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パンドラの恋人  作者: 櫛名田慎吾
第五章
31/46

ソファーとベッドの一夜

 △

 

 逃げ場の無くなった私たちは、結局そのままふたりでラブホテルの一室に入ったのだった。


 ガレージ奥の階段を上ること数秒。その部屋は意外にも小綺麗にされていた。ダブルベッドよりも大きなベッドが一つと、二人がけのソファー。部屋の奥にあるのはどこにでもあるような化粧台と古いコインゲーム機、そして磨りガラスのドア向こうには、ちょっと広めのバスルームが見えている。テレビだって小さいけれど最近の液晶テレビがついていたし、外観から想像するよりは立派な部屋だった。


 部屋に入って高橋くんが後ろ手でドアを閉めた瞬間、カチャッ、とロックが掛かった気配がする。やっぱりそうか、ここも内側からはカギを開けられないんだと私は気づく。


「あ、あれ? ドアが開かない」


 もう一度ドアを確認しようとしたのだろうか、案の定高橋くんはロックが掛かったことに慌てていた。


「たぶんそれって、内側から開けられなくて……。あ、それだよ、きっと」


 私はドアの横にある精算機を指さした。お札とかコインを入れるような構造になっていて、精算ボタンを押すと料金が表示される様子。ご丁寧にもその横には休憩と宿泊料金が貼ってあって、今の時間帯だと休憩は一時間千二百円らしい。


「ええ! お金払わないとカギを締められて部屋から出られないの?」


 ラブホテルに入ったことなど無いだろう高橋くんが、当然のように驚く。私も数ヶ月前に内側から開けられないことに驚いたのだけれど、いまそれを明かす訳にはいかない。それにラブホテルの中を知らないふりをしなければいけないし、そんなことにちょっとした罪悪感を覚える。


「ラブホテルって、こんな感じなんだ」


 わざとらしいかなとも思いながら、私はそんなことを言って大きなベッドに座った。外観が古い割にはベッドは思ったよりもふかふかで、なんだか寝心地は良さそうだった。


「なあ、いいのかよ長谷川」


 高橋くんはドア付近で立ったまま、私の方を気まずそうに見ている。


「良いも悪いも、もうここしか無かったし。もしかして高橋くん、こういうところ来たことあるの?」


「無いよ! 無い! 全然無い!」


 少し怒ったように完全否定して、高橋くんはソファに座った。深くため息をついたあと、ポケットからスマホを取り出す。どうやらお母さんに、夜を明かせるところが見つかった連絡を入れるらしい。話を聞いているとさすがにラブホテルとは言えないようで、カプセルホテルみたいなところだと説明していた。


「ふふっ、カプセルホテルだって」


「仕方ないだろ、ラブホテルに泊まるなんて言えるかよ」


 わざとらしくソファーから立ち上がった高橋くんは、カバンをソファーに放り投げて洗面所へと向かう。そこで二~三度顔を洗って出てきたかと思うと、「俺、ソファーで寝るから」とぶっきら棒に言って、二人掛けのソファーに横になった。


「いくらなんでも風邪ひくよ、それにソファーは小さいし」


「いいよ、長谷川がそっち使えば」


 高橋くんは向こうを向いたままで返事をする。


「このベッド、結構広いから端と端でも大丈夫だと思わない?」


「思わない!」


 やっぱり高橋くんは、身じろぎもせずに短く返事を返すだけだった。


 私は高橋くんならそういうことを言うだろうと想像はしていた。彼はイヤらしい中年男じゃないし、出られない部屋で私を襲ったりはしないだろう。もしそんな状況になったとしても、たぶん無理矢理じゃなくてちゃんと手順を踏むとか、こちらが拒否したら諦めてくれるとかだと確信している。それはクラスメイトだからとかそういう話ではなくて、高橋俊という男の子はそういう性格だと分かっていた。


 でも、もしそういう雰囲気になって私が拒否しなかったら、高橋くんはどうするだろう。有原優花がいるのに、私とそういう関係を持つだろうか。そしたら私は、有原優花から高橋くんを奪ってしまうのだろうか。


