第53話 黒海の囁き
人は未知を恐れる。
だが、未知は人を恐れない。
深海の底で囁く声は、
何万年もの時を超え、ただ一つの名前を待ち続けていた。
『……ようやく、会えた。』
その声は優しかった。
だからこそ、悠真は背筋が凍った。
悪意がない。
怒りもない。
ただ、長い孤独だけが滲んでいる。
「誰だ……。」
悠真が問い掛ける。
返事はない。
黒い球体の亀裂だけが、ゆっくりと広がっていく。
ピシ……
ピシ……
その音に合わせるように、記録庫の結晶が一つ、また一つと砕け始めた。
「記録が消える!」
澪が叫ぶ。
少年は首を振った。
「違う。」
「消されてる。」
「誰かが、自分の痕跡を消してるんだ。」
その言葉に悠真は息を呑んだ。
封印の中にいる存在が、自ら過去を書き換えている。
そんなことが、本当に可能なのか。
――記録消失率、九・八パーセント。
第二管理者の声が響く。
――原因不明。
――自己改変現象を確認。
「自己改変……?」
澪が端末を見つめる。
画面のログが、一行ずつ消えていく。
保存したはずのデータ。
解析結果。
映像。
何もかもが最初から存在しなかったかのように消滅していた。
「そんな……。」
その時だった。
第一守護者が突然、悠真の前へ立ちはだかる。
巨大な身体が盾のように二人を覆う。
直後。
黒い球体から一本の黒い線が伸びた。
槍のようにも見える。
影のようにも見える。
それは第一守護者の胸を貫いた。
ゴォォォッ!
衝撃が記録庫全体へ走る。
胸の結晶に大きな亀裂が入る。
蒼い光が霧のように溢れ出した。
「守護者が……!」
澪が声を失う。
第一守護者は倒れない。
ただ静かに腕を広げたまま、悠真たちを守り続けていた。
『任務……継続。』
途切れ途切れの声。
まるで最後の力を振り絞っているようだった。
その姿を見つめた少年は、小さく目を閉じる。
「ありがとう……。」
「ずっと、一人で守ってくれて。」
少年の頬を、一筋の涙が流れた。
その涙は水に溶けず、小さな蒼い結晶となって床へ落ちる。
カラン……
乾いた音が響く。
その音を聞いた瞬間。
黒い球体の動きが止まった。
静寂。
重苦しい沈黙が流れる。
そして、亀裂の奥からゆっくりと一本の手が現れた。
白い。
人間と変わらない手だった。
指先は細く、美しい。
だが、その皮膚には黒海粒子が血管のように流れている。
悠真は、その手から目を離せなかった。
不思議だった。
恐怖よりも先に、懐かしさが込み上げてくる。
『……怖がらなくていい。』
再び声が響く。
『私は、お前を壊しに来たんじゃない。』
『迎えに来たんだ。』
その瞬間。
悠真の胸が激しく脈打った。
ドクン――
白銀色だった生体センサーが、一瞬だけ黄金色へ変わる。
澪の端末が激しく警告音を鳴らした。
「悠真から、とんでもないエネルギー反応が……!」
数値は表示されない。
画面には、たった一行だけが浮かんでいた。
【UNKNOWN CODE : ADAM】
澪はその文字を見て息を呑む。
「アダム……?」
その言葉に、少年の表情が凍り付く。
「その名前は……。」
「ここにあってはいけない。」
第53話をお読みいただき、ありがとうございました。
ついに封印の中から姿を現し始めた謎の存在。
そして、悠真から検出された「UNKNOWN CODE : ADAM」。
この名前が意味するものは、HYDRA計画のさらに奥深くに眠る、人類最大の秘密へと繋がっています。
次回から物語は、新たな局面へと進んでいきます。
引き続き応援よろしくお願いいたします。




