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パンドラの恋人  作者: 櫛名田慎吾
第四章
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アヤミの知らない『高橋』

 △


「アヤミちゃん、本当に高校生?」


 部屋に入った佐藤はハンガーにスーツの上着を掛ける。ホテルへと向かう途中に、襟の社章をモゾモゾと外すところを私は見ていた。さすがに援交でホテルに入るときには、そういったところが気になるらしい。


「うん、高三で十七って送ってたでしょ」


「ああ、でも美人で大人っぽいからさあ」


 ダブルベッドの上に座りながら、佐藤がカッターシャツのネクタイを外して私に横に来いと言った。多少身構えながら横に座ると、好奇な目をした男の視線がすぐ隣にくる。


 佐藤がいくら払ったか知らないけれど、入ったシティホテルはダブルベッドの部屋で夜景の綺麗な高層階だった。清潔にベッドメイキングがしてあって、ラブホテルのような淫靡な雰囲気はまったくない。防音もしっかりしていて、隣の部屋の物音はほとんど聞こえなかった。


「佐藤さんは独身?」


 私はどうか家族持ちであって欲しいと願いながら中年男に聞いた。すると少し表情を曇らせた佐藤が横に首を振る。


「いや、結婚してるけど」


「じゃあ、奥さんも子供もいるの?」


「そうだよ。悪い男だよね」


 佐藤が鼻で笑いながらそう答えた。私が少し唇をあげて笑ったのをどう捉えたのか、佐藤もまた唇をあげて笑う。


「佐藤さんはよくこういうことするの? プチ援交みたいな」


「今日で二回目かな。普通はプロを呼ぶから」


「プロ? ふーん」


 プロ、つまり普通は派遣風俗をつかうという意味だろう。遊び慣れているというか、欲の塊のようなヤツだ。私が奈落の底に突き落とすには最適だと思う。


「その目は軽蔑してるね、まあいいけどさ。妻に不倫されたんじゃないかって思う男の感情をこういう機会に晴らしてるのさ。わかる? 不倫」


「不倫? 奥さんに不倫されたんだ」


「証拠は無いよ。それにもう十何年も前の話だから今更どういっても……」


 そう言って佐藤はフッと息を吐き出して笑う。


 十数年前の不倫疑惑を、いまもネチネチと引きずる男の感情など理解できなかった。当然いまも家族として暮らしているなら毎日顔を合わせているはずだ。私の家族などこの男の会社のせいで壊されてしまい、再び一家で顔を合わせて暮らす機会などあるかないか分からないというのに。


――この男は自分勝手だ


 私はそう思う。聞きたいことがあれば奥さんに聞けばいい。どんな不倫だったか知らないけれど、証拠もなしに妻を疑い鬱屈した十数年を過ごし、そして私みたいな高校生を買って仕返しと憂さ晴らしをするような大人は気に食わない。


「アヤミちゃん、今日はどこまでいいの? プチ援って書いてあったけど、本当はどこまで? お金はあるからさ」


 私が黙っていると、佐藤が条件を出してきた。最後までだったらかなりの金額を出すという。


「だから最後まではダメって言ったでしょ。手でするのと、服の上から身体を触らせるだけ」


「それじゃあ切ないよ。せめて裸くらいみせてくれないと」


 男の顔が薄ら笑いになる。その嫌らしい表情が、私にはあの支店長の薄ら笑いと被って見えた。私は気持ち悪いとは思ったけれど、これも獲物を捕らえるための撒き餌だと思って我慢をする。


「裸はダメだけど、じゃあ下着なら」


「ふーん、まあ後は追々ね」


 そして佐藤は慣れた様子で、私に先にシャワーを浴びろと言ってきた。シャワーは家で浴びてきたと答える私に、またもや「ふーん」と疑わしそうな声を出した男が、シャツを脱いでバスルームへと向かう。


「キミを信用してない訳じゃないけど、盗られたら大変だからね」


 そう言って佐藤がバスルームまで持って入ったのは黒い鞄。あの中には財布などの貴重品が入っているのだろう。まったく本当に遊び慣れているとしか思えない。


 佐藤がシャワーを使い始めると、バスルームの磨りガラスが一気に曇った。こちらからは向こうが見えないし、向こうからもこちらが全く見えない。「後は追々」などと男は余裕で言ったけれど、レイプだけはされないように気をつけなければならないと思う。


――そうだ、なにか男の証拠を握ってやろう。


 そう思う私の目に、ハンガーに吊してあるスーツの上着が映った。さっきまで誇らしげに都市銀行の社章をつけていたあの上着。たぶん社章はそのポケットに違いない。


 ハンガーの場所はバスルームからは完全に死角になっている。私はベッドから立ち上げって上着に近づいた。手で触ってみるといかにも軽くて上質なサマースーツ。この暑い日にもスーツを着て通勤するなんてエリート銀行員らしい。


 片方のポケットの中に手を入れると、そこには社章ではなくてパスケースのようなものが入っていた。


――なんだろう? 定期入れ?


 そう思ってポケットの中から取り出してみると、それは定期入れではなくて名刺入れのようだった。私は思わず心の中で快哉を叫ぶ。これで完全に男を破滅に導けると確信した。


 手早く名刺入れを開けて中の名刺を確認する。十枚ほど入っていた名刺はどれも綺麗に印刷されていて、私も見たことのある銀行名が堂々と記されていた――が。


「えっ!」


 そこに書かれてあった名前をみて私は思わず小さな声をあげる。名刺の役職は支店長、そして名前のところには。


「高橋春哉……」


 数秒間私はそこで固まった。こんなところで高橋姓と出会うなんて思ってもいなかった。昼間に見た高橋くんの顔が脳裏に浮かぶ。


 普通に考えれば高橋姓なんて全国で何十万人以上といるだろう。それこそ佐藤や鈴木や田中といった名字と同じランクで世の中にありふれている。いまシャワーを浴びている高橋春哉という人物と、高橋俊が関係あると思う方がおかしい。万が一親子だと疑ってかかってみても、顔や姿も全然似ていない。


 私は名刺を一枚だけ抜いて、ケースを上着のポケットに戻した。と同時に、高橋春哉がバスルームのシャワーを止めた気配が伝わる。さっきまでザーザーと聞こえていた水音が消えて、部屋の中には静寂が訪れた。


 私の頭は混乱していた。バスルームのドア一枚隔てたところで身体を拭いているのは、高橋春哉という知らない男。そしてそれは今から私が復讐しようとしている相手。私の知っている『高橋』と、知らない『高橋』、二人に関係があるなんて万に一つくらいの可能性しかない。――けれど。


 バスルームのドアが開けられるまでもう一分もないだろう。そうすると今から小一時間ほど私は私の知らない『高橋』に身体をもてあそばれる。最後まではしないとは言っていても半裸姿を『高橋』にさらして、『高橋』というオトコの性欲を叶える。いくら復讐のためとはいえ、私の知らない『高橋』にそんなことをさせて、そのあと自分は自分でいられるのだろうか。


 こんなことなら名刺を見ないで、まったく無関係の佐藤のままの方がよかった。でも、いまさら後悔してももう遅い。


 いよいよ男がバスルームから出てくるという瞬間。私は震える手で高橋春哉の名刺を自分のポケットに突っ込み、部屋の出口に向かった。


「アヤミちゃん、やっぱりシャワーを浴びたらどう?」


 部屋のドアを閉める寸前、そんな声が背後から聞こえた気がするけれど、私はそのままドアノブから手を離し、廊下に向かって走って逃げ出したのだった。

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