参佰拾玖
あの日の思い出を振り返るのはやめよう。
もう良いよ、と言うつもりで改めて珋二さんに向き合ったら、助手席から咳払いが聞こえた。
振り向いた柳一さんはもう一度咳払いをして、次に大袈裟な溜め息をつく。
彼の視線の先にいるのは、自らの兄貴分でもある、わたしの右横にいる男だった。
「……珋二さん、この際言ったら良いんじゃあないですか?」
「そっスよ。オレもそうしたほうが良いと思うっス」
柳一さんの言葉に、悠二くんは車のハンドルを握りながら同意する。
二人に遅れて、隣からちいさく「くそっ」と呟く声が聞こえた。
「ああ…………あの時は、デカい所を貸し切れるほど、俺の名は広くなかったし弱かったんだよ。だから、せめて人の少ないところにしようと考えてだな……」
「オレらは、おやっさんの名前使えばって勧めたんスよ」
「まあ、それは違う、とか言って絶対譲ろうとはしませんでしたけれどね」
「おい、お前ら……」
低い声を出してはいるが、不機嫌な様子はない。
前でニタリと笑う2人に、珋二さんは呆れたような眼差しを向ける。
背もたれに身を預ける彼の横顔に、わたしは首を傾げつつ問いかけた。
「どうして貸し切りと人の少なさにこだわったのかは謎だけれど、きっと気遣ってくれたんだよね?」
「ん、ああ、まあな」
相手は微かに頷き、照れくさいのか後頭部をぽりぽりと掻く。
珋二さんは言葉を濁し、わたしはそこに嘘を重ねた。
本当は謎だなんて思っていない。
本当は気遣ってくれた理由に、思い当たることがある。
今なら、なんとなく分かってしまう。
自覚はないけれど、たぶん自分は男運が悪いと思い込んでいたのだ。
そうしてあの時のわたしは恋愛休止中みたいな期間を勝手に作り、人をつよく拒むことしか考えていなかった。
男性に対して臆病ながら、どこかで敵対心みたいなものも抱いていたのだろう。
そんなわたしに配慮して、彼は人の少ない場所を選んでくれた。
珋二さんはきっと、そのことをすでに見抜いていたんだ。
資料だけが全てじゃあないと、彼は言外に口にした。
紙面とは別のところにいるわたしのことまで、この人はいつも真剣に見ていたのだろうか。
それは、いつから?
たぶん、出逢ってからずっと。
昨年の春。
彼らのことを2週間近くも見かけない日が続いたのは、きっと人の少ない場所を探してくれていたからだ。
わたしのことを考えて。珋二さん自身の事情も考慮して。
理由の一部に自分のことが含まれているだけで、わたしの胸は簡単におおきく満たされる。
うっかり、嬉しくて涙が出そうになった。
あ、でもここでは、まだ早いから我慢しよう。
だって、これからまだまだ、わたしは彼のことを大切に想う。
ずっとずっと未来でだって、彼らのことを好きでいる。
「うん、まあ良かったよ。あの日行ったところもね。それに自分のためだけに貸し切られるなんて、なんだか勿体ない気分になるし。楽しいことは、みんなで楽しみたいでしょ?」
「……え? ああ、まあ、そうだな」
まさか、今から行くところは貸し切っていたりしないよね……などと考えながら、念を押すように言う。
歯切れの悪い返事をする珋二さんは、甘いものと苦いものを同時に食べたような複雑な表情をしていた。




