第43話 境界の番人
深海に沈むのは、命だけではない。
時も、記憶も、選択さえも――
黒海は静かに呑み込み、そのまま保存し続ける。
『境界へ来たか。』
その声は、鼓膜ではなく意識へ直接響いた。
悠真は反射的に周囲を見回す。
誰もいない。
目の前には、静止したままの街。
そして、整列する深海服の人影。
だが先ほど腕を上げた人物だけが、一歩だけ前へ踏み出した。
ギ……
関節が錆びついたような音が、水の中へ静かに溶けていく。
「動いた……。」
澪が息を呑む。
人影は歩みを止めると、ゆっくり胸元へ手を伸ばした。
何かを取り出す。
それは、錆び付いた金属製のネームプレートだった。
悠真はライトを向ける。
文字はほとんど消えている。
しかし、一文字だけは読み取れた。
「……榊?」
思わず自分の姓を口にする。
その瞬間、人影のヘルメット内部で小さな光が灯った。
淡い蒼色。
まるで瞳が開いたようだった。
「そんな馬鹿な……。」
澪は震える声で呟く。
「偶然じゃない。」
悠真の鼓動が速くなる。
榊。
自分の一族に関係しているのか。
それとも別人なのか。
考えるより先に、都市全体が微かに揺れ始めた。
ゴォン……
今度の振動は規則的だった。
一定の間隔で繰り返される。
まるで巨大な心臓が鼓動しているように。
ドクン――
ドクン――
そのたびに黒海粒子が脈打ち、街全体を蒼く照らす。
そして建物の輪郭が、ほんの少しずつ変化していく。
「街が……成長してる?」
澪の言葉に悠真は答えられない。
壁面が波打ち、柱が呼吸をするように膨張と収縮を繰り返している。
人工物ではない。
生物でもない。
その境界にある何か。
『ここは墓標ではない。』
再び声が響く。
『ここは保存庫。』
『終焉を越えた者たちの記憶が眠る場所。』
悠真は思わず問い返した。
「お前は誰なんだ!」
数秒の沈黙。
やがて人影がゆっくりと悠真へ手を伸ばす。
その指先から、一粒の蒼い光が零れ落ちた。
粒子は水中を漂い、悠真の胸へ吸い込まれる。
刹那――
見知らぬ景色が脳裏を埋め尽くした。
燃え落ちる海上都市。
空を覆う黒い海。
逃げ惑う人々。
そして巨大な存在へ向かって叫ぶ、一人の青年。
『まだ終わっていない!』
その声は、自分のものではない。
しかし、どこか懐かしかった。
映像は一瞬で途切れる。
悠真は膝をついた。
「はぁ……はぁ……。」
激しく呼吸を繰り返す。
澪が駆け寄る。
「悠真、大丈夫!?」
悠真は震える手で頭を押さえながら、小さく呟いた。
「あの記憶……。」
「俺じゃない。」
「でも、あいつは……俺を知っていた。」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
黒海裂界の奥に眠る街は、「遺跡」ではなく「保存庫」という新たな姿を見せ始めました。
悠真が見た記憶の意味、そして「榊」という名が示す真実とは何なのか。
物語は、シリーズ全体の核心へ向けて少しずつ動き始めます。
次回もよろしくお願いいたします。




