第57話 境界の向こう側
人は、自分たちの世界が全てだと思っていた。
しかし海の底には、
まだ知らない境界が存在していた。
その向こう側にあるものは、
敵なのか。
それとも、もう一つの未来なのか。
黒海の奥で、無数の瞳が開いていた。
それは生物の目ではない。
もっと古い。
もっと巨大な何か。
存在そのものが、この世界とは異なっているように感じられた。
悠真は息を呑む。
「……あれは何だ。」
青年は答えなかった。
ただ、静かに黒い海の向こうを見つめている。
「名前はない。」
「名前を与えられるほど、私たちは理解できなかった。」
その言葉に、澪の表情が強張る。
「理解できなかった……?」
青年は頷く。
「人類は海を調べた。」
「深海を調べた。」
「そして最後には、世界の外側まで調べようとした。」
「でも、見つけたんだ。」
「そこにあったものは、未知の生物じゃない。」
「世界の境界そのものだった。」
その瞬間。
黒い海水の奥から、巨大な波が押し寄せる。
しかし、それは水流ではなかった。
空間の歪み。
存在の揺らぎ。
近付くだけで、記録庫の構造が崩れていく。
『境界侵食を確認。』
第二管理者の声が響く。
『NOAH起動率、四十二パーセント。』
『防衛行動へ移行。』
巨大な塔――NOAHがゆっくりと動き始める。
先端の結晶が光る。
その光は攻撃ではなかった。
黒海とこちら側を隔てるための光。
一本の境界線を作り出していた。
「……綺麗。」
澪が思わず呟く。
それは恐怖の中で見た、唯一の希望のようだった。
しかし。
次の瞬間。
境界線へ、一つの影が触れた。
パキッ。
ガラスが割れるような音。
ただ触れただけ。
それだけでNOAHの境界が揺らぐ。
『警告。』
『境界維持率、低下。』
『残存時間――』
第二管理者が一瞬沈黙する。
『残り十八分。』
悠真は拳を握る。
「十八分……。」
短すぎる。
この場所を守るには。
世界を守るには。
だが青年は静かだった。
「十分だ。」
悠真は振り返る。
「何をする気だ。」
青年は答えない。
代わりに、自分の手を見つめる。
その身体から、淡い蒼い光が漏れ始めていた。
「私は記憶として残った。」
「でも、記憶は永遠には存在できない。」
「役目を終える時が来た。」
少年の顔が歪む。
「嫌だ。」
「また消えるつもり?」
青年は優しく笑う。
「消えるんじゃない。」
「託すんだ。」
その言葉に、悠真の胸が痛んだ。
知らない相手。
知らない過去。
なのに。
なぜか失いたくないと思った。
その時だった。
黒海の向こうから声が響いた。
『アダム。』
空間全体を震わせる声。
青年が動きを止める。
『まだ存在していたのか。』
青年は静かに答えた。
「私はアダムじゃない。」
「私は……。」
一瞬だけ悠真を見る。
「榊悠真だ。」
その言葉に、黒海の向こうの存在が反応する。
『不完全な器。』
『それでも継続するか。』
悠真はその声を聞いた瞬間、不思議な感覚に襲われた。
怒りではない。
憎しみでもない。
ただ、悲しみ。
その存在もまた、何かを失ったように感じた。
「お前は……何を求めている。」
悠真の問い。
長い沈黙。
そして返ってきた答えは、予想外のものだった。
『帰還。』
『我々は、帰る場所を失った。』
黒海が大きく揺れる。
『だから、取り戻す。』
その言葉と共に。
境界の向こう側から、一つの巨大な手が伸びてきた。
第57話をお読みいただき、ありがとうございました。
黒海の向こう側に存在するものは、単純な敵ではありませんでした。
彼らにもまた「失ったもの」がある。
そして、悠真たちは新たな選択を迫られることになります。
第3章「黒海裂界」は残りわずか。
第60話へ向けて、これまでの伏線が一つずつ繋がっていきます。
引き続きよろしくお願いいたします。




