参佰拾伍
結局、睦美さんには会うことも許されなかった。
本人が、今はダメの一点張りだったらしい。
それなら、わたしは機会を待つだけだ。今は、我慢する。
そう考え直したのはつい昨日のことなのに、寝て起きたら、やっぱり彼女のことを考えていた。
朝の歯磨きをするとき、お箸とマヨネーズを両手に持っていたくらい。
これじゃあ朝食の準備じゃん、と自分を浅く笑ってから、今日が日曜日であることを思い出す。
てっきり平日だと思って目が覚めてからすぐ行動を開始したけれど、休日なら二度寝しようとベッドに両手と片膝をついたときだ。
背後のテーブルに置いたスマホが、ちいさく震えた。
送り主の名前も確かめず、簡易メールアプリのメッセージを開く。
──おう。下まで迎えにきてんぞ。
「へ……?」
自分の体を、ベッドについた左の手脚と床についた足だけで支えるという中途半端な格好のまま、情けない声を出してしまった。
特に予定を組んでいた覚えもない。
「急ぎの用事だった?」とだけ打ち込むと、相手からすぐに返信がくる。
──お前、昨日の帰りに言ってただろ。
「帰り?」
わたしは悠二くんの送迎でしか移動させてもらえない。
昨日だって、彼の運転する車で連れて行ってもらったのだ。帰りも、彼に送ってもらった。
そこに珋二さんも同乗していたはずだけれど、珋二さんと会話した覚えはない。
──これはリベンジしかないよ! 女性同士で恋愛するか友情を深め合う映画しか観ない、……って息巻いてたろ。
なにそれ。ぜんぜん知らない!
苦手なジャンルではないから、観ることはできる。たぶん楽しんで熱中すると思う。
でも、今日の予定を話し合ったかは分からない。
車に乗ったところから、どうやって家に帰ってきたかも朧気だ。
というか、リベンジって何だ。
いやきっと映画鑑賞をなのだろうけれど、勢いづいて言うようなことでもなかったと思う。
ただし言った記憶はない。
スマホを片手にしながら悶々と考え込んでいたが、いつまでも待たせておくのは気まずい。
15分だけ待ってと送信して、わたしは手早く出掛ける準備をした。
道路の端に寄って待機していた車に乗り込むと、運転席には珍しく柳一さんがいる。
姿を見つけた瞬間、ドキリとして胸が痛くなった。
わたしは彼のことを、そこまで嫌っているわけじゃあない。
腹は黒いし底意地も悪いと思うが、ただ事実で傷付けるだけじゃあなくて最後まで寄り添ってくれる。
難問をちゃんと理解した上で、答えを書くことができるようになるまで付き合ってくれる。そういう感じ。
だけど目の前にいるのを意識したから、歯の裏に貼り付けた舌先を下ろしてしまいそうだ。
みぞおちから、喉から、舌の根から。次々と感情が溢れそうになる。
優しい人だ。柳一さんは。
ひどいにんげんだ。わたしは。
これから、自分のために動いてくれている人を真っ向から突っぱねなければならない。
何もしないでと、望んだわけでもないのに、と酷い言葉を声にするのだ。
苦しい。自分の口からそんなものが出るなんて嫌だ。
できればやめたい。どうにかして先延ばしにしたい。
数時間後の自分に押しつけて、現在のわたしは楽なままでいたい。
そうはしたくても間違っていると分かっているから、ただ、今は、言葉を向けられた相手が浮かべる表情を想像しないようにした。
葛藤と呼ぶには不純すぎる気持ちのまま、わたしは話を切り出す。
「柳一さん。睦美さんのこと、あなたの指示ですか?」
隣で誰かと電話していた珋二さんが、そっと息を潜める様子が見えた。