 まだエアコンが効いてこない室内は少し蒸し暑く、今日一日の汗で身体も髪もべたついているような気がする。


「ねえ高橋くん。シャワー浴びていい?」


「はあ!?」


 今度は少し大きな声を出して、高橋くんがソファーからむくっと起き上がる。


「長谷川、お前!」


「だって、身体も髪も気持ち悪いし、目の前にお風呂もあるし。高橋くん、覗く?」


「覗くわけないだろ、バカ」


「責任取ってくれたら覗いてもいいけど?」


「責任なんて取りません!」


 そう言ったきり、高橋くんは完全に向こうを向いて身体を動かさなくなった。


 身体や髪が気持ち悪いのは事実だけれど、どう考えても私は高橋くんを試そうとしている。それがわかっていながらシャワーを浴びようなどとしている私は、やっぱりちょっとおかしいと自分でも思う。それとも私の隠している本心は、このまま高橋くんを奪ってしまいたいのか。


「じゃあ、行ってくるから」


 そう言い残してベッドから起き上がると、ソファーからは「ああ」という、やっぱりぶっきら棒な声だけが聞こえてくる。私は広めのバスルームに入り、水の掛からない場所に服と下着を脱いで置いた。


 栓をひねると勢いよくシャワーから水が出てくる。当然ながら最初は冷たいけれど、徐々にお湯にかわっていく。シャンプーをして、身体をボディソープで洗いながらも、半分ほどの意識はドアの方へと向かっていた。


 磨りガラスになっているから、裸は見えない。でも人影はうつる。こちらからもドアの向こうに誰かがいれば分かるし、この部屋でドアの向こうに立つとすればそれは高橋くんだけだ。カギなんてかからないバスルームのドア。もしもこのドアを開けられたら私はどうするのだろう。


 そんなことを思いながらシャワーを浴びていたけれど、結局のところなにも起こらなかった。ドアの向こうに人影が見えることもなく、私は少しホッとしたような気持ちでバスタオルを使う。


「ねえ高橋くんもシャワー浴びたら?」


 もう一度服に着替えてバスルームから出た私は、ソファーの方へと声をかけた。高橋くんは相変わらず向こうを向いたままで、「いや、いい」とだけ短く言って返す。もしかしたら私がシャワーを浴びている間、ずっとソファーで向こうを向いていたのかもしれない。いや、たぶん高橋くんの性格からすると身じろぎもしなかっただろう。


「でも、汗臭いよ」


「え?」


 私が汗臭いと言うと、ようやく彼がソファーから身を起こした。自分の着ているシャツをパタパタとさせて、「汗臭いか?」と私に聞く。本当はまったく気になるレベルでも無かったけれど、私は「多少ね」と、高橋くんに言った。


「じゃあ、シャワー浴びるよ」


 高橋くんは私と同じようにバスルームへと消えて、しばらくするとシャワーの水音が聞こえてきた。化粧台に座ってドライヤーをかけると、ショートカットにしたので髪の毛が乾き始めるのが随分と早い。


 今朝、――というか昨日の早朝、高橋くんに言った「失恋したから髪を切った」という言葉の意味。その本当の意味が彼には伝わるはずもない。まさか本人を目の前にしてそんな話をする女の子もいないだろうし、高橋くんだって冗談だと思ったはず。


 そう、私は高橋くんに失恋している。好きになったかもしれない男の子には、もう可愛い彼女がいた。私とは正反対の性格で、彼氏に素直に甘えられるような彼女が……。そんな横恋慕なんてありきたりだと思っていたけれど、実際に自分がその立場になると、それは失恋と同じだと感じた。


 五日前、『高橋』というオトコと援交しそうになった私は、直前になって逃げ出した。私は怖かった。もし『高橋』と援交をしたとして、次に高橋くんと会うのが怖かった。そして家に帰ってシャワーを浴びながら泣いた私の緊張感がプツンと切れる。もう、援交で復讐なんてやめよう。いままで気持ちが悪いのを我慢してきたことも悔しいし、相手のオトコにいい思いをさせてきただけだけで、本当に自分がバカみたいでそれも悔しいけれどもうやめよう。そう思った私はあの日の夜、本当に久しぶりに熟睡ができたのだった。


