし、裏面に小さな番号がある。
――王宮翻訳室代理、第七一号。
「名前は?」
サラが尋ねると、写し係は唇を噛んだ。
「控えには、番号しかありません。人名欄は、後日補完欄です」
ユリウスが何かを言う前に、リリアが控えの端へ、読める字で書いた。
――代理番号は読める。代理人名は読めない。
――読めない人名で、サラの保守権限を受け取ったことにしない。
サラはその一行を見て、ゆっくり頷いた。
「番号では、私の権限を誰が受け取ったのか読めません」
青白い標識灯が、廊下の床に細い道を作っていた。
その先にあるのは王宮ではない。夜明けまでに帰らなければならない人たちの宿舎だ。
サラは灰色札を閉じない棚へ置いた。
「次は、第七一号が、誰の生活を受け取った番号なのかを読みます」




