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フーシェのショック・ドクトリン

1795年。4月。


パリは、まだ震えていた。


デムーランの記事がラメット伯爵たちの粉飾を暴き、全資産が没収され、彼らの名前が新聞の一面に晒されてから3週間が経っていた。被害者への補償基金はダントンの主導で設立され、ルアーブルの工場は改修工事のために一時操業を停止していた。SENの草案はラヴォアジエが予定通り2週間で完成させ、国民議会に提出されていた。


外交面では、タレーランの「研究事故説」が各国の宮廷に受理され、ピットの同盟工作は少なくとも当面は頓挫していた。ウィーンのフランツ二世は「フランスの内部問題であり、介入の根拠がない」と回答し、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム二世はポーランド第三次分割の準備に忙しく、フランスどころではなかった。


危機は表面上は制御されていた。


だが、パリの街角には目に見えない不安が漂っていた。


バスティーユの東翼が崩壊した夜の記憶。轟音。閃光。窓ガラスの粉砕。あの夜から2か月が過ぎても、サン・タントワーヌ通りの住民たちは、夜中に大きな物音がするたびに飛び起きた。子供たちが悪夢にうなされた。カフェでは、酒を飲みながら、「次はどこが爆破されるのか」と囁く声が、消えなかった。


爆破事件は「研究事故」として処理された。公式には。


だが、パリの民衆は本能であれが事故ではないことを感じていた。事故なら、なぜ政府はこれほど警戒しているのか。事故なら、なぜフーシェの密偵たちがパリの街を夜通し巡回しているのか。事故ではない何かが起きた。だが、政府はそれを隠している。


不安は怒りとは違う種類の毒だった。怒りは爆発する。爆発すれば、ガス抜きになる。だが、不安は爆発しない。沈殿する。地下水のように、じわじわと、社会の底に染み込んでいく。


その不安をジョゼフ・フーシェは待っていた。


* * *


5月。


ロベスピエールの執務室の扉が、ノックされた。


ノックの仕方が特徴的だった。控えめで、正確で、しかし、どこか執拗な。3回。等間隔。力加減は一定。人間の体温を感じさせない、機械的な正確さ。


「入れ」


扉が開き、フーシェが入ってきた。


36歳。蒼白い顔。薄い灰色の目。痩せた体。黒いフロックコート。この男が部屋に入ると、空気がかすかに冷える。タレーランが入ると空気が歪む。ナポレオンが入ると空気が熱くなる。ラファイエットが入ると空気が明るくなる。だが、フーシェが入ると、空気が冷える。温度が下がるのではない。空気の中から、何かが抜ける。人間味のようなものが。


フーシェの左脇には、分厚い革表紙の企画書が抱えられていた。


「ロベスピエール殿。提案がある」


「座ってくれ」


フーシェが椅子に座った。姿勢は正しかったが、どこにも力が入っていなかった。蛇が椅子に巻きついたような、自然で、不気味な脱力。


「バスティーユの件で、私に密偵の監視を命じてくださった。元工員12名の動向監視。ピクリン酸の流通経路の遮断。すべて、完了している」


「結果は」


「12名のうち、4名は既にパリを離れている。地方に散った。追跡は続けているが、当面の脅威はない。残り8名は、パリ市内に滞在しているが、爆薬の原料にアクセスする手段を持っていない。工場からの原料の持ち出しは、私の監視体制で完全に遮断した」


「よくやった」


「だが」


フーシェの薄い唇が、歪んだ。笑みではなかった。笑みに似た何かだった。計算の結果が出たときの、あの微かな満足。


「問題は、この12名だけではない」


「何だ」


「ロベスピエール殿。物理的な爆弾では国家は死なない」


フーシェが、企画書をテーブルの上に置いた。革表紙がずしりと重い音を立てた。100ページ以上はある分厚さだった。


「爆弾は、破壊する。だが、破壊されたものは修復できる。バスティーユの壁は瓦礫になったが、壁は建て直せる。国家を本当に殺すのは、爆弾ではない。信頼の崩壊だ」


「信頼の崩壊——」


「ラメット伯爵のデータ粉飾。バスティーユの爆破。この二つの事件は、民衆に何を教えたか。『政府は嘘をつく』と。『安全ではない』と。民衆がこの二つを信じた瞬間に、ロベスピエール殿、あなたのシステムは内部から溶解する。通貨も物流も科学も、すべてが民衆の信頼の上に建っている。信頼が崩れれば、すべてが崩れる」


ロベスピエールは、フーシェの言葉を否定できなかった。


「だから提案がある」


フーシェが、企画書を開いた。表紙の内側に、金文字で書かれたタイトルが見えた。


「市民安全確保法共和国公共秩序維持機構設立案」


「これは何だ」


「ピンチをチャンスに変えるものだ」


フーシェの灰色の目が、蒼白い顔の中でかすかに光った。蛇の目。カメレオンの目。だが、その光の中には、冷徹な知性と、計算された野心が、等量で混合されていた。


「バスティーユの爆破事件は不幸な出来事だ。だが、この事件は『市民の安全確保』という大義名分のもとに究極の監視OSを全国民にインストールする最高のチャンスでもある」


* * *


ロベスピエールは企画書をめくり始めた。


フーシェの計画は緻密だった。物理学教師出身のこの男は、論理的な構造設計においては、ナポレオンやタレーランにも引けを取らなかった。いやある意味ではそれ以上だった。ナポレオンは道路を設計する。タレーランは外交を設計する。フーシェは人間の行動そのものを設計しようとしていた。


