参佰拾弐
日も暮れてきた頃。
今日は何も特別なことはしないでおこうと大人しく帰ることにした。
だけど母屋の廊下を辿っているとき、どこからか言い争うような激しいやりとりが耳に届く。
はじめは大して気にもしてなかったけれど、聞こえてくる高くて透き通るような声には覚えがある。
そう感じてからは、何故か妙に意識を研ぎ澄ませてしまう。
近付くごとに一言一句はっきりと分かりはじめるこの声は、睦美さんのものだ。
彼女はさっき出会した部屋にいて、対峙する相手は今は沈黙しているらしい。気配が薄い。
二人がいる部屋の襖が少しだけ開いていて、中を覗くと彼女たちは互いに鋭い視線をぶつけ合っていた。
「いい加減にしてよ。障らぬ神に祟りなしって言うけれど、あたしは神なんかじゃあないわ!」
わたしが部屋に入ろうとしたら、後ろから珋二さんに肩を掴まれて止められる。
睦美さんと一緒にいるのは、さっき妙な視線を寄越してきた男の人だ。彼は廊下の様子に気付くと、隣に並ぶ珋二さんに目配せした。
──静かにしてろよ。
と、耳のそばで更に念を押され振り向くと、背後に控えるその人は真剣な表情で見つめ返してくる。
「あたしはね! ……あたしは、人間関係に悩んで人生に悩むただのにんげんよ! 扱いづらいなら! 面倒ならそう言えばいいでしょ!」
睦実さんの声で、部屋のほうに意識を戻す。
彼女の言葉に衝撃を受けた。
自分だったら、絶対にそんなことは言えない。
同じことを言って肯定されでもしたら、なんて考えるだけで背筋が凍るような心地になる。
「たった一言よ!? 傷付けないため? 笑わせないで! 下手な気遣いほど、相手を傷付けるものはないんだから!」
睦実さんは自分に素直な人なのだろう。他人のために傷つくわけじゃあない。
「あたしが何で傷付くか知っているの!? 自分のことを好きでもない相手に気を遣わせたことによ! 優しい相手にそういう態度を取らせる自分に苛だっているのよ!」
だけど、他人だけを批難したりしない。彼女は己自身にも不愉快な気持ちを抱いている。
「人を馬鹿にするのも大概にして! あんたらに気を遣われたって、そのときは傷付いていたって、いつまでもウジウジと気持ちを引きずって過去に縛られていられるほど、出来たにんげんじゃあないんだからね! こっちは!」
その憤りがとても悲しく見えて、わたしは珋二さんの制止も無視して部屋に入った。
「睦美さん。ごめんなさい」
勢いのまま足を進めて、彼女を抱き締めた。
強く腕に力を込めて、でも潰さないように慎重に。
はじめ、彼女は体を硬くしていたけれど、すぐに腕の中から逃れようと身動ぎする。
「何よ……今更、それもあんたに謝られたって…………」
そうだ。謝っても、彼女の感じたものは消えない。
わかっていても、自分の行動をとめられなかった。
涙に濡れて湿った頬はもちもちしてて、わたしは思わず頬ずりする。
「ちょっと、やめなさいよ。そんなこと」
いやだ。離したくない。
自分より華奢な彼女を、より一層つよく抱き締めた。
「睦実さん、ごめんなさい。傷付けているのは分かってるの。でもお願いだから、睦美さんだけはもう、自分のことを傷付けないで。我慢なんてしなくていいよ。聞こえは悪いけれど、八つ当たりくらいわたしが受け止めるから。わたしにはその義務がある。責任がある。だから、絶対に無視したりなんてしないよ」
「あんたに、そんな資格ないわよ。あんたは、……あたしに傷付けられたほうでしょう。そんなことをする義務もないし、責任だってないわ。それでも罪悪感を抱いているというのなら、忘れなさい。あんたには要らないものよ」
「もう無理だよ。必要か不要かでは選んでないもん。わたしはただ、睦美さんのことが大好きなだけなんだよ。義務を感じるのも、責任を負うのも、大事にしたい相手だからなんだよ。誰が何を言ったって、例え珋二さんや玲二さんに言われたって、わたしはあなたから離れたりしない」
彼女の今の状況は、わたしのせいだ。
その罪は消えない。
仕方がないことだったんだと諦めたくない。
わたしは、自分が誰をどんな風に傷付けたのか、忘れたくないのだ。




