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パンドラの恋人  作者: 櫛名田慎吾
第三章
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氷姫を溶かす人

△ △ △


「俊……、あのさあ」


 参考書を買ったあとのこと。本屋のナイロン袋をぶら下げて歩きながら、粕谷がポツリと僕に言う。外に出たらまだ雨が降っていたので僕も粕谷も傘をさしていた。だから、隣を歩くと多少お互いの傘がぶつかって、コツコツと小さな音を立てている。


「なに? 粕谷」


 隣を向くと、粕谷はちょっと気落ちしたように舗道をみながら歩いていた。外から吹き込んだ雨粒がメガネに水滴をつけていて、ちょっと視界が悪そうだ。


「うん、あのさあ……。怒るなよ、俊」


「だから何が?」


 僕は粕谷の慎重な言い方が少し可笑しくなって、ちょっと笑いかけてしまう。


「今から僕が言うことに怒るなよ。それって、ただ単純に僕が感じたことだからさ」


 言いにくそうにそんな台詞を口にして、メガネに水滴をつけたままの粕谷が僕の方を見た。ちょうど交差点は赤信号に変わって、右折の車が目の前を通り過ぎようとしている。端正な粕谷の顔は思ったよりも真剣で、いったい今から何を言われるのかと僕は多少戸惑った。


「ああ、怒らないけど。なに?」


「じゃあ言うけど、本当に他意は無いからな」


 くどいように粕谷はそう宣言してから、僕に思いがけないことを言ったのだ。


「なあ俊。お前さあ、優花ちゃんといるときよりも、今日長谷川さんと一緒にいたときの方が僕には楽しそうに見えたんだけど……、それって僕の思い違いとか、勘違いかな」


 そんなことを言う粕谷の目は冗談を言っているようには見えなかった。雨粒がビニール傘を叩く、ザーザーという音が妙に大きく聞こえる。


「な、なに言ってんのお前」


 一秒か二秒の間をおいて、僕が言えたのはたったそれだけ。


「ごめん俊、怒ったか?」


「いや、べつに怒ってはないけどさ」


 実際に僕は怒ってはいなかった。ただ粕谷が突然にそんなことを言ったことに対して驚きはした。優花といるときよりも長谷川と一緒にいたときの方が楽しそうだって? あの粕谷の言うことだから何かの根拠があるのだろうけれど、いまの僕にはさっぱり意味がわからない。


「怒ってはないけど、今の話、どういう意味?」


 僕が聞くと粕谷は視線を外して前を向く。目の前の信号は赤信号のタイマー表示が減っていき、そろそろ青信号に変わりそうな気配になっている。やがて青いランプが灯り、横断歩道に掛かったところで粕谷が口を開く。


「どういう意味って、僕が見たまんまのことなんだけどな」


 そこで一旦口を閉じ、少しだけため息をついて粕谷は僕の方をチラッと見た。


「たとえばさ。たとえば俊は、優花ちゃんに「そんなに笑うんだったら辛いラーメン食べてみろ」なんて言えるか?」


「言えない……かな」


 粕谷に対しては曖昧な返事をしたけれど、言われてみれば僕が優花にそれを言うとは思えなかった。別に優花に気をつかうという訳ではなくて、そういう会話をするような展開が思いつかなかった。


「それから、金魚の入っていた段ボール箱の話だって、デッキブラシの話だって、あんな風にポンポンと言いたいことを優花ちゃんに言える?」


「それは……」


 僕は粕谷の隣を歩きながら何も言えなくなってしまった。粕谷の言うことを一つ一つ振り返ってみると、結構僕は長谷川綾に言いたいことを言っている。去年一年間で数度しか話をした事がなかった女子で、しかも氷姫や、難攻不落などと言われるほどにクールな長谷川を相手に、全然気をつかっていなかった。


 すっかり黙ってしまった僕を見て、粕谷は慌てたように話を続け出す。


「ごめん俊。別に俊を怒らせようと思った訳じゃないんだ、それに責めた訳でもないし、ただ本当に思ったことを言っただけなんだけど」


「うん、分かってる。怒ってないよ」


 粕谷は優しいヤツだし、よく気がつく。その粕谷が言うのだから、僕が長谷川と話をしている時に楽しそうに見えたのは本当だろう。


「そんなに楽しそうだったか? 俺」


「ああ、俊も、それから長谷川さんも二人とも楽しそうだった」


「そうか」


 そうか、とは言ったものの、だからといってどうしようも無い。長谷川のことが気になる粕谷にとって、それが何かの役に立ったとも思えない。そんなことを僕が思っていると、粕谷がこっちを見てニコリと笑う。でも、その表情は少し寂しそうで。


「僕は今日わかったよ。長谷川さんの壁を壊せるのは俊みたいなヤツなんだなあって。僕はとても長谷川さんにあんな風に言えないよ。もし俊に優花ちゃんがいなかったら、長谷川さんと付き合えって言うんだけどな。ハハ……」


 最後に乾いた笑いを見せた粕谷が、そのまま続けて僕に言う。


「なあ俊。長谷川さん、本当はいい子だろ?」


「まあな。でもお前、長谷川のことを氷姫って言ってたじゃん」


「うん、氷姫だよ。本当に綺麗で、孤高で、頭が良くて、そして近づいたものを凍らせて。でも、だから誰かが彼女を包んであげないといけないような気がしてさ……」


「ああ、まあそう……かもな」


 僕はそれだけしか言えず、あとは粕谷と別れるまで舗道に落ちる雨粒を見つめていた。


<第三章 おわり>

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