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パンドラの恋人  作者: 櫛名田慎吾
第四章
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涙の意味


 部屋を出た瞬間、背後でオートロックがカチャリと鳴る音がした。エレベーターホールへと続く長い廊下には誰も居ない。


 ちょうどやって来た下りのエレベーターに乗り込むと、そこには上層階から乗ってきた先客がいた。その客が私の顔を見て、少し不審げに首を傾げたような気がしたけれど、私はそのまま階数表示を凝視し続けた。


 やがて地上階につき、電子音が鳴って開いた扉から一番に飛び出す。そこはほんのさっき高橋春哉とチェックインをしたホテルのロビー。そのエントランスを足早で駆け抜けて、私は夜の街へと溶け込んでいった。


 ホテル入り口のロータリを回ったところで、ようやく私は後ろを振り向く。背後に見上げるのは巨大な高層建築物。その上の方にはまだ高橋春哉がいるのだろうか。どの部屋かなんてわからないけれど、上層階にはたくさんの電気がついている。


 上空を見上げた私の口の中に、不意に塩の味が広がった。なんだろうと思って唇を手で拭うと、私の指先が水分で濡れている。それは自分の涙だった。自分でも知らないうちに涙を流していたのだ。エレベーターの中の人は私の泣きそうな顔を見て不審に思ったのだろう。たぶん相当ひどい顔をしていたに違いない。


「なんで……、私、なんで」


 手の甲で涙を拭いながら駅へと向かう私は、自分でもわからない言葉を呟いていた。やっと念願叶って一番復讐したい相手を見つけたというのに、その姓が高橋だったというだけで私はくじけてしまった。見知らぬ高橋という人物に性の対象として見られることが耐えられなかった。佐藤ではなく高橋だからダメだったのだと気づいた私は、隠していた自分の想いをもう抑えることができなくなっていた。


 明日から私は元の私に戻ることができるだろうか。そして明日からも復讐をするという意思を保ち続けることができるだろうか。


 ポケットに手を入れると、スマホと一緒に一枚の名刺に手が触れる。それは部屋から持って帰った高橋春哉の名刺、いったい私はそれをどうするつもりか。いっそ駅のゴミ箱に捨てようかと思ったけれど、捨てられそうには無い。そんなことは自分自身がよく分かっている。


 何も考えられずにホームで電車を待っているあいだ、私は普段のクセのようにスマホを触っていた。


 さっきまで高橋春哉と連絡をとっていたアプリには罵詈雑言が入っているか、それとも恨み辛みが入っているか、とにかくそれを今から確認してもいいことなど一つもないはず。なにしろシティホテルの高層階にチェックインをして、何もしないうちに逃げられてしまったのだ。あの男が怒っていないわけがない。


 普段私はそういう悪口の書き込みをなんとも思っていなかった。オトコのそういう未練たらしい書き込みを見ては、相手を馬鹿にするのが常だった。でも今日は無理だ。ただ見るだけでも精神的に参ってしまいそう。そう考えた私は相手の書き込みを確認するまでに、泣きながらスマホのアプリ自体を消したのだった。


 △


 どこで泣き止んだのか、いつ涙が止まったのかは思い出せないけれど、私は自分のアパートに帰ってきた。部屋の時計を見ると夜の十時前。夜勤に出た母は当然家にはいないし、迎え入れてくれる家族なんて誰もいない。


 水道の蛇口をひねって水を飲もうとすると、昼間に自分が飲んだコップがそのままシンクに置いてあった。数時間前にこのコップで水を飲み、頭にちらつく高橋くんへの想いを断ち切った私はもういない。半裸をさらしてまで復讐をしようと思っていた私は、『高橋』という名字に心を砕かれて絶好の獲物を逃した。手元に残ったのはあの男の名刺だけ、『高橋春哉』という名前の名刺だけ。


 どうしてあの男の名刺を見たのか、どうしてあの男は高橋という名字だったのか、どうして高橋くんへの気持ちに気づく前にあの男に出会わなかったのか、どうして……。いくつもの「どうして」が私の頭の中をグルグルと回る。


 私はうなだれたままシンクの前を離れてお風呂場へと向かった。頭の中は未だに「どうして……」という解答の無い疑問が渦巻いている。あの男に晒すはずだった下着を脱いでお風呂場に飛び込む私。シャワーの栓を思い切りひねると、やがて熱いくらいのお湯が全身に強く降り注いでいく。


 今日は何もしていないし、身体を触られてもいない。なのに私は全身を嫌というほど石鹸で洗い、髪の毛もいつもより丁寧にシャンプーをした。洗い終わった姿をお風呂場の鏡で見ると、完全に疲れ切ったような自分の顔が映る。泣きはらしたことがよく分かる腫れぼったい目、鎖骨より少し下まである洗った髪。そしてその毛先からは、ポタポタと滴がしたたっている。


 小さく深呼吸をすると、さっきまで頭の中でグルグルと回っていた、「どうして」という疑問はいつの間にか消えていた。そしてその代わりに私の心には、今まで抑え込んでいた別の感情が頭をもたげ出す。


 ――イヤだ、もうイヤだ。


 その言葉を口にしたら終わりだと、自分でも分かっていた。その言葉を口にしたらもう復讐なんてできなくなると分かっていた。けれど。


「私、もう……、嫌だ。嫌だよ、嫌なんだよ」


 鏡に映る私に向かってそう呟いた瞬間、自分のなかで何かがプツンと切れて、そして強がっていた私自身がガラガラと壊れた気がした。


<第四章 おわり>


 皆様お読みいただいてありがとうございます。ストーリー的にはこれで半分を過ぎました。後半は俊と綾の距離がグッと近づきますが、今日綾が出会った高橋の存在が壁になります。後半もぜひお楽しみいただければ幸いです。


 後半は更新ペースを二日に一度で予定していますので、もしよろしければブクマ等お願い致しますm(_ _)m

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