 そんなことを思い出しながらドライヤーのスイッチを切ると、高橋くんがシャワーを止めた気配が伝わった。私はベッドに横になって目を閉じる。


「なあ長谷川、この歯ブラシ使っていいんだよな」


 さっきよりも普通の声にもどった高橋くんが、バスルームからおかしなことを聞く。


「当たり前でしょ、私も使ったし」


「だよな」


 そう言って歯磨きを終えた彼は「スッキリした」、と多少笑いながら部屋に戻ってきた。シャワーを浴びたくせ毛は普段よりも毛先がクルっとなっていて、なんだか普段の高橋くんとは違って見える。「じゃあ俺も寝るから」などとそのままソファーに横になった高橋くんに、「ちゃんと乾かさないとくせ毛がひどくなるよ」と私はドライヤーを勧める。ブツブツと言いながらドライヤーとヘアブラシで髪を乾かす高橋くん。やっぱりそんな表情は弟に似ていて少し可愛いと思う。


「じゃあ寝るから」


 今度こそそう宣言して寝ようとする高橋くんを、また私が止める。


「ちょっと待って。そのソファー、ベッドにくっつけたら掛け布団をそっちに半分出せるから」


「ええ? こんな感じ?」


 多少不満そうな顔をして、彼はソファーをベッド脇に寄せた。そうすると大きな掛け布団をソファーに掛けても私の分は半分以上余るのだ。時計を見ると時間はもう午前一時を過ぎていて、さすがに眠気が襲う。電車の中で眠ったとはいえ、今日は一日でいろいろありすぎた。


「高橋くんは寝るときって、完全に電気を消すタイプ?」


 何気なく聞くと、高橋くんはソファーの方から首をひねって、少し恥ずかしそうに返事をする。


「いや、真っ暗だと怖くて無理」


「フフッ、じゃあこれくらいでいいよね」


 暗くて寝られないのは弟も同じ、本当によく似ている。私は部屋の電気を薄暗いほどにしてベッドに潜り込んだ。ここまで何も手を出さない高橋くんは、やっぱり中年のイヤらしい男とは違う。私が半裸にでもなって誘うようなことをしない限り、何もしてこないと思う。


「ねえ高橋くん」


「なに?」


 薄暗い部屋の中で隣のソファーから高橋くんの声がする。私は迫り来る眠気を感じながら、意地悪なことを聞く。


「有原さんとはもうしたの?」


「なっ!」


 ビックリしたような声と一緒に、ソファーの方で身体がゴソッと動く音がした。本当に私は性格が悪い。好きな人に嫌がられるような事ばかり言うし、高橋くんにわがままを言える有原優花にも嫉妬をしている。私はわがままも言えず、こんな状況になっても好きだとも言えず、ただ彼を試したり、からかうようなことばかり言っている。


「してないよ。何もしてない……」


「だよね。相手はお嬢様だもんね、高橋くんらしいよ」


「なんだよ長谷川、俺らしいってどういうこと? ただの意気地無しじゃん」


「ううん、違う。誠実なんだと思う」


 高橋くんが有原優花と何もしていないことを意外とも何とも思わず、私は自分でも驚くほど穏やかな声を出した。でもそれは私にとってはただの確認で、それも悲しいような確認で。


「はあ……、もういいだろ。始発まで四時間くらいだから寝るぞ」


「うん。明日、お母さん帰ってくるのが七時半くらいだから、それまでには帰らないと」


「じゃあ六時には絶対に電車に乗らないとな。とにかくおやすみ」


 私の方に掛かっていた掛け布団が、少しだけソファーの方へと引っ張られた。彼が向こう向きに軽く布団を巻き込んだのだ。


「うん、おやすみ。襲うんだったら責任とってね」


「もうやめてくれよ……」


 私が眠りに落ちる前に高橋くんの声を確認できたのは、それが最後だった。結局寝入るまで一言も本心を話せず、そして予想通り高橋くんは襲っても来ず、偶然が重なった一日は終わっていったのだった。

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