「第一条。共和国の全主要都市に、『市民安全局』を設置する。各局には、安全巡察官を配置する。巡察官は民間人の服装で街を巡回し、法律に基づいて揉め事の仲裁、犯罪の予防、そして市民からの相談を受け付ける」


「民間人の服装?制服ではなく?」


「制服は、権力を可視化する。可視化された権力は、警戒される。民間人の服装であれば、巡察官は市民の中に溶け込む。市民は巡察官を隣人として見る。隣人に相談する。隣人に愚痴をこぼす。隣人に噂を話す。巡察官は、市民の信頼を得ることで情報を収集する」


「つまり密偵だ」


「密偵ではない。公共サービスの提供者だ。表向きは」


フーシェの唇が、また歪んだ。


「巡察官は、法律に基づいて、正当な業務を行う。揉め事を仲裁する。迷子の子供を親元に届ける。酔っ払いを家に送る。窃盗犯を捕まえる。市民は、この巡察官を好む。なぜなら、巡察官がいる地区は犯罪が減り、治安が良くなり、夜道が安全になるからだ」


「そして巡察官は、業務の過程で得た情報を、報告書として提出する」


「その通りだ。巡察官は、毎日の巡回で見たこと、聞いたことを、報告書にまとめる。誰が何を話していたか。誰が誰と会っていたか。どの酒場で何が議論されていたか。報告書は、私の局に集約される」


「そして教会からの懺悔の報告と、統合される」


ロベスピエールが、低い声で言った。


フーシェが、頷いた。


「そうだ。現在、全国四万の教区から月次で提出される懺悔室データ。そこには、民衆の感情不安、不満、恐怖、怒りが記録されている。だが、懺悔室のデータだけでは、行動は把握できない。人間は、心の中で何を思っていても、行動に移さなければ無害だ。問題は思想ではなく行動だ」


「巡察官の報告が、行動を把握する」


「そうだ。懺悔室が心を読み、巡察官が行動を読む。2つのデータを統合すれば民衆の内面と外面を、同時に、リアルタイムで把握できる。単なる酒の席の愚痴なのか。フランスにとっての危険分子なのか。2つのデータを照合すれば、判定できる」


* * *


ロベスピエールは、企画書から目を上げた。


壁に掛けられた風刺画『自由を数えた男たち』が、目に入った。帳簿に没頭する自分たち。自由の女神に背を向ける自分たち。


フーシェの提案はロベスピエールのシステムの論理的帰結だった。


懺悔室を通じた心理データの収集を始めたとき、ロベスピエールは民衆の声を「聞く」ことで、暴動を予防しようとした。恐怖政治が失敗したのは、声を聞かなかったからだ。だから、聞く。だが、聞くだけでは足りなかった。バスティーユの爆破犯は、懺悔室では拾えなかった。彼らの怒りは神への告白の中に含まれていなかった。


フーシェは、その盲点を正確に見抜いていた。そして、盲点を補完するシステムを完璧に設計していた。


「ロベスピエール殿」


フーシェが、声をかけた。


「この提案を受け入れるかどうかは、あなたの判断だ。だが、一つだけ申し上げたい」


「何だ」


「バスティーユの爆破事件は、研究事故として処理した。だが、民衆は本能であれが事故ではないことを感じている。次の事件が起きれば次こそは嘘は通用しない。次の爆破が人命を奪えば民衆の怒りは、テロリストではなく、嘘をついた政府に向く」


「……わかっている」


「次の事件を起きる前に防ぐ。それが、この提案の目的だ」


ロベスピエールは、企画書を閉じた。


長い沈黙が、執務室を満たした。


壁の風刺画を見つめながら、ロベスピエールは独り言のように言った。


「政府への批判は歓迎する」


「は?」


「批判は歓迎する。マラトの風刺画に賞を与えたように。デムーランの記事を検閲しなかったように。批判は、システムを改善するフィードバックだ。歓迎すべきものだ」


「しかし」


「しかし」


ロベスピエールの声が、硬くなった。


「市民を危険に晒すのなら、それは批判ではない。――攻撃だ」


フーシェの灰色の目が、一瞬ほんの一瞬光った。獲物を見つけた爬虫類の目。


「攻撃に対しては、防御する」


「防御する。ただし暴力ではなく。ギロチンではなく。逮捕でもなく。情報で。監視で。予防で」


「つまり私の提案を、受け入れるのか」


「受け入れる」


フーシェは表情を変えなかった。薄い唇は歪まず、灰色の目は光らず、蒼白い顔は1ミリも動かなかった。だが、椅子に座った痩せた体がかすかに前に傾いた。期待の姿勢。抑制された歓喜の姿勢。


「ただし、条件がある」


「聞こう」


「巡察官の報告は、すべて私の執務室にも複写を送れ。フーシェの市民安全局だけで情報を独占することは許さない」


「当然だ。二重の管理こそが、権力の暴走を防ぐ」


フーシェの答えは模範的だった。だが、ロベスピエールは、もう一つの記憶で知っていた。この男が情報を独占しようとすることを。この男が情報を武器に、権力者を操ることを。だからこそ、二重の管理が必要だった。フーシェを使う。だが、フーシェを信頼しない。


「もう一つ。巡察官の活動は、すべて法律の範囲内で行え。違法な捜索、違法な拘束、違法な尋問は一切認めない。法を逸脱した巡察官は、即座に解任し、処罰する」


「了解した」


「そして最後に」


ロベスピエールが、フーシェの目を見た。


「危険分子と判定された者の処遇。この提案の核心はここだ」

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