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パンドラの恋人  作者: 櫛名田慎吾
第三章
20/46

激辛ラーメン

 △


「なあ俊、あと一分だけどさあ」


「え……、マジで……」


 粕谷くんにスマホを見せつけられ、高橋くんはもう一度ため息をついた。ラーメン鉢の中にはまだ三・五辛のラーメンもスープもたくさん残っている。私たちは既にチャーシュー麺を食べ終えていて、あとは高橋くんを待つばかりだった。その高橋くんはさっきから箸の進みが遅くなっていて、水ばっかり飲んでいる。小鉢に取り分けた麺はスープを吸って延び延びだ。


「あと十五秒」


「はあ……」


 もう無理だと諦めたかのように箸を置いた高橋くん。そのすべてを受け入れた殉教者のような表情を見てしまった私は、吹いちゃダメだと思いつつも、吹き出して笑いが漏れてしまった。


「はい終了。俊、タイムアップ」


「笑うなよ長谷川、ホントに辛かったんだからさあ」


「なんで? だって誰も三・五辛のラーメンを食べろなんて高橋くんに言ってないでしょ?」


「そうそう、美人のお嬢ちゃんの言う通りだよ」


「オジサン、これホントに三・五辛? 三・八辛くらいあったんじゃないの?」


 十五分で食べ終えることが出来ずに賭けに負けた高橋くんは、私や店主さんに八つ当たりをした。粕谷くんはと言えば、残った辛そうなスープにレンゲを入れて無謀にも三・五辛のラーメンを試食しようとしている。真っ赤に染まったスープを一口飲んだ粕谷くんが、とくに何も反応せずに二口目を口へと運ぶのを見て、見た目ほどには辛くないのかなと思った時だった。


「うわ!! これ辛っ! 後から来る、後から来るよ。俊、これよく食べたなここまで」


「だろ!? 笑うんだったら長谷川も食べてみろよ、三口だけでもスープを飲めたらコーヒー奢ってやるからさあ」


 斜め前では辛さを紛らすために粕谷くんがゴクゴクと水を飲んでいる。普段の私だったらバカバカしくてこんな賭けなんて鼻で笑うのに、なぜか今日の私は高橋くんにだけは負けたくなかった。


「いいよ、そのかわりコーヒーはコーヒーでも、奢ってもらうのはスタバのコーヒーだからね!」


「上等上等、ラテでもカフェモカでも何でも奢ってやるよ!」


 売り言葉に買い言葉とはこのことだろうか。高橋くんはスタバの好きなメニューを奢ると息をまく。飲めるものなら飲んでみろというその態度を見て、私は「有原優花にはそんな態度を取らないくせに、この猫かぶり」と、多少方向違いの怒りが湧いてきた。


 真っ赤なスープにレンゲを入れて、思い切って口へと運ぶ。飲んだ瞬間はそんなに辛くない、粕谷くんの言った通りに後から辛さがくるようだ。そこで私は一瞬で考えた。高橋くんは三口スープを飲めるかと言った、三口スープを味わえとは言っていない。つまりそれは――


「えっ? 長谷川さんそんなに続けて大丈夫!?」


「あっ! ちょっと長谷川、そんな作戦なんて!」


 味わう間も無く三口立て続けにスープを飲んだ私に、やがて強烈な辛みが襲ってきた。こんなものを半分以上も食べた高橋俊とはいったい何者?


「くうぅ……、辛い、辛い、辛いっ!!」


 目の前にあった水を飲み干してもまだ舌がピリピリとする。飲み干していったスープで胃が熱くなっているような気さえしてくる。私はお水をおかわりし、今度は辛みの成分を押し流すようにして飲み干した。


「ふうっ」


 私は大きく息を吐き出してやっと人心地がついた。冷静になって考えてみれば、なんてバカな賭けをしたものだと自分でも思えてくる。


 水の入っていたコップをコトリとテーブルに置くと、私の方を唖然として見ている二人と視線がぶつかった。


「なあ、長谷川って、意外と結構負けず嫌いで無鉄砲なんだな」


 高橋くんが真顔になって冷静に言う。


「長谷川さんのアツくなってるところ、初めて見た」


 粕谷くんは飲みかけのコップを持ったまま、天然記念物でも見るように私を見ていた。


「だって……高橋くんが、バカみたいに挑発するようなことを言うから……」


 気恥ずかしくなって二人の顔から視線を外すと、そこには目を丸くした店主さんが口を開けて私を見ている顔があった。


 △


「長谷川さんは夏休みにあるセンター模試、もう申し込んだの?」


「え? あれってそんなに早く申し込まないとダメなの?」


「うん、近くの会場が結構埋まっててね、早く申し込んだほうがいいらしいけど……。俊はどう? 申し込んだ?」


「まだ、忘れてた」


 そんな受験生らしい話を私たちがしているのは某有名コーヒーショップの店内。賭けに負けた高橋くんが、私と粕谷くんのコーヒーを奢ってくれている。


 正直に言うと、ここにクラスメイトと来たのは二年ぶりだった。まだ一年生になったばかりの私はそれでも友達がいて、将来私の身に起こる不幸など考えもせずに高校生活を送っていた。その時は女友達と一緒だったけれど、今はまさかの男子二人とスタバに来ている。そして普通の高校生のように受験の話をしている自分が不思議だった。


