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パンドラの恋人  作者: 櫛名田慎吾
第五章
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次の電車が無い

△ △ △



 私は夢を見ていた。それは私の家族の夢で、そして自分でもこれは夢だと、夢の中で分かっているつもりだった。


 なぜか父がまだ元気そのもので、可愛い弟もいて、お母さんも笑っていた。「今日は全部売り切れたから、余ったカレーパンは無いんだ」。そう申し訳なさそうに言う父に対して、弟が少し不満を言っている。売り切れたんだから店が儲かっている証拠、だからそんなことを言っちゃダメ。そんなふうに私が小学生の弟に言って聞かす。すると弟はそれでもまだ不満なようで、ブツブツと口の中でなにかを言っていた。その不満げな表情はなぜかとても可愛い、そして誰かに似ている。

 

 ――そうか、ちょっと不満そうに何かを言う時の表情、それは高橋くんにそっくりだ。ふふ、今度高橋くんに出会ったら言ってやろうか。ちょっと不満そうにする表情、ウチの弟によく似てるって。そうしたら彼はなんて言うだろう、やっぱりあの可愛げのある不満顔をするだろうか。


 そんなことを夢の中で思っていたときだった、誰かが私の肩を揺らした。それも結構強い調子で、グラグラと。


 △


「おい、長谷川、長谷川!」


 この声は高橋くんだ。でもなんで高橋くんが私を起こすのだろう。それもこんな焦ったような声をして。


「長谷川、起きろって。俺たち寝過ごしたみたいなんだから!」


「え……」


 私はその言葉にぼんやりと目が覚めた。電車が心地よく揺れているなかで、徐々にブレーキが掛かっているようだ。


「長谷川、早く降りないと! 俺も寝ちゃっててさ、結構寝過ごしたんだって!」


 滅多に見たことのない真剣な表情の高橋くんが、グイグイと私の肩を揺らす。私の意識は目覚めたばかりで、高橋くんが言っている言葉の意味がいまひとつ伝わらない。


「え……、ここ、どこ?」


 ゆっくりとホームに入っていく電車の窓から、照明に照らされた駅名が見えた。それは私の記憶には無い名前の駅で、ホームの周囲には大きな建物もなにも見えなかった。


「とにかく降りないと、早く長谷川!」


 高橋くんは強引に私の手を取って開いたドアへと導く。その手は温かで、大きくて、そういえば彼と手を握ったのは初めてだと思って……。


 ホームに降りてから振り返った車内にはほとんど人が乗っておらず、相当遠くへ来てしまったのがそれでわかった。


 私たちが降りてすぐにチャイムが鳴って、ゆっくりとドアが閉まる。ホッとしたのもつかの間、私たちは自分たちがどこにいるのかを調べ、そして二人で驚愕した。そこは名前だけは知っている終着駅まで、あと一駅という田舎駅。私たちが本来降りるべき駅から一時間近くも離れた場所だった。


 スマホを見ると時間は十一時半頃、これは豪快な寝過ごし。高橋くんはといえば夜目にも血の気が引いて見える表情で、ホームにある時刻表を凝視しながら指で追っている。


「もう帰ったら十二時越えるね。高橋くん、怒られるんじゃない?」


 ちょっと眠ってスッキリした頭で、私は高橋くんに冗談っぽく告げた。手を上げて少し背伸びをすると、固まっていた身体がポキポキと音を立てる。


 私はしばらく背伸びをしたまま夜空の星を見上げた。夏の夜空の大三角形、ベガ、アルタイル、あともうひとつは何だっけ? 私たちの住んでいる都会ではあまりよく見えない天の川が、この田舎の駅からはハッキリと見える。


「こんなとこまで来たの初めてだよ。高橋くん、アルタイルとベガと、あと何だったっけ? 夏の大三角形って」


 私はもう一度高橋くんに声をかけた。ところがその高橋くんは私の話なんて聞いてもいない様子で、時刻表から目を離さない。


「ちょっと、ねえ高橋くん。知らないの? 夏の大三角形?」


 少し強めの声を出した私の質問に、高橋くんは無言でプルプルと首を横に振る。


 そうか高橋くんも知らないんだと思い、私は彼の顔を覗き込んだ。すると高橋くんは時刻表を見たまま小さな声で「無いよ……」と呟く。


「え、何が無いの?」


 私の質問に高橋くんはうなだれる。


「帰りの電車、もう無い」


「なに言ってんの? ホントに? まだ十一時半だよ」


 私は高橋くんが冗談を言っているものだと思った。そして高橋くんが見ていた時刻表を見ると――。   


「何言ってるの高橋くん。これ、十五分後に終電が来るんじゃない? これでいいでしょ」


「あのさ長谷川……。長谷川の見てるそれ、下りダイヤの時刻表」


 こちらをチラリと見た高橋くんが、静かに言う。


「じゃあ、こっち?」


 私は横に視線を移す。そこに書かれていた上りダイヤの時刻表を見ると、最終列車の時刻は二十三時二十五分、つまり十分ほど前に上りの終電は終わっていたのだった。


「これホント……?」


 もう帰る電車が無い、という意味を理解した私が高橋くんの方を振り返ると、彼は叱られた小学生のような顔をして立っている。その瞬間のこと、なぜか私は夏の大三角形最後の星の名前、デネブをいまさら意味も無く思い出した。――と同時に。


「デネブ……」


 高橋くんがふて腐れたように、ボソリと星の名前を言う。


「え?」


「ほら、夏の大三角形の星、ベガ、アルタイル、デネブ。さっき聞いただろ、長谷川」


「フッ」


 私は思わず笑い出してしまった。どうしてこの人は私と同じタイミングに合わせてくるのだろう。帰りの電車が無いという状況なのに、どうでもいい夏の大三角形の星のことを律儀にも教えてくれる高橋くんには、本当に笑ってしまう。


「フフフッ……、ハハハ、可笑しい。アハハハッ」


「なんだよ! 長谷川が「知ってる?」って聞くからデネブを思い出してやったんじゃないか!」


「可笑しい、可笑しいよ高橋くん、アハハハ」


「なんで笑うんだよ!」


 誰も居ない深夜の田舎駅に、私の笑い声と高橋くんの少し怒った声が響いていた。

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