 高橋くんはさっきの勝負に負けたのがよほど悔しかったのか、何度も「長谷川の作戦に負けた」とボヤき、粕谷くんはその高橋くんを笑っていた。私はと言えば余りにアツくなってしまったことが恥ずかしくて、お店を出てしばらくは不機嫌を装った。


「あれさあ、五教科八科目全部受けたら模試は何時に終わるんだっけ?」


 アイスコーヒーのストローで遊びながら高橋くんが粕谷くんに聞く。


「確か、夜の八時過ぎだったと思うけど」


「はあ……、長いよなあ」


 そういって背もたれに身を倒した高橋くんが、くしゃくしゃになった前髪を触っている。時間は昼の十二時、予定では他の生徒はようやくボランティアが終わって学校に帰ってきたくらいの時分だった。高橋くんが言ったように、トクした気分というのはよくわかる。


 何でも奢ってやると言った高橋くんに飲ませてもらっているのはカフェモカ。支払いを済ませる彼を見るとちょっと可哀想と思ったけれど、私を挑発をしてきた彼が悪いのだ。


 男子生徒が二人に女が一人、いったいこの組み合わせを他の客はどうみるだろう。私がどちらかの彼女に見えるだろうか、それともただの友達三人と見るだろうか。そんなことを思っていると、高橋くんのスマホが短い音を立てた。何かのメッセージが届いた音。


「ああ……、他のところは今おわったらしい」


「優花ちゃん?」


「うん、結構楽しかったってさ」


「ハハハ、ボランティアが楽しかったんだ」


 そんな二人の会話を聞いていると、さっきの激辛対決のことを思い出した。私は高橋くんのことを「有原優花の前では猫かぶり」と思ったのだった。どうしてそんなことを思ったのか、たぶんそれは有原優花には辛いスープを飲めるか、なんて絶対に言わないだろうと簡単に想像できたから。それをなんとなくちょっと思い出しただけで少々腹が立つ。


 でも考え直してみると、さっきの高橋くんが素の姿で、有原優花の前の高橋くんは作られた高橋くんだとするとどうだろう。本人にはその自覚があるのだろうか。


 私はカフェモカをかき混ぜながら二人の様子をうかがう。高橋くんはスマホをいじりながら何かを返信しているようだけど、楽しそうには見えない。さっきの「辛いのを食べてみろよ」などと言っていた表情の方が活き活きとして見えた。


「俊、今日は何か用事あるの?」


 コーヒーを飲み終えた粕谷くんが、高橋くんのスマホを覗き込みながら尋ねる。高橋くんはスマホを隠そうともせずに、「何にも無い」と呟く。この二人には隠し事なんてないのだろうかと思ってしまう。


「じゃあさあ、本屋に寄っていかない? 参考書みるんだけど」


「ああいいよ」


 そう言って高橋くんはスマホをポケットに仕舞って身体を起こす。私ももう店を出る気配を感じて、冷めたカフェモカを飲み干した。


「長谷川さんも行かない?」


 カップを置いた私に粕谷くんはそう声をかけてくれたけれど、さすがにそこまで二人に付き合うことは出来ずに断った。


 △


 店を出て本屋さんへと向かう二人と別れて、私は自宅への道を歩き出す。雨はまだ降り続き、ビニールの雨傘にその雨音が響いている。


 今日は一日中この雨は降り止まないだろう。もし雨が降らなかったら、こんなふうにあの二人と過ごしたのだろうかと朝からの出来事を思い返す。高橋くんの嬉しそうな顔や、粕谷くんの優しげな表情を思い出す度に私の胸はなぜか少し痛んだ。晴れていたら普通にボランティアをして、そのまま学校で別れて、――そして、私は午後から獲物を探すようにSNSに書き込んだのだろうか。


 そんなことを思いながら歩いていると、さっき食べたラーメン屋さんの店先を通り過ぎた。そのまま雨の降る大通りへと向かうとき、私はなぜか自分が一人になって少し落ち込んでいることに気がついたのだった。

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